範宙遊泳「さよなら日本 瞑想のまま眠りたい」

◎喪失がもたらした転回
 落 雅季子

「さよなら日本」公演チラシ
「さよなら日本」公演チラシ

 これは「喪失」を描いた物語なのだと、観ている途中でわかった。舞台上には、かつて私が誰かを失ったときの情景があり、これから失うものがあるとすればこうだという予言があり、ではいったい現在地では何を所有しており、何を確かだと思って暮らしているのか、という問いがあった。息をするのも忘れるほど見入っていたが、同時に、どうしようもなく怖い、という感覚におそわれた。水が欲しいと思ったときには、すでに身体の水分は枯れていると聞いたことがある。深層心理の認識はいつも遅れるので、自分では渇いていることに気づいていなくとも、思いもかけない水流を前に、久しく覚えがないほど惹きつけられたのかもしれない。どうしてこんなに怖いと思うのか、それなのにどうして惹かれたのか、考えているうちに二度も観に行ってしまった。

 一度目は、観終わってしばらく足に力が入らず、立ち上がれなかった。そもそも始まりからしてふしぎに不穏であった。壁に、何かが何かに向かって愛を語りかけているような内容の文字が投影されていきなり始まる。主体も客体も不明のままの独白を読む息の詰まるような時間が少し続いて、私は作品の不条理な世界に取り込まれた。

 登場人物たちは、皆何かを喪失する。あいちゃんという女性は「あ」という音が発話できなくなり、彼女の夫はマンションの階段の途中で異界に迷いこむ。酒に酔って浮気を繰り返すマリ、ナンパされてあっさり処女を失うマリの親友。彼らの身に起きた出来事に解が与えられることは最後までない。そして彼/彼女らが作品中で喪失したものの気配によって、得体の知れない不安が徐々に、しかしありありと、私の中に醸成されていった。

 その不安の正体を、うまく説明するのは難しい。むしろ今回の『さよなら日本』は、明るく軽快な、身体が自然に揺れるような原初的快楽を伴う作品だった。全編を通して使われた映像はSTスポットの白い壁によく映えていたし、音楽もかっこよく、俳優は皆身体を使いこなし、作品自体の完成度は目をみはるべきものがあった。しかしその心地よさに身を委ねていると、それと紙一重の本能的な怖さが襲ってきて、その均衡を崩そうとするのだ。

 浮気をして朝帰りするマリが、街の影絵を背景に歌うシーンがある。それはゆたかで美しいエネルギーに満ちた歌だった。だが、歌い終えた彼女が家へ帰ろうとしたところで、彼女は唐突に呪いにかかり、白くて硬い椅子になってしまった。作品に通底していた不安が具現化する直前、彼女は音楽の叙情性でそれに対抗したように見えたが、変身という決定的な喪失には勝てなかった。そこには容赦のかけらもなかった。けれどマリは、どこかで椅子になってしまいたかったのかもしれず、私には、彼女が自分の心でその場所に引き寄せられてしまったようにも思える。

「さよなら日本」公演から
【写真は「さよなら日本」公演から。撮影= amemiya yukitaka 提供=範宙遊泳 禁無断転載】

 映像と音楽の織りなす本能的な心地よさに隠れて忍び寄る不安は、たとえば人生のうちの、「生きる」という言葉よりも「暮らす」とか「生活する」という言葉が負っている部分を脅かすように思われた。概念や信念よりもっと肌身に近いところ、今の自分が日々の暮らしの中で“幸せだと思い込んでいる何か”に対して、誰かが耳元で「それ、本当?」とささやくような気がするのだ。登場人物たちの「喪失」を眺めているうちに私は、“幸せだと思い込んでいる何か”を、自分がいっそ失いたがっているのではないかという気さえした。それに耳を貸しては危ないと警告するのも同じく私の本能で、本能同士のせめぎ合いがしばらく続いたのだが、結局は心地よさの方に負けて手繰られた。不安なものは、同時にたまらなく魅力的でもあるからだ。
 
 どうやらこの作品は、私の欲しいこれ、だけでなく、あなたの欲しいあれ、も明らかにしてしまう、薄い膜のようなのである。見えないけれどそこにある不安(もっと衝撃的な言葉を使うなら、破滅願望とも言ってよい)に張りついて、その形を知らしめる可能性を持つ。理解を拒絶する不条理な展開の数々は、それだけでは像を結ばないので、受け手が自分の胸の奥に秘めた問題をもとに意味付けをおこなうよう、仕向けられる。

 そうすることで詳らかにされてしまった不安を感じながら、私は終演後のロビーにしゃがみ、顔を覆って戦慄した。自分が本当に欲しかったものが、今わかってしまった、と思った。でもそれが何かなんて言えない。私がここまで言葉を尽くして書いた怖さは、それを言ってしまったら損なわれる何か、「喪失」してしまう何かの怖さであると言うにとどめる。誰だって少しずつ、そういう願望や抑圧を隠しているに違いないという確信もある。喪失のモチーフは手で触れそうなほどに色濃く残り、その夜、幾度もフラッシュバックした。

 というわけで、溺れないように用心しながらも二度目の観劇をした。あの夜に感じたものとはいったい、と考えて歩いているうちに吸い寄せられ、横浜・STスポットに着いてしまったという感じだ。チケットは計画を立てて予約したし、横浜は私の家から大変遠いのだが、まあイメージとしてそんなところである。作品は評判を呼んでおり、初回に観たときよりも格段に観客が増えていた。桟敷に増席がなされていたのを見て、もしかして私と同じように、妙なものに魅入られて再訪した人もいるのではないかと思った。

 一つの作品を二度、まったく飽きずに没入して観たのは初めてだった。たとえばかじった果物の果汁があごから首すじに伝うときの瑞々しさや、ひそやかな欲望を持って背中をなぞる男の指先。もともと観劇は、そういった身体的な興奮とどこかでつながっているものだが、何度味わっても変わらない魅力で観る者を吸引し、五感の境界を取り去ってのめり込ませるような観劇体験にまれに出会うことがある。五感を分断しない一体感のすばらしさは、今作では、その映像の使い方に象徴的であるように思われる。

 上演中はほぼずっと、俳優たちのふるまいを補完するように、文字を含んだ映像が投影されている。外国の舞台作品に日本語字幕がついたものを観るときは「基本的に字幕を追ってときどき俳優を観る」か「俳優だけに注視して字幕はあきらめる」という二択になりがちだ。しかし範宙遊泳の作品では、字幕は作品の補助的なものではなく、主体的な構成要素になっている。その上で、俳優も字幕も映像も、埋もれることなくすべて同列に観ることができたというのは、非常に意義深い。

 壁に映されていたのは、映像での「背景」と、文字を使った「字幕」との二種類。さらに「字幕」の中でも、視覚的効果を狙って記号のように使う場合と、ここにいない人物の台詞を表示し、俳優と会話しているように見せる場合の二つの用途があって、俳優たちは、身体の外側にいくつもの要素?字幕・音響・照明による自身の影など?をまとって動くことになる。映像と共演する身体は不自由で、そこから逸脱はできない。その不自由さにより、舞台上には、極まってなだれ込む直前のような緊張感が常に保たれ、それに裏打ちされて、作品全体がある種のなまめかしさを湛えていた。そこに俗情にまみれたいやらしさはまったくない。俳優の身体の外側にある諸要素が、いずれも洗練されているからだ。カラフルな色使いの映像とポップなゴシック体の文字、そして音楽。存在を互いに増幅しあいながら、それらは大変決まっていた。

 印象的な場面はいくつもあったが、大橋一輝演じる、マリの恋人かっちゃんが撮った自己紹介動画の再生シーンに特に惹かれた。彼には役柄の状況や行動を一人称で説明する独白の長台詞がなく、周囲の人と行動を共にしたり、話しかけたりすることで役柄の輪郭が形づくられていた。彼の心情を補足するような文字は投影されず、かわりになるのが彼の自己紹介である。

「さよなら日本」公演から
【写真は「さよなら日本」公演から。撮影= amemiya yukitaka 提供=範宙遊泳 禁無断転載】

 動画の中で、かっちゃんは「物事の“本質”は置いていかれてしまっている」「“表面”はそれを知らんぷりしている」と繰り返して語る。初めは静かに自己紹介をしていた彼は、次第に熱っぽく、手のひらだけがばさばさと痙攣するような常軌を逸したしゃべり方になっていった。彼のスピーチに則るなら『さよなら日本』という作品タイトルは、本質を内包した表面という二重構造を失い、両者が乖離したことにも気づかない現代の空虚さをあらわす。

 つまりかっちゃんだけは、あらかじめ何かが(彼の言うところの“本質”が)失われていることを知っていた。彼はこれから自分にふりかかる喪失の予感を初めから持っており、それをほのめかす特別な役割が与えられていたのである。だが「喪失」を描くこの作品には、それに対応するはずの「救済」がない。戻ってくるということは、元通りに修復されるということとは違う。あのラストシーンで、驚いて口をあけたあいちゃんの顔はとても悲しそうに怯えていて、たとえ夫が戻ってきたとしても彼女は二度と救われないのではないかと思われた。なぜなら、彼女はそれを一度は失ってしまったからだ。

 これまで拠り所にしていた概念を喪失したあとには、価値観の転回が生まれる。たとえばこの世に存在しなかったころと比べて、戦い方や政治のあり方を一変させてしまう武器が、世界には何度か登場してきた。世界の見方が変わってしまうということについて言えば、どんな個人にもそのような作品との出会いはあるし、そういった作品は長い演劇の歴史にとっても少なからず意味を持つことになるだろう。この作品を観ることは、私にとってそういう武器の登場が与えた衝撃に等しく、細胞が生まれ変わるような体験だった。

 救われない登場人物たちを見つめながら私は、いくつかの問題は、解決されずに一生ここにあり続けることを覚悟した。そうなったからには、もう以前と同じ自分ではいられず、あの夜に知ってしまった怖さを抱えてこれから暮らしていかなければならない。そう思うと心の底から途方に暮れるし、眩暈がする。だが、それを知らなかった人生に戻りたいかと聞かれても、うなずくことはできない。幸せかそうでないかという尺度とは関係なく、それが、知らないより知っているほうが怖くて苦しくても、豊かなものを教える演劇に出会ってしまうということなのだ。

【筆者略歴】
 落 雅季子(おち・まきこ)
 1983年生まれ東京育ち。会社員。2009年、横浜STスポット主催のワークショップ参加を機に劇評を書き始める。主な活動にワークショップ有志のレビュー雑誌”SHINPEN”発行、F/T2012BlogCamp参加、藤原ちから氏のパーソナルメディアBricolaQでの”マンスリー ブリコメンド”執筆など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ochi-makiko/

【上演記録】
範宙遊泳「さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-」
STスポット(2013年5月4日‐15日)

作・演出/山本卓卓
出演/大橋一輝 熊川ふみ 埜本幸良 田中美希恵 永島敬三(柿喰う客) 中林舞 名児耶ゆり

音響/高橋真衣
照明/山内祐太
舞台監督/櫻井健太郎
美術製作/中村友美
美術監督・チラシデザイン/たかくらかずき
制作助手/柿木初美(劇団はへっ)
制作/坂本もも

協力/柿喰う客 ロロ CoRich舞台芸術!
提携/STスポット
主催/範宙遊泳

料金
【一般】予約:2500円/当日:3000円
【学生】予約:2000円/当日:2500円(要学生証提示)
【高校生以下】1000円(一律・要学生証提示)
【ペア割引】4400円(一般2名予約限定)
【リピーター割引】1500円(要チケット提示)


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