マルセロ・エヴェリン/デモリッション Inc. 「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」

◎「群衆」形成の力学の可視化から、「個」の承認へ
 高嶋慈

 ブラジル出身の振付家、マルセロ・エヴェリンの作品との衝撃的な出会いは、2011年にKYOTO EXPERIMENTで上演された『マタドウロ(屠場)』である。『マタドウロ(屠場)』は、仮面や被り物で素顔を隠したほぼ全裸の男女のパフォーマーが、約1時間にわたり輪になって走り続けた後、最後に仮面を取って観客を凝視する、という挑発的な幕切れの作品であった。そこでは、人間らしさを剥奪されて動物的な隷属状態に置かれること、そして肉体に過酷な負荷をかけ続ける行為を通して、政治的・文化的闘争の場としての身体が提示されていた。昨年の同舞台芸術祭でのワーク・イン・プログレス公演を経て、今年上演された新作『突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる』もまた、無防備に晒された身体の運動とその強度を通じて、暴力、狂気、力の行使、欲望、眼差し、そして人間としての承認について問いかける作品である。本作の鑑賞—より正確には「経験」は、観客という立ち位置の自明性や安全圏を手放す危うさをはらみつつ、見る者の思考と皮膚感覚を激しく揺さぶるものであった。以下では、前作『マタドウロ(屠場)』との比較も含めてレビューする(『マタドウロ(屠場)』のレビュー記事はこちら)。


 薄暗い上演会場に入ると、観客が作った人の壁に視界を遮られ、その人だかりの中から、「ダッダッダッダッ」というリズミカルな足音が小気味良く聞こえてくる。上演スペースには一辺約7〜8mの正方形の床面が設けられ、四辺には腰より少し高い位置に蛍光灯が吊るされ、プロレスのリングのように周囲を囲われている。入場した観客は、このパフォーマンスゾーンの中に入るようにと指示される(途中での出入りは自由である)。客席と舞台の区切りはなく、個別の客席もないため、観客は立ち見の状態で、さらに絶えず位置を移動することを余儀なくされる。それは、この上演の構造自体が、パフォーマーの運動がもたらす注視への欲望と接触の恐怖という2つのモメントによって、絶えず観客自身を「動かす」という、流動的なものであるからだ。

 人だかりをかき分け、好奇心とともにパフォーマンスゾーンの中心に近づいてみよう。薄暗がりの中、全身を黒く塗った裸の人間たちが、互いに腕をつないで輪になり、ぐるぐると走っている。影のような彼らは、よく見ると、男性3人、女性2人であることがかろうじて識別できる。そして、走り続けるパフォーマーたちの輪がめまぐるしく方向転換するたびに、彼らにぶつかるまいとして避けたり、もっとよく見ようとして近づく観客の「群れ」もまた、同じ空間内を右往左往し、分裂と集合を繰り返すことになる。ここで、本作の印象的なタイトル「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」の意味するところが明らかになる。つまり「黒山の人だかり」とは、突然始まったこの異様な出来事を注視/回避しようとする観客たち自身を指しているのだ。

 しばらく走り続けた後、パフォーマーたちは運動の速度を落とし、代わりに内側への凝集度を高め、互いの身を寄せ合ってひとかたまりになる。誰のものかも分からぬ手足が絡み合い、黒く蠢く集合体のようだ。逃げまどい、分裂と集合を繰り返していた観客の群れもまた、じっと静止し、出来事の成り行きを見守る。すると黒い塊は次第にゆっくりと歩き出し、回転しながらだんだん速度を上げ始める。再び活性化される観客の「群れ」とその運動。好奇心と恐怖感がない交ぜとなり、普段ならあり得ないほどの近さで、黒く蠢く物体を眺めているという高揚感と、不可解な存在がこちらへ向かってくるという本能的な恐怖とを、同時に味わわされる。互いを守るように身を寄せ合う彼らは、身にふりかかる恐怖から逃れようとする姿を思わせる一方で、彼ら自身も観客に対して(魅惑と同時に)恐怖をふりまき、スペースを奪い、力を行使する存在でもあるのだ。そうした両義的な存在であるこの黒い塊は、観客の群れを撹拌しながら、速度を上げ続け、ついには倒れ込んでしまう。

 この一連の動きを数回繰り返すと、今度は床に倒れたまま、互いの身体の上や下に折り重なって、ゆっくりと転がり始めた。取り囲む人の壁が蛍光灯の光を遮り、ただでさえ暗い空間内では、真っ黒なパフォーマーたちの個々の身体の輪郭を見分けることは困難になる。手足を絡み合わせ、ひたすら蠢く肉の塊が、それ自体ひとつの有機体のように暗闇の中で息づき始めた。しばらくこの状態が続いた後、蠢く塊はゆっくりとほどけ、5人の人の形に戻った。

 そして1人の男性が、口に指をくわえ、助けを求めるようにピューッと指笛を鳴らす。彼が力尽きたように床に倒れると、他のパフォーマーたちはバラバラに散らばり、観客の中へゆっくりと歩み入っていく。ある者は放心したように口からヨダレを垂らし、別の者は自分の身を防御するように顔の前で両の拳を握りしめ震わせる。視線を別の方向へ向けると、うつむき加減に両腕を揺すり続ける者、絶望したように身体を抱え込んでうずくまる者もいる(ただ1人だけ、観客と視線の/身体のコンタクトを取ろうとする者がいたが、彼については後述する)。彼らの姿の異様さをかき立てるように、腹の底に響くような重低音のノイズが不気味に鳴っている。言葉を発しないまま、理性や自我が崩壊したかのような状態でさ迷う彼らの姿は、災害や戦争といったカタストロフの犠牲者のようにも映る。

 観客の間を徘徊していた彼らはやがて、だんだんと中心に集まりだし、再び1つの塊になった。そして互いを突き飛ばし、求め合いながら反発し合う磁石のように、激しく動き回る。と同時に、今まで散らばっていた観客がさっと周囲に退き、真ん中に広い空間が出現する。観客が遠巻きに見守る中、もう一人の男性パフォーマー(同様に全裸で黒塗り)が突然、場外から現れ、つかみ合うパフォーマーの群れの中に突入する。すると女性パフォーマー1人がはじき出され、何かを腕で振り払い、嫌がるように身をよじりながら悲鳴のような声を上げ続けた。彼女が再び群れに戻ると、6人のパフォーマーたちは身体を密着させ、男女を問わず互いの身体をまさぐり合い、キスを交わし続けた。その行為は愛撫というには激しく、欲望のままに互いの身体をむさぼり合う獣のようで、ため息や声がもれてくる。やがて彼らは群れをほどくと、再びバラバラになり、観客1人ずつと向き合って、無言のまま視線を合わせ続けた。それは、初めて彼らを「人間」として認識した瞬間だった。やがて彼らはだんだんと観客の中に溶け込み、身体の向きを変えて隣に並び、空っぽになった上演スペースの中心を観客と共に見つめた後、姿を消した。


 ここでパフォーマンス全体を振り返ると、肉体の放つエネルギーと野性的な荒々しさを感じさせる一方で、全体の流れは知的に構築され、論理的な流れに貫かれていることが分かる。パフォーマーが蠢く物体から、人間性を剥奪された極限状況を体現し、性的な衝動の充填を経由して、最終的に1個の「人間」へと変化するのに応じて、それを眼差す観客もまた、「群衆」から「個」へと移行するのである。また、固有の顔貌や衣服を奪われた無防備な身体による抵抗の身振り、そして「人間」であることの承認が眼差しの交差によって行われる点は、前作『マタドウロ(屠場)』と共通する戦略である。『マタドウロ(屠場)』では、観客としての安全な位置から、非人間的な状態に置かれたパフォーマーたちを一方的に眼差すという、「見る/見られる」という非対称な関係が、終盤まで徹底して維持されていた。顔を隠して全裸で走り続けるパフォーマーたちは、自らの肉体に過酷な負荷をかけ続ける行為によって、搾取と労働と疎外のメタファーとなり、無防備で屈辱的な動物状態に置かれた存在を体現していた。そして、クラシック音楽の優雅な調べをかき消すような動物の鳴き声や荒々しい太鼓の音は、西欧/非西欧、文明/未開、中心/周縁といった対比を音響的に現前させ、それぞれが身につけた仮面や動物を象った被り物は、西欧・近代に抑圧された他者を記号的に表すとともに、「顔」が消された彼らの匿名性や、走りながら日常的な仕草が時折挿入されることで、巨大な収容所と化したグローバル化世界を告発していた。そして最後に仮面を取って観客に対峙する行為は、観客の眼差しの政治性を暴くとともに、動物的な状態に置かれた彼らに人間性と固有の顔貌を取り戻そうとする切実な希求の身振りでもあった。

 しかし、こうした『マタドウロ(屠場)』と本作を決定的に分かつのは、観客もパフォーマンスの作用圏の中に身を置くという構造的な違いである。また、パフォーマンスの各段階に応じて「黒」という色のもつ意味が変遷し、複数化することにも注目したい。

 客席がなく、パフォーマーと同じ空間に身体的に投げ込まれることは、上演空間で起こる出来事の作用圏の中に観客も入ることを意味する。パフォーマーの動きをもっとよく見たいなら、間近まで近づくことができるが、その接近は同時に、身体的接触の危険や恐怖と隣り合わせである。この、「もっと見たい」という欲望と「危険を回避したい」という心理が、予測不能なパフォーマーの運動を起点として、フィードバック的に観客の群れを形成し、撹拌し、離散させ続ける。

 その意味で、観客もまた振付家の意図によって「動かされている」ことに対する嫌悪や批判もあるだろう。もちろん、「群衆」に参加することを拒否して、パフォーマンスゾーンの外側へ出ることも可能だが、「パフォーマーに群がって見ている観客を見る」という、もう1つの視線の枠組みが外側に出来たにすぎない。つまり観客は、群衆に同化しようがしまいが「見る」ことを手放せず、他の観客によって「見られる」身体的存在ともなる。「見る/見られる」という単純な二項対立は成立しない。そしてパフォーマンスゾーンに身を置く以上、観客は、ただ純粋に「見る」という非身体的存在ではありえず、制御不能なエネルギーの塊のように動き続けるパフォーマーの運動が媒介となって、絶えず「群衆」の形成をパフォームすることに否応なしに参加するのである。そこで突きつけられるのは、対象への原初的な欲望と対象からの生理的な恐怖が自身を突き動かす原動力となり、いつしか群衆の一部に取り込まれているという事実である。その経験は、同化することへの嫌悪感やパフォーマー/他の観客との接触の危険を伴いつつ、祭りやデモにおけるように、群衆のもつ祝祭性や高揚感、非日常性を同時に感じるものであった(*)。

 このように作用/被作用の力学と視線が複雑に交錯する圏内で、パフォーマーの身体の変貌に大きく関わるのが、「黒」という色である。

「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」公演から
【撮影=Sérgio Caddah 提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】

 前半、パフォーマーたちは、魅惑と同時に恐怖をもたらす不可思議な運動体として現れる。「黒」という色は初め、彼らを固有の人格や外見的特徴を持った「人間」というよりは、「物体」として眺めることが可能であることに貢献する。そして、この蠢く塊を磁場として、絶えず活性化される観客の「群れ」が周囲に発生する。

 続く中盤では、パフォーマーの塊がほどけるのに応じて、観客の「群れ」も自然消滅し、個別的な存在として彼らに出会うことになる。だがそこで目撃するのは、激しいショックで理性や自我、言葉を失った、災害や戦争などのカタストロフの犠牲者や抑圧された被虐者を思わせる姿である。そして、全身が黒く塗られていることは、現実に存在する黒い肌の人々—歴史的に様々な人種が混ざり合ったブラジルには、アフリカ系の黒い肌の人々が多数存在している—が受けてきた抑圧や差別への告発と解釈することも可能である。あるいは、日本での上演の場合、原爆によって黒焦げに焼け爛れた人体を想起させ、 被爆者の表象とも受け取れる。

 ただし、そうした解釈や連想を呼び起こすとしても、特定の犠牲者の表象に限定させるべきではないだろう(もちろん人種的な問題への示唆もあるだろうが、特に「黒」という色を「アフリカ系の人々の表象」に限定させて捉えてしまうと、「彼らが”裸”であること」がステレオタイプに陥りかねないからである。また、マルセロ・エヴェリン自身も、上演に際して行われたレクチャーで、「なぜダンサーの身体を黒く塗ったのか?」という会場からの質問に対し、「色んな人が混ざり合った群衆のイメージとしての黒であり、特定の人種の表象ではない。アイデンティティーという言葉はあまり好きではなく、ダンサーを裸で黒塗りにしたのはアイデンティティーを消すため」と答えていた)。むしろ、ここでは「黒」という色によって、顔、名前、国籍、人種、性別といったあらゆる差異が塗りつぶされて消去され、匿名化され、衣服のみならず一切の帰属が剥ぎ取られているのである。その意味では、「黒」という色は、実際の肌の色への示唆を含みつつ、よりメタレベルでは、(アフリカ系であるかどうかも含めて)アイデンティティーを不可視にする装置として機能している。実際のパフォーマーは、ブラジル、オランダ、日本という地理的、歴史的、文化的に異なる3つの地域の男女のダンサーによって構成されていたが、全身黒塗りという仕掛けによって、彼らのアイデンティティーは識別不可能にされてしまう。逆に言えば、普段私たちが、肌や髪、瞳の色といった外見的特徴によって相手を識別しているという事実が露わにされる。手を伸ばせば触れられそうな至近距離で、人間かどうかも定かでない不可解な存在を見つめている、という経験。何も纏わず無防備な身体を晒す彼らは、非人間的な状態へと追いやられた存在、とてつもないカタストロフの犠牲者を体現すると同時に、底知れぬ深淵を覗き込むようなその得体の知れなさ、アイデンティティーの不確かさによって、逆説的に私たち見る者を不安に陥れ、脅かす存在でもある。

 名前も顔も衣服も奪われた時、何が残るのだろうか?何もかも剥ぎ取られた得体の知れない存在にどう向き合うことができるのだろうか?自律的なコントロールが不可能になった痙攣的な身体、自身の殻の中に閉じこもった者たちの中で、ただ一人、観客にゆっくりと近づき、無言の了解のうちにそっと身体をもたせかける者がいた。何者かも分からない目の前の存在をただ受け入れ、自身の身体を無防備なものとして晒すこと。言葉も交わさずに、相手の視線と身体をただ受け止めること。観客の中には、触れられることを許可するだけでなく、そっと腕を回して抱擁したり、キスを交わす者もいた。(ワークショップではなく、あくまで「上演」の中で)そうした身体の開かれが、パフォーマーと観客の間で即興的に成り立ったということ—悲惨で危機的な状況を思わせる中で、そうした稀有な瞬間に立ち会えたことは、忘れられない。そして「黒塗り」という仕掛けは、私たち観客と、何者かも分からない「彼ら」を視覚的に区別しつつ、触れられる/受け入れること=自分の身体や服も黒く汚れること、すなわち彼らが受けた暴力や痛み、穢れの刻印を受け入れ、共有した証としても機能していた。

 個人の輪郭が溶け合ったかのような塊や群れ。虐げられ、理性や自我を失った非人間的な者たちの徘徊。終盤、男女を問わず互いをむさぼり飲み込もうとする衝動に駆られ、激しく相手の身体を求め合うパフォーマーたちもまた、「人間」というよりはサカリのついた獣のような姿を見せつける。そして最後に彼らから見つめ返された時、果たして今まで彼らを「人間」として見ていたか?という疑問を突きつけられた。「西欧近代的個人」という枠組みの強固さの露呈、その外部へと追いやられた存在からの異議申し立て。『マタドウロ(屠場)』においてと同様に、マルセロ・エヴェリンという作家には一貫して、西欧近代的合理性とそれがもたらした支配・暴力・抑圧に対する批判が根底にある。しかし、この最後にパフォーマーと一人一人向かい合う時間は、『マタドウロ(屠場)』の挑発的な対峙の緊張感とは異なり、彼らと同じ地平に立ち、「人間」であることを承認し合い、隣に立つことを受け入れる時間であったと思う。


 人間が人間でなくなった状態と、人間が人間であることの承認。その両方を、整えられた「物語」としてではなく、「出来事」として目撃させ、見知らぬ他者を受け入れる身体の開かれが即興的に成立すること、そこまでの状態に観客を巻き込んでしまうこと。全裸の無防備な身体を晒しているのはパフォーマーたちの方だが、むしろ、見ている私の方が晒されているような体験だった。このように自分自身の生にまで触れてくる作品との出会いはそう多くはない。生きた俳優やダンサーが上演しているにも関わらず、血も肉もないものではなく、皮膚を突き破ってこちらの肉まで手を伸ばしてくる作品は少ない。この作品はとてつもない強度を持っているが、その強さは、「ダンス」の中だけの言語で話している訳ではなく、より広い共有地を持っているからではないだろうか。

 また、こうした作品が、国際共同製作という形で作られたことの意義も大きいと思う。異文化との出会いを含み込まざるをえない場で、ステレオタイプ=消費可能な記号としての文化的他者の表象ではなく、群衆を形作る力学を可視化しつつ、「何が私たちを突き動かすのか」「欲望と恐怖はどこから来るのか」「どこまでが人間といえるのか」「他者をどのように受け入れることができるのか」といった、より根源的な問題が提示されていたからである。
(9月30日、10月1日観劇)
(*)なお、本作のタイトルは、エリアス・カネッティの著作『群衆と権力』(1960年)の一節から取られている。「人間が接触恐怖から自由になれるのは、群衆の中にいる瞬間だけである」ことを述べた「接触恐怖の転化」の節の後、「開いた群衆と閉じた群衆」の節に、タイトルの一文が見出される。この箇所では、すべての人間を吸収し、増大を続けることで存続しようとする「開いた群衆」と、空間的な境界を作ることで崩壊を防ごうとする「閉じた群衆」が区別されている。

【筆者略歴】
高嶋慈(たかしま・めぐみ)
 1983年生まれ。京都大学大学院在籍。美術批評。ウェブマガジン PEELER、京都芸術センター発行紙『明倫art』(2011〜13年)、批評誌『ART CRITIQUE』などの媒体にて、現代美術のレビューや評論を執筆。美術作家と批評家がそれぞれの視点でキュレーションを行い、2つの個展の並存を試みた「Project ‘Mirrors’ 稲垣智子個展」の企画に参加し、「はざまをひらく」展(京都芸術センター、ギャラリー南 2013年)のキュレーションを行う。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takashima-megumi/

【上演記録】
KYOTO EXPERIMENT 2013
マルセロ・エヴェリン/デモリッション Inc. 「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる
京都芸術センター講堂(2013年9月28日‐10月1日)

クリエーションメンバー/アンドレ=リーン・ジッゼ、ダニエル・バラ、エリエルソン・パチェコ、長洲仁美、ジェル・カローネ、ルス=ファン=デル・プリット、マルセロ・エヴェリン、マルシオ・ノナト、レジーナ・ヴェロソ、ロサンジェラ・スリダーデ、セルジオ・カッダー、瀧口翔、タマール・ブロム、ヴィルフレッド・ロープストラ
製作/デモリション Inc.
共同製作/KYOTO EXPERIMENT、クンステンフェスティバルデザール、パノラマ・フェスティバル
助成/公益財団法人セゾン文化財団
主催/KYOTO EXPERIMENT

チケット料金
一般 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
ユース・学生 前売 ¥2,500/当日 ¥3,000
シニア 前売 ¥2,500/当日 ¥3,000
高校生以下 前売 ¥1,000/当日 ¥1,000

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください