劇団うりんこ「罪と罰」
庭劇団ペニノ「大きなトランクの中の箱」

◎妄想と寓意—KYOTO EXPERIMENT 2013報告(第2回)
 水牛健太郎

 KYOTO EXPERIMENT 2013は例年同様、正式プログラム以外にフリンジ企画がある。今年のフリンジ企画はワークショップとか批評なども含まれるが、演劇・ダンス等の上演に特化したものとしては「オープンエントリー作品」というカテゴリーがある。去年までのフリンジ企画は主催者側がセレクトしており、東京の旬な若手劇団が多かった。今年は「オープン」だけに、「条件を満たせば、ジャンル不問、審査なしで登録可能」だという。そこで地元劇団が多く参加することになった。

◆「罪と罰」

 5日(土)に見に行った劇団うりんこは名古屋の老舗劇団だ。えっ名古屋? と思うかもしれないが、名古屋と京都は新幹線なら40分もかからず、東京‐小田原間とほぼ同じだ。だから、京都のスーパーには赤だしは何種類も置いてあるし、劇団うりんこがKYOTO EXPERIMENTのフリンジに参加しても全然おかしくないのだ。

 作品は言わずと知れたドストエフスキーの小説の舞台化である。あの長大で複雑な「罪と罰」を上演時間2時間、出演者10人と手際よくまとめた。

 「罪と罰」という小説は、深刻な思想とか難解さのイメージをまとっている。敷居は高く、確かに最初はかなり骨が折れるのだが、再読するたびに登場人物やストーリーの面白さが際立ってくる。実は一種のメロドラマ。殺人、恋愛、親子の情などで読者の感情を激しく揺さぶりながら、感動の大団円へと導く。

 劇団うりんこの「罪と罰」は、そんな小説の面白要素を抽出し、魅力的かつわかりやすく観客に見せた。小説「罪と罰」を読んだことがない人がこの舞台を見たとして、ちっとも難解だとは思わないだろう。むしろ、何と面白い話なのかと思うはずだ。

 滑らかなストーリーテリングを支えるのが舞台装置だ。舞台中央に椅子や机などの置かれた汚い室内空間がある。ここを主人公ラスコーリニコフ(にいみひでお)の屋根裏部屋など、主な演技スペースとする。その奥にドアがあるが、可動式で、ドアを動かすことで違う部屋の印象を与えることができる。そしてその部屋の奥の壁の両側に階段を作り、壁の上の空間と階段でも様々な場面が演じられる。

 たとえば建物の4階の部屋での殺人の直後、部屋に別の男が尋ねてくる。男はドアに鍵がかかっているのに気づき、大家を呼んでくるといって下りていく。部屋にいたラスコーリニコフはその間に部屋を出て階段を下り、2階の部屋でペンキ塗りをしていた2人の職人がその場を離れた隙にその部屋に入って、地上から階段を上がってくる男と大家をやりすごして逃亡に成功する。

 この経緯を舞台では、殺人が行われた部屋のドアを客席に垂直に置き、それを挟んでの男とラスコーリニコフの対峙、さらに階段を上り下りして同じドアを今度は2階の部屋のドアに見立て、ペンキ職人たちが出ていき、そこにラスコーリニコフが入り、その横を男と大家がすり抜けていく——というふうに見せていた。これが実にわかりやすかった。

 脚色の一つの特色としては、ラスコーリニコフに殺される老婆アリョーナ(青山知代佳)とその妹リザヴェータ(下出祐子)が、殺された後すぐに起き上がり、幽霊としてその後のストーリーにも参加することがある。この2人はとぼけた感じで、それにより殺人にまつわる陰惨さがなくなり、観客にとっては見やすくなった。またその後この2人がラスコーリニコフの前に登場することで、ラスコーリニコフの罪悪感を強める役割を果たした。これはうまい方法だった。

 演技面では主役のにいみが、偏屈な中に純粋な情熱を秘めたラスコー二コフとして適役だった。またベテランの原田邦英演じる予審判事ポルフィーリーが、ラスコーリニコフに共感を覚えながら、したたかに追い詰めていく場面が、大きな見どころを作った。

 劇団うりんこの公演を見るのは初めてだったが、観劇人口が多いとは言えない地方で多数の劇団員を擁して40年も活動してきた老舗劇団の底力を見せつけられた思いだった。
(5日(土)午後2時の回)

◆「大きなトランクの中の箱」

 この作品は2013年4月に東京公演があり、私はそれを見ている。東京公演についてはワンダーランドに堀切克洋さんの劇評(「平成のオイディプス」)が掲載された。公演の内容についてはこの劇評を読んでいただくのがいいと思う。今回、東京公演と特に違いは見当たらなかった。

 東京で見たときも思ったが、なかなか論じにくい性質の作品である。徹底した舞台装置の作り込みに圧倒され誰かの悪夢を見せられた思いで見終わって、はて何を見たのかと考えると、目に浮かぶのはあまりにも鮮明な細部ばかり。堀切さんの言うところの「心地よい不快感」を主として、感覚的な刺激は大きいのだが、全体につかみどころがない感じなのだ。

 その最大の理由は、この作品が、ふつうのエディプス・コンプレックスのパターンを一ひねりしてあることだろう。この世界には母がいない。隠されているのでも失われたのでもなくて、そもそも最初からいない感じなのだ。母を挟んで父と対峙するのでなく、父と直接的に接して、その肉体(特に男根)に執着している。だから主人公のムラシマ・ケンジ(山田伊久磨)は成長しないし、通常の意味での構造化された物語が立ち上がらない。ケンジは43歳にして学生服を着込んでいる。自分の妄想の中でいくつもの世界を駆け巡り続け、永遠にそこから抜け出さないだろう。構造化された物語が発生しないというのは、そういうことだ。

 物語がないにも関わらず、この作品は妙に生々しい。生理的に気持ち悪い表現が使われているからというだけでなく、見ていると、この抑圧と執着が表裏になった感じを、自分は確かに知っているという気がしきりにするのである。つまりこの作品は寓話として見ることができるということではないか。

 父(飯田一期)はケンジに成長するようにしきりに促す(「大きくなれよ」)が、本心では成長を望んでいない。だからケンジは大学に合格すべくひたすら勉強を続けるのに、受験の本番では決してうまくいかないのだ。父の矛盾した望みをかなえようとすると、そういうことにならざるを得ない。このダブルバインド(二重拘束:矛盾した命令でがんじがらめになること)が2人の関係の根底にある。象徴的なのは、天井の低い地下室で父がケンジを肩車する場面である。「高い高い」と言って哄笑するが、ケンジは天井がつかえて苦しそうだ。

【プログラム公式写真。Image=Mario Yoshino、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】
【プログラム公式写真。Image=Mario Yoshino、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】

 こういう関係は現実にもよくある。家庭にも職場にもあるし、劇団にもあるだろう。だからこの作品は何の寓話であってもいい。寓話というのはそういうものだ。何でもいいけど、たとえばアメリカと日本の関係なんてどうだろう。言うまでもなく父親がアメリカで、ケンジが日本である。

 そう思ってみると、この作品の様々な細部がアメリカと日本の関係の象徴に見えてくるから不思議である。たとえばケンジは父のことをこう表現する。「芸術家のようにカネのことばかり考えて、革命家のように権威主義で、女性のように物欲の塊で、ポップスターみたいなキング、キングサイズだ」。記憶に頼っているので不正確だが、これってまさにアメリカのことじゃないか。その父はサンタクロースのマントをした巨漢で、ケンジの妄想の中で、父の部屋は洋間である。この作品の小道具や、セリフに登場するもの(サボテン、ロケット、大砲、チェス)なども、こうして並べてみると何となく(あくまで何となく、でしかないが)アメリカを連想させる。

 このように考えると、父親が「永遠には歩き続けられない」というのに対してケンジが「ぼくが背負って歩き続けるんだ」と答えるのも、日本が国債を大量に購入するなどして衰えつつあるアメリカを支えていることと重なる。またケンジが「数学が得意な父さんの立派な息子」と自称したり、父の男根に見立てた真っ白なリコーダーを夢中になって舐めながら「自由の翼で大空へはばたくんだ」と叫んだり、そして父の男根に執着していたら自分の男根がなくなってしまったというラストにも、辛辣な批評性を込めた寓意が感じられてくる。

【写真は「大きなトランクの中の箱」東京公演から。撮影=田中亜紀 提供=庭劇団ペニノ 禁無断転載】
【写真は「大きなトランクの中の箱」東京公演から。撮影=田中亜紀 提供=庭劇団ペニノ 禁無断転載】

 さて、書いておいてなんだが、果たしてこの「父=アメリカ、ケンジ=日本」という見立ては正解なのだろうか。いや、そもそもこの場合、正解って何のことだろうか。作・演出のタニノクロウの頭の中にこの構図があれば正解なのだろうか。そういうことでもないだろう。タニノクロウが何を考えてこの作品を作ったかはわからない。それより問題なのは、この作品が寓意するような関係が、ありとあらゆるところにある、ということではないか。お互いがお互いを寓意するような事象が無数にあるのが現実の世界である。そしてアメリカと日本の関係、というのはたぶん、日本においてその基盤にあるもの、メートル原器のようなものなのだ。

 と、ここまで書いたところで「大きなトランクの中の箱」の当日パンフを読んだら、演劇批評家の鴻英良がこう書いていた。「アントナン・アルトーの有名な著作に『演劇とその分身』というのがある。われわれは演劇を見る。舞台で展開されているそれは、現実的な出来事の連なりだったりする。だが、その出来事、現実の再現でしかないもののあたりには、現実のレベルを遙かに超えたその分身が、精霊のように漂っているのだ。演劇というのは、その精霊(分身)とともに見なければならない。それが見えるか、とアルトーは問いかけたのである。チェーホフの『桜の園』を見ながら、古き良きロシアの没落の影を見なければならないように、タニノクロウの『大きなトランクの中の箱』を見ながら、何を、そのあたりに漂う精霊として眼差ざさなければならないか、それが問題なのである」。
 まあつまり、そういうことなのだろう。
(5日(土)午後6時の回)

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランドスタッフ。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。
・ワンダーランド寄稿一覧:
http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/

【上演記録】
KYOTO EXPERIMENT 2013
KYOTO EXPERIMENT 2013 フリンジ「オープンエントリー作品」

劇団うりんこ「罪と罰」
京都市北文化会館(2013年10月5日)

原作/ドストエフスキー
訳/工藤精一郎(新潮文庫)
脚色・演出/山崎清介
出演/原田邦英 柴田早苗 大谷勇次 青山知代佳 内田成信 下出祐子 村井美奈 にいみひでお 宮腰裕貴 鷲見裕美
美術/岡本謙治
照明/山口暁
衣裳/三大寺志保美
音楽/角張正雄
舞台監督/久保健一郎
宣伝美術デザイン/柳川晃義
主催/劇団うりんこ
共催/NPO法人おとくにパオ 山城醍醐こどものひろば
後援/京都府教育委員会 京都市教育委員会 京都子どもセンター 京都八幡こどものひろば 京都労演

チケット料金
<一般>前売3000円 当日3500円
<学生>前売2300円 当日2800円

庭劇団ペニノ「大きなトランクの中の箱」
元・立誠小学校講堂(2013年10月3日‐8日)

作・演出/タニノクロウ
出演/山田伊久磨、飯田一期、島田桃依(青年団)、瀬口タエコ
構成/玉置潤一郎、山口有紀子、吉野万里雄
美術/稲田美智子
特殊小道具/横沢紅太郎、小此木謙一郎(GaRP)
舞台監督/三津久
舞台監督助手/石田昌也
照明/阿部将之(LICKT-ER)
音響/佐藤こうじ(Sugar Sound)
音楽/奥田祐
音響オペレーター/阿久津未歩
英語字幕/ウィリアム・アンドリューズ、門田美和
演出助手/松本ゆい、仮屋浩太郎
制作/小野塚央
製作/庭劇団ペニノ
助成/公益財団法人セゾン文化財団
共催/立誠・文化のまち運営委員会
主催/KYOTO EXPERIMENT

チケット料金

一般 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
ユース・学生 前売 ¥2,500/当日 ¥3,000
シニア 前売 ¥2,500/当日 ¥3,000
高校生以下 前売 ¥1,000/当日 ¥1,000


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