忘れられない一冊、伝えたい一冊 第21回

◎「うらおもて人生録」(色川武大著 新潮文庫 1987年)
  ピンク地底人3号

「うらおもて人生録」表紙
「うらおもて人生録」表紙

 この世で一番好きな場所はどこかと問われれば、古本屋で、一週間に一回は行って本を漁る。とはいえ決して熱心な読者ではなく、それらの本を読むことは滅多にない。
 芥川龍之介も夏目漱石も安部公房もよく知らない。薄暗い部屋に、文庫本が散らばっている。枕元には背表紙の折れた北杜夫「さびしい王様」。床に積まれたのは埃まみれの物語たち。自分は膨大な知識に囲まれている。鞄には常に2冊、本を忍ばせる。けれどほとんど読むことはない。小川国夫の「アポロンの島」がPCのキーボードの前にある。窓際には控えめに安岡章太郎の全集が顔を向けている。僕は少しだけ高揚する。バニスターのブーツを履いてワゴンRリミテッドに乗り込む。ダッシュボードにも小説が重なっている。チェスタトンの文庫を持ってラーメン屋に入る。ラーメンを食べながら賢くなる算段だ。当然その計画は頓挫する。読まない。だってラーメン食いながらチェスタトンって思いのほかに難しいから。

 僕は本に囲まれ生きている。つまりいつだってそれらの本に手を伸ばす可能性があるってことだ。僕は無数の可能性に囲まれている。僕こそが可能性そのものなんだ!

 思いのほか本を知らない。タイトルとか小説家の名前はよく知ってるけど、中身を知らない場合がとても多い。そんな「心に残る私の一冊」なんぞやもし。
 脚本家をやってると影響を受けた作家は誰かとしばしば聞かれることがある。けれど実のところ作品そのものに影響を受けるということはない。ただある特定の作家さんの「態度」、つまりかっこよく言えばアティチュードになら多大な影響を受けている。

 どうだ。ちょっとばかり難しい言葉を使えば、なんとなくそれらしい文章になる。騙されちゃいけない。面倒な言葉や高尚な言葉を使うやつには気をつけろ。あとやたら僕や俺や私を入れる作家も信用しちゃいけない。日本語は主語を省ける言葉なんだ。文章はシンプルに簡素に綴るに限る。井上ひさし先生や花村萬月先生に教わったことだ。

 話を戻す。「態度」の話だ。作家の世界に対する「態度」はもちろん物語にも表れるが、むしろエッセイに顕著に表れる。まぁ当然の話でエッセイとはつまり随筆で、随筆とは、つまり著者の体験や経験を文体にとらわれず書かれたものだ、とYAHOO知恵袋に書いてある。ちなみに質問者は僕じゃない。YAHOO知恵袋さえあれば生きていける。水も食料もいらない。テントなんてただの布きれだ。砂漠で僕は一人ぼっち。夜空には北斗七星が君の彼女よりも輝いている。でもいい、だって僕にはYAHOO知恵袋があるんだから。翌日僕はカラカラに干からびてガラガラ蛇の住処になってることだろう。骨はユーフラテス川に撒いてくれ。

 意外と小説よりエッセイで僕の心を掴む作家がいる。太宰治で一冊あげるならやっぱり「考える葦」だし三島もなんだかんだで「不道徳教育講座」を一番読んでるし、川上未映子もエッセイの方が断崖絶壁色気がある。

 さて長い前置きの果てに挙げさせていただくのが色川武大先生のエッセイ「うらおもて人生録」だ。バロウズの「ジャンキー」でも内田百閒先生の「ノラや」でもよかったのだけれど、やっぱり色川文学が世界一だ。
 この本にはこの世知辛い世の中をいかなる「態度」でしのぐべきかが書かれている。(色川文学では「生きる」ことを「しのぐ」という。著者は作家であると同時に戦後最大の博打打ちでもあった)
「9勝6敗を狙え」「一歩後退2歩前進」「まず負け星から」「先をとる」「だまされながらだます」等々、一人の人間として、また博打打ちとしての「態度」を伝えるための魅力的なアフォリズムが文章の至る所に仕込まれている。

 著者の「態度」がどのようなものか一つ例をあげよう。「運」に対する「態度」はいかに。
 曰く人生における幸運と不運の比率は1対1だという。運が重なると不運がやってくる。不運が続くと幸運がひょこっと現れる。これは誰でも経験したことがあるだろう。いかにしてその「運」を使うべきか、それは博打のしのぎに影響してくるらしい。
 面白いのはいかにして「運」を引き寄せるかではなく、いかにして「不運」を引き寄せるかについても書かれてあることだ。不運を引き寄せれば、必ず次は「運」が回ってくる。ここぞという時のために「運」を使えるように「不運」を引き寄せておくんだ。その方法が具体的に書かれてある。

 もちろん賢明な読者なら、「運」は所詮「運」であって、そんなものを意図的に呼込んだり呼び寄せなかったりできるはずがないと思うだろう。
 そのとおり。もちろん著者もそれはわかっている。
 矛盾するようだが、ここには博打でしのぐための「方法」は書かれているけど、本当に書かれているのは「方法」ではないのだ。著者は博打の「方法」を通して、人生をしのぐための「態度」を書いている。しのぎ方それ自体は重要ではないのだ。どのような「態度」で人生をしのいでいくか。それが重要なんだと説いている。

 著者はその日の勝敗には頓着しない。重要なのは、人生トータルにおいて負け越さないことだ。
 負けてしまうのは仕方がない。でも実力で勝っていても負けたのなら、それは「不運」を消費したことになる。落ち込むことなんてない。トータルの人生で俯瞰しろ。
 逆に実力で負けているのに「運」で勝ったなら、それは「運」を消費してしまっている。そういった勝負の後は十分に気を付けなければならない。そのような認識が大事なんだ。
 プロの世界において実力での大差はない、ほとんどが拮抗している。だからギリギリの勝負の時こそが「運」が必要になってくる。実力はやっぱり大事だよ。だからこつこつとつけておくべし。
 運が回ってきて例え勝っても、負けてる相手を追い詰めるな。いつか必ずやり返される。

 文字数が制限されているので、すべては書けないが「運」に対する「態度」以外にも戦後の生活、会社での生き方、野良猫について、等々、著者の切実なエピソードを通して、この本にはいくつもの人生をしのぐための「態度」が書かれている。

 さて。今から書くことが最も重要なことなんだけれど、聞いてほしい。
 実はこれらの「態度」の根底にいつもあるのが色川先生の他者に対する深い愛情なんだ。
 博打打ちなら他者に勝つことが最も重要であるのは言うまでもないが、彼の「態度」には他者に勝っても負けても、深くて優しい思いやりが必ず含まれている。

 彼は「運」だの「勝ち方」だの言いながら、裏ではいかにして人を愛すべきかと語っている。著者の「態度」は博打打ちであることを越えて、いつだって他者への愛に向かっていく。これがこの本を唯一無比のエッセイにしているのだ。

 タイトルが「うらおもて人生録」であるように世の中のすべての物事が表裏一体であると著者は言う。結局トータルの人生で見れば、勝敗のプラスマイナスはゼロだ。勝てば負ける。負けたら勝つ。必要なのは「勝ち方」と「負け方」なんだ。相手を酷い気分にさせて勝てば、次はきっと自分が酷い気分で負けるだろう。だから追い打ちはするべきじゃない。負かす相手のことをもっと想うんだ。

 そして僕がこの本を本当に愛する理由は、この本が劣等生のために書かれたものであるということだ。しのぐことがままらない鈍くさい僕らを下に見るわけでもなく、隣に座って、ただ他者を愛する「態度」を教えてくれる。
 僕は文字の向こう側に穏やかな色川先生を見る。冒頭、先生はこう語りかけてくる。

 俺は、人に何かを教えようとなんて思っていないよ。ただ、俺のことをしゃべるだけだよ。でも、君たちとは時代も違うし、かみあわないことや、退屈な話もたくさんでてくるだろうね。それから、俺の欠点もたくさん出てくるだろう。でも、できたら、我慢して聞いておくれよ。こんなことをいうと嫌われるのは分かっているんだけど、俺は、君たちと、友人のような関係になりたいと思ってる。(「うらおもて人生録」p.11)

 祈りのような文章だと思いませんか。何の祈りかはわからないけど。
 なんだか「おまえは悪くない」と言われてるような気分になる。
 何に対しての悪くないなのかわからないのだけれども。
 読者を鼓舞するわけでも否定するわけでもない。照れくさそうに「とりあえず友達になりたいんだ。わかるだろ?」
 この語り口が孤独な僕らをいつだって震わせるんだ。
 

【筆者略歴】
 ピンク地底人3号

pinkchiteijin3

劇作家、演出家。ピンク地底人リーダー。2006年、同志社大学内の演劇サークルを母体に「ピンク地底人」の活動を開始。地底人6兄妹の長男として現在まですべての作・演出を担当。関西弁に謎の造語を織り込んだ地底語を駆使し、地上侵略を行っている。拠点は京都ではあるが、最近は活動が活発化。大阪・兵庫・愛知・東京など侵略の幅を広げている。演劇以外の芸術分野で活用される様々な手法(映画ならズームアップや長回し、音楽ならフィードバックノイズとか)を無理やり演劇に盛り込むことで、新しい演劇の可能性を追求している。


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