連載「もう一度見たい舞台」第6回

◎燔犠大踏鑑「すさめ玉」
 大泉尚子

 その日は深夜、高い熱を出した。一緒に下宿暮らしをしていた姉によると、気持ち悪い、気持ち悪いと譫言のように言っていたそうだ。1972年、地方から東京の大学に入って間もない頃、情報通のクラスメートに連れられて、土方巽が演出・振付をした「すさめ玉」を見に行ったのだった。

 今はない、池袋西武百貨店ファウンテンホールでのその舞台は、芦川羊子、小林嵯峨など女の踊り手がメインだった。結い上げた髪に全身白塗り、思いっきり口角を引き下げたへの字の口に、目は半眼で時に白目を剥いたりギュッと真ん中に寄り目にしたりする。背を丸め、がに股でお尻を落とししゃがみこんだ姿勢で蟹歩きに這う。手首や足首は不自然に内側に曲がり、痙攣めいたギクシャクとした動き。
 「いざり」「足萎え」「不具」とか、口に出すのを憚られる言葉が頻々と頭を掠める。いや、言葉ではなくそういう身体そのものが目の前で蠢く。

 それまでは踊りといっても、せいぜい友だちのバレエ教室の発表会か、TVに出てくるスクールメイツくらいしか見たことがなかった。しなやかに伸ばす・すっくと伸び上がる・高く飛ぶのが美しい、美しいのがダンスと信じていたから茫然自失である。誘った友達に何か恨みでもかっていたのだろうかと疑うほどに。

 しかも開演まもなく、洋服姿で長髪の男が出てきていきなり「もう一度、頭からやらせてほしい」と観客に向かって言う。やらせ(当時はそういう言い方もなかったのだが)かと思ったが、本当にやり直しただけ。それが土方だった。

 それにしても、あのときの熱は知恵熱だったのか。夜を境に自分を形作っている細胞が少し入れ替わったのかもしれない。
 繰り返し見てしまう悪い夢のように、拭っても拭っても粘着質にまとわりついてくる。たまらなく嫌なのに、どうしても否定できない。見たことがないほど醜悪だったのにどこか既視感がある、もしかしたら自分の身の内に巣食っているものなのかもしれない。そんなことを思ううち、見に行くようになったのが土方を創始者とする暗黒舞踏派だ。

 ところで、後年発行された「燔犠大踏鑑 四季のための二十七晩」(註1)の中で、出演者のひとりの和栗由紀夫が当公演の裏話を書いている。実は、音響のミスで音と食い違ってしまったのに、ダンサーがそのまま踊っていたらしい。土方は「楽屋で踊り手をなぐるは蹴っ飛ばすはで」、打ち上げには「着物姿で一升瓶を下げ…入ってくるなり、『てめえらッ』と言って一升瓶をバーに叩きつけて割ると、ものすごい勢いでガラスの扉を閉めるとすぐいなくなってしまった」という。
 なお「燔犠大踏鑑」という、やけに難しげな漢字の連なりは「はんぎだいとうかん」と読む。年譜の1970年8月のところに「初めて『燔犠大踏鑑』を標榜し、土方舞踏の基礎理念となる。『燔犠』とはあぶりものにされた犠牲体の意味」とある。

 アートシアター新宿文化の「四季のための二十七晩」、西武劇場の「静かな家」、アスベスト館の「ひとがた」、玉野黄一の出た「梨頭」ほかの公演(註2)を見たと思う。
 「四季のための二十七晩」の中の「疱瘡譚」には、土方自身の「癩病者の踊り」がある。彼らの本拠地の目黒のアスベスト館は、かつて慰廃院というハンセン氏病の病院だったそうだ。今、その踊りの写真を見ると、ハンセン氏病についてのそこいらの知識や情報は吹っ飛んでしまいそうな、病いそのものがゴロリと転がっているような姿がある。
 「静かな家」の後、1974年から土方は踊るのを止め、振り付けと演出に専念。玉野の身体はナイフのように研ぎ澄まされ、触れればスッパリ切られそうだった。

 そして何の演目だったかも覚えていないのだけれど、アスベスト館に出向いたときのこと。なぜか受付に人はおらず、ふと中を覗き込むと若い男が数人。当時、男の踊り手は髪も眉毛もすべて剃っていたので一目瞭然、土方の内弟子たちだった。
 聞けば公演は翌日からだと言う。何のことはない、日にちを間違えたのだ。帰ろうとすると引き止められ、手が足りないから明日からの公演を手伝ってくれないかと言う。チケット代が浮くという欲と好奇心で、一も二もなくOKした。

 手伝いは受付など簡単なことだったが、幕引きをやったこともある。その頃、アスベスト館の幕は手で横に引くもので、陰にそっと隠れていて終演の頃合を見計らってササーッと引く。ワーグナーの楽曲が大音量で鳴り響く中、小さな舞台に立ち込める強烈な漆喰の匂いが忘れられない。
 資金稼ぎのため、金粉ショウで地方のキャバレーを回るが一緒に行かないかと誘われたこともあったが、勇気が出なくて断った。同行していたとしても失う何ほどのものがあったのかと、今になっては思うのだが…。

 アスベスト館は二階建てで、一階が稽古場兼小さな劇場、二階には広めの板の間や座敷があった。座敷は土方が私室として使っていたのだと思う。ある時、頼まれて何かをとりに二階に上がった。座敷には廊下に面して障子があり、下の方が明かりとりのガラスになっていた。その廊下を歩いていると、部屋の中から一喝「誰だっ!」と誰何する声。震え上がりながら手伝っている者だと応じた。

 土方は詩人の加藤郁也と差し向かいで一献傾けていたところだったが「ちょっと入んなさい」と招じ入れてくれた。弟子や知り合いなどが何十人いても、足を見れば誰だか判別でき、未知の人だとすぐにわかったのだと言う。
 お酒を勧められたが飲めないと断ると、じゃあ煙草をと差し出され一本吸わせてもらった。そして、その後一生忘れられないひとことを言われたのだが、それは敢えてここには記さない。ただ、この人ははじめて出会った唯一無二の“天才”かもしれないと直感し、その確信は今でも揺るがない。

 夜ちょっと撮影があると言えば篠山紀信がやってきたし、「池田で〜す」と軽いノリでひょこひょこやってくるのは池田満寿夫だった。TVや新聞で見かける著名人が当たり前のように出入りし、いわば昭和の梁山泊の様相を呈していた。

 土方にはさまざまな名言奇言が残されているがそのひとつ、味噌汁の中には虎がいるだったか虎の目玉があるだったか。そういうことを、それこそ味噌汁を飲みながらのような日常の中で言うのだと弟子のひとりに聞いた。ちなみに、芦川は目を変に使いすぎて、ふとした拍子に目玉が外れる(!?)ので自分で嵌め直すのだという摩訶不思議な話も聞いたが、本当だったのだろうか…。
 土方はさもありなんという、自在にシュールな領域に及ぶ話しっぷりだったが、かと思えば、客が多すぎて溢れ返るときなど「これは大変なことになりますよ、どう捌いたらいいか」と、至極まっとうなことも言うのだった。

 ここまで書いてきて、舞台のというより思い出話になった上に、何だか新興宗教の入信談としても成り立ちそうだと自分でも思う。

 ある研究者から、舞踏は断絶であり、コンテンポラリーダンスはコミュニケーションだという言葉を聞いた。確かにかつて暗黒舞踏を見るのは、断崖絶壁を目の前に突きつけられるような行為だった。一方で近年、山海塾を見て、温泉に浸かりながら蜜柑を剥いて食べているような心地よさを覚えた。これは皮肉とかそういった類のことではなく、時代の中で見たまんまの印象なのだ。
 土方は1986年に亡くなり、“もう一度”は金輪際あり得ない舞台である。

(註1) 「燔犠大踏鑑 四季のための二十七晩 土方巽アーカイブ」慶應義塾大学アートセンター刊
 1998年発行。多くの舞台写真や、チラシにもなった晩年の阿部定との1カットのほか、石井達朗、郡司正勝、吉増剛造、市川雅、扇田昭彦らの文章を掲載。中でも「私はひたすら、あの幻の婆さんたちと、それを舞台の上に実現した土方巽と、それを見て感動したこの私自身と無縁になりたいと思っているのだ」で締めくくられる鈴木士郎康の「『燔犠大踏鑑』極私的感想」は自他に対する鋭利な批評であり、激烈な決別の辞とも読めて印象深い。

(註2) 「HIJIKATA Portas Labyrintus」慶應義塾大学アートセンター
 これらの公演がいつ行われたかも含め、1950年代以降の詳しい活動記録と多数のポスターが挙げられているwebサイト。


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