◎F/T13の海外ものから
水牛健太郎
先日閉幕したフェスティバル/トーキョー。今年は海外演目も大変充実していたようだ。見られなかった作品も多いが、見た範囲で印象に残った3作品についてまとめてみた。
◆ダンシング・ガール
最初舞台上は暗く、踊り手の姿はほとんど見えない。照明は踊り手の膝、伸ばした右手、頭などごく一部を照らしては、溶暗していく。その繰り返しが随分長く、5分ほども続いた。照明は徐々に明るくなっていくが、それでも踊り手がはっきりとは見えない状態だ。動きはゆっくりで、うごめくよう。
踊り手のインド人女性(ゴーヤル・スジャータ)は、インドの伝統的衣装と見えるものを着ているが、その動きは分かりやすい伝統美を思わせるものではない。もっと得体の知れない感じなのだが、ともかく暗いのでよく分からないのだ。見ていて何かをつかめそうだと思ったのは20分くらい経ってからだった。
やがて舞台がある程度明るくなると(それでもかなり暗いのだが)、彼女は次々とポーズを取りだした。今度は伝統的なものを感じさせるポーズ。わかりやすく言えば、インドの観光ポスターに載っていそうなポーズだ。そのポーズを10秒間隔ぐらいで次々と決めていく。間の動きは素早く、ポーズを決めると静止。そのたびにある一方から照明が当てられる。
照明の当て方は、前面から当てるのではなく、横からだったり、斜めからだったり、かなり偏った方向からのものだ。逆光で顔が真っ黒な影に覆われることもある。すると、それはまったく観光ポスターには見えない。陰影によってイメージが相対化され、もっと複雑な側面が引き出されてくる。そして、そこに1人の生身の女性が立っているという事実が前面に出てくるのだ。
決めポーズの中には、特にインド舞踊風ではないようなものも交じっている。脚を軽く広げ、手を腰に当てたポーズなど、地球上のどこの国・都市の女性であってもおかしくない。伝統イメージの中に塗り込められたかに見える女性たちにも、ごく普通の生活があることを感じさせる。また、ファッションモデルのように次々とポーズを決めていくことで、そこには何かユーモラスな、揶揄するような調子も加わる。全体として、伝統衣装を身に付け、伝統的な舞踊のポーズをフィーチャーしながらも、見事に現代的な表現になっていた。
パフォーマンスの間中、少しずつ少しずつ明るくなっていく照明。やがて全身がはっきり見えるようになったあたりで、踊り手は観客席に背中を向け、そこから身体の線を両手でなぞるような動きを始める。ディスコダンスとでも言うか、そうした系統のダンスではよく見る一つの型であり、通常はセクシーさ、男性に対する挑発を感じさせる動きだが、ここではなまめかしさと同時に、触れて確かめることで、自分の身体を自らの手に取り戻すとでもいった趣があった。
踊り手はやがて身体をひねり、前を向いて客席を見つめる。ここではじめて、踊り手の顔がはっきり見える。一人の若い女性だ。「神秘」や「伝統」の影はどこにもなく、私たちと同じ時代を生きる、どこにでもいる女性の一人が、そこに立っていた。
(11月27日午後7時半の回)
◆The Coming Storm – 嵐が来た
50歳前後と思われる男女3人ずつ6人が、肩の力の抜けた調子で舞台に上がる。俳優らしく垢抜けた感じはあるが、人目を引く美男美女ではない。腹が出た男、肉付きのいい女など、年齢なりの生活感を漂わせている。
その中の1人、テリーと名乗る女性が、マイクを手に「いい物語とは……」と語り出す。「いい物語は明快な出だしから始まる」「魅力的な悪役がいる」「謎がある」など、20個かそれ以上も「いい物語」の条件を挙げるのだが、何となく型にはまっていて、ハリウッド流作劇術の講義を受けているみたいだ。薄々感じたように、これは全部否定されるために持ち出されていることが後で分かる。この公演は、ここでテリーが挙げた条件をただの1つも満たしていなかった。
やがて6人はマイクの奪い合いを始める。それぞれが「自分の物語」を語り出す。世界をまたにかけた冒険活劇だったり、セクシーな恋愛ものだったり、漂流する家族が死ぬ順番を決めるシビアな話だったり、ライン川を舞台にした初恋の話だったりするが、すぐにマイクを他の人に奪われてしまうので、最後まで語られることはない。ほとんどは本当らしくさえない。
パフォーマンスは脈絡なく続いていく。大きな木の枝をいくつも抱えて「森にいる」ことを表現したり、老人のゴムマスクをかぶって上半身裸でへらへら踊ったり、同じ格好で椅子に座って身体をぶるぶるふるわせて「電気椅子」を表現したり。舞台袖には衣装とカツラがたくさん置いてあって、俳優たちはしょっちゅう観客の前で着替えるのだが、着替える理由が全くわからない。ギター、ドラム、ピアノなど楽器もあって、演奏する。これはかなりうまい。
「物語」は大量に飛び交い、そのたびにパフォーマンスらしきものが披露されるのだが、その徹底的な無意味さはちょっとすごい。音楽に合わせて、ピアノの後ろから手振りつきで女の人がひょこひょこと繰り返し顔を出すのだが、本当に何の意味もないとしか言いようがない。ピアノが「おいおい」と言いたくなるほどホコリまみれだったのは演出の一環なのだろうか。そうかと思うと、女優の1人が突然、「自分はちょっとロシア語がしゃべれるので」と言ってロシア語で話しだす。もちろん、何の意味もないのだ。別の女優が、「自分のダンスは美しい」と言ってシーツをかぶって踊る。無意味に無意味がつながっていく。
「アンチ『物語』」をうたう芸術は世にあふれている。そういう場合、パフォーマーの多くは、知的な尖鋭さだったり、ファッション性だったり、をさりげなく身にまとっている。つまりはそれも、「『物語』を否定する」という物語に過ぎないのだ。「知的でおしゃれな前衛」という物語。
そんな物語さえない、荒野のような情景に耐えられる人はそんなに多くないのではないか。その1つの極北を、この公演に見た。そこにあったのは、「格好悪いこと、くだらないことを本気でやるのが格好いい」などという、生易しいものではない。「それ、やる意味あんの?」と聞きたくなるような、本当に格好悪いことばかりを、この中年男女6人はしていた。いくらでも格好よく決められるはずの人たちが、パフォーマーとしての膨大なスキルと経験を、本気でドブに捨てて見せていた。
中盤あたりで、男性の1人が、母の死について語る。片目に施した化粧が流れて、まるで海賊のようになっていた母の死に顔。男性の話に、楽器の演奏も相まって、パフォーマンスは感情的なクライマックスを迎える。するとその途端、女性の1人がヒステリックにどなり出す。「こんなセンチメンタルな話をするなんて。真面目な話だけはしないはずだったのに」。場の空気は凍りつく。
もちろんすべては台本通りである。字幕が付いているのだから、それは明らかだ。だが、わざわざ場の空気を盛り上げて、ぺしゃんとつぶして見せる、そこに込められた悪意は鮮烈だった。
忘れがたいのは最後近く、女性の1人がこんな話をする。夜、どこかから電話がかかってくる。出ると、ボーイフレンドだ。ボーイフレンドはパニくっていて、何か叫んでいる。何かが起きたことが分かる。何が起きたかは分からないが、何か恐ろしいことが起きたのだ。
すると、男性の1人が、これではあまり面白くないから、ボーイフレンドを妹に換えてみたらどうか、と言う。女性はそれにしたがって、「電話に出てみると妹で……」と話してみる。どうもまだピンと来ない、ということで、妹をエルトン・ジョンにし、ドイツのメルケル首相にし、ロシアのプーチンにし、シリアのアサドにし、そして最後には……。「ある夜、私が家にいると、誰かから電話がかかってきた。出てみると、それはアメリカのオバマ大統領だった。彼はパニック状態で何か叫んでいた」。その時、ほかの男性俳優が「ぎゃー」と叫ぶ声がかぶさる(彼が叫ぶきっかけは、全く関係ない形で巧妙に与えられているのだが)。本当に恐ろしかった。
そんな瞬間もあったが、全体として、このパフォーマンスを見続けるのは決してわくわくする体験とは言えなかった。途方に暮れた場面もたくさんあった。どうしてこんな意味のないことをするのだろうかと頭を疑問符でいっぱいにして見続けたが、寝そうになったことも何回か。
それでも、とてつもないものを見せられたという感じは確かに残っている。そこにあったのは、イギリスという国や、そこに暮らす1人1人が負っている、大きな傷のようなものだ。そこに住む人たちは当然のようにそれとともに生きている。そして服をぺろりとめくって、ニコニコ顔で傷を見せてくれる。そこに「希望」を見出すのはこちらの勝手なセンチメンタリズムに過ぎないのかもしれないが、それもまた、観客としての権利なのだ。
(11月29日午後7時半の回)
◆ガネーシャ VS. 第三帝国
「ガネーシャ VS. 第三帝国」は、<ガネーシャ VS. 第三帝国>というお芝居の製作を巡る内幕ものの形を取っている。製作現場でのあれこれと、<ガネーシャ VS. 第三帝国>の場面とが交互に演じられる。
<ガネーシャ VS. 第三帝国>というのはゾウの頭を持つインドの神ガネーシャが両親の意を受け、シンボルであるスワスチカ(卍)をナチスから取り戻すためにアウシュビッツに、そしてベルリンに乗り込むという、何だか妙にフックのある冒険活劇である。
これを上演しようと試みるのは5人で構成する劇団だが、そこには障害者が参加している。それぞれが実際にどんな人なのかは分からないので、あくまで舞台上でそのように見えた、という前提で説明すれば、マークはやや重い知的障害者である。スコットは情緒や対人関係などに問題を抱える、自閉症スペクトラム(いわゆるアスペルガー症候群)の人らしい。サイモンは歩行に難があり、身体が小さい。演出家のディビッドは障害はなく、大きな筋肉質の身体をして自信家に見える。脚本家のブライアンは太った大柄の人で、障害はないようだ。
このメンバーで作品作りを進めていくが、演技をするのは主にブライアン(ガネーシャ役)、サイモン(主にユダヤ人リーヴァイ役)、ディビッド(主にメンゲレ博士役)の3人で、スコットは演出助手。マークは、というと舞台には出ず、荷物を運んだり幕を引いたりしているのだが、その彼を巡って劇団内に意見対立が起きる。これが面白い。
スコットは「作品の内容を全く理解していないマークは不要だ」と言い募る。ブライアンは「マークが状況を認識していないとしても、彼とこの作品をやりたい」と言う。それに対しディビッドは、あくまでもマークが状況を認識しているという建前を貫いて、マークに対し健常者同様の言葉で話しかけ、意思を確認したりしている。その一方で「マークのような存在が劇団内にいることが目玉なのだ。観客はみんなフリークショーを見にきているのさ」などと言い放つ。
このような亀裂をはらみながら、作品<ガネーシャ VS. 第三帝国>の製作は進む。透明なビニール幕を幾重にも引き、その表面に影絵のように家などを映し出す舞台美術の美しさ。ユダヤ人リーヴァイとガネーシャがアウシュビッツを抜け出し、列車に乗る場面では、ディビッド演じる謎のビジネスマンが話しかけ、引っかけのような質問を繰り出してきて、手に汗を握る。
作品作りの場面に戻ると、強引にでも前に進もうとするディビッドの苦闘ぶりが際立ってくる。ディビッドは自ら言うところのmanipulativeなタイプ。滑らかな弁舌を武器に、脅したりすかしたりほめそやしたり、手段を選ばず人を動かして目的を達成しようとする人だ。しかし演出助手のスコットは全く言うことを聞かない。ピストルで撃たれて倒れる演技で、何度指示しても、そのまま真っ直ぐ倒れず、くるりと90度回転してしまう。「何とかしてリアルな場面にしたいのだ」というディビッドは、あろうことかそのスコットに「そう言っても、できないじゃないか」と言い放たれ、ついに切れる。スコットに殴りかかろうとして皆に抑えられるディビッド。亀裂は決定的となり、作品作りに終止符が打たれる。
このように<ガネーシャ VS. 第三帝国>という作品製作の失敗が描かれているのだが、「ガネーシャ VS. 第三帝国」の方は、はるかに堅牢でしたたかな形で作られていると見える。当日パンフを見ると、作品に対する理解は、キャストによっては、かなり限界があるようだが、出来上がったものを見ると、5人はほぼ同レベルの比重で舞台上に存在している。これは本当に奇跡的なぐらいのバランスで、誰が主役とも、脇役とも、全く言えない感じなのだ。セリフらしいセリフは少ないマーク、しかしその存在感は群を抜いている。サイモンも印象的な俳優である。ブライアンは<ガネーシャ VS. 第三帝国>のヒーロー、ガネーシャ役だが、それ以外では比較的目立たない。憎々しいスコットの存在感は不可欠のもの。一方、<ガネーシャ VS. 第三帝国>の作品作りでみんなを仕切り、引っ張る役どころのディビッドは、「ガネーシャ VS. 第三帝国」の中では、5人のアンサンブルを構成する1人としてつつましく舞台に立っている。
あまり一般論過ぎるかもしれないが、これは現実の世の中によく似ている。会社における社長とか劇団における演出家など、周囲を引っ張る役回りの人が、一歩引いて見ると周囲に支えられていることはよくある。「積極的で言葉数の多い人」とか逆に「目立たなくて他人に従う立場の人」、さらに「頭のいい人」「悪い人」なども、社会における一つの役柄に過ぎない。どこか引きに引いた立場から見れば(それを仮に「神」と言ってもいいが)、みんな一人の俳優のようなもので、それぞれ与えられた役柄をつつましくこなして生きている。「主役」も「脇役」あってのもので、脇役がいなければただの一人芝居だ。
「ガネーシャ VS. 第三帝国」は、作品の全体像を理解できない障害者を俳優として使っているから、演劇として何か特別なところがあるかと言うと、そんなことはない。ものすごく乱暴なことを言えば、いわゆる「健常者」の俳優だって、作品をそれほど理解していない人はたくさんいる。そしてそれが演技にマイナスになるとばかりは言えない。結局のところ演劇の現場は、それぞれがそれぞれの理解を持ち寄っているだけで、お互いに他人の頭の中なんかどうせ分からない。それでも何とかコミュニケーションは取れるし、ちゃんと作品はできる。
「ガネーシャ VS. 第三帝国」は、その「ちょっと極端な例」に過ぎない。丁寧に手間暇かければ当然できるはずのものを、ちゃんとやったというだけのことなのだ。そしてそれが、演劇の可能性の最大限の表現になっているからこそ、素晴らしいのである。
(12月7日午後3時の回)
【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
ワンダーランドスタッフ。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。
・ワンダーランド寄稿一覧:
http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro
【上演記録】
フェスティバル/トーキョー
ゴーヤル・スジャータ「ダンシング・ガール」
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(2013年11月26日‐27日)
振付・出演:ゴーヤル・スジャータ
衣裳:ズツシー・タバーシール
照明:ヤップ・ソッキ
共同製作・マネージメント:インディア・ファンデーション・フォー・アーツ(IFA)、アーディシャクティ、タン・フクエン
東京公演スタッフ
技術監督:佐藤 豪
技術監督アシスタント:加藤由紀子
舞台監督:野島 結
演出部:ソン・ヘイン
照明コーディネート:森下 泰(有限会社ライトシップ)
音響コーディネート:宮崎淳子(有限会社サウンドウィーズ)
後援:インド大使館
主催:フェスティバル/トーキョー、ゴーヤル・スジャータ
料金:自由席(整理番号付)
一般前売 2,000円(当日 +500円)
学生 2,000円、U18(18歳以下)1,000円(前売・当日共通、当日受付にて要学生証提示)
フォースド・エンタテインメント「The Coming Storm – 嵐が来た」
にしすがも創造舎(2013年11月29日‐12月1日)
構成・作:フォースド・エンタテインメント
出演:ロビン・アーサー、フィル・ヘイズ、リチャード・ロウドン、クレール・マーシャル、キャシー・ナデン、テリー・オコネル
演出:ティム・エッチェルス
デザイン:リチャード・ロウドン
照明デザイン:ニガール・エドワード
音響:フィル・ヘイズ、フォースド・エンタテインメント
音響コンサルタント:ジョン・アバリー
演出助手:へスター・チリングワース
制作:ライ・レニー、ジム・ハリスン
共同製作:パクト・ツォルフェライン(エッセン)、アヴィニョン演劇祭、 ゲスナーアレー劇場(チューリッヒ)、タンツクォーター劇場(ウィーン)、レ・スペクタクル・ヴィボン(パリ、ポンピドゥーセンター)、フェスティバル・ドートンヌ(パリ)、LIFT(ロンドン)、バタシー・アート・センター(ロンドン)、シェフィールド・シティ・カウンシル
東京公演スタッフ
技術監督:寅川英司+鴉屋
技術監督アシスタント:河野千鶴
舞台監督:小野哲史
演出部:本多 桜
美術コーディネート:福島奈央花
小道具コーディネート:長谷川ちえ、横川奈保子
照明コーディネート:佐々木真喜子 (株式会社ファクター)
音響コーディネート:相川 晶 (有限会社サウンドウィーズ)
字幕:幕内 覚 (舞台字幕/映像 まくうち)
字幕・翻訳:新井知行
特別協力:ブリティッシュ・カウンシル
主催フェスティバル/トーキョー
料金:自由席(整理番号付)
一般前売 4,500円(当日 +500円)
学生 3,000円、U18(18歳以下)1,000円(前売・当日共通、当日受付にて要学生証提示)
バック・トゥ・バック・シアター「ガネーシャ VS. 第三帝国」
東京芸術劇場プレイハウス(2013年12月6日‐8日)
演出:ブルース・グラッドウィン
出演:マーク・ディーンズ、サイモン・ラフティ、スコット・プライス、ブライアン・ティリー、ディヴィット・ウッズ
協同創作:ブルース・グラッドウィン、マーク・ディーンズ、マルシーア・ファーガソン、ニック・ホランド、サイモン・ラフティ、サラ・メインワリング、スコット・プライス、ケイト・スーラン、ブライアン・テリー、ディビット・ウッズ
照明デザイン:アンドリュー・リビングストーン
舞台美術:マーク・カフバートン
デザイン&アニメーション:リアン・ヒンキリー
作曲家:ヨハン・ヨハンソン
衣裳:大谷 汐
協力:オーストラリア・アーツ・カウンシル、アーツ・ヴィクトリア、メルボルン・フェスティバル、マルトハウス劇場、メルボルン市、シドニー・メイヤー・ファンド、キール財団、キット・ダントン・フェローシップ2009、ナショナル・シアター・スタジオ(ロンドン)、ジーロング・パフォーミング・アートセンター、ドイツ文化センター
東京公演スタッフ
技術監督:寅川英司+鴉屋
技術監督アシスタント:河野千鶴
舞台監督:渡部景介
演出部:櫻井健太郎
照明コーディネート:佐々木真喜子 (株式会社ファクター)
音響コーディネート:相川 晶 (有限会社サウンドウィーズ)
字幕:幕内 覚 (舞台字幕/映像 まくうち)
字幕・翻訳:エグリントンみか
助成:豪日交流基金
後援:オーストラリア大使館
協力:イソップ・ジャパン株式会社
主催:フェスティバル/トーキョー
料金:指定席
一般前売 4,500円(当日 +500円)
学生 3,000円、U18(18歳以下)1,000円(前売・当日共通、当日受付にて要学生証提示)