飴屋法水「教室」

◎境界線上のグロテスク
 落 雅季子

「教室」チラシ 『教室』は、2013年夏、大阪のTACT/FESTで上演された子どものための演劇である。一年の時を経て、東京の清澄白河の地で再演されることとなった。作、演出は飴屋法水。出演者は飴屋、コロスケさんこと三好愛、くんちゃんこと三好くるみちゃんという、実際の家族として暮らす三人だ。

境界をなくす

 飴屋法水の恐ろしさは、「境界」をなくしてしまう怖さである。たとえば過去の作品でも、ピアノの鍵盤の上ででんぐり返しをして落ちたり(飴屋法水×青柳いづみ×Sam Fuller『キッチンタイマー』)、炎のついたお面をかぶったり(2013年12月28日のエクス・ポ ナイト)、聾の写真家の耳を引っ張って「耳が付いてるのにどうして聴こえないの」と挑発したり(光のからだvol.3『雪が降る。声が降る。』)、グランドピアノを打ち壊して解体したりしてきた(スガダイロー五夜公演『瞬か』)。生と死、危険と安全、聾者とそうでない者、既存の一般的価値観とその外、というような境界上を彼はふっと越える。境界線を消滅させる瞬間をつくることで、飴屋はそこにあった「平穏さ」を引きずり出し、多くの人が見ないふりをしていたものを握りつぶす。

 飴屋が境界線を越えると、その後にはただ「本当のこと」「本当の言葉」だけが残る。「本当」とは、事実であるかどうかを問わない。俳優が「演劇」という「フィクション」として自分の言葉を語ることで、現実と虚構の境界が融解し、真実が浮かびあがる瞬間をつくり出せるのだ。

 象徴的だったのは、今年の春に行われた岸田國士戯曲賞授賞式のパーティで抜粋再演された受賞作『ブルーシート』である。東日本大震災の津波と原発事故が背景にあるこの作品では、元高校生の俳優の手によって次々と会場の椅子が積み上げられていった。会場中の椅子がひとつの大きな山になった上に、飴屋によって取り外された「第58回岸田國士戯曲賞授賞式」のプレートや、会場設備の金屏風までもが乱暴に積み重ねられていく様子に、会場スタッフは蒼白で慌てた。しかし津波は何もかも流し去ってしまうものであり、岸田國士戯曲賞のプレートであってもその例外ではない。関係ない。その瞬間、授賞式会場と福島の海岸の境界はあいまいになり、いわきの風景が私たちの眼前にひろがった。飴屋が私たちに見せるのはそういう危うさに満ちたリアリティである。

両性具有のくんちゃん

 今作に出演している、くんちゃんは、これまで多くの飴屋作品に出演しており、先ほど言ったような飴屋の、境界上をゆくあり方の鍵をにぎっている。くんちゃん、一年生に続いて二年生の夏休みも返上して、私たちにお芝居を見せてくれてありがとう。そこで今回は、飴屋作品における「くんちゃん」という存在について改めて考えることにしようと思う。

 作品は、ある家族の朝ごはんの風景から始まる。メロンパンを食べてから、くんちゃんとくんちゃんのお母さん(コロスケさん)はランドセルを背負い、学校に向かう。コロスケさんの少女時代と、くんちゃんの通学風景がつかの間、重なる。学校につくと、飴屋扮する先生が魚類、爬虫類、鳥類の交尾と子育てについて語り始める。

【写真は「教室」公演から。撮影=齋藤陽道 提供=SNAC 禁無断転載】

 性を意識し、自分が生殖のためのどちらの機能を持っている種であるのかを自覚する場面が、人には必ず訪れる。男と女に分かれる前、人は自分の「性」が誰かと協力して新たな「生」を生み出すためのものだなんて知らない。それはエデンの園に守られたような静かな世界だが、同時に成長とともに必ず破られることがわかっている期限付きの膜のようなものでもある。

 第二次性徴以前の子どもの全能感はまぶしいほどの力を持つ。いまだオスでもメスでもないくんちゃんの強さは、未分化の両性具有の強さである。鳥の親子ごっこで、飴屋がくんちゃんに「お父さんとお母さんどっちやりたい?」と訊き、くんちゃんが「お父さん」と答えてえさを運んでくる様子は、まさにそのことを表している。髪の短いくんちゃんには、男の子と女の子の輝きの両方がある。オスとメスの境界を持たないくんちゃんは、飴屋作品が何かの境界ぎりぎりを描く様子を、まさに体現する存在である。

「くんちゃんが初めてしゃべった言葉は雨だったんだよ」とコロスケさんが言った時に、くんちゃんは「素敵だね」と言った。客席からは微笑ましい笑いが漏れた。戯曲を読むと、ここの部分は「不思議だね」と書いてある。くんちゃんが間違えちゃったのかもしれないが「素敵だね」のほうが私にはすばらしいように思えた。

 そうしたくんちゃんの全能的な両性具有のイメージは、まるで夜がだんだんやってくるように、作品の後半で少しずつ色を変えてゆく。飴屋が自身の両親の古い写真を映し出し、自らの来し方について、ぼそぼそと語り始めたあたりからだ。

飴屋の持つグロテスクさ

 飴屋は自分の両親について語り終えたあと、父の遺骨が納められている骨壺を出し、白い骨を机の上に並べた。生と死の境界をまたしてもあやふやにするような行動に、観客はゆっくりと動揺する。そしてコロスケさんとの出会いから、彼女と「交尾」を繰り返すようになった経緯を語りながら、父の死を見て、人間と動物の死に方が同じであることを実感し、それで子どもをつくりたくなった、と飴屋は言った。

 飴屋が描き出す作品は、残酷でグロテスクな側面も持つ。先ほどの骨壺もそうだが、だからこそ観る者を貫通する力を持っているのだとも言える。グロテスクとは、何かの境界線(生と死、可愛らしさと恐ろしさなど)が崩れていることに対して、嫌悪と共感の交差する感情である。飴屋が骨壺を取り出した時、私は正直ぎょっとしたが、一方でかつて私がその死を看取った幾人かの人々のことが懐かしく頭をよぎりもした。

【写真は「教室」公演から。撮影=齋藤陽道 提供=SNAC 禁無断転載】
【写真は「教室」公演から。撮影=齋藤陽道 提供=SNAC 禁無断転載】

 余談ではあるが、先述の岸田國士戯曲賞の受賞パーティの際、くんちゃんがつけていた髪飾りはオオミズアオという大きな水色の蛾のかたちをしていた。おめかしした少女の無邪気さと、巨大な蛾の取り合わせはグロテスクだったとも言えるが、髪飾りは最高に彼女に似合っており、清廉な空気すら漂わせていた。そういう、虫との境界のなさが、彼女の全能さのひとつの証でもある。

 飴屋はいつも、そうした境界を融かすことによって生じるグロテスクさを提示する。俳優が自分の体験を語ることとか、それが事実であることに力があると言っているのではない。作家や俳優が(観客自身も)ひりひりするような「自分にとっての本当のこと」を語ること。そうして語られた「本当の言葉」しか、もはや人の胸を打ち、時に畏敬の念を抱かせるものはないのではないだろうか。

「近くにいる」ということ

 くんちゃんは、学校の宿題で「どうして自分は自分の名前になったのか?」を調べている。そこから「どうしてパパはママを選んだの?」と飴屋に訊ねる。その問いかけに飴屋が返す「近くにいたからだよ」という理由は、一見そっけない。しかしそこからコロスケさんが語りだす、初めて飴屋と過ごした夜のことを回想する場面は、まさに「本当の言葉」として、私の胸に迫った。

 運命的な導きによる出会いとか、幸せになるためのドラマを求める気持ちがこの世にはあふれていて、誰もが誰かの特別な人になりたがっている。それに対して飴屋の言う「近くにいたから」という理由はシンプルすぎるほどシンプルだ。でも、実際にくんちゃんのボーイフレンドのこーちゃんだってくんちゃんの隣の席の男の子だったわけで、そうしてみると実に多くのカップルが「近くにいたから」という理由で結びつき合っていることに気づかされる。でも、それはこうとも言える。「近くに行かないと人は触れあえない」。

 動物や虫の世界では、オスがメスを引きつけるために鳴いたり飛んだり躍起になって行動する。しかし飴屋は特にコロスケさんを呼ぶための行動は起こさなかった。コロスケさんが飴屋のもとにやってきたのである。誰かを知って、選んで、会いに行く。これが、人間が動物と違う「人間らしさ」であり、そうして結ばれた理由を飴屋が「近くにいたから」と表すことはとても「動物らしい」ことだ。

 人間が動物のような動機で結びつきあう時、生きている人間の本性とも言うべき姿が現れる。飴屋がコロスケさんとの最初の「交尾」について話をしている時、このシーンで飴屋が越えたのは、「人間」と「動物」の境界だということがわかった。鳴き声や羽の模様で気を引いたりしたわけではなく、会いに来てくれた「近く」の人と寄り添いあう。それは、動物としての人間の姿そのものであり、全能だった両性具有から分化した男と女が繁殖してゆくさまである。

 床に横たわったくんちゃんを挟んで、ふたりのシーンはまだ続く。分化して「片方っぽだけの性」になってしまったふたりの大人の、悲しくも美しい問答が繰り広げられる。
「私といて幸せですか?」
 飴屋は、コロスケさんのその言葉には答えずに
「マーガレットの花を3本、花瓶に生けた。花は、幸せですか?」
「駐車場の猫が、子猫を、3匹産みました。幸せですか?」
といった台詞を、繰り返す。私にはそれが悲しく思われた。コロスケさんといるからといって、自分は特に幸せではない、と言っているように、とっさに思えたからだった。でも、セミやダンゴムシがこの世に生まれ、繁殖するためだけに生きるのと同じくらいの必然性で彼がコロスケさんと一緒にいるのだとしたら、どうだろう。それはきっと生きている限り続くような、ものすごく強い動機ではないだろうか?

 くんちゃんは、両親のそうしたやり取りをただ眺めて聴いていた。生まれた時に、飴屋に「1+1が3になった」と言わしめた少女も、いつかたったひとりの「1」になってその強さを失い、片っぽだけの性の「メス」になる。いつかオスと巡り会って受精し、子どもを産むかもしれない。くんちゃんがおなかをおさえ「受精してる!」とつぶやく場面は、母であるコロスケさんの人生の逆再生でもあるし、くんちゃんの未来の可能性でもあるだろう。母の胸の中の描写のラストシーン。全能の未分化の状態で、血の膜にくるまれて産まれる子どもの生々しいイメージが、今も鮮烈に残る。

【筆者略歴】
落雅季子(おち・まきこ)
 1983年生まれ東京育ち。2013年4月より、BricolaQ「マンスリー・ブリコメンド」管理人。「こりっち舞台芸術まつり!2014春」審査員。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ochi-makiko/

【上演記録】

<SNAC パフォーマンス・シリーズ 2014 vol.3>飴屋法水「教室」
SNAC(2014年7月25日-8月2日)
※この児童劇「教室」は、2013年8月、大阪・阿部野ROXODONTA BLACK「TACT/FEST 2013 親子で見れる児童演劇」のプログラム(企画:樺澤良)として初演され、今回は再演。

作・演出:飴屋法水
出演:くるみ、コロスケ、飴屋法水

【演出助手/音響助手】C
【映像オペ】池田野歩、立川貴一
【照明オペ】小駒豪
【衣装】コロスケ
【宣伝美術】石塚俊
【記録映像】河合宏樹、森重太陽、梶山紘二、瀬川功仁(Pool Side Nagaya)
【記録写真】齋藤陽道
【制作】土屋光(HEADZ)
【企画】桜井圭介(吾妻橋ダンスクロッシング)、佐々木敦(HEADZ)
【当日スタッフ】植松幸太(HEADZ)、荻原孝文(HEADZ)、青柳いづみ、桒野有香、鈴木ふじ子、田中淳一郎、小池唯徳、萩原雄太

チケット料金
前売券:2,500円
当日券:2,800円
※小学生以下は、同伴者の膝の上での鑑賞に限り無料。

制作:SNAC
協力:HEADZ
助成:公益財団法人セゾン文化財団
主催:吾妻橋ダンスクロッシング実行委員会


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