マームとジプシー「あ、ストレンジャー」

◎むうちゃんとゾンビとキリストとを巡って
  福田夏樹

 今度はグアムで無差別殺傷事件が起きた。常夏の島グアムでの深夜の事件。
 ワイドショーでは、金か、薬物中毒か、男女関係か、納得のいく動機を探すのに必死だ。そしてコメンテーターは問う。「グアムには死刑はないんですよね。」。関心は、犯人にいかに厳罰を科すか、願わくば、極刑を科すことができないか。その点に集中する。果たして、犯人に厳罰を科すことで得られるものはなんなのか。犯人はただの罰すべき他者なのだろうか。
 そんなことを考えながら、犯行後に座り込む犯人の姿をテレビにみていると、むうちゃんの姿を思い出さざるをえなかった。

 ある海に近い街に暮らしているむうちゃん(青柳いづみ)は、「ママンが死んだ」という連絡を受ける。バイトを休むため勤め先のカラオケ店に連絡するが、バイト先の高山さん(高山玲子)は、ずる休みの口実ではないかという疑念を示す。なんかムカつく態度。同僚の遠藤くん(尾野島慎太郎)は人の弱みに付け込んで胸を触ってくるし、店長(石井亮介)はパチンコしか趣味がないくせに喧嘩っ早いし、同居人でもあるまり(荻原綾)は電気代を払えとか口うるさいくせに、自分から誘った映画で寝てしまうし。はては、見知らぬ通りすがりの人まで、自分のことを先生に似ているといって笑い、女は25過ぎてから衰えるばかりだという。頭カチわってやりたい。

 よくよく考えれば、これらはすべて些細なことに過ぎない。だがむうちゃんはこれらをきっかけとして4人の同僚を射殺した。なぜむうちゃんはそんな些細なことで何人もの人を殺したのか。正直にいうと、はじめは理解できなかった。なぜこんなにも簡単に人が殺される作品が作られているのか。特にこれはマームとジプシーの作品だ。これまで、執拗といってもいいくらいに追憶と悔恨、特に、死に対するそれらを扱ってきたマームとジプシーが、なぜこんなにも軽々しく死を扱えるのか。そこに確たる理由がないのだとしたら、批判されてしかるべきだと考えた。

 ただ、この作品は4度観ることになっていたので、その後はその疑念について特に念頭に置いて鑑賞した。そして、繰り返し観て至った理解は、この世の中に対峙していくということへの覚悟なのだということであった。

 まず考えたいのは、この作品でむうちゃんが何度も繰り返す、人を殺すか殺さないかといったことは、せいぜいボーダーを超えるか超えないかに過ぎない、という命題についてだ。

 このむうちゃんの思いを、他者としての視点から、単なる若者にありがちな感傷と切り捨てることは簡単だ。だが、フィクション作品の意味は、そうならなかった可能世界を描き、その可能世界を想像して思いをいたすことにもあるのではないだろうか。

 ボーダーを超えるとはどういうことなのか。ボーダーを超えなかった人間と、ボーダーを超えた人間は何が違うのか。この作品で示されるのは、そこに大きな差異はないのではないかということだ。そこにあるのは、たまたまピストルを持ってしまうかどうかという程度の違いだ。

 むうちゃんの同僚の遠藤くんがハトを踏み殺したその時、その手にピストルがあったらどうしていただろうか。精神的な病を持つ人とそうでない人の差異が相対的なものであることを考えると、語弊をおそれずいえば、いわゆる中二病(≒若者の感傷)というのは、本当の病といってもいいのだと思う。中二病がたまたま重いとき、雨上りのもわっとする空気に入り込んでしまったようなときに、たまたまピストルを持ってしまったら。ピストルが大げさなら、バタフライナイフでもいい。病の中で人を殺してしまうかもしれない、その可能性はすべての人に開かれている。だとしたら、その殺人者を私たちは他者として非難し、罰するだけでいいのか。

 そして、ここに、今回の作品には映像が使われていた必然性があると考える。目の前で現実に起こっていることと、カメラを通した映像とを対比させることで、カメラを通した視点の他者性が浮き彫りになる。特に、むうちゃんが殺意を固めたであろう、カラオケ店へ向かう前の、自室でのひとときは、舞台裏や舞台袖に自室としてのスペースを設け、そのスペースをカメラをとおしてスクリーンに映すことで表現された。ボーダーを超えるその瞬間にその人に何が起こっているのかなんていうのは知りえることではない。その意味では、絶対的な他者でしかありえない。私たちの目の前に現実として現れるのは、殺人が行われるときだ。でも、だからこそ、絶対的な他者のものでしかありえない、そのひとときに、思いをいたすことが必要なのではないか。

「あ、ストレンジャー」公演から
「あ、ストレンジャー」公演から2
【写真は、「あ、ストレンジャー」公演から。撮影=©飯田浩一 提供=マームとジプシー 禁無断転載】

 開演前と終演後、スクリーンには、カメラを通して客席の様子がライブで映し出される。周囲の観客の視線とともに観客としての自らの視線がカメラを通すことで可視化される。問われているのは、客席にいる私たちの視線である。その視線は、ヘリから愚かな人々の暮らす街を見下ろすような視線ではないか。ワイドショーのコメンテーターのように、むうちゃんを他者として見ているのではないか。むうちゃんを他者としていいのだろうか。他者とできるのだろうか。死ねなかったむうちゃんを殺せば、愚かなくちゃくちゃとした世の中は変わっていくのだろうか。このような問いの下、この作品は作られているのではないだろうか。

 次に、ラストの場面をなるべく正確に引用しつつ、私なりの解釈を加えながら考えてみたい。

 職場の同僚4人を殺したむうちゃんは、自転車で海辺にたどり着く。もう既に朝になろうとしている。

 「最後の5発目は」

 むうちゃんは波と戯れる。波際に足先をつけては引き下がる。戯れを終えてピストルを持ち、自らのおでこにピタリとつける。

 「太陽がまぶしすぎて」

 ピストルをおでこから離し、腕をまっすぐ伸ばす。引き金を引く。銃声とともに火花が散る。後ろに倒れる。

 「なかなか死ねないなあ」

 「なかなか死ねない」ということはつまり、死ぬつもりだったむうちゃんは新しい朝の太陽に生かされたのである。くちゃくちゃした世界を離れ、海の向こうの違う世界に行くこともできない。では、いっそピストルで死のうと思っても、正に引き金を引く瞬間に、昇りくる朝日が目に入り、まぶしくて狙いを誤ってしまう。明けない夜はない。しんどくても明くる日を必死で生きねばならない。これは、例えば一昨年秋の作品である「Kと真夜中のほとりで」などにおいて追憶と悔恨を描きながら行き着いた覚悟にも通底する。

 解釈をさらに加えて掘り下げてみたい。遠藤くんの興じるゲームやバスの乗客の会話にゾンビが出てくるが、おそらくむうちゃんにとっては、くちゃくちゃした同僚は自らの醜さを顧みず、生物的本能に従って行動するという意味でゾンビなのである。同僚たちを撃つのは、醜いゾンビの世界に飲み込まれるわけにはいかないからだ。高山さんとの会話の場面が示唆的だ。小汚いカラオケ店でよく8年も働けると本当は罵ってやりたい。だが、そういうわけにもいかず、口から出るのは、当たり障りのない言葉となってしまう。無為でいれば、同僚たちのいるような世界にずるずると引きずり込まれてしまう。そうならないよう発砲した。ゾンビとしての同僚を撃ち、自らも撃った。しかし、結果としてむうちゃんは自死できずに存在し続けることとなる。その意味で生に執着するゾンビになったともいえる。ミイラ取りがミイラならぬゾンビ取りがゾンビになったということだ。

 次に少し視点を引いて考えてみる。むうちゃんが倒れこんだのは、舞台上手に作られたミニチュアの街の上である。そこには道路が白く光って2本交わっている。この十字の上に倒れこむむうちゃんは、十字架にかけられ、死したのち復活したキリストの姿に重ねられないだろうか。むうちゃんは、街に暮らすくちゃくちゃした愚かな人々の原罪(=十字架)を背負い込み、死したのち救いの神として復活したのではないか。ゾンビはただの撃つべき対象ではない。ゾンビの世界に飲み込まれるわけにはいかないが、ゾンビにはそれぞれゾンビになってしまった事情もある。そこに思いを馳せる慈悲の心が、あの十字には表現されているのではないか。ゾンビは撃つべき対象であると同時に、愛すべき対象でもある。

 こう考えていけば、ゾンビであり、キリストであり、その上で、他の人と変わらない人間であるむうちゃんは、同じ人間でありながら、腐敗する醜い体になっても、人々の原罪を背負うという覚悟をもって今後生きていくということになる。なかなか死ぬことなんてできないからこそ、今後はくちゃくちゃとした世の中とさらに向き合っていかなければならない。つまりはくちゃくちゃとした世の中をどうにかしていかなければならない。同僚を撃ったのは、くちゃくちゃとした世の中に対する怒りの表現なのであろう。個々のゾンビが本来は愛すべき対象であるとすれば、むうちゃんが撃ったのは、ゾンビではなく、ゾンビを生み出す世の中なのではないか。これまでの作品にあったような死(特に理不尽な死)への追憶と悔恨のその裏には、その死を作る人間社会への怒りがある。この作品は世の中の理不尽さという同じ対象に対して、怒りの側から描いた作品ではないか。その意味で、これまでの作品とこの作品は、両者で表裏をなしているといえる。だから、この作品は、死を軽々しく扱ったというよりは、そもそも個別の死を扱ったものとして捉えるべきではない(少なくともそう捉えるのは本質的ではない)のではないか。

 無理矢理ながらまとめれば、むうちゃんのような怒りは誰もが持っているはずで、もしかしたらむうちゃんこそがキリストのような救世主で、本当の正義や慈悲の心を持っているかもしれない。そうであれば、むうちゃんをただの罰すべき他者としてよいのだろうか。この作品には、たとえ罪を引き受けるようなことになってでも、醜くかろうとも、くちゃくちゃとした世の中と対峙して真の正義や慈悲を見出していきたいという覚悟が示されているのではないか。
 というのが、場所を変えながら4度観て至ったこの作品の一つの私の個人的な理解である。

 演出面にも触れておくと、感情の爆発するような場面は比較的少なく、作品全体が、微温的でありつつ、ただ、確かないらだちで包まれるように作られていたという印象が強い。これは、これまでマームとジプシーの代名詞とされていたリフレインが俳優の感情を増幅させるものとしては、あまり使われていなかったことによると思われる。一方で、むうちゃんのモノローグの多くの場面で、片足立ちとなっていたり、まりに、雨上りの気分について語る場面では、額縁に両手両足をかけて揺れながら話すなど、体力的に追い込むのとは異なる負荷によって、感情の揺らぎを引き起こしている場面が見受けられた。
 また、これまでも作品中で街を立ち上げることはよくあったが、ほぼ素舞台から物語の中で立ち上げており、上述のように、舞台上手にミニチュアの街を作り上げているというのは、今回の特徴的な点である。作品中では、そのミニチュアの街にミニカーや模型電車を走らせ、街の上には、ラジコンのヘリを飛ばせた。これらには、街を物語の中だけでなく、見立てによりもう少し具体性を持たせた形で観客に見せる効果があったのと同時に、ミニカーを走らせる音、電車を走らせる音、ヘリコプターの羽の音といった、街のいらいらを招く音を、そのものではない形で表現する(見立てならぬ聞きたて?)ことに意味があったのではないか。そしてこれらは、作品を包む微温的な雰囲気に効果を上げているように感じられた。
 以上に挙げたような試みは、これまで以上に繊細に作品の空気を描いていくための試みであると思われ、マームとジプシーの今後の表現のあり方を期待させるものであった。

 最後に、吉祥寺、いわき、横浜の3か所で本作品を観る機会に恵まれた人間として、ここにわずかながら記録しておきたい。

 吉祥寺シアターは、吉祥寺の歓楽街の奥にある。劇場はそこに足を運ばせるという力をもっているが、ハイソな街のハイソな人々の中での公演ということもあり、劇場に至るまでの道のりとも相まって、他の土地以上に、他者とされてしまうむうちゃんの孤立を強く感じた。
 いわき芸術文化交流館アリオスでは、午前中に自分たちの公演を終えたのであろう地元の高校生に囲まれて観劇をした。残念ながらその公演を観ることはできなかったのであるが、聞くところによると、マームとジプシーに影響を受けた表現方法を用いた作品であったという。むうちゃんがバイトを休んで、海をみつめる場面で鼻をすする音が何度も周囲から聞こえた。むうちゃんがみていた海とそのやるせなさは、いわきの海に重なった。
 横浜ののげシャーレで観劇した日、横浜からの帰りの東横線で向かいに座った親子がだいぶ大きな声でこんな会話をしていた。
「十字軍はあれだけ人を殺していて、キリスト教でいう隣人愛なんて欺瞞だ。」

(参考資料)
・「喪失と獲得をリフレインして、もっと遠くへ マームとジプシーの旅の軌跡 / 藤田貴大 聞き手=ユリイカ編集部」(『ユリイカ』2013年1月号、特集「この小劇場を観よ!2013」所収)
・藤田貴大『小倉・オブ・ザ・デッド』(マームとジプシーHP内、北九州芸術劇場プロデュース「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」東京公演に向けてのエッセイ)
・濱野智史著『前田敦子はキリストを超えた―〈宗教〉としてのAKB48』(2012年12月、ちくま新書)

【筆者略歴】
福田夏樹(ふくだ・なつき)
  1984年生まれ。演劇ウォッチャー。学生時代に演劇論の授業を受けたことをきっかけに舞台をぽつぽつと見始めた。現在は平日と同じくらい忙しく休日は観劇。

【上演記録】
マームとジプシー「あ、ストレンジャー
原案:アルベール・カミュ「異邦人」
作・演出:藤田貴大
[出演]
青柳いづみ/石井亮介/荻原綾/尾野島慎太朗/高山玲子
[舞台監督] 森山香緒梨
[照明] 吉成陽子
[音響] 角田里枝
[舞台美術]細川浩伸
[宣伝美術] 本橋若子
[制作] 林香菜
主催:マームとジプシー
共催:(公財)武蔵野文化事業団

■東京公演 吉祥寺シアター(2013年1月18日-27日)
<料金>予約 3000円/当日券 3500円
■いわき公演(I-Play Fes ~演劇からの復興~ いわき演劇まつり)
 いわき芸術文化交流館アリオス小劇場(2013年2月1日・3日)
<料金>一般 2000円 高校生以下1000円
■横浜公演(TPAM Direction Plus 参加作品)
 のげシャーレ(2013年2月9日-12日)
<料金>予約 3000円 当日券 3500円 TPAM特典金額 2500円


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