◎時代を切り取る装置に出会う快感
高橋 英之
結局、3回も観てしまった。おそらく、人生で初めてのことだ。再演を観るのではなく、初演の作品を、こんなに何度も観るのは。しかも、わざわざ京都まで追っかけての3回目の観劇のあとも、いまだにこの作品が切り込んできたテーマについて、あれこれと思いを巡らせることになってしまっている。岡崎藝術座『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』の作品の強度は、それほどまでに、衝撃的であった。
突然現れた男が、外の接続を断つかのようにシャッターを閉め、黙々と動作を始める。それは、スポーツの練習のようであり、単純な繰り返し作業の仕事のようであり、難行苦行の修行のようでもあった。男の表情は、苦しいというよりは、次第に怒りをにじませる。そして、なめらかな活舌に、奇妙な言葉を乗せてゆく。
「自分は自立の照葉樹林の畑に大きな赤い血塗られたまんまるの旗を立てよう。それでもう怖いものなどないから、言葉のしゃべれないラーメン屋の親父から奪った圧力鍋に仕掛けを施し、マラソン大会で傷ついた無知なピーポーへあいさつ回りをする決意を固める」
寓意があふれているというよりは、明らか過ぎる意図的な指し示しだらけだ。<照葉樹林>という言葉は、京都学派の上山春平がかつて照葉樹林文化と呼んだ日本文化のひとつの象徴であるし、<赤い血塗られたまんまるの旗>とは日の丸以外のなにものでもないだろう。<圧力鍋>と<マラソン大会>といえば、今年の春に米国ボストンで起こったホームグロウンテロを想起させる。そうした、怒りの妄想の言葉が、次々と繰り出される。やがて、もう一人の男が登場し、また同じような怒りの妄想を投げかけて来る。そして、もう一人。舞台に ― といっても、北品川での上演はまるで普通の下町商店街の古い家屋の1階で行われており、登場人物たちがセリフを吐いているのは、観客と同じ高さのフロアに過ぎないのだが、― 登場した3人の男は、口ぐちに殺意をほのめかす。
「人を殺したいほど憎むということを初めて実戦し、現実に置き換えるとこんな感じになると思っている」
「あの人を殺したいと思う気持ちを赤ん坊のように大事に抱えている。赤ん坊がやがて育つとき、自分も成長を感じられるだろう」
「そのためにいましなければいけないことを、石の上に座って、死んでいった同志たちに黙祷を捧げながら、粛々と遂行しよう。それが虐殺と呼ばれてしまっても、大事なのはこの胸の中にあるから、不安に感じることはない。そう、感じることはない」
男たちの言葉の中には、怒りの対象となるような指し示しがばらまかれているのだけれども、どれも独白で、セリフとしての交換がない。
北品川のフリースペース楽間で、初めてこの作品を観た冒頭、登場人物たちは、長いセリフの独白を繰り返すばかりで、まるで詩の朗読会に来てしまったのかと感じた。やがて、2人の女たちがあらわれ、登場人物5人が列をなして舞台を廻り始める。緊急事態を告げるサイレンの中、非常用のサーチライトを先頭にして。なにか異常なるできごとが起こり、5人がある物語に回収されていく。それは、小学生の幼女が誘拐され、長年監禁されてしまうという事件。誘拐された幼女は登場しない。幼女の友人だった女と、その女の友人。男のうち2人は、誘拐犯とかつて同級生だった。そうすると、残る1人の男が、誘拐犯であるかのように思われ、実際、舞台の上でもその男は、終始煩悶するかのような動作を一人で黙々と続けて、そのことを示唆はしているのだが、明示はされない。
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女2人は、親友と呼ばれながら、実のところ片方の女からは少し嫌われる関係にあった。男2人も親しげに話をしているシーンが、いつのまにか、殴り合いのシーンに移り替る。そして、上半身を裸にされ、下半身も半分裸にされた男が、突然、テニスをし始める女2人の間に転がされ、その間で尻を見せながら翻弄される。
ここまで観て、アングラの復活か?…と思った。もっとも、自分は、アングラが全盛期であった60年代の状況は知らないし、その代表的な演劇人とされる寺山修司・唐十郎・鈴木忠志・佐藤信などの演劇にも過去のDVD映像でしか出会ったことはない。しかし、あふれだす過剰な言葉、役者の肉体がからほとばしる無意味とも思える汗、それらが交錯する劇場ならぬ上演場所…と、神里雄大が今回繰り出した手法は、まぎれもなくアングラを彷彿させるものであった。しかし、なぜ、いま、アングラの手法なのだろう。
最初に観劇した後に、すぐにそのような疑問がわいてきたわけではなかった。実は、北品川の上演場所から、品川駅まで歩きながら、完全にたたきのめされていた。それは、誘拐されたかつての友人への思いを語る、とても長い独白を、全身で観客に向かってぶつけて来た稲継美保が演じるラストシーンだった。何を言っているのか、よく分からない。セリフのひとつひとつは、まるで意味をなしていない。ところが、稲継が繰り出す言葉の流れが、ひとつの世界を作り上げていたのだ。なんとも、名状しがたい、独特の雰囲気を、圧倒的な強度で投げ込んできた。これに、やられた。噂に聞いていたアングラの<特権的肉体>に、突然、出会ってしまったかのようだった。
山手線に乗って、そのラストシーンを思い出しながら、販売されていた台本を買うのを忘れたことに気付いた。観劇後のあまりの衝撃に、そのようなことをすっかり忘れてしまっていた。そして、翌日、台本を買うという口実のために、もう一度北品川に足を向け、結局、もう一度観ることにした。
男が3人、順番に舞台に上がり、長い怒りのセリフを繰り出す。女2人の親友が、実はいがみ合っており、仲のよさそうな男同士の友人が殴り合いを始める。エルキュール・ポワロとへースティング大尉がでてきて、この作品がアガサ・クリスティの『ブラックコーヒー』から着想されていることに、いまさらながら気付いて、舞台右奥で黙々とライトに向かって前かがみの歩行の動作を繰り返す奇妙な男が、どうにも誘拐犯に育てられていくように見える。
そして、やってきた、稲継美保のラストシーン。かつての友人、誘拐され監禁されていた友への思いを語るシーン。言葉の端々に、ひっかかりを感じる。それは、何かのリフレインのようであった。どこかで聞いたセリフ。そういえば、最初に衝撃を受けたときも、そんな感じがしたのだけれども、2回目は、ハッキリとその稲継が発する言葉の束の中に、神里雄大が作品の前半に潜ませてきた言葉が、散りばめられていることを感じる。言葉が交響している。アングラの言葉の奔流ではなく、むしろ序曲として提示されたテーマが、再び大団円に帰って来るような計算された作曲のような感じにも思えた。ただ、それでも、観劇中にはそれが正確にどういうセリフの間の交響であったのかは、分からなかった。観劇後、今回は少し冷静になって、台本を買い、帰りの電車の中で読み始めた。
稲垣美保演じる女の、この作品の最後のシーンのセリフは、前半に男たちが垂れ流していた怒りの妄想の言葉と、見事に交響していた。
男1「その肝臓の裏にすくう無数の蜂が、<丁寧な仕事>で呼び鈴を押すと、メインディッシュが殺されて運ばれ、自分の口元に押しつけてくるので、舌の長くなりすぎた自分の口は、速やかに脳へと指令を送り、伝書鳩がやってきてOKだと言う」
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女「揺るがないユートピアの影を追いかけて、異物はひとつひとつ、漆を塗った<丁寧な仕事>の箸でつまみだし、無菌状態の真空で生きるすべを手に入れる」
ここで交響している<丁寧な仕事>という言葉には、ある種のプライドともにトゲが感じられる。スムーズさを誇りながらも、飼いならされた環境での仕事であることを感じてしまうというようなアイロニカルな雰囲気が漂う。
男2「綱に止まろうとする蠅どもを、この土地から追い出して、<紅白の運動会>を復活させよう」
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女「舗装された大通りを行く人力車に乗って、あるいは緻密に張り巡らされた電車に乗って、千羽鶴でつないだ、縄文時代から脈々と続く<紅白の綱>を一緒に引こう」
あなたとわたしをつなぐ綱を仮構する。そこに、共通の思い出や、学ばされてきた歴史の意味を付与する。怒りの、苦悩の、そのやり場を束ねていこうとする。
男3「すべての人種を広場に集めたら、君はその前で<演説>をしなければいけない。両手を挙げて、喉を絞り、グレープジュースを配布し、彼らの機嫌をとらねばならない。自分はもううんざりだ」
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女「白い夏。旗、<演説>、殺意」
稲継美保の<演説>は、殺意を感じるのに十分であった。友人へのメッセージであったハズなのに。優しい言葉をかけようとしたハズだったのに。その言葉の最後に溢れるのは、「ヘイト!」と繰り返されるセリフ。台本では、「塀と」と記載されているのだし、作品の途中には「塀」という言葉が何度も登場してきてはいたのだけれども、観劇しているときには、英語の「hate(=憎悪)」としか聞こえなかった。
翌週、偶然、関西での出張があったこともあり、足を伸ばして、京都・KAIKAで3回目の観劇をしてみることにした。新幹線で移動する途中、ようやく思い出して、アガサ・クリスティの『ブラックコーヒー』を読んでみた。ストーリーは、今回の岡崎藝術座の作品には全く関係なかったのだけれども、2つ気付いたことがあった。ひとつは、神里雄大がヘイスティング大尉のセリフとして言わせていることなのだけれども、名探偵エルキュール・ポワロは、友人の死に直面して、いやに冷静すぎるではないかということ。
「クロードさんはお前の友人じゃないのかってね。友人が殺されたのに、自分はずいぶん涼しい顔してるじゃないかって」
いまひとつは、「ヘイト」がミスリーディング(誤誘導)される理由。ミステリーのネタバレになってしまうので、詳しくは述べられないのだけれども、アガサ・クリスティは、イギリスを舞台にした『ブラックコーヒー』の中で、巧みに「イタリア」に対する偏見を活用している。ミスリーディングは、ミステリーの定石なのだけれども、1929年に書かれたこの作品では、人種に対する偏見が、いわば「ヘイト」が、屈託なく使われてしまっている。まるで、そのような「ヘイト」が存在することが普遍的な事実であるかのように。
神里雄大がクリスティを実際にどのように読んだのかは分からないのだけれども、京都での観劇では、クリスティと神里の『ブラックコーヒー』が、「ヘイト」というキーワードの中で溶けてゆく不思議な感覚を味わせてもらった。強烈な作品に出会うと、その波動は、作品の外に向かってどんどんと自分の中で振動を繰り広げる。そして、つい最近遭遇した全く別の論考とも、共振し始めている。それは、なぜ、今回の作品では、後半、性欲の話に溢れているのだろうということ。
「1921年11月4日、午後7時25分。現在の丸の内南口で一人の男性が刺された。倒れ込んだのは原敬。当時の首相だった。原はすぐに駅長室に運び込まれたが、既に息はなかった。原首相を刺殺したのは18歳の中岡艮一。大塚駅の転轍手を務めていた」(『ちくま』2013年8月号所収/中島岳志「連鎖するテロと中岡艮一」より)
第一次世界大戦下の好景気が喧伝される中、実際には、格差社会が拡大し、庶民が貧しかった当時、悩み怒れる若者は、首相を刺殺したのだった。しかも、この年には、安田財閥に対する憤怒から、朝日平吾による安田善次郎刺殺事件も起こっている。
ひるがえってみて、岡崎藝術座『ブラックコーヒー』に登場する者たちの悩みや怒りは、政治的なテーマをにおわせ、壮大なる<殺意>をほのめかしながらも、結局のところ<性欲>に着地してしまっている。ここに、神里雄大という時代を切り取る装置の真骨頂がある。現代の苦悩は、首相やビジネスのトップには向かわない、向かえないのである。作品の冒頭に、ふつふつと述べられた煩悶と決意は、緊急事態のサイレンの中、団結したかに見えたところで、溶けるように解体されてゆき、個人の欲望の中に向かう。なかんずく、性欲の中に向かってしまう。それは、2009年に起きた殺戮事件の矛先が、首相官邸ではなくて、メイド喫茶あふれる秋葉原であったこととも符合するかもしれない。
神里は、そのような苦悩と怒りの矛先の溶解に対して、答えを与えてくれるわけではない。「ヘイト」という感情が生まれくることをポーンと舞台において、股間を盛り上げた男が、「また来いよ」と誘いかける謎のセリフで作品を閉じてしまう。名づけることが困難な悩み、どうしようもなく生まれてくる「ヘイト」、むける矛先のない怒りを、名状しがたいままのものとして提示する。そのための、手法としてのアングラ。そして、最後は、解決を与えないミステリー。それは、小さな半径のできごとを、<丁寧な仕事>で表現するような、いま東京あたりにあふれている演劇とは全く異なるのだ。少し苦いが、本格派。まさに、甘ったるい缶コーヒーなど飲めない人のための、ブラックコーヒー。
「また来る」しかない。神里雄大率いる岡崎藝術座が、この時代を切り取る高性能の装置として開花してしまった以上、またしてもその作品に足を運び、衝撃を受け、外に広がる波動をさらに他の作品や論考にまで共振させる。そのためには、「また来る」しかないだろう。(5,405字)
【観劇日】
2013年6月21日19:30 / 2013年6月22日18:00 (@北品川フリースペース楽間)
2013年6月29日14:00(@京都KAIKA)
【筆者略歴】
高橋英之(たかはし・ひでゆき)
京都府出身。ビジネスパーソン。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takahashi-hideyuki/
【上演記録】
岡崎藝術座「(飲めない人のための)ブラックコーヒー」
東京公演 北品川フリースペース楽間(2013年6月14日-6月23日)
京都公演 KAIKA(6月28日-6月30日)
作・演出:神里雄大
出 演:鷲尾英彰 稲継美保 小野正彦 藤井咲有里 大村わたる(柿喰う客)
舞台監督:寅川英司+鴉屋
照 明:黒尾芳昭
音 響:高橋真衣
映像撮影:ワタナベカズキ
写真撮影:富貴塚悠太
制 作:岡崎藝術座、野村政之
制作協力:服部悦子、本郷麻衣、古殿万利子、上松宣彦、岩田ゆう子
協 力:マッシュマニア、株式会社キューブ、柿喰う客、東京デスロック、PLATEAU、シバイエンジン
助 成:公益財団法人セゾン文化財団、芸術文化振興基金
共 催:NPO法人フリンジシアタープロジェクト(京都公演)
企画製作・主催:岡崎藝術座
チケット代:2000円-3300円 すべての回で18歳以下観劇無料
熊本公演 早川倉庫(7月12日-7月13日)
鹿児島公演 e-terrace(7月15日)