◎劇作家の幸福
宮本起代子(因幡屋通信発行人)
【肉親を題材にすること】
劇作家高木登の母上のきょうだい7人は事情があって離散したのち、母上が中年にさしかかったころに長兄の尽力で再会を果たした。その後のおじやおばたちの人生は非常に厳しいものであったらしい。公演チラシには、「この程度の不幸はよくあることだが、あいにく彼らは自分の血族だった」と記され、「家族なんていらないという伯父の肉声に応えるように、導かれるように書いている」と続く。
高木はこれまでも実際に起こった事件をベースにした劇作を続けており、今回はそれが肉親の話になっただけのこと、と言ってしまえばそうなのである。
強烈で特殊な題材であっても、それを扱った芝居が劇的であるとはかぎらない。いや、そもそも劇的とは何か。世間一般の家庭や親戚にくらべて特殊な事情が劇的ということではあるまい。高木がこれまで舞台に取り上げたものは非常に猟奇的で、ほかにあまり例をみない極端な設定が多い。しかも高木はそれらをいささか偽悪的、露悪的な描写で観客に提示する。劇作家として自己の内面に向き合ったとき、自分自身や肉親が題材になることは避けがたい面もあるが、あまりにむきだし、さらけだしではみるほうが辛い。高木はどんな戦略で「あいにく血族だった」彼らを描きだすのか。
【演出について】
本作をみた人が一様に驚くのが、登場人物7人が横一列に並び、ずっと正面を向いたまま視線も交わさずに演技をすることである。きょうだいたちはおそらく喫茶店のミーティングルームで大きなテーブルを囲んで座っていると思われる。リーディング公演ならまだしも、通常の上演においてこのような形式がとられるのは極めて珍しい。
観客の立場からすれば、ずっと正面をみつめたままの俳優に向かい合う75分は快適とは言いかねる環境だ。演じるがわにとっても同様であろう。斬新を通り越して異様と言ってもよい。しかし俳優に「逃げ」の姿勢がまったくなく、そうとうな緊張を強いられる演技であったにも関わらず、一瞬のゆるみもなかったのだ。こちらを凝視する俳優に助けられて乗り切った実感すらある。実際ある俳優とまともに目が合ったときでさえ、彼の視線は少しもぶれなかった。俳優が少しでも目をそらしたり動揺したりすれば、劇空間はあっというまにほころび、観客の集中もとぎれるであろう。
見方によっては俳優と観客は置いてけぼりで、演出家の自己主張が強調されるかたちになりかねないのだが、あざとい感じはなかった。これは実に不思議なことであった。開演前に並んだ椅子を目にし、芝居がはじまってしばらくはさすがに気構えて、その必然性、演劇的効果、作り手のねらいを探ろうとしたのだが、その答えがでないまま、いつのまにか受けとめていたのだ。
ネット上に「脚本はおもしろいが、もっと演劇としてみたい」「渋谷ルデコで、セットなし座ったまま動きなしの朗読劇で3000円のチケット代は妥当か」という感想や指摘があり、どちらもマイナスの評価なのだが、むしろそこに本作のあらたな可能性を見いだせると筆者は考える。
いささか凡庸にはなるが、劇場に大きなテーブルを置き、客席がゆるやかにそれを囲むかたち、あるいは対面式の客席を設置する上演はじゅうぶんに可能であろう。また俳優が台本を持つリーディング公演なら、俳優の横並びはむしろ自然になる。
かりに俳優が台本を持って台詞を読むリーディングのかたちをとったとしよう。その形式を逆手にとって、具体的にどのようなというところまでは思い浮かばないが、リーディングとも本式の上演ともちがう演劇を提示し、これまで体験したことのないところへ観客をいざなう可能性があるのではないか。
横一列に俳優たちが並んだまま動かないかたちは、くりかえし使える手法ではなく、おそらく今回かぎりであろうし、べつの作品でそうかんたんに取り入れられるものでもない。一種の禁じ手に近く、一回性の強いものである。非常に強烈な内容を、これまた実に個性的な演出で上演した。一見していよいよ鵺的の高木登のキワモノ度が高まるかのような舞台だがあんがい柔軟性があって、何をもってこれが演劇であると認識するのかという、観客それぞれの演劇観がゆさぶられたばかりでなく、さまざまな想像、楽しみをわきおこさせるのである。
【劇作家の幸福とは?】
高木は当日リーフレットの挨拶文でこう明かす。劇中の設定は事実そのままではないというが、ハマカワフミエが演じる次女の名前は永遠子(とわこ)であり、高木の母上が「登和子」、その一字をとって彼が登と名づけられたと聞けば(同挨拶文より)、永遠子がみごもり、生むことを悩んでいる子どもは高木自身ということになる。永遠子は子どもを生んだと思いたい。またきょうだいのなかでもっともドライで、兄たちのやりとりに対してほとんど無反応、無関心にみえた四男の孝弘(小西耕一)と、逆に関わりを激しく拒否していた三女のみずき(森南波)のふたりが、きょうだいの今後に深く関わってくるのではなかろうか。むろんこのふたりが意外な助け手となって永遠子の出産や子育てを支え、きょうだいの関係を修復に導くなどという安直な想像をしているわけではない。この7人には別れたきりになってほしくないと思わせるものがあって、一度みた劇世界の人々が自分のなかで生きはじめる実感が得られた証なのである。これはどの舞台でもあるわけではなく、まして高木登の作品でははじめてのことなのだ。
ぜったいにこれを書きたい、いつか書かなければならないという強い思いは劇作の必然性であるが、劇作家の個人的な事情にすぎない。まして本作のように特殊な内容であればなおさらである。同じような境遇がたくさんあるとは想像しづらく、かりにあったとしても、「自分(あるいは親族)も同じように悲惨な人生である」という点に共感する場合、それは演劇でなくてもよく、ドキュメンタリー映像のほうが説得力をもつだろう。
まったく関係のない観客に超個人的なものを提示して演劇として成立させるには、劇作家の必然性を共有するための何かが必要である。
横並びになった7人の俳優は、きょうだいたちの議論に集中した演技をみせている。あたかも客席には誰もいないかのようだ。そうすればするほど、観客は自己の存在を強く意識しはじめる。「わたしはここにいて、あなたの話を聞いている」と。事実やフィクションの枠を越えて、7人と自分はいま、ここにいる。時間と空間を演技者と観客が共有すること。他のメディアと決定的にちがう、演劇を演劇たらしめるもっとも基本的な条件が、劇作家の必然性を観客との共有に導いたのである。
「あいにく彼らは自分の血族だった」の一文にならえば、数奇な運命を生きた母上とそのきょうだいたちの血をひいてこの世に生まれた高木登は、「あいにく自分は劇作家になってしまった」のかもしれない。皮肉でもあり、宿命と言ってもよい。しかし筆者は客席に身を置いて彼の作品を受けとめる者として、そのことを祝福したいのだ。
これから高木登の劇作家としての歩みは、幸福なものになるのではないか。その予感が本作を観劇した筆者の確かな手ごたえである。
次回作を心から楽しみに待ちたい。
【注】本作についてはすでにワンダーランド編集長の水牛健太郎氏が劇評(「濃厚な演劇らしさ」)を執筆されておりますので、拙稿では劇の構成やストーリーなどの説明については重複を避けてあります。
【筆者略歴】
宮本起代子(みやもと・きよこ)
1964年山口県生まれ。明治大学文学部演劇学専攻卒。1998年晩秋、劇評かわら版「因幡屋通信」を創刊、2005年初夏、「因幡屋ぶろぐ」を開設。
【上演記録】
演劇ユニット鵺的 第五回公演「荒野1/7」
ギャラリーLE DECO(2012年8月7日-12日)
脚本 高木登
演出 高木登
出演 小西耕一、成川知也、ハマカワフミエ、平山寛人(鵺的)、古市海見子、森南波、山ノ井史(studiosalt)
荻野真司・・・成川知也
進士康輔・・・平山寛人(鵺的)
大西理佐・・・古市海見子
山崎和紀・・・山ノ井史(studio salt)
宗田孝弘・・・小西耕一
御厨永遠子・・・ハマカワフミエ
野島みずき・・・森南波
全席自由(日時指定)
前売・3000円 当日・3200円 学生・2500円(要学生証提示) グループ割引(三人以上)一人2800円
照明=千田実(CHIDA OFFICE)
舞台監督=福田寛
演出助手=橋本恵一郎
衣装=中西瑞美(ひなぎく)
宣伝美術=詩森ろば(風琴工房)
舞台写真撮影=石澤知絵子
ビデオ撮影=安藤和明(C&Cファクトリー)
制作=鵺的制作部・J-Stage Navi
制作協力=contrail
協力=studio salt/フォセット・コンシェルジュ/北京蝶々/(有)レトル/菊地奈緒/佐々木想/佐野功/勝呂洋介
企画・製作=鵺的
【編注】本文中、次女と三女を取り違えた箇所がありました。関係者のみなさんにご迷惑をおかけしました。おわびして訂正します。(2012.10.6 編集部)
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