忘れられない一冊、伝えたい一冊 第20回

◎「鬱」(花村萬月著 双葉社 1997年)
  中屋敷法仁

「鬱」表紙
「鬱」表紙

 姉が買ったのだろうと思う。高校時代に居間に置いてあった小説『ゲルマニウムの夜』に出会った僕は、そのまま著者・花村萬月氏の狂信者となった。
 平凡な情景描写でありながら、どこかグロテスク。過激で醜悪な場面なのに、恐ろしく美しい。愛と暴力、性、宗教、歴史、組織―あらゆるテーマを軽快なテンポと重厚な文体で描く。中毒性の高い花村文学に完全に心酔していまい、貪るように氏の作品を読み漁った。それから大学に入学してからの数年間というもの、花村氏以外の小説は読んでいない。(いや、読んでいたかもしれないが、全く記憶に残っていない)

 「あと数冊で、刊行されている花村作品を全て読破できる」
 そんな時に出会ってしまったのが、この『鬱』である。そう、出会ってしまったのだ。

 『鬱』の主人公は二人。「小説家」を目指すフリーター舞浜響と、多くの小説を読む女子高生・平河由美枝だ。この二人の衝撃的な出会いや反社会的な行為、舞浜響の小説家として成長などが大きなストーリーラインとなるが、それはあくまでこの小説の骨組みに過ぎない。『鬱』という小説全体を埋め尽くすのは、膨大な文字数で綴られる、小説(というもの)に対する「思想」である。

 小説の中の登場人物が小説を書き、小説を考え、小説を語る―そのメタ構造を利用しながら、本書の中で花村氏は、「小説とはこうあるべきである」などといった思想を展開する。過剰な論理展開の為か(あえて言うが)物語はほとんど破綻している。とにかく一途に「小説」についての想いを書き殴り続けているという印象だ。娯楽作品に定評のある花村氏を思えば、特殊な作品であり、ある意味では狂気的だ。例えば、氏の作品ではもはや定番とも言えるセックスシーンに突入しても、まだ延々と小説や倫理への思想を描き続けているのである。登場人物の関係や事件などはすべて、小説思想を語るシュチュエーションでしかない。もはやこの作品が、小説というジャンルかどうかも疑わしくなる。
 さらに氏の言及は、小説そのものに留まらない。小説を取り巻く文学界やサロンといった業界の様子もつぶさに描かれている。舞浜響が書いた新作が名著となると見込んだ出版社が、態度を急変させすり寄ってくる様子は、滑稽さを通り越して悲しくなる。売れない小説家同士が人の作品を批評する淀んだコミュニティなどは、あまりにも生々しく、皮肉にしても笑えない。驚くべきことに「花村某」という名の小説家まで登場し、かつ、登場人物に彼の作品群を冷淡に批判させている。

 このような小説を花村氏に書かせたのはなんだったのか。
 僕には、花村氏が小説(というもの)に抱いている「鬱々」とした情動だと思えてならない。小説家として成熟し、大成している氏は、自身の小説への希望や絶望を書き切り、それに『鬱』という名前を与え、世に出してしまったのではないだろうか。

 その時、ふと、自分のことを省みた。当時の僕は、演劇を作っている只の若者にすぎなかった。そのくせ一丁前にプロの演出家・劇作家を名乗り、自らの才能を過信していた。「自分は演劇界という世界で活躍している」「やがて大物になる」そんな夢想に身を委ね、楽しい日々を送っていた。

 そう、ただただ、楽しく、演劇に携わっていただけだったのだ。
 花村氏ほどの鬱々とした情動が湧き上がるような表現者としての生活からは、縁遠かった。僕は花村氏と同じ表現者であるにも関わらず、『鬱』に描かれる鬱々とした感情を理解することができなかった。悔しかった以上に、その程度の中身と器でプロを名乗る自分を大いに恥じた。

 それ以来、卑しくもプロと呼ばれるだけの「鬱々」を抱く為に、挑戦と努力を怠らないようにした。甘い考えや自己弁護も捨てた。自らに絶望し、世の中に絶望し、それでもなお捨てられない希望を糧に、演劇を作り続けた。そして、今現在に至る。

 『鬱』を読んで以来、どういうわけか花村作品を読む気になれなくなってしまった僕は、数ヵ月後、そのすべてを古本屋に売ってしまった。もちろん『鬱』もだ。

 「鬱々」を抱く程のプロとなり、新たな心持ちで再び『鬱』の1ページ目を開く―
 その日を心待ちにしながら、今日も稽古場や劇場を走り回っている。

【筆者略歴】
中屋敷法仁(なかやしき・のりひと)

中屋敷法仁さん

 演出家、劇作家、柿喰う客・代表。1984年青森県生まれ。桜美林大学文学部総合文化学科演劇コース卒。高校在学中に発表した『贋作マクベス』にて、第49回全国高等学校演劇大会・最優秀創作脚本賞を受賞。2004年、柿喰う客の活動を開始。独特の感性と高い演劇教養を武器に、幅広い舞台作品を手掛ける。柿喰う客全作品の構成・演出を担う。新作はもちろん、古典戯曲や短編、一人芝居など様々なジャンルの作品に挑戦し続けている。

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