はえぎわ「ガラパコスパコス~進化してんのかしてないのか~」

◎男と女の「典型」を描き出す
 堀切克洋

公演チラシ
公演チラシ

 劇団はえぎわを主宰するノゾエ征爾は、今年2月に『○○トアル風景』で第56回岸田國士戯曲賞を受賞している。ノゾエを含めた三名に対する同時授賞は、審査員のひとりである野田秀樹の言葉を借りれば、「選考会の混迷ぶり」を示すものでもあった。が、同時に野田は、ノゾエが「去年、受賞するべき作家だった」から「ノゾエ氏の受賞そのものには異論はない」とも述べている。

 審査員たちの意見の相違についてはひとまず措くとしても、ノゾエの創作活動にとって転機となった『ガラパコスパコス~進化してんのかしてないのか~』(2010年初演、以下『ガラパコス』)が、主人公の若者・木村太郎役に「ままごと」主宰の柴幸男を迎えて再演されたのは、まさしく時宜に叶ったものであったことだろう(三鷹市芸術文化センター・星のホール、2013年6月7日-6月13日)。

チョークと、チョークで描く壁があればできる演劇

 『○○トアル風景』の冒頭には、このような言葉が書かれている。「チョークと、チョークで描く壁があればできる演劇」。そして、ノゾエが初めて「チョーク演劇」をつくろうとしたのが、『ガラパコス』だったのである。

 『ガラパコス』という作品制作の背景には、ノゾエが2010年の春に世田谷パブリックシアターから高齢者施設内を巡回する演劇公演の制作を依頼されたということがある(*1)。ノゾエは当初、認知症の入居者など、感情や反応が薄い「観客」を目の当たりにして、自分のつくる演劇が本当に届くのかどうか、かなりの戸惑いがあったという。

 しかし、「やがて少しずつですけど、自分が思ってもみないところで“届き始めている実感”を感じるようになってきて、ご利用者の皆さんの表情がみるみる変わっていって、それまでほんと無表情だった方が泣いたり笑ったり、こちらが歌を唄うと、知っている歌だと一緒に唄ってくださったりして」(*2)。

 『ガラパコス』のなかで歌や踊りやパントマイムが多用されているのには、こうした理由がある。この作品の舞台は、床と三方の壁がすべて黒板仕様になっていて、登場人物たちは、時折パントマイムを交えながら、床や壁にチョークで状況や台詞の一部を書きつけていくことができるようになっている。マイムを交えた役者のコミカルな演技が、観客の(爆笑ではなく)微笑を誘うのである。

「匿う」というドラマトゥルギー

 『ガラパコス』は、特別養護老人ホームから脱走した老婆を、ひとりの若者が「匿う」物語である。

 「匿う」というドラマは、物語の代表的な話型のひとつである。虐殺の対象者を匿う物語(『シンドラーのリスト』や『ホテル・ルワンダ』)、犯罪者を匿う物語(『リラの門』や『悪人』)、不法移民を匿う物語(『ル・アーヴルの靴みがき』)など、例を挙げれば枚挙に暇がないが、これらは大抵の場合において、匿う者と匿われる者のあいだには解消しがたい地位の差が存在している。

 平たく言えば、何らかの不合理な理由で罪を問われている人物を匿うとき、それを匿う人物は「平凡な日常」を生きている「普通の人間」であることが多い。それは私たちが「匿う」という行為に共感するための隠れた劇的装置でもあるわけである。

 しかしながら、本作における主人公の若者は、けっして「平凡な日常」を送れているわけではない。主人公の木村太郎は、派遣のアルバイトでピエロの仕事をしている青年だが、彼は人の目を見て話すことができない、誰かにみずからの状況を説明できないなど、対人関係に大きな苦手意識をもっている。

 そんな太郎が、まったく偶然の出会いから、近所を徘徊していた認知症の老人まち子(井内ミワク)と共同生活をはじめてしまうのである。

「ピエロ」が「老婆」を匿う理由

 対人関係が苦手とはいえ、派遣の仕事で何とか生計を立てられていた太郎だが、まち子を匿うようになってからは、けっして裕福とは言えない蓄えのなかから、老人用おむつや介護用ベッドを購入してまち子に快適な生活をしてもらおうと必死の努力をするようになっていく。

「ガラパコスパコス」公演から
【写真は「ガラパコスパコス」公演から。撮影=梅澤美幸  提供=はえぎわ 禁無断転載】

 当初、そうした生活の変化を太郎の兄の晴郎(ノゾエ征爾)は恋人ができたと勘違いしていたが、それが捜索願が出ている老人であることを知ると、犯罪者と思われないうちに老婆を解放するように説得する。だが、兄の説得も受け入れない太郎は、頑なにまち子との生活を続けようとしてきかない。

 太郎はやがて職場放棄して、知人に借金をしてまで、まち子との生活を維持しようとするようになる。しかし、まち子の認知症は進み、留守のあいだにまち子は部屋をめちゃくちゃにしたうえ、自分の排泄物を食べるという凄惨な状況になっていく。開演当初はまっさらだった床と壁には、さまざまな文字や絵が満ち溢れ、いまやカオティックな状態になっている。

 こうした展開を見ていると、ひとつの疑問が脳裏から離れることがない。それは、なぜ太郎がここまでしてまち子の面倒を見ようとするのか、ということだ。肉親でもない、赤の他人であるはずの老婆を、なぜ太郎は匿って養おうとするのか。

 たとえば、兄の晴郎が妻の静香(たにぐちいくこ)と一緒に太郎のアパートにやってきたとき、こんなやり取りがなされている。

晴郎 たとえばな、俺らの母親がさ、ボケちゃって色々と分からない状態になっててさ、何も分からずに他の人の家で暮らしてたらどう思う?
太郎 それが幸せならそっちの方がいいじゃん。
晴郎 えーマジで? 俺いやだよ、母さんが他の人と暮してたら。
太郎 でも記憶なかったらしょうがないよ。
静香 しょうがないで割り切れることじゃないんだよ?
太郎 何が悲しいって、ちゃんとしてた頃とのギャップで悲しいんでしょ? 俺にとってまっちゃんは、最初からこれがまっちゃんだもん。

 兄はゆっくりと諭すようにして太郎を説得しようとするのだが、太郎はあっけらかんとした顔でこのように答えるのである。つまり、まち子の記憶がない以上、老人ホームで暮らすよりも自分と暮らしていたほうが「幸せ」であろうし、自分にとってもまた「幸せ」であると太郎は考えているのだ。

 太郎にとってのまち子は「少し手のかかるペット」のようにも見えるが、あくまで「仕事」として介護をしている老人ホームの職員たちとはちがって――作品前半では、老人ホームスタッフの青年(滝寛式)が、入居している老人たちは「同じ人間とは思えない」と吐露する――、そこにはいくばくかの「愛」があるようにも見受けられる。「何も言わず一緒にいてくれる」、それが太郎にとっての「幸せ」なのだ。

 『○○トアル風景』を読んでみると、太郎がまち子を「匿う」のと同じような関係性が、描きこまれていることに気づく。

 全体としては、男女関係における齟齬を断章的に描いた作品だが、本作には重要なモティーフとして「穴」という要素が登場する(本作に批判的であった野田秀樹は、冒頭で触れた岸田戯曲賞の選評において、この「穴」のイメージが「余りにもそんざいに扱われているし、ありきたりである」と述べている)。この「穴」のなかに住んでいる男は、「女」として初めて落ちてきた人間の腕をつかんで放そうとしない。

女 一つ聞いていいですか。
 穴の底の男 はい。
女 このまま、放さないで、私をどうするつもりなんですか?
             (中略)
 穴の底の男 どうもしません。一緒にいるだけです。
女 はい?
 穴の底の男 あなたと一緒にいれる。それだけです。
女 私が誰かもわからないのに?
 穴の底の男 あなたは、本当の孤独というものを知らないんですね。
                (『○○トアル風景』、白水社、91-92頁)

 この場面と重ね合わせてみると、ノゾエによって重要なモティーフは「穴」という文学で使い古されてきた要素よりもむしろ、「誰かもわからないのに、一緒にいる」という人間関係の状態のほうであるように思えてくる。

 ここで描かれている「穴の中の男」も会社勤めをしていた頃に「変態」と非難され、トラウマを抱えている人物であり、女性に対して恐怖を抱きながらも、女性に対して「無償の愛」という救済を求めているのだ。それは、『ガラパコス』における太郎についても、同じことが言えるだろう。

現代の「典型」を散りばめる

 『ガラパコス』は、ピエロの太郎を中心としながらも、何人かの登場人物を周辺的なエピソードのなかに配置している。

 たとえば、太郎の兄の晴郎は、妻の静香とうまくいっていないことが示唆されている。妻は晴郎の友人の耕介(新名基浩)を誘惑するが、彼もまた唇が触れた程度で逃げ出し、そのうえ晴郎に一生をかけて償うというほどの騒ぎようだ。また、太郎の中学時代の教師(山口航太)が(太郎のクラスメイトであった)元教え子(鈴真紀史)と結婚して近くに住んでいる。妻は妊娠しているが、実は想像妊娠であるらしく、教師はみずからが「無精子症」であることを告げられずにいる。

 こうしたユニークな登場人物たちの背後にいったい何があったのかは、ほとんど作品中では語られていない。相互に密接な関連性が隠されているというわけではなく、あくまで現代の典型的なドラマ(不仲の夫婦、好色な妻、子供のできない夫婦……)が断片的に描写されているにすぎない。

 このような筆致は逆に、『○○トアル風景』についてもまったく同じことが言えるだろう。選評における宮沢章夫の言葉を借りるならば、「ノゾエ征爾のせりふは構造の仕組み、そのメカニズムが動き出す運動性のなかから魅力(=笑い)が浮かび上がる」という具合に、典型的な場面(「なんでもないこと」)を構造的に組み立てることで作品の独特なリズムを生み出しているのである。

典型の祝祭性/祝祭の典型性

 もうひとつのノゾエ作品の特徴は、こうして何気なく展開されてきた現代の風景が、作品終盤における音楽の使用によって、(半ば強引な仕方で)クライマックスを迎えるという点である。

 先に述べたように、太郎とまち子の生活は(認知症の進行によって)崩壊寸前のところまできている。ふたりに残されている時間はあと少ししかない。「まっちゃんは何なの? どこへ行くの? 俺は、どこに向かえばいい?」と、小さく身体を丸めて眠っているまち子に、太郎は泣きながら語りかける。

「ガラパコスパコス」公演から
【写真は「ガラパコスパコス」公演から。撮影=梅澤美幸  提供=はえぎわ 禁無断転載】

 まち子は、まるで天啓を受けたかのように、クレンジング・シートを取り出して太郎のメイクを落としはじめる。白塗りの顔に赤い泪を流していた太郎は、健康的な肌色を取り戻し、また太郎の髪はポマード代わりのまち子の唾液で塗固められてととのえられていく。まるで、母親が子供の身だしなみを強制的にととのえるようにして。

 舞台の奥からは、静かにラヴェルの「ボレロ」が聞こえはじめ、残りの登場人物たちがふたりの周りを囲むようにして踊りだす。まるで猿から人間になっていく進化図を模しているかのようにして。そして、「ボレロ」のボリュームが少しずつ上げられていくなかで、素顔になった太郎はピエロの衣裳を脱いで、淡々とスーツに着替えはじめる。

「ガラパコスパコス」公演から
【写真は「ガラパコスパコス」公演から。撮影=梅澤美幸  提供=はえぎわ 禁無断転載】

 太郎の役を演じていた柴幸男は、どこか頼りなく、どこか自信がもてず、どこか陰のある青年を、まるで自分自身と重ねるようにして素朴に演じていたように見えた。演技が上手だったというよりは、役柄とうまくハマっていたと言うべきかもしれない。

 スーツに着替え、ネクタイをしめた太郎は、ほぼ満員状態の通勤バスに乗り込んで、「We Are The World」を乗客と合唱する。こうした終盤における音楽のドラマティックな使用は、やはり『○○トアル風景』のなかにも見つかるが(「You Are My Sunshine」)、いずれも祝祭的な人間讃歌・日常讃歌を印象づけるものである。

「なんとなく」の先にある言葉を

 チェルフィッチュの岡田利規が、「提示される価値観のレベルにおいては[……]コンサバティブなもの」と語ったのは、まさしくこのような点であっただろう。

 しかし、そうした肯定性もまたノゾエの描きだす「典型」なのだ。典型的な現代の男女が「救われる」のもまた「典型」であるという事実。そうでなければ、理性的な議論を闘わせることによって合理的な結論を導くか、あるいはまったくもって予定調和的な「奇跡」の瞬間をひたすら待つほかない。

 『ガラパコス』にせよ、『○○トアル風景』にせよ、けっして登場人物が(近代劇的な意味における)内面の成長を遂げたわけでもなければ、まったく不合理な「奇跡」が起きるという話でもない。ノゾエ戯曲の大団円における祝祭性とは、そのいずれの道も選ばずに、アメリカン・ポップスやバレエ音楽・管弦楽の「グルーヴ感」によって、なんとなく気分が明るくなる、というような意味でのそれなのだ。

 言い換えれば、ノゾエ戯曲は「なんとなく不幸な登場人物が、なんとなくハッピーになる」という(いい意味で)曖昧な物語構造をもっているのであり、そのように考えてみると、観客の情動に訴えかける「音楽」を必要とするのは、当然の成り行きなのだ。そうであればこそ、冒頭に引いた選評のなかで野田秀樹が述べていた疑問――「それは、若い人の閉塞感なのですか?」――に、ノゾエは真摯に答える必要があるのだろう。

 つまり、ノゾエの本領であるところの「なんとなく」感は、「言葉」のもっている力を開拓していこうとする(岩松や野田のような)劇作家にとっては不遜に見えるのである。それはジャンルが違う演劇であって、身体の所作や演出の領分のほうへと自分の関心はあるのだ、とノゾエは言うかもしれないが、戯曲が言葉を必要とする以上(もちろんそれだけではない)、この点に「進化」の根っこが張っているように思われるのだ。


*1 劇評や批評ではなかなか触れられる機会が少ないが、世田谷パブリックシアターは「@スクール公演」と称して、二〇〇三年から区内の小学校向けにオリジナル作品を委嘱制作して巡回公演を行っている(同様に、二〇一二年からは「@ホーム公演」と称して、区内の特別養護老人ホームやデイ・ホームセンターで巡回公演を行っている(ノゾエ征爾作・演出『チャチャチャのチャーリー』)。公共劇場におけるこのような試みは、もっと積極的に評価されてしかるべきだろう。
*2 三鷹市芸術文化振興財団のホームページでのインタビューより >>
 

【筆者略歴】
堀切克洋 (ほりきり・かつひろ)
 1983年福島市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。専攻はフランス語圏舞台芸術・表象文化論。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社)、分担執筆に『北欧の舞台芸術』(三元社)。「翻訳(不)可能な文化をめぐる旅――ジャン=ミシェル・ブリュエール『たった一人の中庭』」にて第17回シアターアーツ大賞受賞。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/horikiri-katsuhiro/

【上演記録】
はえぎわ第26回公演「ガラパコスパコス~進化してんのかしてないのか~」
三鷹市芸術文化センター 星のホール(2013年6月7日-6月16日)

作・演出:ノゾエ征爾
出  演:柴幸男(ままごと)、井内ミワク、町田水城、鈴真紀史、滝寛式、竹口龍茶、踊り子あり、川上友里、鳥島明、山口航太、ノゾエ征爾、金珠代、たにぐちいくこ、新名基浩、笠木泉
舞台監督:田中翼
舞台美術:青木祐輔
音 響:井上直裕(atSound)
照 明:葛生英之(日高舞台照明)
衣 装:rei (GRENADINE)
ドラマターク:斎藤拓(青年団)
演出助手:磯崎珠奈 萩野肇 松森モヘー
WEB:植木悟士 高野尚之 斧竜摩
制作/宣伝:山田建太朗 
制作補:山崎徳子 山縣美礼
協 力:エースエージェント、エスアーティスト、krei.inc、吉住モータース、MY Promotion、こまばアゴラ劇場、SPACE POND、アイビスアソシエイツ、ZuQnZ、コムレイド、天辺塔、
企画製作:劇団はえぎわ (公財)三鷹市芸術文化センター
主 催:公益財団法人 三鷹市芸術文化振興財団
料  金:700円-3300円


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