◎「しのぶの演劇レビュー」に教えられた「見比べ」の愉悦
高橋 英之
観劇後も作品の残像が脳裏から離れず、そうこうするうちに、次々と関連したものに出会ってしまい、やがて、実際に舞台の客席に座っていたときよりも、さらなる深みにはまっていってしまう刺激的な作品がある。そうした作品は、観劇する前からもドラマティックな空気をまとって接近してきたりする。
DULL-COLORED POP(以下“ダルカラ”)と風琴工房という実力派の劇団が、『proof』という作品をほぼ同時期に東京で上演すると教えてくれたのは、演劇ウォッチャー・高野しのぶさんのメルマガ「しのぶの演劇レビュー」だった。演劇ファンを自認する人なら、お世話になっていない人はいないともいえる貴重な情報源となっているメルマガで、彼女は『proof』について「見比べると、さらに面白いと思います」とコメントしていた。そのメルマガでのコメントは、たまたま出張で滞在していた米国西海岸のシアトルに届けられた。
ホテルを出て、近くの本屋に立ち寄ってみると、シェイクスピアや、ベケットの作品と同じ「ドラマ」の棚に、いともあっさりと、その『proof』の脚本がペーパーバックとして普通に並んでいた。さらに、ページを繰ってみると、トニー賞とピュリツァー賞まで受賞しているらしい。そんなに有名な作品なのなら…と、その脚本を買って、ゆっくりと読み始めた。ちょうど、読み終わったのが、カナダ・ケベック州のモントリオールの空港だったのだが、ふと、向かい側のソファに座っていた女性から、「その作品は、私も観たけど、とても面白いよね!」と声をかけられた。突然、この『proof』という作品が、不思議な予感をまとって、自分に急接近してきていることを、感じざるを得ない瞬間だった。
作品は、観客に驚きを与える演劇的な瞬間を、4人の登場人物が織りなして、ミステリーの謎解きのように進行する。シカゴ大学教授のロバートは、20代で天才数学者として頭角を現し、数学の複数の分野で名をなしたが、あるときから精神を病む。彼の娘のひとりキャサリンは、父ロバートの数学の才能を受け継ぎながらも、同様の精神病が自分にも発症するのではないかとの恐怖におびえながら、地元シカゴで父の介護を続けてきた。舞台は、キャサリンがロバートと会話するシーンで始まるが、シーンのラストで、ロバートが実はもう死んでしまっており、その姿は幻であることが明らかとなる。この作品の、最初の大きな劇的瞬間だ。
やがて、舞台には、ロバートがかつて教えていた学生で、いまはシカゴ大で教鞭をとる青年ハルと、キャサリンの姉でいまはニューヨークに住む通貨アナリストのクレアが登場。クレアは妹キャサリンの精神病を疑いながら、ニューヨークに連れて帰ってケアしようとする。ハルはキャサリンにキスをし、キャサリンはハルに心を開く。そんな紆余曲折を経て、いまは亡きロバートの部屋に残された膨大な冊数のノートから、驚異的な数学の証明が発見される。ハルは、これを「歴史的証明」と驚愕する中、クレアにどうやってその証明を見つけたのかと問われて、キャサリンは「自分が書いた」と言う。第一幕の幕切のこのシーンは、とても劇的でインパクトがある。
ダルカラの公演ではここで休憩が入り、風琴工房の公演では休憩がないまま第二幕に引き継がれた。休憩の有無に意味は、第二幕を観るまで、よくわからなかった。ただ、いま振り返ってみると、それぞれの演出家、谷賢一(ダルカラ)と詩森ろば(風琴工房)が全く異なる演出を試みていたことの一端が、この休憩の有無にも現れていたのだと思う。
第二幕の途中、舞台は時間を過去にさかのぼり、父ロバートが一時的に精神状態を回復していた時期にもどる。キャサリンは、父が元気になり、介護から解放され、シカゴから少し離れた大学の学生として数学を学び直し始めようとしている。そうした束の間の幸福な時間に、ロバートの指導の下で学位論文を仕上げようとしていたハルが家を訪問し、キャサリンと出会うシーンが回想される。
ダルカラと風琴工房の演出が、大きく異なることを実感したのは、この時間軸を遡った第二幕のシーンだ。ダルカラでのキャサリン(百花亜希)は、それまでは、ボサボサの髪で、話し方もどこか狂気を漂わせていたのだけれど、この回想シーンではポニーテールで爽やかに登場。「別人?」と思わず感じてしまうくらいの変わりようで、おまけに美人!しばらくは、舞台を眺めながら、その変身ぶりの見事さに目を奪われていた。ところが、風琴工房の第二幕で、キャサリン(清水穂奈美)は、ほぼ何も変わっていない。もちろん、父ロバートの回復を喜び、大学への復学を楽しむ明るい雰囲気は出ていたが、むしろ、終始一貫して全く同一人物であることが、強調されていたように感じた。
正直にいうと、最初のダルカラ公演で、キャサリンの第二幕途中での豹変ぶりを観た後で、風琴工房の公演を観たときには、キャサリンが全然変わってないじゃないか…なぜこんなに同じトーンで進めるのだろうと、不思議に思いながら観ていたのだけけれども、観劇後に少し時間をおいて、振り返ってみると、そこには演出・詩森ろばの独自の解釈と挑戦があったのだと気づいた。
第二幕で、父ロバートが回復しているシーンは、やがて、突然連絡が取れなくなった父のところに、キャサリンが慌てて帰ってくるシーンに接続されて、新たな劇的瞬間を迎える。父は、素晴らしい証明が完成したという。極寒のシカゴで、屋外に座りながらそれを訴えかける父の姿に、異様なものを感じたキャサリン。父の猛烈な主張に抗しきれず、渡されたノートに書かれた<証明>を音読する
このシーンは、劇的シーンの多い本作品の中でも、最も衝撃的だ。自信満々のロバートの表情とはうらはらに、そこに書かれた全く意味不明の言葉の連続。まさに、父が再び狂気にもどったことの<証明>に、娘キャサリンが遭遇した瞬間だった。
やがて、精神病の発病が疑われ、クレアからの強引な提案に抗しきれずに、キャサリンがニューヨークに引越そうとするシーンを迎える。自らが解いたハズの「歴史的な数学の証明」を捨て、自らの正気を証明できないままの不本意の旅立ち。その刹那に、ハルが戻ってくる。ロバートの部屋に残されていた「歴史的証明」をさまざまな角度から検討した結果、そこに使われている数学の道具だては新しすぎて、精神を病んでしまったロバートには知り得ぬことばかりだったと伝える。「歴史的証明」が、ほかならぬキャサリンでなければ無理だったと認める。そして、キャサリンは、ニューヨークには旅立たず、シカゴの家のポーチで、ハルとともにその「歴史的証明」についての対話を始めるラストシーンが、静かに訪れる。
ダルカラの公演では、キャサリン(百花亜希)がひょっとすると、本当に精神異常をきたしつつあるのではないかという印象を強く受けた。これは、谷賢一の意図的な演出であろう。数学の天才性とその裏に潜む狂気というテーマ設定は、原作者デイヴィッド・オバーンも当然意図していたハズだ。病を克服しながら、天才性を発揮し、ハルという恋人からの信頼を得て、生きていこうとするキャサリン像が、そこにはっきりと浮かび上がってくる。
一方、風琴工房の公演では、キャサリン(清水穂奈美)の狂気性が、かなり意図的に封印されていた。それどころか、キャサリンとハルが一夜を明かしてしまうシーンなどは、原作の指定を越えて、キャサリンがあえてアルコールを口にしないという演出になっており、成りゆきではない、あくまでキャサリンがしっかりとした意志をもった、愛の一夜を過ごしたことが明示される。狂気と天才というテーマは背景に隠れ、むしろ、疑いの眼をむける他者からの愛と信頼を得るための、自己の証明というような、もう少し実存的なテーマに焦点が当たっていた印象だ。あとから振り返ってみると、第一幕と第二幕の間に休憩を入れなかった構成は、キャサリンの同一性を強調するという演出戦略上も、有効に作用していたと思う。
『proof』という名を冠した作品の中で、キャサリンに限らず、登場人物たちは、それぞれに何かを「証明」しようとしている。クレアは自らの実利的判断の正しさを、ハルはキャサリンに対する愛を、証明しようとしていた。そして、かつて数多の数学的証明で名声を築き上げたロバートは、ほかならぬ数学の証明に再挑戦することで、自らの正気の証明に失敗する。
ダルカラの公演も、風琴工房の公演も、この「証明」という中心的テーマを、演出の中ににじませていたと思う。ただ、風琴工房は、キャサリンの狂気の色合いを意図的に減じて、むしろその一貫性を強調することで、「proof」という言葉にある、もうひとつの意味である「強さ/耐性」をも浮かび上がらせることに成功していたように思う。無論、それが好きか嫌いかという判断は、また別の問題なのだけれども、少なくとも、わずかの期間に、かなり異なる観劇経験を愉しむことができた。
優秀な作品は、多義的な読みを許容する。いや、逆かもしれない。これくらい多義的な読みを与えてくれる作品こそが、優秀と呼ばれるのだろう。2000年にニューヨーク初演の『proof』は、その後も様々な場所で上演され、2005年には、アカデミー賞俳優のグウィニス・パルトロウとアンソニー・ホプキンスを中心に映画化されている(proof ジョン・マッデン監督 2005年 米)。ダルカラと風琴工房の舞台を観たあとで、映画をDVDで見てみた。実際のシカゴの風景の中で、原作にはない大聖堂での葬儀のシーンが挿入されたり、虚数単位「i」という名の曲をハルのバンドが実際に演奏するシーンがあったり、フラッシュバックなどの映画特有の手法が駆使されたりしていて、また別のドラマティックな印象を与えてくれた。
さらにいえば、この作品は、米国の大学の演劇コースでは標準的な課題になっている模様で、断片だけのものまで含めれば、ネットに落ちている映像だけでも優に10種類以上の上演が見られる。その中には、今回のダルカラのよりもさらに狂気を強調したものもあれば、風琴工房版のようにキャサリンを最初から正常として扱う演出など、バリエーションが豊富。今回、奇しくも、ダルカラと風琴工房の演出方針がかなり異なることで、まさに高野しのぶさんが指摘する通り「見比べると面白い」という状況を楽しませてもらった。そのことがきっかけとなって、さまざまな『proof』に出会っているうちに、観劇から数週間も経ってしまったが、まだその冒険は終わりそうにもない。
ただ、正直にいうと、一番興奮したのは、シアトルの本屋で買ったデイヴィッド・オバーンの本を、読み進めているときだった。父ロバートが生きていないとわかるシーン、キャサリンが歴史的証明を「わたしが書いた」と宣言するシーン、そしてなんといっても、過去の回想の中で、小康状態を保っていた父ロバートが、精神を病んでいることが明らかとなるでたらめな証明の音読シーン。これらの劇的シーンで、自分の頭の中の妄想は、北米大陸を東に移動する飛行機の中で熟成されて、もっと、静かに劇的に広がっていた。自分自身のそんな妄想版『proof』は、ダルカラ版のものとも、風琴工房版のものとも異なっていた。ただ、このことは、決して失望ではなく、むしろ多義的な読みの地平がどこまでも広がる素晴らしい作品との、幸せな邂逅であったというべきだろう。
「しのぶの演劇レビュー」によれば、『proof』は、東京でもすでに何度も上演されているらしい。おそらくこの作品は、まだまだ、これからも繰り返し上演されるのだろう。天才と狂気や、信頼と証明というようなテーマ以外にも、天才研究者と凡庸な研究者、老親の介護、父と娘の関係、姉妹の関係、男女の関係など、実に多様なテーマが、コンパクトに凝縮された作品だ。「銀のサモワール」が出てくるような作品よりは、ずっとわかり易く、演劇人の腕のふるいがいもあると思われる。この多様なテーマと、多義的な読みを許容する作品で、どのような読みに基づく演出を展開し、どういう俳優陣が見せてくれるのか。次のこの作品との出会いを、いまから楽しみにしたい。
(観劇日:DULL-COLORED POP/2014年5月30日・風琴工房/2014年6月1日)
【オマケの数学ノート】
『proof』の中には、数学に関連したセリフや設定が数多く散りばめられている。元・数学小僧だった人間としては、そのそれぞれについて、ついついいろんなことを語り合いたくなってしまうのだけれども、残念ながら、まわりに「数学が得意で、演劇も好き」という友人が皆無なので、この場を借りて、本作品に関連する数学のエピソードを、一方的なつぶやきとして紹介しておきたい。
1)「1729」
インドの天才数学者シュリーニヴァーサ・ラマヌジャン(1887~1920)は、32 歳で夭折するまでに、現代の整数理論の多くを、ほぼ天性の勘で発見したといわれる驚異の数学者。多くの信じられないようなエピソードを残しているが、ロバートの問いかけに、キャサリンがあっさりと答えを出す「1729」という数字は、ラマヌジャンの天才的なエピソードと合わせて数学ファンにはよく知られている。病床に倒れたラマヌジャンを見舞ったケンブリッジ大学の師であるハーディが、偶然、自分が乗ってきたタクシーのナンバーの話を、「さえない数字」だとして伝えた。そのとき、ラマヌジャンは、即座に「さえないなんて、とんでもない。とても興味深い数字じゃないか。1729は、二つの立方の和で表す方法が二通りある数の中では、一番小さい数なんだ」と答えたというエピソードが残っている。すなわち、「1729 = 13 + 123 = 103 + 93」ということを、一瞬で見抜いたという、ラマヌジャンの天才性を示すエピソードだ。これは、『proof』という作品中では、端的に、ロバートとキャサリンがラマヌジャン級の天才であることを示唆していると考えられるだろう。 [参考図書:マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』ほか]
2)「嘘つきのクレタ人」パラドックス
数学論理の誤謬を示すときに、必ず出される例。「「クレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言った」という文章は、論理的に成立しない。クレタ人が本当に嘘つきだとすれば、そのような嘘でない発言をするハズがなく、クレタ人が嘘つきでないとすれば、またそのような嘘の発言をするハズがない。すなわち、ありえないパラドックスということになる。『proof』の中では、「『クレイジーは自分でクレイジーだと認めない』とロバートが言った」という状況は生まれ、ロバートがクレイジーだと認めると、そのような文章は成立しない。逆に、ロバートがクレイジーであることを認めないとすると、ロバートはクレイジーだということになり、パラドックスとなる。すでに、前述の「1729」のエピソードで、ロバートとキャサリンが、ともに天才であることを示したあとに、この有名な数学パラドックスの状況に陥っていることをキャサリンが指摘することで、キャサリンの数学的天才性が、ロバートをも超越していることの伏線となっている。
3)ソフィー・ジェルマン素数
ソフィー・ジェルマン(1776~1831)は、フランスの数学者。『proof』の中でも、男性のふりをして大数学者ガウスと文通を続け、その才能を高く評価されていたエピソードが登場する。彼女がその概念を提示した、ソフィー・ジェルマン素数(pが奇素数で2p+1も素数となるもの)は、作品の中でハルの凡庸な研究者ぶりと、キャサリンの天才ぶりを好対照とさせる重要な役割を担っている。ただ、重要なことは、このソフィー・ジェルマン素数が、単に興味深い素数であるというだけではなく、数学史上は、有名なフェルマーの最終定理(xn + yn = zn (n≥3)を満たす自然数x,y,zは存在しない)の、一種の部分解を構成する素数であることで知られている。フェルマーの最終定理が、部分解とはいえ、一般性をもって証明されたのは、彼女の指摘したソフィー・ジェルマン素数が初であり、偉大な業績として称えられている。ソフィー・ジェルマンは、いわば、女性天才数学者の一人として作品にその名が登場し、キャサリンの天才性を暗示する役目を果たしているといえるだろう。
ところで、今回のダルカラも風琴工房も、原作者デイヴィッド・オバーンが2000年初演当時の脚本でセリフとして指定している数字「92,305×216,998+1」を、「知られている最大のソフィー・ジェルマン素数」として指摘しているが、数学の情報サイトWolfram Math Worldによれば、その後、確認された最大値はさらに大きくなっており、「18,543,637,900,515×2666,668 – 1(2012年発見)」となり、実にその桁数は200,701桁となっている。こうした数学の最新の知見を、上演の度にアップデートしていては、覚える桁数が大幅に増えて、役者さんの負担が増大すること間違いなし。なお、ソフィー・ジェルマン素数が無限に存在しているかどうかは、2014年の現在に至って、まだ証明されていない。
[参考図書:デイヴィッド・ウェルズ『プライムナンバーズ』ほか]
4)大数学者ロバートのモデル
作品の中で、ハルが、ロバートの過去の業績の偉大さを指摘するシーンがある。その際に、ロバートが活躍した数学の分野として上げられるのは、「ゲーム理論」「代数幾何学」「非線形作用素論」の3つ。このように相当に異なる数学の分野で、それぞれに天才的な業績を残すことは、現代の数学では非常に難しいが、唯一の例外と目される存在がある。米国の数学者ジョン・ナッシュ(1928~)。ゲーム理論の中で彼が発見した「ナッシュ均衡」は、彼が1994年にノーベル経済学賞を受賞した根拠となっている。単にそれだけでなく、「ナッシュ均衡」は、いまではどの経済学の教科書にも登場する重要概念だ。一方で、ナッシュは、むしろ後年微分幾何の分野で、さらに大きな業績を残しており、その多才ぶりを発揮している。そして、1950年代後半から1980年代まで、精神を病んでいたことも知られており、映画『ビューティフル・マインド』(原題: A Beautiful Mind ロン・ハワード監督2001年 米)では、まさに天才と狂気の間をさまようナッシュの姿が描かれている。また、ナッシュは、その後精神状態を回復し、現在に至っている。このような背景を知ると、『proof』の中で、天才と狂気の間をさまようロバートの、ひとつのモデルとして、このジョン・ナッシュが意識されていたことは、ほぼ間違いないだろう。
5)歴史的証明
作品の中で、キャサリンが自力で証明したとされる「歴史的証明」が、何であるのかは明示されない。数論の分野では、かつて最高峰の難問の典型例は、ほぼ間違いなく、「最終定理」という大袈裟な名をもつ、「フェルマーの最終定理」を指していた。ただ、1995年に、その証明がなされて以降に書かれた『proof』において、数論分野の歴史的証明といえば、「リーマン予想」であることに異論はないと思われる。これは、2014年7月時点で、まだ証明されていない。ただ、セリフの中で出てくる「楕円関数」や「モジュラー型式」をフル活用することが期待されており、原作者は非常によくこのあたりの調査をしたものと思われる。
なお、前述のロバートのモデルと目されるジョン・ナッシュは、一時期リーマン予想に取り組み精神を病んだことで知られており、そういう意味でも、ナッシュがロバートのモデルであり、リーマン予想が歴史的証明のモデルとなっているという見立ては否定しがたいものがある。
6)虚数単位「i」
作品の中では、ハルが参加しているロック・バンドが演奏する曲目として紹介されている「i」は、数学では「虚数単位」として知られ、通常は「2乗してマイナス1となる数」として知られている。「i」は、バンドが3分間ずっと静かに押し黙ったままという曲で、まるでジョン・ケージの『3分33秒』を彷彿とさせる話なのだけど。題名が「i」とされている点が、非常に興味深い。「リーマン予想」では、「ある関数(ゼータ関数と呼ばれる)がゼロになるとき、実数部分は1/2のままでも、虚数単位iの係数は大きく変動する可能性がある」ことが示唆されており、ロックの躍動が虚数軸に展開される場合でも、出力されるものは「ゼロ」となりうるという解釈だとすれば、これはいわば静かなる躍動であり、作品の中の曲『i』とぴったりとイメージが重なる。(注:「リーマン予想」の説明について、数学に詳しい方は、このあまりにひどい説明にうんざりされると思うのだけれど、これが、演出というものですね。だって、演劇ファンとして、この文章を書いておりますので。)
【筆者略歴】
高橋英之(たかはし・ひでゆき)
京都府出身。ビジネスパーソン。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takahashi-hideyuki/
【上演記録】
DULL-COLORED POP番外公演・サンモールスタジオ提携特別公演『プルーフ/証明』
サンモールスタジオ(2014年5月28日~6月4日)
作:デヴィッド・オーバーン
翻訳・演出:谷賢一(DULL-COLORED POP)
出演:大家仁志(青年座)、百花亜希、山本匠馬、遠野あすか
舞台監督:大原研二(DULL-COLORED POP)
照明:奥田賢太(株式会社コローレ)
美術:中村梨那(DULL-COLORED POP)
音響協力:大久保友紀
演出助手:鈴木遼
:古田彩乃
:木村恵美子
宣伝美術:デザイン太陽と雲
宣伝写真:久富健太郎
舞台監修:福澤諭志
制作:仲村和生
:安井和恵(クロムモリブデン)
プロデュース:百花亜希(DULL-COLORED POP)
:田窪桜子
提携:サンモールスタジオ
企画:DULL-COLORED POP
主催:ナッポスユナイテッド
協力:株式会社グランジェット
:株式会社STAGE DOCTER
:青年座 東宝芸能
チケット:全席指定 4000円(税込、全席指定)
風琴工房『proof-証明-』
SHIBAURA HOUSE 5階(2014年5月27日~6月1日)
作:デヴィッド・オーバーン
翻訳・演出:詩森ろぱ
出演:佐藤誓、清水穂奈美、金丸慎太郎、李千鶴
美術:杉山至+鴉屋
照明:榊美香(有限会社アイズ)
音響:青木タクヘイ(STAGE OFFICE)
舞台監督:印宮伸二
演出助手:大野沙亜耶
宣伝美術:詩森ろば
企画・製作:風琴工房
助成:文化芸術振興費補助金(トップレベルの舞台芸術創造事業)
舞台監督:印宮伸二
演出助手:大野沙亜耶
宣伝美術:詩森ろば
協力:アクトレインクラブ/株式会社ギフト/ブロッサムエンターテイメント
チケット:一般前売3,300円 一般当日3,500円 障害1,500円(前売・当日共)
学生当日1,500円 はじめて割3,300円(1公演3組6名限定)