◎嫌な男たち、抗わない女たち
チンツィア・コデン × 北嶋孝(対談)
「この世の楽園」ではない
北嶋 公演の率直な印象はいかがでしたか。
コデン タイトルが気になりました。「この世の楽園」でしょう。文字通りの「楽園」はどこにもないし、登場人物の会話にも楽園のような雰囲気は出てこない。見終わってどういう関係があるのかと考えました。
北嶋 そうですね。楽園ではないことは間違いありません。あんな緊張関係に満ちた「楽園」には暮らしたくない(笑)。地獄だとは思いませんが、登場する3人の男女はともに薄ら寒い関係だったので、むしろ皮肉っぽいし、反語的な意味が強いのではないでしょうか。高木さんの作品は案外意味のこもった強いタイトルを付けますね。鵺的の1回公演「暗黒地帯」も、文字通り「暗黒」が塗り込められているような世界が露出しました。その後は「不滅」「カップルズ」「荒野1/7」と続きます。小細工なしですね。
コデン ホントに、そのものズバリのタイトルですね。「暗黒地帯」の場合は「暗黒街の顔役」なんてハリウッド映画にありませんでしたか。
北嶋 古いギャング映画にありましたね。
コデン イタリアのエルマンノ・オルミ監督(「木靴の樹」などの作品で知られる)の新作映画「楽園からの旅人」を思い出しました。日本語のタイトルは「楽園」に明らかに言及しますが、原題は「段ボールの村(Il villaggio di cartone)」です。オルミ監督はこの映画で、警察に捕まるかもしれないという不安を抱きながら、壊される寸前の教会に段ボールで仕切りを作って、しばらくの間潜んでいるアフリカからの密航者たちの日々を追跡しています。「楽園からの旅人」では、その教会の神父さんが抱く自分の信仰や役割への葛藤を軸に、生きる場を求める人間たちの内面的な変化を描いている。その中で、人生の岐路に立たされている人々の根本的な要求に伴う感情が現れています。テロリズムに走る者もいれば、ヨーロッパで暮らすことを望まず、母国に戻った方がいいと判断する父親もいます。このようなダイナミックな心情を描く物語とは対照的に、今回の鵺的公演はこの3組6人の男女がみな表面的な関係で、夫婦といっても何かに無理にしがみついて現状を保とうとしている。登場人物たちの宿る世界が、危機的な状況に置かれていても、静的です。その意味で、「この世の楽園」は響きのいいタイトルですけど、ハッピーな「楽園」ではないですよね。ただこれまでの題名は中身とピッタリでしたから、このタイトルも中身を表していると考えると、ちょっとずれている。反語的なら、これまでのタイトルの系列からは外れているということでしょうね。それとも、人工的な「楽園」の中で、登場人物が生活を送っているのでしょうか。演技も初演に比べれば、現状を変える力を持てる登場人物のものではなくなっている気がしました。
人物を丁寧に描く
北嶋 海辺の観光ホテルにあるテラスが舞台です。離婚話がこじれている男(志津夫)が年輩の(久慈)夫婦に仲裁を頼んで来てもらったという設定が物語の縦糸です。先にテラスにいた若い男が恋人の女をモデルに動画撮影している、という場面から始まりました。登場する3組のカップルはいずれも関係がうまくいっているようには見えませんね。
コデン 久慈夫妻は社会的な地位があって離婚できない理由がある。夫は子供がほしかったのに、妻(祥子)が5年前に中絶してしまった。夫はほかの女性との間に子供を作ろうと言っていましたね。
写真は「この世の楽園」公演から。撮影=石澤知絵子 提供=鵺的 禁無断転載】
北嶋 そうでしたね。
コデン 離婚したくても家柄を持ち出されて、仮面夫婦でもいいから別れるなと言われていた。最初、この夫は悪者かと思っていたけど、妻の家の方から反対されているので離婚したくても別れられない、君たちは離婚できるなんてうらやましいと、相談を持ちかけてきた志津夫に言いますよね。妻の事情も語られていたし、このときは夫の状況も明らかにされていて登場人物はいずれも多面的に、リアルに描かれていると思いました。
北嶋 映像を撮っていた若い男とモデル女性の関係はどうですか。威圧的な態度と一方的な命令、言うことを聞かないと言っていきなり殴るような男と別れたいと思いながら、なぜか別れられない。そういう女でしたね。
コデン しかも後に彼女の行動によって久慈夫妻の間に亀裂をもたらすようにもなりますね。3人の男たちは監禁されてしまうのですが、結局解放されて若い男はまた舞台に登場します。久慈の妻祥子が若い女に、乱暴な男と別れたらどうかと勧めたとき、その女は薄笑いを浮かべているように見えました。微妙に不気味でしたね(微笑)。他人の目から見ると、酷い状況に置かれているように見えても、実際に、ふたりの間には錯綜した事情がありそうです。彼女の微妙な薄笑いは、被害者と加害者の関係がひっくり返される可能性を見せています。暴言が続く日常の中で切っても切れない関係が続くように見えました。
北嶋 男が暴力的な態度で支配し、女が怖いから従うということはないんですね。
コデン 表面的にはそう見えるけれど、深いところで別れられない。それは男も女も同じ。互いに依存し合っている。前の公演(「カップルズ」)でもそういう依存関係にある男女が登場しました。(作・演出の高木登さんは)そういう関係を思い切って取り上げるところが面白いですね。とてもリアリティーがあると思います。
北嶋 抜き差しならない関係でしょうか。
コデン 高木さんの登場人物はいつも人間らしくて興味深く丁寧に描かれていますよね。
トリックスターが「関係」を露わに
北嶋 舞台の展開は緊密で、観客を引きずり込む強力な磁場を持っていますね。でもストーリーだけを追うと少し引っかかるところがある。まず妻との仲を修復しようと年輩の久慈夫婦に立ち会ってもらう、しかも観光地にある海辺のホテルのテラスに集まるという設定です。離婚話がこじれている志津夫は、仲裁役の久慈の妻祥子と親戚関係なんでしょうかね。彼女がもっぱら仲裁役となって志津夫らの仲を修復しようと動き回る。だとすれば、立ち会うのは祥子だけで十分でしょう。彼女がまずは家出した計伊子と話し合う方が自然に思えます。自宅に招くか、都内のホテルやレストランで話すのもずっと現実的でしょう。ただ、後から首をひねっても、実際は舞台に引きずり込まれてしまう。作品のエネルギー、役者の力が大きいのかなあ。
コデン 力強いですね。
北嶋 それにしても、割り込んできた青年の存在がこの芝居の大きなポイントではないでしょうか。その青年、3組の遣り取りを聞いていたら男どもはみな嫌な奴ら、この世にいなくていいから監禁した、と女たちに告げますね。他人の遣り取りをわずかな間盗み聞きしただけで、いきなり監禁してしまう。そうするぐらいなら勝手に「始末」するかと思ったら、女たちから「理解」と「同意」を引き出そうとする。つまり3組のカップルの「関係」を露わにする役割を担い、周りの関係を攪乱するトリックスターとして振る舞います。化学なら触媒でしょうか。ともかく青年の言動が引き金になって、3組の関係が亀裂含みでせり上がってきました。それにしても、登場する男どものせりふを聞いていたら、みんなホントに自分勝手で不愉快。ひと言でいうと嫌な奴らですよね。
コデン 笑えましたね(笑)。
北嶋 しかも監禁青年は、みなさんの「お役に立ちたい」という。
コデン そう、そう。「お役に立ちたい」というフレーズはおもしろかったですね。別にそのせりふに賛成しているわけではないですよ(笑)。
北嶋 「笑える」というのは、青年の言い分にも理があるということでしょうか。
コデン それよりもあの青年の「お役に立ちたい」的な「悪人宣言」はある種のパフォーマンスにも見えなくはないですね。実際にその青年の計画通りにいかないけれども、彼の理屈は暴力には暴力を、という不寛容な復讐の論理なので、いろんな事件に結びつきますね。オウム真理教の話も出てきます。そんな青年に判断を迫られて女性たちは、ちょっと考えたいので時間が欲しいという。特に若い女はまだ警察に届けないで欲しいとお願いしますね。
北嶋 仲裁役の祥子はすぐに警察に届けようというのに、若い女がしばし待ったをかけるという場面ですね。女性たちの態度はどうでしたか。
コデン 女の言葉には説得力がなかった。何かもっと、ちょっとしたせりふと展開が欲しかった。論理的に考えていく芝居なのに、そこで説得されなかったので、その後は付いていけなくなった。
北嶋 日本的なメンタリティーが展開を妨げていると言うことですか。
コデン いや、そういうことではないと思います。
北嶋 日本が舞台の芝居ですが、イタリアのホテルを舞台にイタリア人が登場する芝居としては成立しない、ということですか。
コデン 成立するかもしれませんが、青年という登場人物はどうなるでしょう。宗教的な動機があったりするので可能かもしれませんが…。
あきらめている?女たち
北嶋 男を始末してやると言われて、彼女たちは動揺していたんでしょうか。相手の男がいなくなれば女は自由になる。そう考えたのでしょうか。ホントに恋人を殺そうとしているのよ、と言われているのに「止めて」と抗議するのではなく、判断停止…。
コデン でも私には、そこで女たちが動揺しているようには見えなかった。そこで違和感がありました。ただ冷静に話すだけでしょう。反撥すればできるのに、監禁青年の話を黙って聞いている。これは理解できなかったし、受け入れられなかった。アクション映画を見すぎかもしれませんね(笑)。3人の女性はショックを受けて、悪夢の世界にいて考えがまとまらないのなら分かりますけど、自分なりの計算があったにしても、その心情が見えてこない。「この世の楽園」は現実の世界に基づいた論理的な芝居なので、そこにもう少しせりふがあればいいと思いました。
【写真は「この世の楽園」公演から。撮影=石澤知絵子 提供=鵺的 禁無断転載】
高木さんは終演後、初演の台本から書きすぎの部分を削ったと話してくれましたが、今回の舞台はせりふを削りすぎたのではないかという疑問が残っていて、劇団から初演のDVDを提供していただいて見てみました。再演では役者群も変わりましたし、演出によって登場人物たちの生き生きとした雰囲気が消えていて、お互いの関わりが薄くなっているように見えました。蝋人形が宿るような世界が舞台化されているという言い方は大げさかもしれませんが、再演の登場人物たちが本当の意味で生きていないようにも見えます。
北嶋 初演時のタイトルは「グランデリニア」でした。ヘンリー・ダーガーの奇書『非現実の王国で』に登場する、子供を奴隷にした国家の名称から取ってきたようです。今回は改題、改訂版の再演です。初演映像と再演舞台を比べて他に気づいた点はありましたか。
コデン 実は青年によって3人の男が監禁されているところで、北朝鮮の拉致問題に言及している初演時のセリフはなくなったと思います。それは、観客の解釈をできるだけ幅広く引き起こすためかもしれません。他には、久慈夫妻が子供の中絶問題で亀裂が入っているという状況設定が再演で新たに付け加わっていましたね。せりふも削除や追加が部分的にありましたが、それほど大幅に変わっていませんでした。ただ、先ほども言いましたが今回の役者さんたちは初演よりちょっと演技っぽいというか、自然体とは言いがたい気がしました。初演では、女たちは監禁青年の言葉にもっと動揺し、抵抗している様子がうかがえました。再演ではそれほど動揺しているようには見えない。女たちはあまり抵抗しないし、自分から状況を変えていこうという意思が見えない。あきらめているように見えました。
北嶋 役者たちにみな個性がありエネルギーがあり力があるから、演技を強く感じるので折々間を置き、抑えていたのでは。久慈役の中田顕史郎は大柄なので余計に存在感がありましたから。
コデン 確かに、狭い劇場なので役者は目の前にいますからね。観客席に迫ってくる洪水のように、役者群の存在感に圧倒されます。身体的な動作として印象深かったのは、最後のシーンで、久慈(中田顕史郎)のサンドイッチの食べ方です。パンを自分の太腿や膝に置いたりして、遊びながらゆっくり食べている。セリフを聞きながら、倦怠感を表現している彼の動作に注目しました。
北嶋 自分を立ててくれない、とごねていましたね。妻祥子役の佐々木なふみも世間の枠組みで収めようとする真面目さが滲み出ていました。
コデン それから青年(酒巻誉洋)が熱狂的に語るところ、他の登場人物の惰性的な演技と対照的でおもしろかった。
北嶋 優男風なのに、切れて怒りまくる急変がトリックスター風でしたね。これまで高木作品を見てきて、どんな特徴があると思いますか。
コデン 世間との関わり方、とらえ方でしょうか。「暗黒地帯」では、真実を訴え続けて自説を曲げずに生きようとする女性に災難が降りかかる。悪人に思える営業マンがストレスで麻薬に走っているけれども、加害者の立場から被害者にもなる。今回の舞台でも嫌な奴に描かれている男たちにもそれぞれの思いある。裏と表がしっかり描かれているところがおもしろい。
地震による終末と再生
コデン この作品は最後に、祥子と離婚寸前の志津夫が波の音が聞こえるテラスで将来を語らう場面になります。二人の会話は、直下型の大きな地震が来るかもしれないという言葉で終わっています。登場する3組の男女、夫婦の関係は劇中の出来事でもっと歪んだりひびが入ったりしています。地震が来たらそのフレーム(構造)だけが残って、中はボロボロ。なんと言えばいいんですかね、中身が壊れて落ちている…。
北嶋 男女関係、夫婦関係で言うと、形式的な関係が辛うじて残って、実質的な関係が崩壊しているということでしょうか。
コデン そうですね。でもそれほど単純ではなくて、建物はそっくり残って、あと中身は全部ないという話ではありません。崩れ落ちそうでも、まだ倒れない。建物として機能していないかもしれませんが、とりあえずボロボロでも屋根と壁が残っていて、中に住める感じですね。
北嶋 作品全体のイメージですか。
コデン タイトルとの関係でいうと、地震が来れば、やり直せる余地、「この世の楽園」を考え直すための再出発の契機になるんじゃないでしょうか。
北嶋 そうですか。3日目の終わりの場面は、形だけの夫婦関係、自己愛だけの男女関係を含めて、ぼくはそういう世の中を破壊したいという暴力的な衝動を感じました。
コデン 監禁青年のせりふで、地震や豪雨、竜巻などの天変地異は天の意思。神様はいる、と言うでしょう。オウム真理教を取り上げて、神に任せようという大人たちの芝居でしたね。
北嶋 監禁事件のあと、3組の関係は変わりましたか。
コデン あまり変わっていない。変わろうとしないですよね。ですから地震が来てほしいということなんでしょう。青年の言葉ではないですけど、自然や神様に任せよう、ということになる。惰性的な生き方ではないです。自然の大きなエネルギーによって、彼ら自身が揺さぶられて、崩れ落ちた世界の中で、手探りで、お互いの位置やその距離感を把握して、新たにそれぞれの絆を確かめられる。それとも、惰性的に生きている人間が、自分たちの生命力が停滞していることに絶望している、そんな様子がうかがえます。
これからの姿と方向は
北嶋 これまで鵺的の公演は何本かご覧になっていますか。
コデン 鵺的の舞台は2作目です。「昆虫系」再演と今回の作品。そのほかビデオ映像で鵺的の第1回公演「暗黒地帯」や「不滅」、「カップルズ」、今回の舞台の初演「グランデリニア」も見ました。「荒野1/7」の場合は台本を読みました。
北嶋 「昆虫系」の再演は一緒に見ましたね。
コデン 高木さんが以前在籍した劇団(机上風景)に提供した作品のうち、再演しようと思った三作があったそうですね。「昆虫系」とあと一作(「幻戯」)はすでに上演し、今回の作品が最後の三作目でした。確かプログラムに、この作品はこれから向かう方向を示しているとありませんでしたか。
北嶋 作・演出の高木さんがチラシにこう書いています。
「(今回上演する「この世の楽園」には)自分がこれから向かおうと思っていた方向性が示唆されている。(中略)鵺的の過去と未来を同時に俯瞰するような公演になるだろう」
コデン 以前の作品に比べて、「この世の楽園」では、彼女に暴言を繰り返す登場人物と男性3人を監禁した青年の登場以外には、観客のリアクションを刺激するような激しい感情表現はぶつけられていない。「この世の楽園」登場人物たちが、お互いの間の距離を大きく保っているように見えました。大地震を示唆するのも、自分の立っている場所をひっくり返すことができるほどの大きな自然のエネルギーがなければ、自分たちの生活が惰性的に続くのだろう、と思っているところが気になりました。そういうわけで、「昆虫系」で感じた緊張感やリズム感のすごさは「この世の楽園」では完全に消えています。登場人物たちが無力で、現状に圧倒されて、変化へのモチベーションさえ消え、静的で密封した世界として感じました。
北嶋 そうですか。今回は三つ挙がっていたうちの最後の再演舞台でした。これから鵺的がどんな風に変貌するか、新作公演に期待したいですね。
(コデン観劇10月28日20:00の回、北嶋観劇10月24日20:00の回)
【あと、ひと言】
チンツィア・コデン 鵺的の舞台では、偶々集まった人間たちが一時的な、仮のコミュー二ティの中に、それぞれの行動に対する疑問を持っていたり、さまざま感情を抱いたりしていて他人に問いかけ、関わり始める。登場人物の不満や葛藤、憎みから生じる必然的な会話を中心にして、鵺的の芝居がなりたっている。
高木さんは三面記事からヒントを得ているのだが、メディアで取り上げられていない人間の心情の内側に視線を向ける。彼の厳密なタッチで描かれた役柄はそれぞれの役者によって奥行の深いものとして目の前に現れる。小劇場の狭いスペースに居合わせた観客がドキドキしながら、舞台という仕切りの中で露わにされている人間の内面まで覗き込める。その緊張感の中で、観客としての自分を自覚して、劇場まで足を運んだ甲斐があることに気付く。鵺的の舞台を見に行けば、そこで流れている時間を共有して、考える場所が確保されている。確かに無痛ではないけれども、やみつきになる可能性が十分にある。
北嶋孝 世の中を底層から捉える、業深い人間を削り出すように造形する。「いま」を捉えようとする新しい演劇手法に関心を寄せる向きにはあまり注目されないかもしれないけれど、鋭いタッチとモノクロの描線で浮き彫りになる鵺的の劇空間は掘りが深く、煮詰まるほどに濃い。「いま」のグローバルな風景に関心はあっても、鵺的のこんな舞台に毎回、吸い寄せられるように足を運んでしまう。ぼくもきっと業が深いのかもしれない。
【略歴】
チンツィア・コデン(Cinzia Coden)
イタリア・ヴェネト州生まれ。ヴェネチア大学外国語学部日本語学科卒。卒論は「唐十郎の『特権的肉体論』—役者の記号的な身体」。2000年来日。在日イタリア商工会議所の仕事を経て文部科学省奨学金留学生として横浜国立大学に留学、同大学院修了。論文「唐十郎の演劇実践における肉体から生み出される言葉 : 上演分析の提案」。ほかに林真理子、家田荘子の短編のイタリア語訳なども。現在イタリア文化会館や桜美林大学で非常勤講師。
北嶋孝(きたじま・たかし)
1944年秋田市生まれ。早稲田大学文学部卒。共同通信社文化部、経営企画室などを経てフリーに。編集・制作集団ノースアイランド舎代表。80年代後半から演劇、音楽コラムを雑誌に寄稿。TV番組のニュースコメンテーター、演劇番組ナビゲーターも。2004年創刊時からワンダーランド編集長を務め、2009年10月から編集発行人、代表。
【上演記録】
鵺的(ぬえてき)第七回公演「この世の楽園」(2005年初演「グランデリニア」の改題改訂、再演)
新宿SPACE雑遊(2013年10月23日-11月3日)
作・演出 高木登
出演=井上幸太郎 酒巻誉洋 佐々木なふみ とみやまあゆみ 中田顕史郎 成川知也 渡辺詩子
舞台監督=大石郁実
ドラマターグ=中田顕史郎
照明=千田実(CHIDA OFFICE)
音響=平井隆史(末広寿司)
舞台美術=大津英輔+鴉屋
演出助手=井原謙太郎
衣装=中西瑞美(ひなぎく)
宣伝美術=詩森ろば(風琴工房)
舞台写真撮影=石澤知絵子
ビデオ撮影=安藤和明(C&Cファクトリー)
制作=鵺的制作部・J-Stage Navi
制作協力=contrail・林拓郎