マームとジプシー「あ、ストレンジャー」

◎太陽が貧しい
  岡野宏文

 「マームとジプシー」の『あ、ストレンジャー』は、ノーベル賞作家アルベール・カミュの代表作『異邦人』を換骨奪胎した公演であった。

 恥ずかしいのでいままで「ジュール・ヴェルヌです」とかいってつつましく隠し通してきたが、私の卒論はしょうみなところカミュである。フランス語なんか全然できないくせに、ブランデーじゃない方のカミュを恐れ多くも扱ったところが実に罪作りな私らしい。

 ただしカミュとはいえ、私が卒論のテーマに取り上げたのはカミュの戯曲作品に限られ、メインは傑作『カリギュラ』なのであった。フランス語がまるで読めなかったため、あわやティント・ブラス監督の信じられないほどグロテスクかつガラクタじみた映画『カリギュラ』を原作と取り違え食い入るようにビデオに見入ったが、違うものが変なところに食い入るだけで、まさか天下のノーベル賞作家がこんなチンケなポルノは書くまいと賢くも思い直し、居眠りしそうなのをこらえながら新潮文庫を読破したのが無事卒業へとこぎ着けた今日の勇姿なんである。カミュ様々。ほとんどカミ様。

 さてその頃、小説『異邦人』の主人公はまだ久保田早紀ではなかった。ムルソーというアルジェリア在住の平凡なサラリーマンだ。

 「今日、ママンが死んだ」というへこたれそうになるくらい衝撃的な書き出しからこの小説は始まる。ママンとは母親のこと。母親が死んだなんていう大事を、前後の説明もなしに、いきなり即物的に読み手にぶつけてくる叙述で、ムルソーのキャラクターはすでに明白だ。「~だがどっちでも同じだ」的な独白を繰り返す彼は、世界のことにほとんど関心がない。マリという恋人と再会しそれなりの関係も持つものの、世界との強いつながりを可能にする「愛」という感情が彼には分からない。

 ある日ムルソーは、友人に誘われて海へ行く。そこで、いささか因縁のあるアラブ人をピストルで撃ち殺すばかりか、死者にむかってさらに四発の弾を放ちつづけた。

 むろん、彼は裁判にかけられる。法廷で殺害の動機を尋ねられたムルソーは、「太陽がまぶしかったから」とこたえるのだ。これは「理由なんてない」という意味であって、その意味のなさは快楽殺人者の動機のなさともまた違い、殺人による快楽すらももたぬかたちで、世界にまったく関心がなく、世界の方も自分に関心がないという、恐ろしい孤立を恐ろしさも携えぬまま立っているムルソーがここにいる。

 一方、「あまり深く考えないことで」世界と和解している幸福な人々は、無根拠の殺人や、母親の葬式で一滴の涙もこぼさなかったこと、はたまた葬儀の次の日に恋人と逢っていたこと、などなどを数え上げ、非人間的な殺人鬼と彼を死刑に断罪するのだ。

 もちろんこれは言いがかりだ。葬式で涙を流さなかったことと殺人はまったく別の問題だからだ。やがて独房に収監されたムルソーは、不条理な断罪や不毛な生のあり方に、だからこそより一層生きる喜びを見つけ出し、語りを終える。ムルソーは「自然」と「人間の観念」の、両方の「世界」から追放された「異邦人」なのだ。

 と、まあ小説「異邦人」っつうのはこんな具合の読み物である。

「あ、ストレンジャー」公演から
「あ、ストレンジャー」公演から2
【写真は、「あ、ストレンジャー」公演から。撮影=©飯田浩一 提供=マームとジプシー 禁無断転載】

 で、肝心の『あ、ストレンジャー』。

 登場人物は男女五人。それぞれが一分にも満たない短いモノローグで、「金曜の二時」と「金曜の六時」あるいは「土曜の二時」に見たこと起きたことを、ランダムに語ってゆく。家の前をトラックが通った。ヘリコプターの音を聞いた。電気工事の確認に業者が訪れた。バイトのシフトに遅れて走るものもいれば、踏切を通過したもの、またルームメイトを送り出すものも。といった案配である。

 時と場所を行きつ戻りつする断片的な台詞を聞きながら、次第に俳優たちの生理にこちらの体がなれてくる頃、ようやくこの五人が知り合いで、おなじカラオケボックスでバイトをしている人間だということが分かってくる。バイト上がりの店長。小柄な女性のバイトリーダーのタカヤマさん。彼女は口うるさい古株だ。たやすく欠勤する後輩バイトのムーちゃんにタカヤマはつっけんどん。犬猿の仲のふたりをなんとなく取り持つのは、ムーちゃんとルームシェアする柔和な面立ちのマリ。長髪で半ズボンのだらしない身なりのエンドウ君は意外にまじめらしく、食い逃げの客を店長と一緒に必死で追いかけたりする。

 こうして彼らの語るたとえば「土曜の二時」といった昼下がりの時刻の情景描写によって、断片的だった情景が次第にひとつづきのものへとまとまって、観客にしっとりとなじんでくるしくみになっている。この、徐々に状況の明らかになってくるプロセスは推理小説のそれとおなじ快感があった。

 週末の昼下がりに作品のフォーカスを合わせたのは、その時刻が最も忙しい数日へとむかう切り替えのポイントであり、歯車として働く彼らのスイッチが入るターニングポイントだからだろう。どの週での「金曜の二時」も似たようなものなのだろうが、とりあえずその週の場合は「ヘリコプターが飛」び、「トラックが走った」のだ。だけどそれは入れ替え可能な上っ皮の現象にすぎず、甚だしく異なる金曜日など、決してきようがない。彼らはひたすら時間刻みのシフトにあくせくする以外なく、疲弊するたたずまいが浮かび上がる。

 そう感じはじめた観客に、こんな台詞が投げられる。
 マリは呟く。「私はこの街の異邦人だ」。
 ムーちゃんは呟く。「未来なんかない」。

 えっ、異邦人てそのことか。ただの「疎外」か。そーかい。と私は驚いてしまった。

 そんな異邦人なら渋谷の町で、下北沢の路地筋で、芋を洗っているではないか。いや洗われている身となっては、そんな十万の僕たちの立場を確認しあいたいのか。待て、早とちりはやめよう。まだ最後まで見なくては分からぬ。清涼院流水のミステリー「コズミック」だって最後まで読んで腹立ちのあまり本を投げつけた私ではないか。「異邦人」からインスパイアというからにはまだこれから人が殺されるはずである。人が死んでからはじまるのが『異邦人』だ。

 たとえばエンドウ君は公園でふと鳩を見かけて靴で踏みつける。なにか爆発しそうなものを抱え込んでいるらしい。
 どこか浮世離れした感触の、フワフワした少女に見えるムーちゃんすらイライラを体内に蓄積していて、「小学生ってすぐ死にそうだよね、首が細くて」などとつぶやいたりする。
登場人物は心の中に誰も彼も爆発しそうな屈託を抱え込んでいるかに見える。

 ところで本作品は言葉だけでなく、映像も活躍した舞台だった。床面には何本もビニールテープが貼られ、電車やクルマの玩具を置き、あるいは「Park」などと書かれた紙片が散らばっている。セリフのない役者陣がハンディカムでこれらのアイテムをクローズアップすると、後方のスクリーンに投影される仕組みである。しかし私は演劇における動画の可能性をほとんど信じてない。なんだったら信じていない派のご意見番の汚名をきてもよい。演劇というのはほとんどすべてのことが表現できるメディアだと思っているからだ。

 本作品では、おそらく舞台に置かれたオブジェたちは、箱庭じみたスタイルで、彼らの暮らす町をイメージさせようとしたのだと思う。映像は、そうした三次元の町に暮らす彼らを、離ればなれに孤立させリアルな生の感覚を失わせる二次元のモニター、テレビやらパソコンやらゲームやら、をメタファーしたのではないだろうか。

 ただ、映像と海老蔵が嫌いな身としては、どうも集中力が乱されるんですね、動く絵ってのは。ホットメディアってあるでしょ。あらゆる状況下で、なによりも優先してしまうメディアね。現在では電話がこれにあたる。携帯電話が鳴ると、よほどの場合でも受けるはずだ。皮肉にも本作中に表現されているとおり、モニターは我々にとってかなりのホットメディアだ。見まいとしても注意力は裂かれ、舞台でおこなわれていることを、ぬかりなく受け取るのがむずかしくなる、と私は考えているのだが……。

 そうこう煩悶するうちにステージはどんどん進む。ここからはちょっとしたネタバレ感覚なのだが、公演も終了しているのであえて書く。いよいよ殺人だ。

 店の常連客がふざけて言っただけかと思った「ピストルの隠し場所」に、本当にピストルがあり、ムーちゃんはピストルを手に入れる。母親の葬式から帰ると、ムーちゃんは欠勤のはずのバイト先を突然訪れ、四人を次々射殺してしまう。最後に自分の眉間にピストルをむけ、ためらい、ためらい、目をうるませて、ついに引き金をひきムーちゃんは斃れる。だけどつぶやくのだ。「なかなか死ねないなぁ」

 人は殺せるのに自分は殺せない。そのだらしない存在に共感する人たちは多いだろう。

 ただ、彼女のためらいに、なんのかんの言っても「この世界におさらばするのは辛い……」といった、カミュ的『異邦人』からはるかに遠い、やけに月並みな生への賛歌がにじみ出るのが感じられはしなかっただろうか。確かにカミュがうたったのは「生への賛歌」である。だがそれは人間の限りある、無意味で、不条理な、勝手にもたされた生を、だからこそと持ち上げて歩く偉大さへの賛歌だ。「カリギュラ」の主人公が「月さえ取ってくることができればすべてが救われる」と懊悩したように、不可能に取り囲まれた人間だけが初めて発揮することのできる偉大さだ。このへん、カミュのもう一つの代表作「シシュポスの神話」を読むとよくわかるんだけど。

 サルトルより、断然カミュ派の私には、なんかいろいろ考えさせる舞台ではありました。




【筆者略歴】
 岡野宏文(おかの・ひろふみ)
 1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に『百年の誤読』『百年の誤読 海外文学編』『読まずに小説書けますか 作家になるための必読ガイド』(いずれも豊崎由美と共著)『ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)』(扇田昭彦らと共著)『高校生のための上演作品ガイド』など。
・寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/

【上演記録】
マームとジプシー「あ、ストレンジャー」

原案:アルベール・カミュ「異邦人」
作・演出:藤田貴大

[出演]
青柳いづみ/石井亮介/荻原綾/尾野島慎太朗/高山玲子
[舞台監督] 森山香緒梨
[照明] 吉成陽子
[音響] 角田里枝
[舞台美術]細川浩伸
[宣伝美術] 本橋若子
[制作] 林香菜
主催:マームとジプシー
共催:(公財)武蔵野文化事業団

東京公演 吉祥寺シアター(2013年1月18日-27日)
<料金>予約 3000円/当日券 3500円
いわき公演(I-Play Fes ~演劇からの復興~ いわき演劇まつり)
 いわき芸術文化交流館アリオス小劇場(2013年2月1日・3日)
<料金>一般 2000円 高校生以下1000円
横浜公演(TPAM Direction Plus 参加作品)
 のげシャーレ(2013年2月9日-12日)
<料金>予約 3000円 当日券 3500円 TPAM特典金額 2500円


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