die pratze/寺山修司「青森県のせむし男」フェスティバル

◎いかに「青森県のせむし男」は料理されたか?
 芦沢みどり

aomoriken0a 寺山修司が亡くなって今年で31年。この固有名詞は一定の年齢以上の人にとって、ある時代を思い出させるなつかしさに満ちているのではあるまいか。60年代の初めに「家出のすすめ」といういささか物騒なキャッチフレーズで登場して以来、たちまちメディア(当時はマスコミ)の寵児となった寺山修司は、歌人・放送作家・劇作家・演出家・映画監督・競馬やサブカルの評論家、その他あれやこれや。怪人二十面相みたいに(市川浩・三浦雅士『寺山修司の宇宙』)多方面で活躍したこの多面体の才能は、60年代から70年代を一気に駆け抜け、80年代の初めに47歳でこの世を去った。

 60年代半ばに台頭したアングラ演劇の主宰者たちは、21世紀も10年以上が過ぎた今、それぞれに演劇の世界の権威となった。それはそれで結構なことではありますが、寺山修司はいつまでもコートの襟を立てたまま、はにかんだように微笑んでいる。才人が権威にならないでいるというのは、断然カッコいい。

 その寺山修司の『青森県のせむし男』(以下『せむし男』)を10団体が上演するという催しが日暮里d-倉庫であった。企画・制作をしたdie pratzeはここ数年、「現代劇作家シリーズ」と銘打ったフェスティバルを継続して行っている。これまでにブレヒト、イヨネスコ、アラバールと現代作家の中でも前衛的な作家の作品を一つ取り上げ、その都度参加団体を公募してきた。1回目のブレヒトは1作品ではなかったそうだが、その企画意図は「共通演目を複数団体で競演する」ことで1つの作品を多角的に観る機会を作ること、また「実験的分野の現代作家を知らない若い実演家・観客層にそういう文脈を知ってもらう機会」を作ること(鍵カッコ内はdie pratzeの林慶一)と明快だ。会場はキャパ50の階段状客席と、その底にある小さなスペース。決められた作品を1時間にまとめるという縛り以外は演劇・ダンス・パフォーマンス…何でもご自由に、というスタンスだ。毎回「いかに「xxxx」を料理するかというサブタイトルが付いている。

 『せむし男』は1967年の天井桟敷旗揚げ公演のために書かれた。歌人だった寺山がラジオドラマ経由で演劇へ舵を切った頃の作品である。だから、と言ってはナンだが、かなりの難物だ。理由のひとつは、真相は闇の中という書かれ方をしているからだ。青森県の大正家の女中だったマツが主家の息子に手籠めにされて赤子を産む。その子はせむしだったので、主家の意向で捨て子にされる。不憫に思った下男が拾って育てる。30年後。大正家の女主人に収まったマツの元へせむしの男が現れる。マツはこの男をわが子のようにかわいがり、やがて二人は男女の関係になる。すわ近親相姦かと思いきやマツは、自分が産んだせむしの赤子は自分の手で殺した、と屋台崩しのようなことを言って呵々大笑し、「かごめかごめ」の合唱で芝居は幕となる。マツが赤子を殺しているとしたら、大正松吉という母恋のせむし男はいったい誰なのか。そもそもこの話自体が宙吊りになってしまうではないか。もっと言えばこれは子供のよくやる「ウソだよー」と同じではないか。
 さらにテキストは時空がよじれている。たとえば大正家の面倒な出生を誤魔化すために村の戸籍係が失踪するという奇妙な事件が起きるが、戸籍係は「大正二年七月十日生まれ」で名前は古間木儀人とかなり具体的だ。しかし彼が戸籍簿を持ち逃げしたので村じゅうの人間は自分が誰か分らなくなった、といきなり非現実の世界へワープする。万華鏡を覗くように一瞬にして世界が変わるのだ。具体的な日時、地名、人名から何の脈絡もなく別の位相へ移るのは短歌や俳句の手法だ(「大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ」)。後期の作品と比べて『せむし男』は歌人だった寺山が随所に顔をのぞかせる。「見世物小屋の復権」の方はステージングに委ねられていて、テキストそのものは詩的な言葉とイメージに満ちているのだ。

 私はこのフェスティバルをこれまで2回観ている。イヨネスコの『授業』とアラバールの『戦場のピクニック』だったが、これらと比べると今回は同一テキストから発想されたとは思えないほど各団体の表現の自由度が増した印象だった。理由はやはりテキストの特異性にあるだろう。不条理劇の場合は描かれた世界がどんなに歪んで見えようと、それは作家が現実をどう見ているかに関わる話だが、『せむし男』の場合は虚構の中に虚構が築かれていて、ここへ迷い込んだらどうなるか分からない手ごわさがある。

 それを回避するためかどうか知らないが、『せむし男』を素通りした(としか私には思えない)舞台から、テキストをそれなりに再構成した作品までいろいろあって、多彩と言えば多彩だった。

 宇宙論☆講座の「青森ケンのせむしMAN」は<リンゴの妖精せむっしー>なるゆるキャラまで登場させたミュージカル仕立て。残念ながらタイトル以外に『せむし男』との接点を私は見出せなかった。同じくパフォーマンス系のFARMは、バンド演奏と芝居の二部構成で、ダンス・漫才・TVバラエティーもどき、と盛りだくさん。今ふうの見世物的はこうなのかも知れないが、やはり寺山の世界とは無縁な印象だった。パフォーマンスと呼んでいいかどうか。ごっとさん。舞台中央に演壇ふうの、だがやたらと背の高い末広がりの構築物がドンと置かれ、これにアヒルのような水鳥の頭部を染め抜いたド派手な布が掛けてある。てっぺんに白いだるまさんみたいな衣裳の演者が鎮座して、桃中軒雲右衛門ふうに『せむし男』を謡い始める(もちろん私が雲右衛門を聴いたのはYouTubeです)。で、舞台前方では鳥のような衣裳の5人の女性がテキストのセリフを語ったり踊ったりするのだが、とにかくその高い台と浪曲師が圧倒的存在感で、一度見たら忘れられない強烈さだった。

 ダンス作品が3つあった。ストリート系、コンテンポラリー、舞踏系の3グループだ。ストリート系の初期型は8人編成。テキストの言葉を身体表現に置き換えて行く方法で、アクロバティックな動きや組体操、男性ヌードと飽きさせない(?)。せむし男のソロダンスが目を引いた。Uppull(es)mapはコンテンポラリー・ダンスのデュオ。テキストのおどろおどろしさをそぎ落とした都会的なダンスだが、透明な美しさがあった。途中、赤い毛糸を舞台に張り巡らせたのは安直な感じがしなくもなかったが、高い技術力でテキストの詩的な部分を拡大して見せてくれた。舞踏系のForkは当然ながら方法論がテキストの世界に近い。寺山修司の初期作品に頻出する「かくれんぼ」を中心に据えた舞台構成で、鬼になったせむし男の背中の瘤に白い布が詰められていて、最後にその布が引き出され、拡げられてスクリーンとなり、映像が写し出されるなど、様々な仕掛けがあった。ただ、最後に本物の赤ん坊を舞台に置き去りにするという演出は、賛否両論あるだろう。ちなみに私は反対派。人道的な立場からというより、それまで積み上げて来た虚構の世界が崩れてしまうからだ。震えて泣いている赤ちゃんはベタそのもので、観ている方は引いてしまう。

 パフォーマンスか演劇か、区分する必要があるかどうかも分からないが、パフォーマンス的要素をたくさん取り入れた演劇とでも呼べるのがコント・短編演劇集団ジーンズの3人組。高校の先輩・後輩という枠組の中で、一人が不在の母を探しに東京へ行く。白い2本のロープを縦に置いて線路に見立てたりしながら、レゲエ、ラップ、チェルフィッチュ的な身体表現で話をつなげて行く。テキスト再現ではないけれど、テキストを何とか自分たちにつなげて表現したいという思いは伝わった。10団体の中で最もテキストに近かったのはIYAYOWORKだ。これがフェスティバルの一番最初に上演されたのは、『せむし男』をまったく知らない客にとっては親切だったかもしれない。ただそうではない客にとってはイントロの吹雪と尺八ですべてが予見されてしまう舞台ではあった。上手に卓袱台を置いてそこで母と娘らしい2人の演技が続いている間、下手で木枠の組み立て作業が劇の進行と関係なく続けられ、結局それは大正家になる。装置作りと芝居の稽古を同時にしている稽古場、という設定だったのだろうか。Antikame?は冒頭で「駆けてきてふいにとまればわれをこえてゆく風たちの時を呼ぶこえ」という寺山の歌が読まれた。5月4日は彼の命日だ。それを前提にしたのだろうか。全体が寺山へのオマージュになっていた。後半、床いっぱいに映画用のフィルムが広がっていたが、あれは美術としての効果もさることながら、映画も撮った寺山への賛辞だった。テキストの猥雑で後ろめたい感じはなく、きれいにまとめられ過ぎている感じが物足りなかった。そして楽園王。テキストの場面の順序を入れ替え、登場人物を少し変えて、『せむし男』を批評的に再構築した舞台だった。まずせむし男は「背負う男」になってランドセルを背負っている。小柄で痩せた女優が白っぽい服装で男役を演じるのだが、背中のランドセルが大きく見えるほど頼りなげだ。一方、女浪曲師(女学生)は3人に増え、ひとりはセーラー服、ひとりはスエットパンツの上にスカート、ひとりはブレザーと、今どきの女子高生の典型的服装をしている。彼女たちの「鳥尽くし」はAKB48のノリだ。大正家の家令と、原テキストには出て来ない大正家の長男・首吉の男2人は黒ずくめ。若いマツは赤いセーターで50代のマツは黒と金のロングドレスに大きな帽子をかぶっていて顔は見えない。衣裳について細々と書いたのは、舞台で使われている色彩が赤・黒・白しかない印象を受けたからだ。『せむし男』のゴテゴテした極彩色は消えてスッキリしている。そして句読点を少しずらす「背負う男」のセリフが、詩的な言葉を際立たせ、なぜか悲しくつらく響く。マツに凌辱される「背負う男」はいじめに遭っている小学生のようにも見えて来る。『せむし男』のエッセンスを取り出したような舞台だった。あり得ないことだけれど、寺山修司の作品を鈴木忠志が演出したら、と想像してみた。

 フェスティバルは来年、サルトルの『出口なし』を取り上げるべく、今、参加団体を募集している。テキストと四つに組んだ新しい『出口なし』をぜひ観てみたい。演劇・ダンス・パフォーマンス…ジャンルは問わないけれど。

【筆者略歴】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
 演劇集団円所属。戯曲翻訳。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ashizawa-midori/

【上演記録】
die pratze/寺山修司「青森県のせむし男」フェスティバル~いかに「青森県のせむし男」を料理するか?~(現代劇作家シリーズ4)
日暮里d-倉庫(2014年4月29日-5月12日)
▽4月29日-30日
IYAYOWORK
演出・出演/平木大士 楽曲協力/太田友城 出演/青木律,金城色,佐藤沙予,勝理治,能條由宇,増森剛大,吉富睦 仮面協力/坂爪康太郎 制作/杉村彩
宇宙論☆講座
作曲・ピアノ/五十部裕明 制作・指揮/相川友樹
▽5月2日-3日
ごっとさん。
演出・出演/浦濱亜由子 出演・美術・衣装デザイン/中田明佳 出演/下村界(ドクトペッパズ),水田菜津美,藤田順子,下野雅史,柿本亜紀 衣装製作/田川喜子
楽園王
演出/長堀博士
▽5月5日-6日
初期型
構成・演出・出演/カワムラアツノリ ブレーン/もっしゅ 出演/糸山和則,岩佐妃真,喜多真奈美,平澤瑤,松崎淳,他 宣伝美術/タカダユウナ
FARM
FARM α: 演出・出演/花房徹 振付・出演/三浦ゆかり 出演/矢嶋正明,にいみ花帆,荒木佐知子,花房青也,井上晃宏,他
FARM β: 演出/本多ハル 出演/今村つぐみ,夏メ隕石,菊地秀樹,丸目高広,岡田亜里,碓井博久,他
▽5月8日-9日
uppull(es)map
出演/松崎えり,増田真也
コント・短編演劇集団ジーンズ
作・演出/下亜友美 出演/厚木拓郎,五十嵐千晃,小松美月
▽5月11日-12日
Antikame?
構成・演出/吉田康一 音楽/山口紘 出演/檀上太郎,山岡よしき,矢内久美子,江田恵(ソラカメ),齋藤航,土居清光,杉原敏行,亀井惟志(NLT),他
Fork
構成・演出・振付/飯田晃一 出演/ゆみたろー,いそとよこ,小笠原幸介,飯田知子,平松歌奈子,小林友以,池主保,ちえぞー,他 美術/前川加奈 スライド/飯村昭彦

音響/相川貴,松木優佳,許斐祐,佐々木敦
照明/三枝淳,金原知輝,内山よう子(未来工房)
映像/workom
舞台監督/田中新一(東京メザマシ団)

協力/テラヤマ・ワールド,
ポスターハリス・カンパニー,
相良ゆみ,山口ゆりあ,アマヤフミヨ,柴崎あゆみ,磯部豊子,吉村二郎,OM-2 
宣伝美術/林慶一
記録/田中英世(写真),前澤秀登(写真),船橋貞信(映像)

主催/die pratze
共催/d-倉庫
監修/真壁茂夫
制作/金原知輝,林慶一,村岡尚子


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