サンプル「永い遠足」

◎変態をつづける者たち
 三浦彩歌

 フェスティバル/トーキョー13(F/T13)の主催プログラムの一つである『永い遠足』は、フェスティバルのテーマである「物語を旅する」という観点から見ても、これまでの松井周の発言からしても、とても納得のいく作品であったように思える。(註)

 ノブオとその母チヨコの近親相姦によって誕生し赤ちゃんポストに入れられた女の子は、タケフミとキリコという夫婦に拾われ、アイカと名付けられた。二人に育てられて成長し、自分が養子であることを告げられたアイカは自分の生に疑問を感じ、やがて売春のようなことをし始め家出少女となる。桃太郎という謎の男に促されてアイカを捜す義父母。しかしその間、デジタル生命であるマネキンやネズミ人間のピーターに導かれ、アイカとノブオは出会ってしまうのであった。

 ギリシア悲劇『オイディプス王』を下敷きにして書かれた本作であるが、近親相姦やエディプス・コンプレックスといったキーワードを織り交ぜつつも物語の一貫したテーマになっているのは「変態」であると考えることができるだろう。ここにおける「変態」には、アブノーマルとメタモルフォーゼの両方の意味が含まれる。

 徳永京子・藤原ちから『演劇最強論』(飛鳥新社)には「変態のなかの変態、いわば変態の王である松井周」(53頁)や「ひと言で表現するなら『変態』であるだろう松井周」(同156頁)といった記述があり、これまでの松井の作品にも変態的要素は度々登場している。
 『永い遠足』の登場人物は変態を繰り返しながら少しずつ前進していくのであり、その意味で、松井自身の人生観や演劇観がたくみに集約された作品であるといえる。

 僕自身子どもがいて、家族を作っていますが、どこかで相手に応じてすべてを、例えば父や息子の役割を「演じている」気がするんです。要するに僕はすごく演劇的に関係を捉えていて、それ以上のことは信じていないんです。

 松井が当日パンフレットのインタビューでこう語るように、「家族」という特殊かつ強烈な関係性においても人間は常に何者かを演じているのだとしたら、当然我々はそれ以外の社会生活の時間においても様々な人物を演じていると考えることができる。複数の役や肩書きを自分の中に持つということは、それぞれの相手に合わせて自分を変える、違う自分を出現させる、つまり変態させているということであり、人間はその変態という行為をごく自然に、無意識的に行っているのだ。

【写真は「永い遠足」公演から。撮影=青木司 提供=サンプル 禁無断転載】

 では『永い遠足』においては、どのような変態が起こっているのだろうか。まずピーターは冒頭でこのように語る。

 そして、僕。生まれて、三十七年…(ピーター役の個人的なあらすじ)…食べて、汗かいて、寝て、声を上げて、骨が伸び、肉がついて、様々な液体や固形物を吐き出して、今日ここにいるわけです。ここです。ここにいます。そう、これ、ネズミの格好をして。ピーターという役名で。

 「ピーター役の個人的なあらすじ」とは、俳優が役ではなく自分自身について語るということである。つまりこのセリフは、いわゆるフィクションであろうと考えられる俳優自身の生い立ちをあらすじ、つまり物語として観客に捉えさせようとしている。
 それだけでなく、劇中における現実世界の中で彼はピーターという名前を持ち(持たされ)それを生きているということと、ピーターは俳優自身の生と同時並行で存在しているということを示唆している。彼という個体は複数の役を自由に行き来しながら存在しているのだ。
 また、家族との会話を放棄したアイカについてタケフミはこう語る。

 俺たちは見本を示さなきゃならないんだぞ、アイカに。…(中略)…大人っていいな、大人ってちゃんとしてるな、大人になりたいなってところ、見せつけないと…

 ここでの「見本」とはただ単にタケフミが正しいと思っている決まりごとにすぎず、その正しさは決して絶対的なものではない。この「見本」のほかにも、自分は実の子供ではないという事実やそれに伴う孤独感や悲しみや怒りも、アイカにとっては、自身に閉塞感をもたらす窮屈でしかたのない物語にすぎなかったのだろう。もしタケフミに何も教えられなかったとしたら、もし言葉を理解できなかったとしたら、彼女は全く違う生き方をしていたかもしれない。

 よそはよそ、うちはうちと言う決まり文句があるが、アイカはその「うち」の世界に蔓延する物語から抜け出そうとし続け、最後にはそれに成功する。つまり彼女はアイカという名前を捨ててアイカを「やめる」ことで「アイカ」という枠をなくし、ついには家族というまとまりからもはみ出してどこか遠くへ行ってしまうのだ。

 また、タケフミやキリコがアイカを取り戻すには一線を越えること、つまり越境が必要であり、「進化ってのは思いがけないジャンプが成功した時に起きるんですよ」と桃太郎は言う。アイカ捜しの過程でタケフミは女になり(そしてアイカをもう一度産もうとする)、キリコは犬のような生物になる。生物的な枠組みをジャンプした結果の越境こそが進化と呼ぶべき現象なのだ。
 社会の、または生物のくくりをなくすことで人はそれまでいた世界から離れ、どんどん違う自分になっていくことができる。それは自分自身に適応するための変態なのではないだろうか。
 
 もともとはカオスだったはずの世界に枠組みが発生してしまったのは、人間が生きていくにはdefineという行為が必要だからだ。defineとは一般に「〜を定義する」という意味だが、その語源は「de-(強意)+ -fine(境をつける)=はっきり境界を定める」というものである。それを知った上でdefineという行為のイメージをビジュアルで想像すると、ある一つの対象を一本の線でぐるっと囲む様子が浮かぶ。この境目としての線こそが枠というものだ。

 我々は言葉によって物事の差異を明確にするが、その最も典型的かつ単純な例は名前だ。人間は発見したもの一つ一つに名前を付けてきたし、新しく登場した物には名前を付けたがる。そしてその名前には必ず想像のための余白がある。

 例えば「アイカ」という名前を聞いた時に「愛華」と変換した人がいるかもしれないし、藍や哀といった漢字やイメージ、色を思い浮かべた人がいるかもしれない。また「桃太郎」と聞けばほとんどの日本人がきび団子や鬼退治といったキーワードにたどり着くことが出来る。名前だけでなく、かわいい、優しい、怖い、暗い、などといったイメージを纏わせることも定義かつ想像だ。しかし全くの見当はずれであるかもしれないこれらの想像は、当事者たちから自由を奪う。

 人はいくつもの顔を持つはずの一人の人間を完全に知ることはできないのであり、認識できない部分(=得体の知れないもの)は生きていく上で脅威となる。だから他人を自分の想像の範囲内に無理やりにでもとどめておいて、安心するのだ。

 その一方で、自分を相手に特定してもらうことで安心する場合もあるだろう。親しい間柄だとよりその人を特定しやすい呼び名(ファーストネームやあだ名)で呼ぶのはそのためであり、これはマネキンの言うところの「ピン止め」なのであろう。

 変態、つまり越境して姿や状態を変えるということは、それまでのdefineを拒絶し、外部を内部に変換していくということだ。

 本作では本物のトラックが可動式舞台として重要な要素になっており、松井は当日パンフレットのインタビューにおいて「本来は外を走るはずのトラックが建物の内部を走ることで、『外』の空間を感じてもらえるようにしたい」と述べている。「トラック」を辞書(大辞泉)で引いてみると、「貨物自動車」とあり、「自動車」とは「“路上”を走る車」とある。
 舞台セットとしてのトラックは貨物を運ばないどころか劇場内をぐるぐるとまわり続けるのであり、その定義を逸脱している。つまり舞台セット自体が変態の象徴となっているのだ。この変態が人々に居心地の悪さや不気味さをもたらすのは、劇場という内部にトラックという外部が侵入するというメタモルフォーゼの結果として立ち現れるアブノーマルな状態が、その迫力をもって我々を侵食しようとするからだ。

 またそう考えると、「ネズミ、ブタ、サル、ヒトのクォーター」であるピーターもまた変態の象徴であると考えられるだろう。ピーターは彼のもともとの姿であるネズミ(=内部)に人間の細胞など(=外部)が注入された結果誕生した、種が混じりあう定義不可能な生物なのである。

 「『父親』や『母親』も人間が決めた呼び名であって、そのフリをしている、と考えてみたい」(『演劇最強論』163頁)とする松井であるが、やはり血のつながりや遺伝というものには抗えないのではないかと感じさせるニュースを耳にすることがある。例えば、(本作の上演終了後のことではあるが…)2013年12月4日に日本でも報じられた「恐怖の記憶は精子で子孫に継承される」というアメリカの研究チームの発見だ。(http://www.asahi.com/articles/TKY201312040021.html)
 これが本当だとしたら、アイカはノブオと恐怖の記憶を共有しているはずである。アイカは売春行為で自らを恐怖に陥れることで、タブーによって生まれた自分自身を無意識的にではあるが戒め、自分の生に対する怒りをしずめているのではないだろうか。

 さらに、「恐怖の遺伝」に関してもう一つ指摘したいことがある。それはノブオとピーターの関係だ。ノブオが近親相姦の記憶を思い出すシーンではマネキンの力によってピーターとノブオの脳が共有されるが、これはそもそもノブオの恐怖の記憶がピーターに何らかの形で受け継がれているからではないだろうか。そう考えると、ピーターの口の周りがピエロよろしく不自然に赤くふちどられていることにも納得がいく。ノブオはチヨコの乳首を?みちぎった時の「おっぱい飲んでるつもりがいつの間にか血を飲み込んでた」という記憶を持っており、ピーターの口にはその時の血がついたままなのだ。いくら高度な越境を果たしたとしても、遺伝子に付着した強い記憶を完全に拭い取るのはそう簡単にできることではないということを、変態の象徴であるはずの彼が逆説的に表象している。これは度が過ぎた考察かもしれない。しかし、「遺伝」という克服困難な現象がある限り、我々がいくら変態をくり返しても、世界は規範や倫理を保ち続けることが出来るのではないだろうか…とそんなことがふと頭を掠めたのだ。

 ともあれ、『永い遠足』は変態によってより広い世界に流れ出ていく者たちの様子を描いた作品だ。秩序や常識に行く手を阻まれながらも、運命とも呼ぶべき遺伝的・先天的な負の記憶や因果に翻弄されながらも、彼らは基本的には何食わぬ顔で(何食わぬ顔を装いながら)動き続ける。人生の主人公は自分とはよく言ったもので、変態によって彼らは人間が勝手に作った物語から脱出して、より解放された、より気持ちのいい場所へと向かう。それは決して家に帰ることのない、終わることのない遠足である。
 
(註)筆者はYAMP(Youth Arts Management Program)としてF/T13に携わった。本作は担当公演ではなかったものの、観劇することができた。

【筆者略歴】
三浦彩歌(みうら・あやか)
 1992年宮城県仙台市生まれ。青山学院大学総合文化政策学部在籍中。

【上演記録】
サンプル永い遠足
にしすがも創造舎(2013年11月17日‐25日)

作・演出/松井 周

出演/古屋隆太、奥田洋平(以上サンプル・青年団)、野津あおい(サンプル)、羽場睦子、稲継美保、坂口辰平(ハイバイ)、坂倉奈津子、久保井研(唐組)

舞台監督/鈴木康郎、浦本佳亮、谷澤拓巳
舞台美術/杉山至(+鴉屋)
照明/木藤歩
音響/牛川紀政
衣裳/小松陽佳留(une chrysantheme)
字幕/門田美和
演出助手/山内 晶
ドラマターグ/野村政之
WEBデザイン/斎藤 拓
宣伝写真/momoko matsumoto
フライヤーデザイン/京(kyo.designworks)
制作/三好佐智子(quinada)、冨永直子(quinada)
助成/公益財団法人セゾン文化財団
協賛/三菱自動車工業株式会社
協力/レトル、青年団、ハイバイ、唐組、至福団、シバイエンジン
製作/サンプル・quinada
共同製作・主催/フェスティバル/トーキョー

チケット料金:
一般前売 3,500円(当日 +500円)
学生 3,000円、U18(18歳以下)1,000円(前売・当日共通)


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