◎貧困と退廃の牧歌
片山幹生
都会の吹きだまりのようなスラムは、パステル調の色彩に塗り分けられた美術によってファンタジックに彩られている。戌井昭人は貧困の情景をある種の甘美なメルヘンとして提示し、そこに自堕落な生活がもたらす安逸を表現した。しかしその甘美さには、健康をむしばむ人工甘味料のような毒が含まれていた。
『季節のない街』の原作は山本周五郎の連作短編小説である。原作の小説は昭和37年(1962)に執筆された。この原作を黒沢明が昭和45年(1970)に『どですかでん』の題名で映画化した。原作小説では各編でそれぞれ別の人物に焦点が当てられ、都市の片隅の貧民街に暮らす住民の生態が三人称体で綴られている。黒沢明の『どですかでん』では、原作からいくつかのエピソードを取り出し、それらのエピソードをさらに細分化して再構成したものになっていた。
戌井の舞台で何よりもまず印象的だったのは、舞台美術である。舞台上には六軒の小さなトタンのバラックが並んでいた。このバラックは可動式になっていて、エピソードごとにその中心となる人物のバラックが舞台中央前部に移動する仕掛になっていた。各場の間には、ブラスのふやけたBGMが流れる中、六軒のバラックがぐるぐるとかなり激しく舞台を動き回る。移動式バラックという秀逸な創意によって舞台上にダイナミックな動きが生じ、混沌とした貧民街の世界が演劇的に可視化される工夫に感心した。
黒沢明の初めてのカラー作品であった『どですかでん』はその特異な色彩感覚が印象的な作品だが、戌井版の舞台でもバラックはそれぞれ異なるパステル調の色彩で塗り分けられ、登場人物の衣装もその人物の住居に合わせている。この非現実的で幻想的な色彩の選択は明らかに黒沢の映画を意識したものだろう。原作のエピソードをさらに細分化して、その断片を重ねていく構成も黒沢の映画のやり方を踏襲しているに違いない。細切れの雑多なエピソードに大きなまとまりを与えているのは、架空の市電の運転手として、「どですかでん」と叫びながら舞台を何度も横切る知的障碍の少年である。六ちゃんという名のこの運転手を、個性豊かなスラムの住民たちのエピソードをつなぐ象徴的存在としたことも、戌井の劇作品と黒沢の映画の共通点になっている。
この舞台は形式的にはこのように黒沢の映画作品を想起させる点が多いため、劇を見終わったときには、私はこの作品を『どですかでん』の優れた演劇的翻案という風に考えていた。しかしその後『どですかでん』をDVDで見なおし、山本周五郎の原作を読み返した上で振り返ってみると、戌井の今回の舞台は、表現形式こそ確かに黒沢作品に近いが、その精神は黒沢の『どですかでん』よりも、山本周五郎の原作の世界をより忠実に具現しているように思えてきた。
戌井の『季節のない街』と『どですかでん』の違いは、物乞いの父子のエピソードにとりわけはっきりと示されている。物乞い父子は、社会の底辺の人間たちが生活するこのスラム街でも最下層に位置する存在であり、彼らはバラックの住居さえない極貧の生活を送っている。子供は学齢に達しているようにみえるが、学校に行っている様子はなく、付近の食堂から出る残飯を集めてくるのが日課になっている。父は残飯を子供と分け合い、食べながら、決して実現することがない自分たちの住居の建築計画について子供に話して聞かせる。貧窮の生活のやるせなさを描きながらも、どちらかというとユーモラスな雰囲気が基調となっているこの作品のなかで、物乞い父子のエピソードはその悲壮さゆえに異彩を放ち、強い印象を残す。
これ以外のエピソードの展開は停滞し、円環していくなかで、物乞いの親子の物語だけが進行していく。父親の語る想像上の新居の建築は話が進むにつれ徐々に完成に向かうが、それと平行して父子のエピソードは子供の死という悲劇へ向かって進んでいく。子供は父親に言われるまま、火を通さないまましめさばの残飯を食べたためにお腹を壊し、苦しんだ末、死んでしまう。子供の死後、呆然とした父親に街の人たちは子供の消息を尋ねるのだが、父親は彼らに真実を伝えない。この悲痛なエピソードを、黒沢は叙情的なヒューマニズムのなかで描き出す。しかし戌井の演劇版はこの悲劇に溺れることはない。子供を失った父親の落胆と絶望に対する彼らの反応は鈍く、淡々としている。自分の生活で精一杯の貧しき彼らにとって、他者の悲惨な体験に同情する余裕はないのだ。物乞い父子の哀切きわまりないエピソードも、スラム街の貧しく、混沌とした日常のなかで、すぐに相対化され、溶け込んでしまう。
彼らの生態の滑稽さ、だらしなさ、愚かさを、奇抜な演劇的仕掛けによって喜劇的な枠組みのなかで提示する戌井の表現は、山本周五郎の原作に感じられる、高みから観察するような、どこか揶揄まじりの冷徹な文体に通じるところがある。そこで描き出されているのは、貧しい環境のなかで弱き者同士が身を寄せ合い、支えあって健気に生きていくといったノスタルジックなステレオタイプよりはむしろ、ぎりぎりの生活をしているがゆえの生々しい感情や欲望の表出、狡猾さ、欺瞞である。彼らはその劣悪な環境から抜け出そうともがくが、結局抜け出すことができない。なぜならスラムには絶望と諦念と引き換えに、そこだけに許される安逸があるからである。
あのスラムの情景は、われわれ自身が時に溺れる自堕落の隠喩となっている。戌井の『季節のない街』は、貧困がもたらす退廃的状況を告発しているわけではない。むしろ様々なギミックを用いて、貧困の泥沼を甘美な演劇的幻想へと変換し、観客をその快楽に引き込もうとしている。短いエピソードが次々と提示されるにもかかわらず、戌井版『季節のない街』には弛緩したたるい空気が漂っていた。クラリネットと金管のふやけた音色の音楽が、舞台上の物語の倦怠感、やるせなさをさらに強調する。しかしこの停滞感は快感でもある。戌井は優れた演劇的創意を用いて、逆説的なある種の牧歌的風景を舞台上に描き出していたのである。
(観劇日:2012年10月4日)
【著者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学ほかで非常勤講師。専門はフランス文学で、研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。ブログ「楽観的に絶望する」で演劇・映画等のレビューを公開している。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ka/katayama-mikio/
【上演情報】
あうるすぽっとプロデュース「季節のない街」
あうるすぽっと 2012年10月4日(木)~8日(月・祝)全6回
原 作:山本周五郎
脚色・演出:戌井昭人
音 楽:不破大輔
出 演:江本純子、飯田孝男、中村彰男、金子清文、古屋隆太、宇野祥平、中島教知、伊藤麻実子、山本ロザ、池袋遥輝(子役)、坂口芳貞ほか
美術:笠原真志
照明:辻井太郎
衣裳:萩野緑
音響:高塩顕
ドラマツルク:谷野九郎
演出助手:所奏
舞台監督:後藤恭徳
イラスト:青山健一
宣伝美術:早田二郎
広報:小仲やすえ(あうるすぽっと)
制作:福本悠美 藤野和美
プロデューサー:ヲザキ浩実(あうるすぽっと)
料金:全席指定 一般3500円/学生2800円(入場時に学生証提示)
主催:あうるすぽっと(公益財団法人としま未来文化財団)、豊島区
企画製作:あうるすぽっと
平成24年度 文化庁地域発・文化芸術創造発信イニシアチブ事業
豊島区施行80周年記念