岡崎藝術座「隣人ジミーの不在」

◎描かずに、しかし切実に立ち上がる、舞台背後の情景
 小林重幸

 そもそも、この芝居がどういう文法で成り立っているのかを言い表すことは難しい。冒頭から、その所作は「ダンス」の領域そのもの。舞台上部に吊り下げられたオブジェ以外は何もない舞台に、登場人物が一人前方中央へ出てきてしばらく佇み、その後もう一人が出てきて、ふと目を合わせて台詞が始まる。露骨な性描写の台詞を語りながら、二人の所作は、手を上げたり、体を傾けたり、およそ不自然な、しかし、どこかぶらぶらとした、何となく力の抜けた感じもする動作である。

 台詞と所作は完全に無関係ではないのだが、しかし、その所作は、台詞が語る物語に対しリアリティを与えるようなものではない。例えば、台詞で「髪をなでる」と言ったときの動きは、髪をなでるような仕草ではあるが実際には相手の髪に触れることはなく、むしろ空虚な動きのように見える。所作は動き自体として独立して成立していて、それに対して台詞が補強しているとも感じられる。ただし、相互に依存しあっているわけではなく、あくまでもそれぞれ独立に成立しており、その間には関係性の糸がピンと張られているような緊張感があるのだ。その緊張関係は、相互にノイズとなっているかのようにすら感じられ、舞台が「演劇的」のみに成立することも、「ダンス的」のみに成立することも拒んでいるようである。

 シーンはその後、夫婦の痴話げんかのようなものを経て、翌日妻が参加した社交ダンス発表会の描写、そこでの審査員のシュールなコメントと続く。役者3名で全てが演じられるわけだが、舞台の端の方で演技をしたり、舞台を移動しながら演技をしたりする。ある瞬間を切り取ってみれば空間は隙間だらけであるが、舞台の流れの中では、演じられる場所は広々とした空間全域に散らばっており、ダンスのような手法で空間全体が成立している。

「隣人ジミーの不在」1
「隣人ジミーの不在」2
【写真は、「隣人ジミーの不在」公演から。撮影=Yuta Fukitsuka© 提供=F/T12 禁無断転載】

 各々のシーンでは大きな空間を必要とするようなテキストは語られない。例えば、インチキくさい審査員の講評シーンは基本的に一人で延々としゃべり続ける形式のもので、空間的な広がりは必然ではない。むしろ、空間が余ってしまう危険すらある。しかし、このシーンの後の、舞台前方中心に残る、審査員と女性のダンス発表会出演者に対する、舞台後方へ去って行く女性の夫との対比、といったような空間全体の使い方をすることで、役者の演技位置の変化が、ステージ上のスポットライトの当たる位置をシーンごとに変えていくかのような効果を発揮する。

 それゆえ、そこでテキストとして語られるそれぞれのシーンも、一連の物語になっているというよりは、むしろ、どこか作り物のようなにおいのする断片であることが強調される。何とも現実味の無いスケッチに次々とライトが当たって映し出されていくような展開であり、日常的な風景も、何らかの寓話的な世界も立ち上がってこない。舞台に次々と展開されていく、演劇、ダンスのコラージュを観客は(とりあえず)呆然と眺めるといった状況となっていく。

 しかし、そこには、確かに立ち上がっている情景があったと思うのである。目に見える動き、耳に聞こえる言葉とは別に、この舞台上の断片の背後に、世界が大きく広がっていたと感じたのである。しかもそれは、映像でイメージできる景色ではなく、世の中のルールとか、常識とか、言ってみれば「社会」そのものが、舞台の背後に見えない形で、しかし、今にも舞台にあふれ出て来そうなほど圧倒的な存在感で湧き上がっていたと思えるのである。

 そこに湧き上がった「社会」は、昨今の世情を反映してか、あまりバラ色のものとは私には思えなかった。舞台上で描かれる嫉妬や落胆を支えるに十分な、負のエネルギーに満ちたものに思えた。先ほどの、胡散臭い審査員の講評のシーンの後には、ダンス発表会に参加していた女性が母親の不倫相手を嫌悪し、その相手が営む居酒屋へ乗り込んだところ、嫌悪とは別に、自分もその男に魅せられてしまうというエピソードが続く。このシーンは女性の延々とした独白で綴られ、そこでは、相手を嫌悪しつつ引きつけられるという自分をコントロールできない遣る方無い気持ちがテキストによって具体的に説明される。その台詞は、その背後に立ち上がっていた、淀んで停滞するかのような負のオーラを発する堅牢な背景によってリアリティが与えられ、そして、その自分に対する苛立ちと忌まわしい気持ちがそのまま飲み込まれていってしまうようであった。背後の見えない情景は、しかし、舞台上の言葉、動きに対しても決して負けないくらい堅牢に立ち上がっていると言えるものであった。

 休憩を挟み後半になると、舞台上に提示される表層と、その背後に沸き立つ大きな情景という構造はより鮮明になっていく。後半最初の、やたらリアルに胡散臭い自称馬主に声をかけられるシーンで前半とは違う場所に移動してきたことが暗示され、その後の保険調査員との会話で、時間的にも前半から数年は経ったであろうことが示される。保険調査員とのシーンでは、待ち合わせ場所から喫茶店までの移動という設定で、舞台上を延々と歩き回って街を描写することで、舞台空間を仮想の街に描き直すことに成功している。これは、何もない舞台に、プロジェクターで街の映像を投影したかのような印象を与えるものであった。

「隣人ジミーの不在」3
「隣人ジミーの不在」4
【写真は、「隣人ジミーの不在」公演から。撮影=Yuta Fukitsuka© 提供=F/T12 禁無断転載】

 その舞台上で提示される具体的なシーンは、何とも下世話で些細な日常であったり、逆にエキストラを大量動員してまで提示されるイベント(しかし、その中身は明らかにお粗末な出来のもの)であったりする。そんな営みが行われているのは、おそらく近未来で、大量の移民を受け入れているか何かで多くの「外人」とともに生活する社会であろうという情報が、断片的に示される。舞台に示されたこれらの雑然とした情報から、その背後に、その近未来の社会の状況はもとより、その時代の常識や、時代の空気といった、漠然とした雰囲気までも鮮明に見えてきてしまうのである。さらに、そこに至るまでの葛藤やら、混乱やらといった時間軸上の変化までも感じ取れて、背景が一枚の映像ではなく、時間軸でパラパラとめくることができる、重層的なもののように思えたのであった。

 これらの背景が立ち上がったのは、もちろん、舞台上に示された演劇を通じて情報が提示されているからなのだが、ある意味「現実味のない」断片から、ここまで切実な背景を感じ取れるというのは驚きである。さらに言えば、私が、この舞台の「背景」だと思ったものは私だけが見たものであって、他の観客には、全然別の「背景」が見えていた可能性もあるし、むしろその可能性の方が高いのではないかとすら思える。そのことは全く問題ではなく、むしろ、それこそがこの作品の素晴らしさなのではないかと思える。つまり、表層を提示することでその背景を描くのではなくて、舞台上ではシーンの断片のみを提示して、その背後の景色に関しては、より抽象的な思考様式とか、感情の源泉とか、そんなもののみを渡すことで、あとは、観客が独自にその背景を心の中に具体的に立ち上げていく、という仕組みになっているのではないかとすら思える。その結果立ち上がった「背景」は、本質的には観客自身のものであるから、提示されて見えてきたもの以上に、切実に迫ってきたのではないだろうか。

 舞台の背後にある膨大な背景が魅力的な戯曲は、例えば「東京ノート」(平田オリザ氏作)のように、舞台上の表層は細部にわたるまで現実味のある「リアル」なものであり、定点観測のように視点が一点に定まった物語があって、その結果として背景も鮮明なものとなっている作品が主であった。しかし「隣人ジミーの不在」の表層はもっと断片的な、視点も一つに定まらない、極めて不安定感のあるものである。にもかかわらず、これまでの「リアル」以上に切実な「大きな情景」を背後にありありと立ち上げることができたということは、演劇表現の可能性を押し広げてすらいたように思えた。

 そこに広がった背景としての情景に対しては、なんとも言いようのないやるせなさと、それでも生きていくという、人の強さに基づいた希望のようなものを私は感じた。しかしさらに重要なのは、背景に対する個々の感慨よりも、これだけ切実な「大きな情景」というものを、演劇というフォーマットの中で、具体的な台詞や動きで説明しなくとも、鮮明に提示できるということを示したことなのではないだろうか。
(2012年11月4日17時の回観劇)

【筆者略歴】
小林重幸(こばやし・しげゆき)
1966年埼玉県生まれ。早稲田大学理工学部電気工学科卒。東京メトロポリタンテレビジョン(TokyoMX)放送技術センター勤務。デジタル放送設備開発の傍ら、年間200ステージ近い舞台へ足を運ぶ観劇人。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kobayashi-shigeyuki/

【上演記録】
岡崎藝術座隣人ジミーの不在」(F/T12主催プログラム)
あうるすぽっと(2012年11月2日-6日)
作・演出 神里雄大
出演 武谷公雄、稲継美保、山縣太一(チェルフィッチュ)
美術 神里雄大
照明 黒尾芳昭
音響 高橋真衣
舞台監督 寅川英司+鴉屋
衣裳 天神綾子
映像 ワタナベカズキ
撮影 富貴塚悠太
演出助手 小野正彦
英語翻訳 門田美和
韓国語翻訳 李 丞孝
制作 急な坂スタジオ
協力 梅山景央、植松侑子
広報協力 precog
製作 岡崎藝術座
共同製作 フェスティバル/トーキョー
助成 公益財団法人セゾン文化財団、芸術文化振興基金
主催 フェスティバル/トーキョー、岡崎藝術座

トーク:
11月2日(金)19:30 終演後 神里雄大+石川直樹(写真家)
11月3日(土)17:00 終演後 神里雄大+三浦大輔(脚本家、演出家、映画監督、ポツドール主宰)
11月4日(日)17:00 開演前 神里雄大+梅山景央(ライター/編集者)
11月5日(月)19:30 終演後 神里雄大+多田淳之介( 演出家、東京デスロック主宰)
11月6日(火)14:00 終演後 神里雄大+萩野亮(映画批評家)
※司会:梅山景央(ライター/編集者)

上演時間 :95分(休憩あり)
* 日本語上演、英語・日本語・韓国語字幕つき

「岡崎藝術座「隣人ジミーの不在」」への3件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜
  2. ピンバック: Maisel's Weisse

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