◇墨田区在住アトレウス家 Part 1&2/豊島区在住アトレウス家/三宅島在住アトレウス家《山手篇》《三宅島篇》

◎アトレウス家の過ごし方 その3(座談会)
斉島明/中村みなみ/日夏ユタカ/廣澤梓

■わりと普通になってしまった

廣澤:10月にワンダーランドに掲載した「アトレウス家の過ごし方」その1、その2は、2010年より始まった「アトレウス家」シリーズについて、それらを体験した観客の側から、思い思いに過ごした時間を示し、また考えることはできないか、と企画したものです。

アトレウス家の過ごし方 その1
アトレウス家の過ごし方 その2

 今日はその執筆メンバーに集まっていただきました。この座談会について、まずは発案者の日夏さんよりお話いただけますか。

日夏:もともと、「アトレウス家」劇評の話があったときに、作品がそうであったように、複層的でちょっと変な構造にできないかというのがあったと思うんですよ。でも、できたものを見ると、わりと普通になってしまった感があって。
 今回はそれぞれが担当パートをもつ形でできあがって、他の3人の体験を読むこと自体に気づきはたくさんありましたが、共同で発表するとなった場合に、他の回についても言いたくなってしまった。それぞれが独自に書いたことが、公式の共同見解にみえたらちょっと嫌だな、というのがあったんです。なので機会があれば、補足的にコメントを加えてみたいな、と。
 また、劇評ではわれわれが作品をどう受け止めたかを示したかったんですけど、ここでは作り手の思惑や意図、発信しようとしていたこととの差異についても考えられればいいなあ、と思っています。

廣澤:斉島さん、中村さんは「過ごし方」を振り返っていかがですか?

斉島:日夏さんのご指摘のとおり、それぞれ書いただけでは4つ積み木を積んだだけで、その間の交流がなかったのではないか、と感じていました。互いの担当した作品について、垣根を飛び越えた話がその1、その2ではできなかった。例えば『三宅島在住アトレウス家《山手篇》』はずっと古民家にいるから、一つ前の豊島よりも、その前の墨田に似た印象がありますよね。そういったことも今日は話せればいいなと。

中村:各劇評を読んでみて、いちばん自分と違う体験をしているなと思ったのが廣澤さんの『豊島区在住アトレウス家』についてでした。パフォーマーがいないと書いてありましたけど、わたしは会場内の小冊子に示されていた散歩コースで、散歩するエレクトラらしき人の姿を見ていたんですね。見ていれば合っているとか見逃したら間違っているという話ではなく、まず受け取り方がまったく異なっていることに驚きました。

廣澤:今年3月に発行された長島確さんの著書『アトレウス家の建て方』(公益財団法人東京都歴史文化財団東京文化発信プロジェクト室発行、以下『建て方』)は、「アトレウス家」の3年間の記録集ですが、それを読んで小冊子にパフォーマーを含めた仕掛けがあったということを後から知りました。けれど、上演時点では気づいていないわけですから、中村さんとまったく作品の印象が違いますよね。

斉島:あ、僕も豊島ではパフォーマーに気づきませんでした。

中村:そうなんですか? わたしはエレクトラ以外にもこのひと多分パフォーマーだなって思うひとがいて、目が合ったりすると勝手にそわそわしてました(笑)。でも確かに服も普段着だし、なにか台詞を喋るわけでもないし、気がつかない観客も結構いたかもしれませんね。

日夏:ぼくも、散歩するエクレトラについていって建物の外周を1周しています。他のパフォーマーも座っているだけでもかなり気になりましたけど、もしかしたら途中で演出プランが変更になっている可能性もありそうですね。あるいは、曜日によって広場にいる一般のひとの数がちがって、見え方がかなりちがったとか。というのも、じぶんの観た日だと、ちょっと気づかない状況が想像できないんですよね……。

廣澤:そういう部分もふくめ、今回の劇評について4人でやりました、というのはいろいろな角度から「アトレウス家」に光を当てられてよかったんじゃないでしょうか。ボリューム的にも目をひくものになりましたし。観客の体験の記録を残すという観点でもありだったかと。けれど、これらを作品を見てない人が楽しんで読めるか、ということについてはどうだったかなと思う部分もあります。

日夏:さらに前提として、すでに作品について詳細に記されている『建て方』から離れたいということもあって、もしかしたら、読者が楽しむにはこれもいっしょに読まないといけないものになっていたかも? という不安もありますよね。われわれはもちろん『建て方』を踏まえて書いているのだけれど、そこから逃れようともしているから、ちょっとじぶんたちだけの物語を主張しているだけのように感じられるかもしれない、みたいな。

廣澤:作り手側が思っていた以上に、観客が勝手に盛り上がってしまったという側面があるのかもしれないですね。でも、そのようにさせるものもこの作品にはあったのではないでしょうか。そういった振れ幅というか、観客側が経験を組み立てていく余地、余白みたいなものが多く含まれていたのではないかと。それが今回の執筆の動機のひとつであったように思います。

■まじめな観客

日夏:まず中村さんの『墨田区在住アトレウス家』の劇評を読んだときに、家の廊下をキシキシいわせて勝手に遊んでいて、一生懸命見ないという楽しみ方は、じぶんと比較して自由でいいなあ、と思いました。じぶんは欲望に忠実に気ままに楽しんでいるつもりでいたのだけど、単なるまじめな観客だと思った。どこかで、これはこう見るべきだという枠組みを決めていたのではないかと。

廣澤:「なにひとつ見逃すまい」としていたという記述がありましたね。

日夏:そうそう(苦笑)。豊島についても、最初から最後まで寝てたっていう感想も見たんですけど、じぶんにはできない。僕はいろいろやりたくなってしまうタイプで。
 受付で鍵を最初に渡されたもので、この鍵を開けられる場所があるのではないかと、館内を歩き回りました。どこかにその鍵を使える場所があるんじゃないかって(一同驚愕)。ロッカーだったり下駄箱だったり、とにかくなにかあれば、鍵を入れてみる。ちょっと偏執狂的な真面目さですね。1時間くらいで開けられないことがわかったけど。楽しかったですよ、施設内をいろいろモチベーションをもって見られて。

廣澤:とすると、劇評の最後に豊島で老人に姿を変えることになると書いていたのとは、ずいぶん印象が違いますね。

日夏:歩き回っていたときは平日の昼間で、施設を利用しているのは子どもや若いお母さんなんですよ。そんななか、鍵を持ってうろうろしている人物は不審なわけですが、とくに警戒されるのではなく、どちらかというといないものとして扱われていたような気がしました。日常という空間がすぐ傍で重ねられた状態で、余所からじぶんが捨て置かれているような感覚が、老人ホームにいるように感じられたんです。
 あと最初の段階で、豊島で与えられた個室は、快適な空間づくりはしてあったんですが、横たわってみると、一晩はいられないなと思いました。床のうえに銀色のアウトドア用のシートと布が1枚敷かれていただけで、当日、腰を痛めていたので辛かったんですよね。だから、この体験を被災地の避難所として考えた場合、これは長期間暮らしていくのは無理だな、と。そのあたりも、老人あるいは病人といった弱者に気持ちが寄っていく原因でしたね。

廣澤:それで言うと豊島については、すぐ隣に住民の人がいるのに、全く彼らとは観客は交わらないですよね。そのあたりのひとと喋った方いますか?(一同首を振る)住民どころか、観客同士も喋らない距離感だったように思います。
 観客がある程度能動的に動き見聞きしていかなければ何も起こらないという意味において、豊島については参加型演劇という側面が強かったと捉えています。なので私は劇評において観客ではなく、「参加者」と書いているのですが。でも、観客のどこかで線引きをして、受身である姿勢も利用された作品でもあったのではないでしょうか。

日夏:でも観客にとっては、他の観客がキャストに見えるということはあったでしょう。たとえばじぶんの場合、おなじ回に「悪魔のしるし」の危口統之さんと森翔太さん(2012年に脱退)が観客でいたんですけど、彼らは受身の役割ではないものを発していて、幾度も出演者だと錯覚しました(笑)。

中村:キャストではないひとがキャストのように見えるという話で、わたしが面白いと感じたのは、通りすがりの子どもとお母さんが階段を下りてくる様を、観客もスタッフもみんなして意味ありげな眼差しで見ていた瞬間でした。住民にとっては何ら特別なことではないのに、なんかこのひとたちには別のものが見えているぞって。不思議な光景でした。「アトレウス家」の演劇っていろいろな要素がはっきりと二分できないというか、境目がわからなくなる瞬間がある気がします。

日夏:境目の話をもう少しひろげると、建物の中だけじゃない、というのも重要ですよね。たとえば『墨田区在住アトレウス家』だと、中村さんが劇評で書いているスカイツリーまで歩いていったこと、じつはぼくもPart 2のときにおなじことをしているんですよ。あるいはPart 1でも、近くにある向島百花園という庭園にいったり、曳舟の古民家カフェにも寄ったりしました。
 でも、当時のTwitterを読んだかぎりでは、他のひとの感想が外になくて、演劇の中でのことしか書いてなかった。劇場の中でやるものではないのに、あたかも家を劇場のように捉えている。しかも、なぜあのあたりに古い家屋があるかという話が劇中にあって、東京大空襲で焼け残って古い家屋が残っている地域である、とか聞いてたので、やっぱり周りも歩くよなーと思ったんですよね。

廣澤:中村さんの、建物の中と外の時間をそれぞれ書いているのはよかったですよね。

中村:ありがとうございます。墨田Part 1のことを書こうとしたときに、家の中での出来事ももちろんなのですが、すごく暑い日だったなあとか帰りにスカイツリーに寄ったなあとかいう記憶がまず思い出されて。それは完全に作品外の個人的な話なんですけど、観劇前後も含めた時間が自分の「アトレウス家」体験だと思ったので。

日夏:……だから悔しかったんですよね。それがやりたかったのに、自分のパートでは建物の中がいかに劇的だったかという話に終始してしまった。切り取り方がそうなってしまったけれど、「アトレウス家」の楽しみ方はそれだけじゃない。それなのに、既成のフォーマットにのろうとしてしまう、作り手側の意図に素直に従ってしまうじぶんに、がっかりでした(笑)。とくに中村さんや廣澤さんをみてると。もちろん、スカイツリー体験自体、企みの一部かもしれないのですが。

【「墨田区在住アトレウス家」Part 1より。Photo: Ryohei Tomita 禁無断転載】
【「墨田区在住アトレウス家」Part 1より。Photo: Ryohei Tomita 禁無断転載】

斉島:そういう作っているひと側の意図したもの、観客に向けて用意されたものはぜんぶ見たい、みたいな欲求は僕もありました。豊島では5行くらいずつの、短い物語が書かれた小冊子が何パターンも作られてましたよね。最初にひとり一冊配られて、他の冊子をみつけたら交換していいことになってた。各部屋にすこしずつ、たまにたくさん、置かれていましたけど、それを全部読もうとして。

廣澤:ええと、わたし3冊しか読んでない(笑)。たまたま目にしたものだけで、体験を構成したいということだったのかな、と。

中村:わたしは積極的にコンプリートしようとはしなかったけど、けっこう読んだ方だと思います。と言うより、豊島は小冊子を拾っていくのがメインだと思ってました。ずっと寝て過ごすなんて思いつきもしなかった(笑)。
 小冊子に書いてあるもの、たとえば鳩の彫刻や隈取りの顔が描かれたポスターを探してみたり、書いてある場所に行ってみたり、エレクトラの散歩コースを追体験的に歩いてみたり……。拾ったことばが現実とふっとリンクする瞬間が楽しくて仕方なかった覚えがあります。元々ことばを読んでいろいろ想像するのが好きだからですかね? 結果的に、墨田Part 1のときと比べて豊島ではだいぶまじめな観客になっていたかもしれません。

■窮屈に向かいたくない

廣澤:「アトレウス家」について話をしていると、豊島の話になりがちだという印象があります。なぜ話したい欲を喚起されるのか。この4人について言うと、唯一全員見ているからということも関係あるのかも? それとも、自分は作品内でこうしました、と言いたいのかな?

日夏:いちばん観客が経験を共有できていないからじゃないですか?

廣澤:私は何度かある特定の作品を見た観客に呼びかけて「語る会」を主催しているけど、ほぼこういった観客が何らかのアクションをして、それによってまるで印象が異なってしまうような作品ばかりやりたくなってしまう。みんなが体験していることがあまりにも違いすぎる、そこから得たものもバラバラといったときに、それらを共有することで、その体験を生む枠組みとしての作品をより理解できるような気がします。

斉島:豊島については、これまでひとと話したり目にしたりした感想とか、この座談会でもそうですが、あまり震災に関連付けて語ってないな、ちょっと語らなすぎているな、と思います。終演後に配られる当日パンフレットでも震災との関連が語られていますよね。

日夏:ぼくは豊島のとき、被災者として、戦争の難民として、あるいは老人ホームの老人としてその場で過ごしていて、それは当然だと思ってたから、あえて言わなかったんだけど。だから、こんなに気にしていないひとがいるとは、と廣澤さんの話を聞いて驚きました(笑)。

廣澤:じつは上演時点ではまったく震災を想像していませんでした。え、そんな作品だったんですか、という。結果的には劇評はまったく無関係というわけではなくて、やっぱり影響下にあったのだなとじぶんで気付けてよかったですけど。

中村:わたしも震災とは結びつけてなかったです。考えないようにしてただけかもしれませんけど……。いまでもまだ豊島での体験と震災のイメージは直結していないです、わたしの中では。

日夏:じぶんの場合は、はじめに、受付で鍵を渡されて部屋にいくときのそっけない対応の段階で、お役所仕事だなあ、あ、実際の被災地の状況を模しているのか、と思いました。そういえば、墨田を見てとても気にいったので、豊島についてはMonthly bricommend(藤原ちからさんによるパーソナルメディア「BricolaQ」内の、演劇の紹介コーナーで日夏も執筆している)におすすめを書いたのだけれど、それを読んで観に行ったというひとが「最初の不親切さにそのまま帰ろうと思った」と言ってました(笑)。結果的にはそのひとも楽しんでもらえたみたいですけど、作り手側があえて高めに設定したと思われる入口のハードルの問題はあって、「アトレウス家」のそれは予想以上に高い。
 たとえば墨田Part 1だって、僕が見にいった段階では、駅に待ち合わせで、何の目印もないひとに話しかけて地図をもらうことになっていました。さらに、玄関からでなく勝手口から入るとか、地図をもらっていても入口すらわかりにくいのに、家の外には一切スタッフを配置してなかったんですよ、おそらく意図的に。

廣澤:そこまで能動的になった上でやってきたひとだと、あとはいろいろ自分で見聞きしてくれる、ということでしょうか。

日夏:だと思います。とはいえ、観客の自主性にまかせて完全に野放しにしているわけではないんですよね。たとえば豊島だと、あの場所が「被災地での仮住まい」と想定されているとして、でも本当に避難していたとしたら、周りと積極的にコミュニケーションをとっていくと思う。でも、それはやっちゃいけないような感じが作られていた。

廣澤:劇中で「ここで生活するつもりでお過ごしください。」との記載を目にするのですが、実際に住むとなったらまずおばちゃんには話するじゃないですか(笑)。でも、それはしないんだよな、と。その距離感が東京っぽさという風にわたしは感じましたね。

斉島:コミュニケーションといえば、東京デスロック『モラトリアム』(2012年5月、横浜のSTスポットにて上演。仕切りのないひと部屋の閉鎖空間で 8時間を観客・出演者が過ごす)では観客同士の会話が起きていました。それが豊島で起きなかったのは何故だったのか。
 たとえば観客が部屋を与えられることも関係するのかも。何号室の鍵、って言いながらひとり1スペースをあてがわれるじゃないですか、椅子ひとつとか、畳1枚ぶんくらいのスペースを。廣澤さんの記事でも触れられてましたが、自分の場所、他人の場所、みたいな意識が立ち上がりますよね。

中村:他の観客のこと、ぜんぜん気にしなかったな。寝てるひとがいるなあ、と思ったくらい。

日夏:ぼくが豊島を見たとき、出演者同士は後半になって喋ってたりもしたので、もしかしたら枠組みの中では観客がもう少し密になる感じは想定していたのかもしれないですね。

廣澤:先ほどの中村さんの見方を羨ましく思うことについてですけど、日夏さんはなぜ自由度が高い観客であるほうがいいと思うんですか?

日夏:え、窮屈なのイヤじゃないですか?(笑)うん、窮屈に向かいたくない。それは想像力を大きな武器とする演劇の見方としてふさわしくないな、と。なんてことを思っていたら、最近、身体的な窮屈さにも抵抗を感じはじめてもいますけど(笑)。

廣澤:そう!演劇こそ、あんな窮屈なものはないですよ。時間通りにいかなきゃいけないし、椅子に何時間も縛り付けられて、何がいいんですかね、あんなもの(笑)。でも、そういうのではない演劇が見たいというのは、すごくある。劇場やそれに準ずる状態でみることの魅力はあるけれど、そうではないところに立ち上がる演劇に出会いたくて、「アトレウス家」はそのひとつの形を示してくれるものに感じられました。

■誤読がどれくらい可能か

廣澤:10月に行われた「アトレウス家のとらえ方」(リサーチプロジェクトの検証:記録=共有の手法を探る)について話をしたいのですが。上映会とトークの二部構成になったイベントで、会場は『豊島区在住アトレウス家』が行われたとしまアートステーションZ。豊島の上演の記録映像を、当時と同じ場所でしかも部屋を再現した状態で見るといったものでした。

中村:わたし、行きました。再現された部屋に入った瞬間、「ここ知ってる」と。からだが覚えているというか、帰ってきた感がありましたね。部屋の暗さや「寝てもいい」という状況がその感覚を呼びおこしたように思います。記録映像を見ることで当時見逃したものを補完できるかなと予想して行ったのですが、実際はほとんど映像の細部は見ずにのんびりと過ごしてしまいました。

廣澤:上映会の後にあったトークでは、長島さんと映像を担当した須藤崇規さんのお話を聞いたのですが、私の観客としての感覚とは全然違うなとあらためて思いました。記録映像は監視カメラのような高いところから撮られた俯瞰ショット。異なる日の違う部屋の様子を撮った6つの映像をひと目で見られるようにレイアウトされていました。この6分割の映像をその時間の記録だとするのは、作ったひとの感覚だなと。

斉島:作ったひとと俯瞰=上演全体を見ているというのと、観客が下から=自分の目が見たもので上演を構成している、というのは、そうとう違う視点ですよね。

日夏:ぼくは上映会を観にいけなかったのですが、豊島での2時間に関していうと、終盤は観客の多くが会場の上へ上へとのぼっていた記憶があります。全体を俯瞰したくなっていったのか、じぶんが観られる側から観る側に転じたくなったのか、ひとそれぞれでしょうけど。

廣澤:上映について「世界を再現するのと体験を再現するのは違うという話」というつぶやきを見て、それはなるほどなーと。

中村:こういういわゆる参加型の演劇では、必ずしも作り手の意図と同じものを受け取らなくてもいいと思っています。全部を正しく理解しなくてもよくて、それよりもそのひと自身の知覚をひろげる体験、『建て方』で長島さんは「スイッチが入る」という言い方をしていますけど、演劇表現の枠を超えてそのひと自身のからだに働きかけるなにかを大事にするべきという気がします。

【「豊島区在住アトレウス家」より。Photo: Ryohei Tomita 禁無断転載】
【「豊島区在住アトレウス家」より。Photo: Ryohei Tomita 禁無断転載】

日夏:さっきから参加型という話がでているけれど、ちょっとひっかかっているのは参加型じゃない演劇はないということで。そんな演劇があったら教えてくれと言いたい。演劇はすべからく参加型だと思うんだけど、僕以外の3人は劇場でないことと参加型であるということを重視しているように感じました。

廣澤:劇場だと観客はある方向からなら見ることができるし、また見せる側としてもその方向から見られることを想定して作るということができる。それに対して劇場でないところだと、どうしても見えないものができてしまう。見逃すし聞き逃すということを含めた演劇のあり方に興味があります。まあ劇場でだって観客はよそ見したり寝たりするんだけど(笑)。
 演劇って発信の場にしてはノイズが多いので、そういうものを含んだ上で理解したいんですよ。だから正直、作り手のこう読んで欲しいという気持ちにそんなに沿わなければいけないの? と思ったりする(笑)。

中村:作り手と観客の関係についてで、以前4人の間のメールに「見てほしいのか見てほしくないのかどっちなんだ?」というやりとりがあったことを思い出しました。「アトレウス家」の演劇は観客を拒絶してない、でも全部を余さず見られるつくりにもなっていない。墨田Part 2ではほとんどの観客が気づかないシーンもあったんですよね。豊島は2時間の枠がありましたけど、実際には観客がいつ来ていつ帰ってもいいような構造でしたし。

日夏:入退場自由とはなってましたが、基本は2時間フルで見て欲しいと思って作ってる作品だとは感じましたけどね(笑)。そして「見られる/見られない」についていえば、長島さんが同じ時期に関わっていた中野成樹+フランケンズ『ゆめみたい(2LP)』(2011年12月、川崎市アートセンターアルテリオ小劇場にて上演)では、巨大な壁が、舞台のみならず客席の前方部分の左右をも分断するように設置されていて、前方に座った観客はステージの半分はまったく見られなかった。

中村:あれも観客の想像力のスイッチを入れることが狙いだったように思います。座席を選んだ瞬間にひとりひとりの世界が絶対的に変わってしまう。見える部分が減るというより、じぶんには見えない場所があるんだということが浮かび上がっていたような。

日夏:そうそう。もともと、そんなに観客は演劇を共有できてないですよね。どんな舞台でも、観る場所によって体験はかなり違ってくる。でも、それは前提なんだけど、さきほどの廣澤さんの話にもどすと、ぼくはあくまでも向こうからくるものを受け取った上で決めたい。向こうからやってくるものを拒絶するのは違って、受け取ろうという意思はあったほうがいいんじゃないかなあ。

廣澤:ちょっと言い過ぎました。誤読したいひとみたいになってしまったけど、そういうつもりはないですよ……。もちろん黙って話を聞くことはするけれど、そこから観客としてその場にいることで出来事を生み出したり、またそこからどう考えたかということに創造性を見出したいということです。

日夏:料理にたとえたら、基本的に多くの演劇はコース料理なんだけど、完全にお任せではなく、できればプリフィックス(前菜・メイン・デザートなどが数種類用意されていて選択できる)のほうが、いまはいいのかもしれない。あまり受身にならず、多少の選択肢が用意されているほうが。もちろん、アラカルトで注文できたり、材料だけ揃えられていてじぶんで調理するなんてスタイルもあるだろうけど、それはまたハードルが高くなりすぎちゃうから(笑)。

斉島:誤読したいの、いいと思いますけど(笑)。誤読がどれくらい可能か、ということだと思います。誤読できる余地を広げることで、もう少し面白い見方ができるかもしれない。作り手の意図関係なくすべて勝手に見させてくれ、ということではなくて、想像力をはたらかせる余地をすこし広く取ってもらう。それによって作り手が意図しなかったものを見られたりするかもしれない。

廣澤:……なんで演劇のことを考えるときに、いつも劇場の場合はこうだということ前提に話すしかないのだろう。普通の劇場での演劇はこうなのに、そうじゃないところではこうだというのは面倒くさいな(笑)。
 普段は取り立てて考えないことを意識化する方法のひとつとして、演劇という考え方があるとすると、劇場でやるということは単に物理的に、少し高いところでやることでみんなが見られるし考えやすいということだと思うんですよね。

中村:わたしは「アトレウス家」の墨田Part 1がはじめて体験した非劇場型の演劇だったんです。PortBなど、劇場外で行われる演劇があるというのは知ってたんですけど。「アトレウス家」を体験して以降もっとも変わったのは、じぶん自身の感じたものを信じていいんだと思えるようになったことでした。客席に座っておとなしく物語を受け取って、正解通りに解釈しなきゃダメ、みたいな演劇にちょっとうんざりしてたんですよね。でも、演劇ってそれだけじゃないんだと。作り手が演劇のどういう要素をピックアップしているのかを想像するのが面白くて、演劇という概念自体をひろく感じられるようになりました。
 そういう意味では『みずうみのかもめ』(2010年9月に池袋のあうるすぽっとで上演された、大谷能生×中野成樹『長短調(または眺め身近め)』のサウンドトラック)もすごいですよね。CDを聴きながら登場人物たちの物語が頭の中で始まったら、それもう演劇じゃない? って思えちゃう感じとか。

斉島:演劇のどの部分を演劇と呼んでしまうかによって、バリエーションを広げる方向が変わるのが魅力だと思っています。たとえば観客の視座を規定するのも演劇で、だから町やトークショー、ビデオを見せることも演劇になり得ますよね。ダンスとか音楽なんかとも関係が古いですけど、そういう他のものを呼びこむプラットフォーム、ツールとしても機能できる。

■なぜ泊まっていけと言わないのだろうか

日夏:いますでに90分話していて、うち60分は豊島の話という事実は揺るがない(笑)。反対にあまり触れられていない三宅島の立場が気になります。

斉島:では三宅島《山手篇》の話をします(笑)。会場は旧平櫛田中邸という古民家で、話のなかでも家がおもな舞台ですよね。僕は観られなかったんですが、墨田は Part1・2とも「旧アトレウス家」が舞台で、やはり古民家です。で、観客は家その場所に親しんで過ごすことになる。
 同様に古民家(古民家を改装したギャラリーゆうど)で上演された演劇に、甘もの会『はだしのこどもはにわとりだ』(2012年7月)があります。落雅季子さんがワンダーランドに劇評を寄せていて、「劇空間としてほとんど完璧な場所にじぶんが観客として存在することを俯瞰してしまうと、かえってじぶんたちがそこにいることの違和感が明らかになる」という指摘があるんですね。ほとんど完璧な空間だからこそ、観客が同時にそこにいることがおかしいという。
 三宅島も古民家で上演される作品ですが、そこで生じるのは場所への違和感よりもむしろ共感に近かった。観客が異物なのではなく、そこにいることが許されている感というか。そういうものを特徴的に感じました。

日夏:ぼくの場合、三宅島《山手篇》については、他の作品とくらべるとアトレウス家の中にはいった感じがしないんだよなあ。たしかに、異物ではなかったし、許されていたと思う。だからこそ逆に、じぶんが観客というよりも、単なる古い家にすんなり受け入れられてしまって摩擦がなかったというか……。

斉島:よその古い家にお邪魔しただけ、みたいな感じですか? 古い建物を舞台にすると、そこに宿るある種の生々しさみたいなものを使うこともできるし、無視してプレーンな舞台装置として使うこともできますよね。観客がお邪魔した場所はどうだったのだろう。
 墨田で特に顕著ですが、アトレウス家では墨田も三宅島《山手篇》《三宅島篇》も、生々しさから素直に歴史を導くのでも無視するのでもなく、そこに嘘を重ねます。家に残ったかつての生活の痕跡を「アトレウス家の人々が残したもの」として上塗りするんだけど、塗りつぶしはしない。

日夏:あ、そうか。ぼくにとってのアトレウス家は、そこがじぶんが住んでいる場所として感じられるかどうか、なんですね。でも、三宅島はお客様だった。じぶんに与えられた居場所やスタンスがなかった。墨田は子ども、豊島は老人……。あれ、ぼくにとっての演劇って、役者!?(笑) でも、三宅島の《山手篇》のあのパフォーマンスで三宅島に行けた感じがしなかった。行きたかったなあ…。

廣澤:……乗船についてパフォーマンスがあったという話は後になって聞いたのですが、じつは私はそれを体験していない。観劇のチケットがフェリーのチケットのような仕様になっているので、どこかで使うんだろうなと思っていたけど、最後まで使わなかった。だって誰もアナウンスしてくれなかったんですよ!(笑)

斉島:え、船に乗らないひとがいたとは(笑)。

廣澤:観客はみんな、あのときに三宅島に行ったことになっているんですか?

斉島:足跡をつけられたというか、関連付けられたとは思うけど、島に行ったとは思ってないですよ。

中村:行ったことにはなってないですね。コンセプトどおり「都心にいながら島を想像」した感じ。で、これは実際行かなきゃ、と三宅島行きの決め手になりました。

日夏:あれ、そのあとのシーンは三宅島ということになってませんでした? もしかしたらじぶんも、船に乗らないひとに驚いてる場合じゃないかも(笑)。いやあ、しかし、じぶんがもし作る側になったら不安だなあ。こういう、われわれみたいなひとたちに、どう届かせればいいのか…。

廣澤:また、そういうひとでも、この作品よかった、とかいうからね。

中村:こういうつくりかたをしている場合、乗らないひとがいることもたぶん想定内なんでしょうけど……。

廣澤:とか言われると、なんでも想定内ということへの苛立ちはあるな(笑)。
 それはさておき、非劇場といった場合に、サイトスペシフィックに向かうということはあると思うんですが、その場合の使い方として、先ほど斉島さんが言っていたような、その場所特有な時間を含めて使う場合と、切って使う場合とがありますよね。平櫛田中邸については、平櫛のアトリエであったということは、とりあえず頭から外しても成立する。でも、豊島の場合は切れないわけですよ。施設の利用者という演劇に乗っていないひとがそこにいるということについて考えたい。

斉島:そういう、演劇に乗らない人もいる場所で、演劇空間がどこからどこまで広がっているのか、ということには興味があります。三宅島の島篇で例えるなら、広大な舞台としての道路と山が、豊島でいう施設みたいなものとしてあって、その一部分を役者・観客が占めていたのか。それともそれは背景の書割のようなもので、実際には役者・観客がいる周囲だけが演劇空間として成立していたのか。演劇に乗っていない人が現れたらそれがわかったのかも。島民には上演中会えなかったから、わからないけど。

【「三宅島在住アトレウス家」《三宅島篇》より。Photo: Ryohei Tomita 禁無断転載】
【「三宅島在住アトレウス家」《三宅島篇》より。Photo: Ryohei Tomita 禁無断転載】

廣澤:借景的な使い方自体は悪いことではないですよね。全然関係ない人を見て演劇であるな、と思ったときに目を差し向けることの暴力というのはあるだろう、と。個人的なレベルにとどめるならいいけれど、多くの人が1人を見るときはどうだろう。非劇場の機会は増えているけれど、こういう問題はある。東京だと、それはありだと思うんだけれど。

中村:え、東京ではありなんですか?

日夏:東京の人は何が起きても基本無視しますからね。実際、豊島で周囲からすておかれたと感じたように。

斉島:儀礼的無関心というやつですね。『東京ノート』座談会でも話題になりました。人が多すぎる環境での、マナーとしての無関心。

廣澤:例えばよそからきたひとが生活圏に入ってきて見世物的に見る、ということは問題になりますよね。

日夏:おなじ共同体でも、観光客にきてほしいひと/職種と、生活を乱されたくないひとはつねに存在しますからね。でも、そこで暮らしているひとの存在なくては成立しにくい作品も少なくない……。

廣澤:まちをつかった場合、そういうところまで踏み込みますよね。そして、その機会は増えている。作家がどうやってその線引きをしていくのかには興味があるし、そこにはよそからはこう見えるという観客の目が必要だと思います。

中村:特別なところに来ているんだって、なんとなく気が大きくなっちゃう感じはあるかもしれませんね。

日夏:それでいうと、ひとつひっかかっているのは、三宅島は行くの大変なのに、朝一の便で行って、夜の便で帰るみたいなことをわりと効率重視で、作り手側がTwitterやブログで薦めていたのが、なんで泊まっていけと言わないのだろうかと。あの作品は三宅島に連れて行くのが目的ではないのかと。

中村:あ、そういえば今では京都とかにも観に行くようになりましたけど、演劇を観るために遠出したのはこの三宅島がはじめてでした。深夜にフェリーで出発して、朝の5時に三宅島に着いて、その日の午後の船でまた帰るという……。いま考えるとかなり異様ですね(笑)。金銭的都合で宿泊は断念したんですけど、泊まってみたかったなーとも思います。
 わたしにとっては三宅島に行くと決めて、実際行って、山を登ったすべての時間が観劇体験と言えるものなんですけど、島に行くことや山を登ることは「移動」で、山道を登ったさきで見たパフォーマンスを上演の本番と捉えた観客もいたんじゃないかなと思うんですよね。

斉島:山登り演劇だ、みたいなことも事前に広報してたし、さすがにそこまでのひとはいないと思うけど(笑)。 フェリーで移動する時間もそのまま《山手篇》の、船に乗る時間の追体験でもありますよね。フェリーみたいなどうしようもなく不自由で時間がかかる旅行のあいだ、まるっとアガメムノン(アトレウス家の人物。《山手篇》では三宅島に渡ったことになっている)の後を追っているような気でいられるのは楽しかったですよ。船内の自販機で人生ゲームが売られてるくらい、ほんらい退屈なはずの船旅なのに。

日夏:わっ、自販機に人生ゲーム! それだけでもう、旅した感じあるなあ。前言撤回します(笑)。とはいえ演劇を観るひとが、なにかを観るためにどこかに行くけれど、それが終わったらすぐ帰ってくるみたいなことにはやっぱり違和感があります。そんな好奇心があるんだったら、もう少し広げたらどうかと。もちろん、時間的、金銭的な制約はあるのは承知のうえで。

廣澤:誰に向けてやるかということを考えた場合、《三宅島》篇については東京の中心部にいる人たちであって、たとえ時間は短くても島での時間を経験して欲しいということだったのでしょうか。
 ただそこに行かないと見られないために、経験を獲得することに熱狂するあまり、作品を見ることが目的になってしまってはいないかということは、考えるところです。その点、今回は半年間、4人で書くためのやりとりを続けてこれて有意義な時間だったと思います。みなさんありがとうございました。

中村:えっ、12月の淡路島の話は?

日夏:あっ

斉島:あっ。

廣澤:じゃあ!

(つづく)

(11月4日 新宿の喫茶店にて)

【略歴】
斉島明(さいとう・あきら)
 1985年生まれ。東京都三多摩出身、東京都新宿区在住。出版社勤務。PortB『完全避難マニュアル 東京版』から演劇に興味を持ちはじめる。fuzzy dialogue主宰。 twitter: @fuzzkey
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/saito-akira/

中村みなみ(なかむら・みなみ)
 1990年生まれ。立教大学院映像身体学専攻(修士課程)在学中。「長島確のつくりかた研究所」研究員。2008年頃から東京の小劇場を中心に演劇をみています。twitter: @dusmin
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nakamura-minami/

日夏ユタカ(ひなつ・ゆたか)
 日大芸術学部卒。フリーライター。80年代小劇場ブームを観客&劇団制作として体感。21世紀になってからふたたび演劇の魅力を再発見した、出戻り組。BricolaQ内の「マンスリーブリコメンド」で演劇のオススメも行っている。twitter: @hinatsugurashi
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hinatsu-yutaka/

廣澤梓(ひろさわ・あずさ)
 1985年生まれ。山口県下関市出身、神奈川県横浜市在住。2008年より百貨店勤務。2010年秋よりTwitter上で「イチゲキ」開始。2012年秋には「Blog Camp in F/T」に参加。2013年1月よりワンダーランド編集部に参加。twitter: @sarauriaz
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hirosawa-azusa/

「◇墨田区在住アトレウス家 Part 1&2/豊島区在住アトレウス家/三宅島在住アトレウス家《山手篇》《三宅島篇》」への1件のフィードバック

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