岸井大輔(劇作家)

否定の扱い方を考える中、倫理と観客を見つけた(後編)―コミュニティの外でコミュニティと付き合う人は、つまり観客と呼べると思うんです

 岸井大輔さんの6年間の活動を振り返るインタビュー前編では、その場にいる人全員をキャストとして劇を作るという考えを進めた結果、2010年の『会/議/体』という作品で、いよいよ観客を消滅させることができた。しかし、その時点で演劇でなくなってしまったというお話でした。後半部分の今回は、演劇を成立させるべく、今まさに観客を場に設定しようとしている、その過程について、そして劇作家としての今後の展望についてお聞きしました。(聞き手・構成 廣澤梓@ワンダーランド編集部)

まず、観客意識を持つとは何かを考えた

―よく岸井さんはFacebookでイベントページを立ち上げて、「友達」を招待するというのをやってらっしゃいますよね。あれはキャスティングだと思うんですけど、そういったことはいつからやっているのですか?

岸井大輔さん
岸井大輔さん

岸井:2012年までは、まさにキャスティングですね。
 意識的には2009年の『百軒のミセ』のときからやっています。たとえば2009年の『墨東まち見世 ロビー』ではメールマガジンの形式でした。毎日のように出していたんだけど、毎回送り先のBCCをいじっていた。4人しか送ってないときとかあります。特に『LOBBY』や『会/議/体』では、そこにいる人全員が、能動的で主体的なキャストという設定を厳密にしたかったから、この人がその場にいたら面白い劇になるな、という人に送っていました。そこに来る人を観客と想定していないので、宣伝のふりをしたキャスティングです。

 2010年に主体的でない、ただ観ている客は必要だと気づくのですが、2013年までは観客とは何かわからなかったので、ネットは主に宣伝ではなくキャスティングのツールとして使っていました。

―定義しないと観客も場に入れられない。…たいへんなことですね(笑)。

岸井:難儀なことですよ。見せりゃいいだろうと思うでしょうね、多くの人は。
 そこで、まず、観客意識を持つとは何かを考えた作品を作りはじめます。例えば『東京の条件』「share soup three weeks」。3週間504時間ノンストップで鍋を続け、それをライブ中継しました。そこには作品コンセプトと鍋の水面だけが写っていて、会話は聞こえている。

▼『東京の条件』「share soup three weeks」>>

岸井:鍋をするメンバーは、基本的に全員キャスティングしていて、演劇ですと言ってはあるんです。けれど、多くの人はキャストだという自覚があまりない。鍋をしているだけですから。家に帰ってサイトを見たら、映像が上がっていて、その下に「キャスト」として自分の名前が書いてある。それを見たときに、あ、自分は舞台に出ていたんだ、と、気付くわけです。もちろんUstream中継されながら鍋をしているのだから、視聴者を意識はします。でも、だんだん忘れていく。後で自分が観客になったとき、自分を見ていた観客のことを改めて意識することになる。
 だから、演劇形式としては、キャストとして名前をアップしていくことが一番大事だったんです。

―なんとわかりづらい!!

岸井:わかりづらくったっていいんですよ、そんなものは。体験した人にわかるのが演劇ですから。
 この時期では江戸川橋の地蔵通り商店街でやった『東京の条件』「こどもkichi」が一番よい劇だったと思いますけど、一番、演劇形式がわかりづらかったですね。僕もやってて、演劇がどうか不安で。また掃除じゃないか、これは演劇か、と『会/議/体』のとき以上に疑ってました。子どもが来て遊んでいるだけですから。でも、演劇じゃないと感じた瞬間は、「こどもkichi」ではないです。やはり否定が入っているのが大きいんだな、と思いました。

 たとえば、子どもによる、ここは自分の場所であるという意識が、劇を生み出していきます―前に言いましたが、所有は否定とつながりますね。

 この作品の戯曲―「こどもkichi」を作る仕組みを僕はそう呼ぶわけですが―はすごく手が込んでいて。まずワークショップを7回やって、子どものたまり場を作りたい大人を集めるんです。その人たちと、やりたいことをやっている人がいる場を作る。すると、それを見て集まった子どもも自分の好きなことをする。だんだん大人たちが来なくなって、最後は好きなことをする子どもばかり集まる場所になる。ここまでは、「演劇の形式化・特殊」の応用です。ですが、さらに、江戸川橋という街があって文化があるから、子どもたちに、自治が効いてくる。文化がある状態で自由に自治をしていると、劇がはじまる、という戯曲を設定したわけです。
 「こどもkichi」の上演にあたるのが、10回やったUstreamのアフタートークです。あとは記録映像です。よい劇でした。是非、リンク先の映像をご覧ください。

▼『東京の条件』「こどもkichi」
・Ustreamアフタートーク
   柴幸男さんゲスト>> 
   松井周さんゲスト>> 
 ・記録映像(YouTube)


否定の導入から始まった観客の問題と、否定を入れたエートス≒倫理の問題がつながった

岸井:「share soup three weeks」や「こどもkichi」は『東京の条件』の1シーンです。

 先ほども話しましたが、『東京の条件』は、ハンナ・アーレントの『人間の条件』を戯曲とみて、東京の現場で上演することで、東京に合った公共を作る上演時間3年間の演劇です。「東京アートポイント計画」という、東京にアートが介在する公的な空間を設置していくプロジェクトの一部として構想しました。

 最初に考えたのは、公についての議論は、いたずらに難しい話になりやすい。ので、なるべく簡単で、しかも公共の問題を全体的に扱っている本を戯曲としようと『人間の条件』を選びました。まず、この本の言う通りに行動してみる上演計画を立てます。例えば『会/議/体』のように。そうすると、上手くいったり、失敗したりしますね。その様を観察する事で、また考え、計画を立て、戯曲を書き、実践する、というのを3年繰り返しました。

 「share soup three weeks」の最終日に、先にちょっと話した九鬼周造を思い出したんですよね。3週間煮た鍋で作ったおじやを食べながら。
 3週間で100人と鍋をしたのですが、最初は知らない人も多いし、はじめまして、とか言いながらやってたんだけど、だんだん内輪っぽくなってくるわけです。ある日中継するのに使っていたパソコンに鍋汁がかかっててカピカピになっていた。で、中継スタッフが、最初の10日くらいは、そういう事故が起きた時は報告があったが、誰も言ってこない。コミュニティの崩壊がはじまっている、と訴えてきたわけです。上演してみて破綻を見つける、という作業ですね。で、考えて、次のシーンを創る。

 ここで起きていることは「甘え」だ、と思いました。「甘え」が起こす問題を解決しなければ、東京で公共を考えることはできないでしょう。ところで、『人間の条件』には「許し」はあっても「甘え」の概念はない。じゃあ、甘えについて誰か言っていないかな、と考えていた時、九鬼周造の『いきの構造』を思い出したのです。

 『いきの構造』は、九鬼が留学先のドイツやフランスの哲学者に日本の美意識を伝えるために書かれました。なので九鬼の説明は非常に客観的で分かりやすい。人間関係が、性的でべったべたの状態が甘えで、異性とは一切接触しないというのが渋さで、この2語が反対語である、と。で、その間にあるのが「いき」。

―ふふ、可愛い。

岸井:渋い人が、ちょっと異性にちょっかいだす、つまりちょっと甘くなると、いき。逆に、甘くてべたべたした人が、ちょっと異性と距離をとると、いき。ところが、失敗すると、どちらも、いきの反対、野暮になる。そんなことが大真面目に分析してあります。

 江戸においては、九鬼の言うような美学があっただろうと思います。が、現在の東京で、そのまま実装するのは難しい。例えば、禅に由来する諦めとかにリアリティはありませんから。なので、江戸のいきと、『人間の条件』で語られるような「許し」や、後述するテーブルの両方が『東京の条件』だ。なら、九鬼とアーレントをつなげることができればいいんじゃないか、と考えました。それが『東京の条件』のラストシーン、「九鬼周造とハンナ・アーレントを出会わせる」です。

▼『東京の条件』「九鬼周造とハンナ・アーレントを出会わせる」>>

岸井:ここでは、九鬼とアーレントが実際に出会い得た(どちらも同時期にハイデガーに教わっていて、九鬼は親友、アーレントは愛人だった)というエピソードをストーリーに、2人のTwitterボットを作って、web上での対話をさせてみました。あとでTwitterの話もしますが、2人は相互フォローしていて、彼らをフォローすることで観客となることができます。僕は架空の2人の対話を元にいろいろ考えました。

 この思考と試行の過程はややこしいので、6年後のワンダーランドインタビューか(笑)冬にまとめる予定の『東京の条件』本を読んでいただくとして、『東京の条件』の結論を要約すると、「開いた関係は炎上しやすく、閉じた関係は腐敗しやすい。それを防ぐには、開いてる状態を維持するなら閉じてる状態の知恵を、閉じてる状態を維持するのなら開いてる状態の知恵を使うことが有益である。それは教養とかエートス≒倫理とか文化と言われるだろう。」ということになります。

 そして、東京で公共を腐敗させたり炎上させたりしないための教養や文化を誰でも無料で思考しうる場を作りました。『東京の条件』「シェア大学(仮)準備室」(現『無知な大学』)がそれです。『東京の条件』はそこまででした。

 ただ、閉じた状態を維持するには、開いた状態の感覚が有効である、ということには、全員参加者である集団が閉じているとして、そこに観客が入れば、開くことが必要なんだから、観客が登場するきっかけがありますよね。ですから、否定の導入から始まった、観客の問題と、否定を入れたエートス≒倫理の問題、は、この時点で少しつながったんです。

観客と鑑賞者が混ざれるというのが演劇にとって重要なのではないか

岸井:互いに知っている人同士の集団はコミュニティとも言い換えられるでしょう。知り合い同士は、さらによく知り合うことで問題を解決しようとする。例えば鍋をする、とか。けれど、よく知らない、コミュニティの外の人とも交流せざるを得ないですし、よく知らない人たちとの関係があって、よく知っている人たちとの関係も成り立つ。

 で、そのよく知らない人たちは、よく知っている人にとって、観客だと思うんです。あなたの言い方を借りれば、よく知っている人同士は巻き込まれている人達ですよね。よく知らない人は、巻き込まれない人です。だから観客ですよね。

―そうだ、余所者だ!! 観客は余所余所しいんですよ。

岸井:そうですね。だから、よく知らない人たちとのコミュニケーションを考えたら、観客とエートス≒倫理の問題が両方解決するということを『東京の条件』以降考えました。

―『東京の条件』の後の作品が『diVISION』ですよね。これは2012年の9月から2ヶ月半毎日、豊島区の区界を調査した軌跡を、Google Map上にピンを立てるというもの。stepと呼ばれる戯曲=調査の指示が順次現れるのですが、その最後のstepに「鑑賞者」が登場します。

岸井:「としまアートステーション構想」に参加することもあって調べたら、豊島区って区になる前の、「村」に由来するコミュニティが強い。巣鴨とか高田とか長崎とか雑司ヶ谷とかね。そのコミュニティを区がまとめている。ので、僕が問題にしている閉じた関係と開いた関係の交流が観察できるんじゃないかと思いました。そのために、内と外をわける線=区界を徹底的に調査することから作品を作ろうと考えたのが、『diVISION』です。

▼『diVISION』>>

岸井:この過程で、知らない人とのコミュニケーションが具体的にたくさん見いだされ、検討されました。たとえば、村に外から関わってくるのは、ひとつは行政です。法律とか警察とか行政とかが、コミュニティの外側で社会を回している。だから行政のあり方を観察すると、観客は出てこれるんじゃないかと考えました。

―観客を登場させるのに行政レベルの話してる(爆笑)。

岸井:大変なんですよ、観客を立ち会わせるのは。

 行政の人は他の人への説明責任があるんですよね。他者から頼まれたことを他者に対してやるわけだから、余所者的な筋の通し方をしなくてはいけない。すごく観客的です。例えば、行政の人って、上演を観に来ると「感動しました、私は大好きです。でも、わかりません」と真顔で言う。どう納税者のためになっているのか、説明できなければならないからです。

 前からそういう立場って面白いなと思っていたんです。主体的でない観客が嫌だという話と、行政の人が余所余所しいと思うのは、僕の中で感覚的につながります。コミュニティの外でコミュニティと付き合う人は、つまり観客と呼べると思うんです。

 『diVISION』では、区界にたくさんの人が集まって調査をしている、その様子をWebで公開しているのを作品にしました。…早く鑑賞者の話をしないかと思っているでしょうが、まずはこういう作品です、という話はしないと。

―そうですね、もちろんです。

岸井:そして、すみませんが、あそこで、僕が鑑賞者といったのは、観客のことじゃないんですよ。

 最近よく使う例なんですけど、mixiやFacebookが相互フォローなのに対して、Twitterってフォロー、フォロワーの数が違うじゃないですか。相互フォローは、僕が2010年以前に考えていた演劇の状態に近い。一方的に観る観客じゃなくて、互いに見る事で、場に現れている人です。だから、一方的にフォローしている人は、一方的に観ている人、観客に例えられます。

 Twitterだと、相互フォローしている人と、一方的に観てるだけの人両方に対してつぶやくことになる。例えば、Twitterの@(リプライ)って公開の会話だから、劇場の比喩に当てはめると、舞台上の人物に、観客に聞こえているのを前提に話していると解釈できます。フォロー返しで観客は突然舞台に上がる事になりますよね。だから、日本青年館の客席にいる僕が舞台から見られたのは、フォローされた、ということです。

 Twitterはフォロー、フォロワーという関係だけで、舞台と客席の複雑な構造を再現している。だから、流行ったんじゃないかと思うんですね。シアター的なんだと思う。つぶやくことで、舞台上で同じ舞台上にいる人と喋っているようなことになって、それを観客席で観ている人がいる。

 舞台上では、お互いに見る見られるということをやります。コミュニティの人たちも同じことをし、集団を維持しようとする。それは相互鑑賞してる人達だと思うんです。その状態を傍から観ているのが観客だと思うんですよね。相互に見る見られる人を鑑賞者、一方的に観る人を観客と、便宜上呼び分けてみました。

 『diVISION』での鑑賞者っていうのは、この相互鑑賞者のことで、観客ではありません。
 区界を調査するメンバーが、調査地域の近辺の人と、自覚なく相互鑑賞者になるように、僕は計画を立てました。それをネット越しに観れば演劇になるという構造です。同じ事が、お客さんにもできないか、と考えたんです。「share soup three weeks」で一番大事だと言った、「キャスト」としてネット上に名前を書く、みたいなことを、観客になるつもりで予約して来た人に対してやる仕組みを考えました。今までは主体的で能動的な参加者になるような設計でしたが、観客を意識させる構造を考えてみたのです。

 劇っていうのは舞台上にいる相互鑑賞者、相互フォロワーのように、お互い知っている人同士の間で起こっていることです。それを一方的に観ることがシアターなんじゃないかと思います。

 僕はずっと演劇を相互鑑賞してたんです。観客だったことはないと思う。僕の演劇のイメージはままごとから始まったし。僕は演劇をそのようなものだと思っていた。高校生の頃のスズナリの客席を思い出します。定員の3倍くらいが押し込まれていました。もうあんなものは組体操みたいなもので、やーひどかったですよ、満員電車よりもひどかったです。あそこで観客ではありえない。組体操に参加させるんだから、残酷演劇ですよ。観客を鑑賞者にする技術としては散歩よりエレガントかもしれません。けれども、今はちょっと違っていて、観客と鑑賞者が混ざれるというのが演劇にとって重要なのではないかと思っています。

―一人の人が鑑賞者になったり、観客になったりできるということですか?

岸井:それもあるし、純粋に観客でいたい人、純粋に鑑賞者でいたい人、単に夢中になって掃除をしていたい人、鑑賞者になったり観客になったりしたい人が同じ空間にいれることが演劇にとって大事なんじゃないかな、と思います。

 まず、演劇には相互鑑賞者は必要です。だけど、観客も必要で、それはひとまず、相互鑑賞者たちが腐ったり炎上したりすることを防ぐために、です。
 このことについては、今年から考えて実践することになります。観客の消滅と必要性の発見が2010年でしたからね、長い3年間でした。

観客目線とは、コミュニティを継続させるための外からの目線

岸井:アーレントが言うには、自分が卓越している―英語だとエクセレントであることを他人に示すのが、人間の生活の条件だと。そのために努力とか経験とか才能が必要だと言われるけれど、そんなものは必要ない。本当に必要なのは他人だ、と言っている。他人と一緒にいることができる状況を作らなければエクセレンシーは示せないということです。

―確かに(笑)。

岸井:で、この考えに沿って観客を説明してみましょう。例えば、目的を実現しさえすれば幸せだと信じている組織にいたとします。組織や個人が目的を実現しても、その人自身が他人に見られなければ、例えば真面目に掃除しているだけでは、エクセレンシーは示せません。そこで、その組織が掲げている目的とは別に、他人の視線に晒されることが必要になります。
 目的に向かって進んでいる人をちょっと余所から見ると、目的に向かって進んでいる人って可愛いな、ということですよね。ここに観客が立てる場所があるんです。

―おー!! ついに具体的な客席が登場しましたね!!

岸井:例えば、子供に絵本を読み聞かせるお母さんにとって、子供は観客、お母さんは俳優、絵本は戯曲ですよね。子供はお母さんが読んでいるのを見ている。誰が読んでいるか、お母さんかどうか、というのはすごく重要で、これが俳優を選ぶ、ということですね。じゃあ、絵本は何でもいいかというと、そうでもなくて、お母さんが夢中になって読める本でないといけない。つまりお母さんが良いパフォーマンスができる絵本がよい戯曲である。で、お母さんはどういう絵本が良いと考えるかと言うと、それは子供が喜びそうとお母さんが思える絵本ということです。

 つまり、この劇構造では、お母さんの目的として絵本=戯曲があるからこそ、観客である子どもは充分にお母さんを眺める事が出来ます。考えてみれば多くの良い戯曲というのはそういう風になっているな、と。

 何かを追求した人の身体、という意味では、バレエもそう考えられますよね。バーレッスンなどで鍛え上げられたステップで動く目的を達成する体を、観客は実は、目的外に見ているんじゃないか。目的が強ければ強いほど、目的外が面白い。

 強い目的を持って、相互鑑賞している人たちを、目的とは別の見方で見せれば、良い劇ができるんじゃないか、とも言い換えられます。稽古では目的を設定して、集団のエートスを作る。それを全然別の文脈に置くことができたらいいわけです。

 稽古場を放っておくと腐敗するので、人目に晒すこと、つまり公演することで、そのカンパニーがちょっと延命したり楽しくなったりするきっかけにするということ。あるいは、何かサークルを作って、サークルの目的に沿ってサークル内でしかわからないルールとか習慣とかを作って、それと全然違うところで観客が見ているという構造をちゃんとやれないかな、ということを考えています。

―そこで、5月18日はしんぶん部(「個人目線でフリーペーパーを作る」部活)のコミュニティダンスの発表があるわけですね。>>

岸井:しんぶん部はダンスのためだけにやっているんじゃないですけどね。エートスの際立った集団を創ることを、稽古と言えるんじゃないか、と思っていて、しんぶん部や、ダンスの公演は実験になると考えています。

 観客目線とは、コミュニティを継続させるための外からの目線。それなら、コミュニティにとっても必然性があるんじゃないか。もっとすごくオタクなサークルを作って、そのサークルの都合で客前にもっていくということをやってみようかなと思っています。

劇作家は今、どこにいるべきかと言うと、テーブルに座っているべきだと思う

―以前、優れた作家は作家をやめるということをおっしゃってたように思うのですが、岸井さんの活動は、芸術の一形式としての演劇の範疇を超えていると思います。それでも劇作家を名乗る理由について、最後にお聞きしたいです。

岸井:現代芸術を真面目にやると、創作とか表現に疑義をいだくのは必然なので、優れた作家だからこそ作家をやめることは多い、という話をしたことがありますね。それはそうなんですが、僕はやはりそこまですごくはない。芸術の一形式としての演劇の範疇からは出れませんし、出ているとも思っていません。演劇のことばかり考えていますし、結局、シアター構造に戻って来ていますから。

 観客が消えたことが演劇史上ほとんどないことは前から不審だったんですよね。僕と同じように観客や劇場に疑いを抱く人はたくさんいます。たとえば、プラトンがそうで、劇場は観客の無責任さと表面的な見方を養うからよくないとはっきり言っている。でも演劇史を見ると、観客は批判されても、劇場構造は温存されています。ブレヒトみたいに観客を考えさせるか、アルトーみたいに舞台と客席を混ぜる、とかがこの疑問に対する代表的応答ですが、シアターをやめる、つまり観客を消滅させるってことにはなかなかなりません。何故かな、観客が必要な理由はもっと他にあるんじゃないかとは考えていたんです。

 僕の現時点での到達点は、相互鑑賞者の関係がエートス≒倫理を維持するには、観客が必要だ、とまとめられるでしょう。ピーター・ブルックの見る人と見られる人の2人がいれば、をもじって比喩的に言うなら、相互鑑賞者と観る人の3人が必要だということです。でも、この根拠でプラトンに言い返す事を想像するといかにも希薄です。アリストテレスは多分、今僕が言わなければいけないことを直接プラトンにいったんじゃないかな、とか妄想する。現状を入り口として、もっと深い話にたどりつくんだろうという予感があります。

 このとき演劇は現象学と繋がると予測しています。僕が、否定を経てエートス≒倫理と観客にいたったのは、九鬼とアーレントを、ハイデガーを経由して、つまり、この3人を現象学者としてみることで出会わせることができたからです。だから、今は、現象学の知見と、劇作の方法論が交差した創造を行う必要があると考えています。たとえば、相互鑑賞者と、観客の違いは何か、相互鑑賞者の中で育成されるエートスとは何か、をより解像度をあげて考える事ができるようになるのが、現象学への期待ですね。

 それで、演劇の形式化は成果といえるものになり、演劇は決定的に現代演劇になるんだろうな、と。現状は、スタニスラフスキー・システムを使って現代風な動きを産みだしていることが多いですが、全面的に繋げることが出来るようになるんじゃないかと思っています。

 同じような問いを立てている人―おそらく大勢いるはずですし、増えていくでしょう―と仕事ができればいいな、と思う。そんな未来のために、しばらくは、その集団にしかないエートス≒倫理をもつ集団を作り、観客に立ち会わせることを劇作と呼ぶ事になるでしょう。

 劇作家を名乗るのは、だから僕には当然ですが、芸術の一形式として考える必要があるかどうかには答える必要がありますね。それは例えば『人間の条件』の実践を、わざわざ上演と呼ぶのはなぜかという問いだと思います。

 アーレントは公共をテーブルに例えています。テーブルは、人と人との間に入って、体がぶつかり合って争うのを防ぎますが、同時に人を集めます。コミュニティが甘えたり渋くなったりして、腐ったり炎上したりしないようにする道具としてテーブルと言っているのでとてもよい比喩です。でも、ここでもうひとつ重要なのは、公共はテーブルの距離でのコミュニケーションだと言っている、ということですよ。

 テーブル越しの距離だと、今日体調が悪いな、とかこちらに気を遣っているな、ということを考えざるを得ない。僕はいろんな現場を見てきたけれども、テーブルくらいの距離で他者を考えないような関係は確かに破綻します。そこには、繊細さと、表現とかコミュニケーションの技術と、美意識が不可欠です。最初に段田安則さんの超能力みたいなものを紹介したけれど、あれは政治家には必要な能力だし、そんな政治家いいでしょう、きっと。

 でも、政治家に影響を与える例を示したり、政治の方法を実験したりするのは、芸術ですよ。20代からずっと言っていますが、美術や音楽の適応範囲の拡大が、デザインとかサウンドスケープを生み出したように、演劇の拡大こそ、これから必要ですよ。ほぼ毎月やっている演出家の羽鳥嘉郎くんとの共同企画『世界の演出』シリーズでは、演出というコトバを軸に演劇の適応範囲を具体的に拡大して行きます。

▼『世界の演出』>>

岸井:外部を感じながら、ひとりひとりに目を向け、抽象的な話も分かり、現場でもやれ、利益を目的としない、のは、訓練をうけた演劇人にしかできないと思う。
 だから、劇作家は今、どこにいるべきかと言うと、テーブルに座っているべきだと思います。関係を試すために、現場で対話をしなければならない。演劇の未来はそこで創造されると思います。

 このインタビューを読んで、僕と実際に話をしてみたいと思う人がいたら大歓迎、どうぞいつでもメールください。そのために僕はいるわけですから。(E-mail: kishiidaisuke@gmail.com)
(4月13日、東京・池袋のみらい館大明にて)

▽前編―これは演劇じゃないな、掃除だな、と思ったんですよ >>

【略歴】
岸井大輔(きしい・だいすけ)
劇作家。1970年11月生まれ。早稲田大学大一文学部卒。他ジャンルで追求された創作方法による形式化が演劇でも可能かを問う作品を制作している。詳しくはワンダーランド・インタビュー「ぼくの仕事は、集団の取り扱いと形式化です」(>>)参照。代表作『P』『potalive』『文』『東京の条件』。2013年、上演を『人間集団を美的に捉えそれに立ち会うこと』と定義した。


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