◎言葉とゲームを横断する男
堀切克洋
今更ながら、川口隆夫の「身軽さ」には驚きを禁じ得ない。細身で長身の身体が、ダンサーとしての身軽さを保証しているだけではない。川口はあらゆる局面において身軽なのであり、その一例として彼の活動は国境をたえず横断しつづけているし、また、テキストとパフォーマンスを横断しつづけている。逆から見れば、彼の公演は、さまざまなアーティストが通過していくひとつの「場」となっていると言っても過言ではない(石井達朗によるインタビューを参照のこと)。
9月下旬に東京において上演された国際共同プロジェクト『A Scatterd State of Silence 逃げ惑う沈黙』(2012年9月21日〜23日、森下スタジオBst)と10月上旬に大野一雄フェスティバルで上演された『「病める舞姫」をテキストに-2つのソロダンス』(2012年10月5日・6日、BankART Studio NYK 3F)は、そのような意味における川口の「身軽さ」を物語る作品であると同時に、劇団やカンパニーの継続的な活動のありうべき道のひとつを示しているようにも思える。
順番が前後するが、まずは『「病める舞姫」をテキストに』のほうから見ていこう。この作品は、舞踏50周年(2009年)以降の「舞踏の読み直し」とも言える流れのなかに位置づけられるものだが、作品自体は今年5月にBody Arts Laboratory が主催する Whenever Whenever Festival 2012 で初演されたものである。『病める舞姫』という土方巽のテキストを素材にして、前半を田辺知美が、後半を川口自身がソロを踊る。
しかし相手は何と言ってもあの『病める舞姫』だ。2011年10月に来日公演が予定されていたボリス・シャルマッツとジャンヌ・バリバールの『病める舞姫』は東日本大震災によって中止となってしまった(國吉和子のパリ公演のレポートを『シアターアーツ』第38号で読むことができる)けれど、暗いユーモアに満ちた土方の文章は、読み手を困惑と混乱の渦のなかに陥れる。昨年(2011年)刊行された『土方巽—言葉と身体をめぐって—』はその奥行きの一部を垣間見せてくれる。
川口は、このテキストを相手にするにあたって「畳」というキーワードを選び出した。つまり、「テマティックに読む」(=ひとつのテーマを取り出して読む)という戦略である。
観客(それまでは、スピーカーから土方の語り「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」が流されている別室で待機していた)が座席まで誘導されると、客席に取り囲まれた小さな舞台上には、一畳の畳が敷かれており(半畳二枚が繋がれており)、そのうえには全身を(顔まで)肌色のタイツで覆われた女がうつぶせになっている。このミイラのような女は、全身のところどころから血のようなものを滲ませている。観客は、一個の裸電球に照らされたこの肉体を眼差す。女の動作はおそろしく緩慢である。
「寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものと言えるだろう。彼女のからだは願いごとをしているような輪郭でできているかに眺められたが、それとてどこかで破裂して実ったもののような暗さに捉えられてしまうのだった。誰もが知らない向こう側の冥(くら)さ、この暗い甦りめいた始まりを覚えていなかっただろう。だから教わって習うなどできないようなところで、私も息をついて育っていったのである」(『土方巽全集Ⅰ』普及版、18頁)。
したがって、ミイラ女は『病める舞姫』の語り手であるところの「私」が幼き頃に共に生活をしていた「病める舞姫」その人である。女は緩慢な動作によって身をよじる。まるで、いま初めて意志をもちはじめたかのように。痛みによって動けないというよりは、自らの肉体が傷ついていることにまだ気づいていないかのようだ。放たれた魚は畳に鱗を擦りつけるが、目の前の鱗がみずからのものであることを知らない。自らのただれる「皮膚」に指を滑らせ、その下からはみずみずしい肉体が姿を現す。
そこに舞台袖から一枚の布をかぶった男がひょこひょこと登場する。稲穂をついばむ雀のように、舞台を四方に取り囲む二列の客席のあいだを通り抜けながら、ミイラ女の立ち去った畳の上にあがる。男は赤い三本線のジャージを履いて、上半身は裸、顔にはオレンジ色の覆面を被っている。覆面はごつごつといびつな形をしていて、しかも間が抜けた顔が後頭部に描かれている。男は半畳の畳のうえに乗り、もう半畳の畳をぎりぎりまで離してみたりと、いたずらに余念がない。
「あの頃は、昼間遠いところで鈍い狼煙(のろし)がよくあがっていた。[…]その狼煙も懐かしいが、その頃の私の気管支のヒーという音色も懐かしい。懐かしさついでに畳の上に落ちている女の長い髪の毛を釘に掛けて、引っ張っている、そんな私を思い出してくる。もう、ここまでくれば、なにかしたがっている私も寂しい人ではなくなっているのだった。シーンと暗い畳表を、チョッと飛んではピタリと止まり、また、チョッと飛んではピタリと止まる、これが雀。弛んだ風に吹かれている鳥は浮いているように動かない、これは鴉。こんなことを小声でつぶやきながら、休み休み私は踊りの真似事をしているのだった」(同書、53-54頁)。
覆面男は、まるでここに描かれている「私」のように、畳と戯れる。踊るというよりは、肉体を折り曲げて遊んでいるといったほうが正確かもしれない。「こんな家のなかを歩いていると、蓬の根株ごと人攫いの脇に抱えられて走っているような気分になってくるのだった。男か女かははっきりしないが、人攫いの懐は深く、空気でできているように感じられるのだった。畳の上を小走りに走り廻る私には、さらわれている私のからだの抜け殻が、まわりの空気をつくっているかのようだった」(54頁)。
やがて、スピーカーからは義太夫三味線語り(「蘆屋道満大内鑑〜葛の葉子別れの段」、浄瑠璃:豊竹山城少掾/三味線:鶴澤清六!)が流れはじめる。この義太夫は、土方が『疱瘡譚』(1972年)のなかで使用した語りのひとつで、ご存知の通り、「葛の葉」は伝説上の霊獣(キツネ)。豊竹山城少掾の音域の広い語りと、鶴澤清六の息の合った三味の音によって、観客は途端に異世界に誘われることになる。すると、何ということであろうか、覆面男の股間からするすると尻尾が出てくるのであった…
舞台の終盤に半ば意表をつくかたちで流されるのは、ビートルズのFool on the Hill(1967年)である。この間、「化けの皮が剥がれた」覆面男=狐は、半畳の畳をハの字に立てかけて小さな「丘」をつくり、その上に乗る。そして間もなく「丘」は大きな音を立てて崩れる。こうした動作を何度も繰り返しながら、彼は舞台脇にある広大なスペースに観客を誘導してゆく。そこには、無機質なコンクリート空間のなかに唯一「外部」に開かれたガラス張りの扉がある。川の向こうには赤レンガ倉庫が、そして横浜の夜景が見える。
「彼はいったい何物だ? ポールよ、教えてくれ」
「やつは何も答えない。丘の上の道化は、太陽が沈んでくのを眺めてるんだ。そして頭のなかの目で世界が回っているのを見てるんだ」。
「ポールよ、わからないぞ。きみが歌う、“頭のなかの目”っていうのは、彼のマスクの後ろについている目のことなのか?」
「丘の上の道化は何も答えない。それがやつの流儀なのさ」。
「人生後ろ向きってことか?」
「……」
「冗談だよ、ポール。君の幼年期にいったいどんな辛い経験があったのかはわからないけれど、ぼくらは君のことを見守ることにしよう」。
「そうしてくれ」
「ああ。ただ、車には注意しろよ。関内のアビーロードを渡るときには、特に」。
田辺知美と川口隆夫による二つのソロ・ダンスは、このようにして土方巽の難解なテクストを、それを取り巻く文化状況と、畳み掛けるようなメタファーによって描写されている身体の位相を往来しながら、読み解こうとする試みであった。それはおそらく、田辺がテクストから舞踏譜(ノーテーション)を紡ぎ出すと同時に、川口が読みを深めていくプロセスでもあったように思える。パフォーマンスは言葉を必要とし、言葉はパフォーマンスを必要とするのである。
閑話休題。このような「身軽さ」の別の形態として、もう一方の公演『A Scatterd State of Silence逃げ惑う沈黙』(コンセプト・ディレクション:テッド・ストッファー)を見てみよう。
この作品は、基本的に2010年1月よりスタートした川口のプロジェクト『Tri_K』と同じ路線にある。つまり、ここで主題となっているのは「ゲーム」そのものである。『Tri_K』では3人のパフォーマーがさまざまな条件によって「競争」(「誰がいちばん魅力的で男らしいか?」)を繰り返すことで、三者の関係性がめまぐるしく変化するという面白さがあったのに対して(*)、本作品では5人のパフォーマー/ダンサーがルールに則って競い合うというものだ。
作品は、壁際に用意された5脚の椅子に坐った5人のパフォーマー(川口、森川弘和、大塚啓一、貝和紗綾香、岩淵多喜子)のうち、誰かの動作をほかの4人が真似をするという場面からはじまる。「空気を読む」という日本語が即座に頭に浮かぶ。誰かが中心というわけではない。動作の種類によっては、柔軟な身体の持ち主が軽々とできる動作が、ある者にとっては容易ではないというケースもありうる。多分に即興的な場面であり、おそらく誰がどの順番でどんな動作をするかは、あらかじめ決められてはいない。
そこに舞台袖で見守っていたスーツ姿の「実況」が割って入る(客席の上手側には彼のほかに、ディレクションのテッド・ストッファーと思しき人物が坐っていて、下手には演奏のジャン=イヴ・エヴラールが控えている)。実況はゲストパフォーマーとして参加の清野茂樹。曰く、「5人にはこれからあるゲームをしてもらいます。名づけて、ネゴシエーション・ゲーム!」 これは1対1の対戦である。対戦者にはそれぞれお題が出され、そのお題を口に出すことなく巧みに「相手に」してもらったほうが勝ち。対戦は総当たりで、判定はテッドによる。
お題は以下の四つだ。「game(遊んでもらう)」「violence(殴ってもらう)」「carry(ひきずってもらう)」「intimacy(愛撫してもらう)」。お題はランダムに出され、対戦ゲームのような映像演出(映像作家の飯名尚人による)が、舞台奥の壁に映写される。プロレス風の出で立ちで再登場した5人のパフォーマー(名前も一新、「ハローキティ」「バックボーン」などというリングネームがつけられている)は、この対戦をつぎつぎに繰り返してゆく。得点は舞台奥の映像に加算されてゆく。
たとえば、対戦者Aには「carry」が、対戦者Bには「intimacy」が出題されたとしよう。Aは、自分が「ひきずってほしい」と思っていることを悟られずに、相手に自分をひきずらせなければならない。しかし同時に、Bは「愛撫してほしい」と思っていることを悟られずに、相手に自分を愛撫させなければならない。一方が完全に受け身ならば、苦労はない。しかし、お互いがお互いを求め、そして求められているのである。
この間、古館伊知郎に憧れて実況アナウンサーを志したという清野の実況が会場を盛り上げる。また、ジャン=イヴ・エヴラールのベース演奏も緊迫感を演出する。もっとも、舞台上で繰り広げられているのは、丸藤正道の華麗な空中技でもなければ、天山広吉のモンゴリアンチョップと見せかけての頭突きでもない。子猫どうしのじゃれ合いのような、なんともユルい対戦である。しかし、そこから両者一体の「ダンス」が生まれ、演技空間は伸縮されることになる。
当日配布の「作品ノート」に書いてあるように、こうしたアイディアの背後にはゲーム理論における「戦略」があるという。つまり、作品を構成しているルール(コンテンポラリー・ダンスの用語で言えば「タスク」)は、同じルールにしたがうメンバーが介在することによって、自身の利益を最大化するために(多くの場合は)自らの利益の目標値を「調節」をしなければならない、という局面を生み出す。このとき、複数の主体はいずれもが「変数」となり、文字通り変化しつづける存在となるのだ。
こうして5人のダンサーは対戦を繰り返してゆくのだが、対戦者の疲労度が増すにしたがって、じゃれ合いはもつれ合いへと変わってゆき、最終的には全員参加のバトルロワイヤルとなる。テッドによる加点も加速し、舞台は混沌と化す。ゲームのルールはもはや更地となり、「踊ること」の根拠(タスク)は舞台上から失われてしまう。舞台にはスモークが焚かれ、観客から「リング」はもはや見えない。かすかに、散り散りになったパフォーマーの行方を目で追うことができるのみである。
しかし、舞台上には死闘の痕跡がかすかに残っている。彼らはどこからか白い卵を運んでくる。ひとりのダンサーがそれを口に咥えて踊る。それを落す。割れる。卵からは黄身ではなく、粉々になった石灰が舞う。この動作をきっかけに、彼らは再びこの白い卵を使って「ゲーム」を再開するのである。つまり、「踊ること」の根拠はタスクそのものにあるのではない。タスクとは一種の起動装置のようなものであって、いったん触発された身体には不要なものとなる。
話を戻すなら、『病める舞姫』をめぐるソロ・ダンスにおいて、このようなタスクは土方の詩的言語が担っていた。素材となる詩的言語とは、言葉そのものがダンスを踊っているようなテクストのことである。そうしたテクストに身体は触発され、表現の地平は大きく切り拓かれる。これと同じように、ゲームの恣意性を前にして、ダンサーは他のダンサーの身体によって触発され、やはり表現の地平が拡がってゆくのである。
今年度のノーベル経済学賞は「マッチング理論」に対して与えられたが、受賞したアルビン・ロスとロイド・シャプレーは、その論文のなかで「結婚」(男と女のマッチング)や「大学」(先生と生徒のマッチング)について解説しているらしい。両氏によれば、あるルール(アルゴリズム)に則って再配分を繰り返していけば、全体の利益がそれほど損なわれない状態、すなわち一種の「安定性」が得られるのだという。
しかし残念ながら、舞台芸術はそのような計算のうえには成り立たない。むしろ(舞台)芸術における真の「マッチング理論」とは、逆説的な言い方になるが、「安定性」を保証しているもののすべてを排除することに立脚している(予定調和のコラボレーションほど、観客を失望させるものはない!)。ダンサーや振付家個人が、あるいは劇団やカンパニーが、継続的に作品を作っていくとき、評価の軸となるのは、そのような「安定性」をいかに切り崩そうとしているか、という長期的なビジョンである。
冒頭に紹介したインタビュー(2007年)で川口はこのように言う。
「僕が自分の作品でコラボレーションをする時、参加するクリエーターそれぞれにコンセプトがあって、互いがどう切り込んでいって、どう変換させれば違うダイナミズムで新たな作品として提示できるか、ということをすごく考えます」。「もっといろんな人たちとガチンコでやっていきたいと思っています。それと、“言葉”をもっと積極的に使っていきたい。言葉も映像も身体も同じレベルでいられるようなことをどう開拓していくかですが、それはもういろんな可能性があると思います」(4頁)。
いささか結論めいたことを言うならば、川口のプロジェクトを見ていて痛快なのは、「踊ること」の自明性に対する疑いがあるからなのだ。愉快なパフォーマンスを通じて観客を楽しませるだけの、娯楽の一形態とならないようにするには、ダンスはつねに「踊ること」の「根拠」を疑う必要がある。川口隆夫の場合、「言葉のイメージ」や「ゲームという構造」を探求の場に設定して「根拠」を探りつづけている点にその独自性を見出だすことができるのだ。
(*)ただし、筆者が観劇しているのは2010年1月に東京で行われたショーイング公演だけである(拙稿「パフォーマンスにおける『三』の意味」『シアターアーツ』第42号)。本作品はその後、セゾン文化財団の国際プロジェクト支援を受けて、香港、リスボン、ブラジルで公演を重ねている。その総括については川口自身が『View Point』第60号に報告を寄せているので、興味のある方はそちらもご一読いただきたい。
【著者略歴】
堀切克洋 (ほりきり・かつひろ)
1983年福島市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍、早稲田大学演劇映像学連携研究拠点研究助手。F/T09劇評コンペで優秀賞(「『本物』はどこにあるのか-『Cargo Tokyo-Yokohama』評」)。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社)、分担執筆に「北欧の舞台芸術」(三元社)。最近の劇評に「重層的なテクスト、声、記憶—クリスティーヌ・ルタイユール演出『ヒロシマ・モナムール』」。
・ワンダーランド寄稿一覧: http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/horikiri-katsuhiro/
【上演記録】
▽国際共同プロジェクト「A Scatterd State of Silence」〈逃げ惑う沈黙〉
森下スタジオBst(2012年9月21日〜23日)
コンセプト・ディレクション:テッド・ストッファー
共同振付・出演:川口隆夫、森川弘和、大塚啓一、貝和紗綾香、岩淵多喜子
MC:清野茂樹
演奏:ジャン-イヴ・エブラール
演出助手:岩淵多喜子
舞台監督:大畑豪次郎
照明:岩品武顕
映像:飯名尚人
音響:河田康雄
衣装:斉藤絵美
宣伝美術:江尻ひかる
宣伝写真:鹿島聖子
主催:Dance Theatre LUDENS
共同製作:Aphasia vzw、Grand Theater Groningen
制作:NPO法人魁文舎(花光潤子、松本千鶴)
助成:芸術文化振興基金、公益財団法人セゾン文化財団、公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団、国際交流基金、Kunstencentrum STUK、Charleroi Danses – Centre Chorégraphique de la Communauté Française
▽「病める舞姫」をテキストに-2つのソロ
BankART Studio NYK 3F(2012年10月5日・6日)
振付・出演:田辺知美、川口隆夫
衣装:北村教子
入場料:前売 ¥2,500、当日 ¥3,000
大野一雄フェスティバル2012
主催:大野一雄舞踏研究所、BankART1929
共催:横浜アーツフェスティバル実行委員会
助成:平成24 年度文化芸術振興費補助金(トップレベルの舞台芸術創造事業)、オーストリア教育・芸術・文化庁、ウイーン市文化局、オーストリア文化フォーラム東京
企画協力:NPO舞踏創造資源、Asia Tri、イメカ
協力:Tanztheater Wuppertal Pina Bausch、慶應義塾大学アート・センター、PARC国際舞台芸術交流センター、Impuls Tanz、JCDN
後援:ケベック州政府在日事務所
Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2012 参加イベント
「川口隆夫「逃げ惑う沈黙」「『病める舞姫』をテキストに-2つのソロ」」への1件のフィードバック