彩の国さいたま芸術劇場/ホリプロ「わたしを離さないで」

◎大きな芝居を小さな劇場で上演したら、小さな劇場で上演された芝居を大きな劇場で上演したらと妄想しながら
 大和田龍夫

never_let_me_go0a 彩の国さいたま芸術劇場は開館して20年。新国立劇場中劇場、神奈川芸術劇場より長い歴史を持つ有数の大劇場だということに少し驚きをもって会場に向かった。実はこの演劇チケットを買ったのは「農業少女」で好演した多部未華子が脳裏から離れなかったからと、倉持裕脚本であることがその理由。蜷川演出、カズオ・イシグロ原作にはあまり惹かれてはいなかった(というよりはその事実をヒシヒシと感じたのは会場に着いてからだった)。

 蜷川演劇の特徴(伝説)として「開演3分間で観客を演劇の中に取り込む演出」というのがあるが、それほど多くの蜷川演出を見ていない私はその伝説を語り継ぐ資格はないと思う。蜷川演劇は、シアターコクーン開館20周年記念超長編演劇「コースト・オブ・ユートピア」の一挙上演日の観劇以来、5年ぶりである。

 冒頭、ラジコンヘリコプターが舞台上を巡回し、スローモーションで多くの少年・少女が舞台奥からあらわれ、サッカーボールが転がり、そして舞台奥に消えていく。大劇場ならではの舞台の大きさを使い切るシーンである。

 物語は、時代は未来なのか、とある国なのか、全寮制の学校「ヘールシャム」出身の介護人と病人のやりとりから始まる。ヘールシャムというものが特別なところであり、それは何なのか? なぞが提示され、舞台はヘールシャムの学校時代に遡る。ヘールシャムは保護官と生徒の関係が特殊であることがわかる。やがて、どうやらその生徒たちはある年齢になるとここを出ていって、臓器を提供するという任務を全うすることを義務づけられていることも。将来の夢や希望は持たないように教育されているようであることが描かれていく。

 そんな中で「男子はサッカーが好き」で学校の中では「創造的」活動を特に重要視していること。作品作りに対しての報酬として学校内で使えるチケットを集めて、それを「交換会」で自分が欲しい物と交換することができること。交換会には「マダム」と密かに呼ばれる謎の女性が来ること。マダムは保護官とも立場が違う人、そしてヘールシャムの生徒とマダムの間にはなにかわだかまりがあるようであること。実際、マダムは生徒を怖れていることを生徒は知ってしまう。保護官にもどうやら何か秘密があって、そのことについて保護官同士意見の対立と自己の中にも葛藤があるようで、さらに「もとむ」はクラスのみんなから「のけ者」扱いされていること。八尋・鈴はその「もとむ」に好意を抱いていることがわかってきた。ヘールシャムでのエピソードがいくつかでてきて第一幕が終了。

 第二幕ではヘールシャムを出た八尋・もとむ・鈴の3人がヘールシャム以外の若者と「農園」での共同生活をしているシーンから始まる。ヘールシャム出身の人は他の出身者とは違うなにか「特別な人」と見られている。とはいえ、同世代の若者たちは優しい声をかけようと努めている。ここで2つの謎が明らかになってきた。臓器提供をするようになる前に「介護人」なる仕事につく必要があり、臓器を提供するのは「へールシャム」出身者だけではないこと。そして、ヘールシャム出身の人は「クローン人間である」ということだった。

 へールシャムには「噂話」があり、それは「執行猶予」というものである。カップルと認定された場合には、特別な自由時間が与えられるというのである。その「執行猶予されるための認定条件」をヘールシャム出身の者だけは知っているという。その執行猶予を認定してもらう方法を教えることを交換条件にクローンの鈴のオリジナルの人間ではないか?という人に会いに出かけることとなる。実はそのオリジナルではないかと思われていた人は「明らかに別人(クローンのオリジナルではない)」であり、些細なことから八尋と鈴は仲違いをしてしまう。結果、帰宅時間まで別行動をすることになってしまう。八尋はここでヘールシャム時代になくした「お気に入りカセットテープ」を探すといい、もとむもそれを手伝うと申し出る。

 第三幕では、大きな船が打ち上げられた海岸で、「2度の提供」をしながらも元気な「もとむ」、1度の提供をし、体調を崩している「鈴」、そしてその介護をする「八尋」3人が再会する。マダムの元に「カップル」で「猶予の申し出に行くこと」を、鈴はもとむに託す。八尋ともとむは「マダム」の家に訪ねる。そして、執行猶予の申し出をする。

 そこで大きな誤解があったことがわかる。ヘールシャムでの「作品づくり」に多くの時間が割かれ、作品づくりがなにかとても大事なことであると生徒も認識していたその行為の理由は、ヘールシャムの生徒の人間性を審査するためではなくて、人間性を社会にアピールするための保護官のための「行為」であったこと、そのヘールシャムのクローン人間の人間性回復・待遇改善は一時的には良くなった(八尋たちがいた時代が一番理解された良き時代で)、現状、クローン人間への社会の評価は悪化してきていることを、元主任保護官から伝えられる。

 そもそも特例などなく「作品作り」はそのヘールシャムのクローン人間が人間としての感性を持っていることをアピールするための活動に使われていた(だけ)という事実を突きつけられる。そして、八尋・もとむは、マダムからではなくヘールシャムの主任保護官であった冬子先生から「全ての人はプログラムに従って提供の任務につきます。特例などありません」ということばと共につきはなされてしまう。

 八尋ともとむがカセットテープを探したときに二人の思いがどのように結びついたのかが明らかになり、物語は終わる。八尋の持っていたカセットテープはヘールシャムの中と外をつなぐ、ヘールシャム時代とその後をつなぐテープである。ささいなものに人生の大きな思いが籠もったテープであり、その大事なテープはヘールシャムで紛失したものを、外で同じテープを探して再び手に入れたものである。様々な思いがこのテープの逸話に込められていることが伝わってくる。ここでこのカセットテープが見つかる奇跡、その奇跡はどのような意味があるのかは舞台からは伝わらないが、小説では重要な意味を持っている。もとむの八尋に対する思いも明らかになるこのシーン、人の記憶は音により「鮮明に甦る」ことをもう少し加えてくれれば印象も変わったのではないのか。

 エンディングでは冒頭のスローモーションでヘールシャムの学校の子どもたちが舞台奥から出てきて、再び舞台奥に消えていく。ラジコンヘリコプターが舞台上空を巡回する。

 この芝居を見ながら思いだしたのは「断食」と「断色」(ともに、作:青木豪・演出:いのうえひでのり)だった。普段は大きい舞台の演出が多いいのうえひでのりが、座・高円寺(「断食」)、青山円形劇場(「断色」)の3人芝居を演出したという珍しい機会だった。題材もクローン人間の役割が終わりそのクローンをどのように「処分」するかという話だった。

 そして、この大きな舞台が、翻訳劇を得意としている(と勝手に思っている)若手演出家「谷賢一」翻訳・演出・かつ小劇場で演じたらどんなだったのだろうか。この舞台で違和感を覚えたのは、私が日頃「本多劇場」が「大劇場」と思うような小劇場の芝居を多くみているからということだけではない何かがあった。というのも、意図的に原作と変えた2箇所があることがプログラムに倉持裕により説明されている。舞台が「ヘールシャム」という名前以外は日本に移されていること。個人(キャシー・H、舞台では八尋)の語りから、「八尋を客観的に描く」というスタンスの変更があったこと。大劇場用に脚本はかなり工夫(苦労)していることが原作を読むとわかるのである。

 原作と見比べてという批評に意味は感じないが、原作を読んで小劇場向きの書かれ方をしていることを強く感じた。原作のまま小劇場で上演したのなら、今回の俳優陣には素晴らしい演技力があり、大道具に頼る演出は不要であった感はとても強い。しかし、そのまま大劇場で上演しても「空間」は埋められなかったのではないのかとも感じる。

 さいたま芸術劇場大ホールの芝居に仕立てる蜷川幸雄の演出はそういう意味では随分と苦労したのではないか? いや、慣れているのかもしれない。大劇場をこれだけこなしている演出家なのだから、プロの仕事として当然のことをやっているだけなのかもしれない。あの大きな舞台でこの微妙な「こころのうつりかわる表情」を伝えるのはさぞや苦労した筈である。保護官が生徒に接する態度の移り変わり(微妙な表情の変化は私の席からはよく見えない)。役者間の対話のシーンに「効果音」「大道具」を多用することで台詞の意味を補完するかのような(悪くいえば役者の演技をぶちこわしにしかねない)ことで舞台を作り上げている。役者が上手い・下手ということを越えて、一粒の涙で表現できることを舞台演出も含めて観客に伝えるのはとても難しいことだと感じた(成功しているか、失敗しているかということではなく、その難しいことに挑戦する蜷川幸雄の挑戦心がすごいということを言いたいのである)。

 小劇場に足を向ける観客は大劇場に来る観客と演劇の見方も・解釈の仕方も違う。同時に100人に伝わればいいものと1000人に伝えないといけないことでは自ずと演出手法・文法が異なることを見せつけられた舞台であった。

 「劇団員」という慣れた役者との対話で作品を作り続ける方法ではなく、毎回主役は変わり、脇を固める俳優陣も変わる中で「蜷川作品」を維持しつづける(しかも多作である)この演出家としてのプロフェッショナルの仕事にひたすら感心させられることとなった。

 イキウメの「太陽」(作:前川知大)再演が、蜷川演出によって2014年7月に予定されている。私にとっての「初イキウメ」だったこの作品には随分衝撃を受けたものだが、今思うと、いかにもイキウメらしい作品であり、「太陽」が佳作であることは間違いないが、大劇場で再演されるべき作品かどうかは見てみないと分からない。大劇場ならではの「有名俳優」が出ていることも期待を高めている(既に前売りは完売である)。
 前川知大(イキウメ)作・演出の「関数ドミノ」公演(2014年5月25日-6月15日、シアタートラム)は、まさに最適な空間に最適なテーマで無駄のない2時間という圧巻の芝居だった。どうやら動物には「心地よいと感じる固有な空間」なるものがあって、そこにいると落ち着くというのは、ひょっとしたらこのようなことなのか? いや、谷賢一がグローブ座で演出した「ストレンジ・フルーツ」(2013年5月)は充分に空間を使い切っていた。前出「断食」は劇団☆新感線のいのうえひでのりが小劇場でもできるぞということを見せつけてくれた(といいつつ、舞台は小劇場の舞台空間にまで切り詰められていた)。「断色」でも青山円形劇場にあった演出を見せてくれた。イキウメ版「太陽」を見た人がどれだけ蜷川版「太陽」を見るのかわからないが、蜷川による演出の妙技が気になって仕方ないのである。ブルドッキングヘッドロックの三鷹市芸術文化センター星のホールでの公演「おい、キミ失格!」では、小劇場でここまでやるか?!という意表をつく演出に(笑いの)涙がとまらなかったが、そのような意外感、ハプニングを、舞台というハレの場に期待するのが観客なのではないのだろうか。

 奇しくも、12年前にさいたま芸術劇場大ホールで見た作品はdumb type「Voyage」であった。この作品はエチュード形式による作品制作を重ね、発表に至ったものだった。作品が終わって「???」という気持ちが一杯になった。いいか悪いかは別にして、この舞台の特徴は、このホールのこれだけの客に「カタルシス」を与える結末を用意していないことに尽きる、と批評されていたことを思い出した。彼らはそのカタルシスのある結末演出を敢えて拒否した。観客も意表をつく結末に戸惑いを覚えていた。

 今回の「わたしを離さないで」は大劇場の空間を埋めるに充分な導入と結末が用意されており、年に1回観劇をする人にも、カズオ・イシグロファンにも、毎週演劇を見る人にも同じ感動が伝わるように舞台が作られていた。大きな舞台での演劇は難しい。役者の力量のみならず、演出家・舞台装置・音響・観客の一体となった「鑑賞力」を備えないことには1000人に同じ「喜び」「悲しみ」を伝えることができない。座席の位置が悪い、前の人が邪魔、隣の人がウルサイ、役者が見えない、それらも含めてその日・その回の演者と観客が一体とならないことには舞台が成立しない。

 ヒトがヒトの行動をみて喜怒哀楽を示す手法に劇場の大きさというものがこれほどの違いをもたらすということを改めて思い知らされた。2004年に新国立劇場中劇場で大きな芝居に感動し、2006年に倉持裕の脚本で小劇場に導かれ、40過ぎてから「演劇に魅された」私が、なぜ、小劇場に惹かれるのか、時々大劇場に足を運ぶのか、ようやくわかってきた。

 舞台の大きさと芝居の(テーマの)大きさは独立事象であること、大劇場に向いた物語があること、度重なるカーテンコールに涙することがあることを、この10年間の劇場通いの記憶から呼び返してみた。4回に1回くらいは大劇場に足を運んでいることに気がついた。音楽で言うと交響曲と弦楽四重奏曲というような違いなのだろう。
(2014年5月11日13:00の回 観劇)

【筆者略歴】
大和田龍夫(おおわだ・たつお)
 1964年東京生まれ。東京都立大学経済学部卒。現在は武蔵野美術大学・専修大学非常勤講師(メディア論)、ビッグデータの解析に従事。「季刊InterCommunication」元編集長。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/owada-tatsuo/

【上演記録】
彩の国さいたま芸術劇場/ ホリプロ「わたしを離さないで」(彩の国さいたま芸術劇場開館20周年記念)

彩の国さいたま芸術劇場(2014年4月29日-5月15日、全20回)
上演時間:3時間45分(予定)(一幕 1時間30分/休憩15分/二幕 1時間/休憩10分/三幕 50分)

原作:カズオ・イシグロ(「NEVER LET ME GO」)
演出:蜷川幸雄
脚本:倉持 裕
出演:多部未華子、三浦涼介、木村文乃 / 山本道子 / 床嶋佳子 / 銀粉蝶
内田健司*、茂手木桜子*、長内映里香*、浅野 望*、堀 杏子*、半田 杏、呉 美和*、佐藤 蛍*、白石花子*、安川まり*、米重晃希、浦野真介*、竪山隼太*、堀 源起*、中西 晶*、坂辺一海*、白川 大*、砂原健佑*、阿部 輝*、銀 ゲンタ*、鈴木真之介*、高橋英希*
(*印は、さいたまネクスト・シアター)

主催:公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団/ホリプロ
企画制作:ホリプロ

料金 S席9,000円 A席7.000円 B席5,000円 学生B席3,000円[全席指定]

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