東京デスロック「CEREMONY」

◎見る/見られるをめぐるダンスフロアー
廣澤梓

CEREMONY_l「観客という集合体を構成する個人は、それぞれ社会から〈離れて〉劇場に〈出かけ〉ていくが、劇場では一個人としてではなく集団として反応することで、社会の役を演じることになる。」 —リチャード・シェクナー「儀礼のゆくえ」『パフォーマンス研究—演劇と文化人類学が出会うところ』

 劇場に入ると床には、マゼンダとシアンの影が左右にブレて落ちている。立体視のできるメガネをかけているかのような視界と、天井で回るミラーボールが遠近感を狂わせる。冷静でいようとしてかえってやってきた緊張を解きほぐそうと、わたしは開場時間のBGMとしては大きすぎる音楽に身体を揺らした。

 STスポットの白い壁3面には同じ映像が投射され、「WELCOME」の文字とともに、自由席である旨と音の出る電子機器の電源OFFを呼び掛ける文言が映し出されていた。部屋の中央には10席程度の椅子の列が4つ、2列ずつ向かい合うように設けられていた。座席の上には結婚式でよく見る、新郎新婦の生い立ちや席順などが記された、あのリーフレットに似た体裁の当日パンフレットが置いてあった。

 結婚式がモチーフになっていることは開場前から明らかだった。受付の会議テーブルは白い光沢のある布が敷かれ、造花のアレンジメントにウェルカムボード。フォーマルにドレスアップをしたスタッフが観客を、まさにこれから椅子に座って列をつくることになる「列席者」として迎えてくれていたからだ。オザケンが「ダンスフロアー」と歌っているのが聞こえてきた。

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 開演時刻になると、ダンスミュージックからうってかわって厳かな印象をもたらすクラシック音楽が流れ、「WELCOME」に続いて「TO CEREMONY」の文字が現れて消える。そして「本日の主役」を拍手で迎えるよう、こちらもまた文字で指示される。本日の主役とは「日本人の皆様」なのだという。

 スーツやドレス、和服に身を包んだパフォーマー6人が後方から登場し、わたしはなんだかよく分からないままに拍手をした。儀式における拍手とは、だいたいいつもそういうもののようにも思う。パフォーマーのひとり、夏目慎也が部屋の奥に立ち、残りは観客の列の中間あるいは最後尾あたりに、彼と向かい合うように止まった。壁には「祝辞」の文字が掲げられ、夏目が一礼すると他のパフォーマーもそれに続き一礼する。

「みなさん、ご入学おめでとうございます」。祝辞を終え再び一礼をすると、間髪入れずに再度一礼。次に発されるのは「みなさん、ご卒業おめでとうございます」。そんな入学卒業の3セットと、成人と入社、入隊、そして誕生日を祝福する言葉が発せられる。その間、壁には手前の方に音楽家・大谷能生の黒く巨大な後ろ姿、その奥に祝辞を述べる夏目を収めた肩越しショットがライブで映し出される。夏目の背後にある壁の映像が映り込むことによる入れ子状態。振り向くと演出家の多田淳之介がカメラを操作しているのが見える。

 ほどなく「挨拶」の文字が映し出され、パフォーマー同士が距離感を保ちながらアイコンタクトをとりはじめる。表情をこわばらせながらおずおずと口にした「こんにちは」は、繰り返すうちに次第に親しい間柄のそれになっていく。あちこち動き回るパフォーマーを見るべく首を動かす観客と同じく、壁に映る映像はゆらゆらと不安定になり、そこに動きが残像として残るエフェクトがかけられていた。

 パフォーマーのひとりが先頭に座った観客に「こんにちは」と声をかける。続く5人も列を成して次々に、観客ひとりひとりに対して挨拶をする。演技と分かっているとは言え、声をかけてくれる人に対して、まるで無視を決め込むというのも難しいもので、観客の顔には何かしらの反応が見てとれる。と、このように他の観客の様子に気を取られ、余所見をしていたわたしに対しても、前を少し行きかけた佐山和泉はぐっと後ろを振り返り、じっと目を見て「こんにちは」と言った。

『CEREMONY』は照明やミラーボールの反射が一様に降り注がれる可視的な場所での、パフォーマーだけでなく観客、そしてオペレーションをするスタッフをも含めた、見る/見られるをめぐるひりひりとするような感覚をもたらした作品だった。

 パフォーマーは揃って前方に移動すると、「日本人の○○です。よろしくお願いします。」といった具合に自身の名前を次々に名乗る。「よろしくお願いします」はそこでは特に意味のない挨拶の文句のようにも聞こえたが、この後に引き出されることとなる数々の観客のアクションがこれに起因していたと思い返すこともできるだろう。

 この後、観客全員で研がれた米の入った土鍋に少量ずつ水を注ぎ炊飯の支度をする「食の儀」、結婚式のプロフィール紹介を模した体裁の、5000年前からの日本人の生い立ちを振り返る映像の鑑賞(そこで選択されている各時代の「日本人」のイメージには偏りがあることに注意しておきたい。BGMは「踊ってみた」のAKB48「恋するフォーチュンクッキー」。)、そして大谷によるソロパート「音楽の儀」へと続く。

「舞踊の儀」では自ら踊りながら後方から現れた多田が主導して、まずは椅子を移動して壁沿いに置くように言われ、観客がそれに続く指示に従い動いていると、知らず知らずのうちに観客同士、挨拶をする身振りを振付されることになる。観客はまんまと「踊らされる」こととなり、そこはミラーボールが回る空間に相応しく「ダンスフロアー」と化した。

 壁沿いの席に再びつくと、部屋の中央に現れた光の円に沿って浴衣姿にひょっとこ・おかめの面をつけたパフォーマー4人が現れ、盆踊りをモチーフに炭坑節からPerfume、YMOを踊る。音楽が止んでも自らの吐息のリズムでなおも踊り続ける彼らはやがて倒れこみ踊りをやめるが、そこからひとり立ちあがったダンサー・伊東歌織は浴衣をほどき、ダンスを続けるのだった。

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 日本語で儀式と訳される「CEREMONY」が冠された本作品であるが、そこでの儀式的なものにはいくつかのパターンがあることに気付く。導入部こそ結婚式や入学式といったいわゆる「儀式」の段取りを下敷きにしているが、その後は米を炊く、挨拶をすると言った日常的な行為=儀礼を取り出している。それらは体裁よく整えられ誇張されることで、認識可能なものへと設えられる。

 続くシーンでは音楽や舞踊といったそれ自体表現様式として既に確立されているものにわざわざ「儀」を付けることが行われる。儀礼と美的パフォーマンスとの親和性はもはや自明だろう。しかし、実際『CEREMONY』で選択されているのは、ジョン・ケージの「4分33秒」や盆踊りであり、既存の枠組みを揺さぶるようなものばかりである。故に続く「演劇の儀」も単に儀礼としての演劇を確認するだけのものにはならない。そこで見出される「演劇」とは、主婦の井戸端会議に登場したモノマネや、入社式の祝辞を任されたサラリーマンの練習風景である。

 しかしそのような作品の前提としてもたらされる、フライヤーの表面に記載された文章の中の「セレモニーとは共有、そして確認です。」という一文は、その言葉の射程が広いだけに素朴に受け取ろうと思えばそのようにもできてしまう。このことは、挨拶と炊飯によって日常を掬いあげ、5000年間の「日本人」の慣習的な行為を作品内に取り込んでしまうことと同様、東京デスロックの手つきなのだと思う。

『モラトリアム』以降の一般名詞をタイトルにした一連の、舞台と客席の区別のない空間での東京デスロックの作品に対峙するとき、わたしは強いストレスを受けていると感じる。作品の中で何をしようがあるひとつの文脈=作品に回収されてしまうことへの抵抗心が生まれ、かつそのことが常に無駄なものとなってしまうからなのではないか、と思っている。

 実はわたしは観劇時、ちょうど足を怪我しており踊りの輪には加わらなかったのだが(踊らない観客はほとんどいなかったと後から聞いた)、そのような瑣末なことでその枠組みから脱することにはならない。ここでの「踊り」とは実際の踊るという身振りではなく、外的要因に「踊らされる」ことを問題としているからだ。

 象徴的なシーンがある。伊東によるソロダンスは盆踊り風の親しみやすい振りをとりいれながらも、彼女のコンテンポラリーダンサーとしての経験を発揮したものであった。彼女のダンスにあわせて、室外の少し高い所に設えられたガラス越しのオペレーションルームで演奏を行っていた大谷の手元は、固定カメラで撮影されている。ここでの回るCDJのプラッターは、多田がコントロールするカメラによって伊東が踊っていたフロアの中央にある真っ赤な円(言わずもがな日の丸だ)と視覚的に重ねられて壁に映写される。こうして伊東ですら顔の見えない巨大な手に踊らされる存在へと仕立てられる。

【東京デスロック「CEREMONY」横浜公演写真 提供=東京デスロック 撮影=石川夕子 禁無断転載】

 映像を通じて観客にもたらされる情報は、パフォーマーがもたらすそれよりもずっと饒舌である。多田の操作するカメラによって捉えられた映像は、様々なエフェクトを施された状態で壁3面に同時に投射され、そのフィールドのどこにいても観客が目にしないわけにはいかない。この作品における観客の視線はパフォーマーだけでなく映像に対しても注がれる。

 そして当然、映像は観客に見られるものとして周到に準備されている。冒頭の祝辞のシーンから、カメラのレンズと観客の目は同化をはかられていたことを思い出そう。映像は観客にメッセージを発信すると同時に、観客の目そのものに重ねられる。こうしてカメラは観客の見るべきものを示し、作品の終盤にはそれをパフォーマーから観客へと移行させる。観客はカメラを向けられた自分たちの姿を「演劇の現在」という文言とともに突きつけられるのだ。

 ところで、ここで多田にカメラを向けられるような経験を、わたしたちは日常的にしているということに思い当たる。それは監視カメラという例に最も顕著だろう。もちろん監視カメラと劇場に設置されたカメラとは通常は全く異なる。前者は防犯上のものであるとされているし、後者の場合の多くは記録用のそれとして、ことわりがなかったとしても観客は抵抗なく受け入れている。そして『CEREMONY』でのカメラの使用は劇場にあるそれであることを隠れ蓑にしながら、わたしたちの監視的なものも含んだまなざしをあぶり出している。

 社会学者のジグムント・バウマンはデイヴィット・ライアンとの対話(『私たちが、すすんで監視し、監視されるこの世界について—リキッド・サーベイランスをめぐる7章』、青土社、2013年)の中で、現代の監視の拡大を「液状化」と表し次のように述べる。

「現代版の監視の最も注目すべき特徴は、それがどういうわけか、正反対のものを協働させようとしたり、それらを同じ業務のために協力させたりしていることだと思います。一方で、従来のパノプティコン的な戦略(「いつ自分が監視されているか分からないので、常に監視されていることを念頭に置くべきである」)も着実に、とどまることなく、広範に実施されています。他方で、従来のパノプティコンの悪夢(「私は決して一人ではない」)は「ふたたび一人になることはない」(見捨てられ、無視され、追放され、排除されることはない)という望みに変えられた結果、今では、暴露されることへの不安が、気づかれる喜びによって抑えられているのです。」

 パノプティコン(一望監視施設)は18世紀末にジェレミ・ベンサムによって提唱された監獄装置であり、ミシェル・フーコーによってそのシステムは近代のあらゆる権力機構(学校、病院、刑務所…)の基礎となっていると指摘されたことで広く知られている。バウマンは言う。そこでは監視するものは監視されるものに対して一定の責任を持つという意味で、見る/見られるの関係性を結ぶことができていた。だが現在の監視は無人機ドローンを例に、その権力者が見えない「ポスト・パノプティコン」の時代である、と。

 卑近な例で言えば、個人情報への高い意識と同時にあるSNSでの発信およびそれによる承認欲求が挙げられるだろう。わたしたちはFacebookによって地球の裏側にいる友人の様子を、共通の友人が写真にタグ付けされたことによって、当人がFacebookを利用していなくても知ることができる。またとっくに関係が終わったと思っていたかつての恋人が、Twitterを通じて相手の現在の位置情報を知り、そのインターフェイスの親密さに惑わされて連絡をよこしてくる、といった事態も体験する。わたしたちはわたしたちを日常的に相互に監視している。

 見る/見られる、そしてそのことが前提となる他者との関係性や権力・政治性といった問題は常に演劇が扱ってきたが、この液状化した監視をめぐる状況を受け、『CEREMONY』は作品中での見る/見られるの関係性を従来のパフォーマーと観客という安定したそれから溶解させているように思われる。

 しかし、多田が映像の投射されていない後方の壁沿いにいて、目が届きにくくなっているとはいえ、実際にはカメラを操作する姿は観客からは丸見えである。だが、演劇の約束の上で、多田は黒子のような透明な存在である。そのルールに従う限り、観客の目はカメラとの同一化に多田個人の介入を見ることなく行える。こうして観客はその受け身で従順な性格で以って、操作された視線を自らのものとして積極的に(幾分かは遠近感のない部屋に惑わされているかもしれない)引き受け、「踊らされる」のだ。

 さて、これまで『CEREMONY』における「日本人」像がどういったものなのかについては言及せず、あくまでまなざしの問題としてのみ見てきた。だが、最後にひとつだけ、作中で言われている「日本人」に触れておきたい。それはカメラで自らの姿を見るシーンの直前にあった、夏目演じるサラリーマンの入社式での祝辞の練習についてだ。

 台詞によって語られるのは彼が飲食チェーンを展開する会社に勤めており、先の震災を受けた宴会の自粛の風潮によって大きくその業績を落としたものの、地道に「頑張る」ことで顧客満足を高めて経営を立て直してきた、ということだ。このようなことを彼は自ら平台を持ちあげたりその間に挟まれたり、コミカルでありながらも練習としては常軌を逸した状態で語る。ある商品を売るために販売する者が摩耗するような消費者社会や感情労働を想起させるパフォーマンスの二重写しで、観客は自らの姿を省みることになる。(7月13日14時の回観劇)

【筆者略歴】
廣澤梓(ひろさわ・あずさ)
1985年生まれ。山口県下関市出身、神奈川県横浜市在住。2008年より百貨店勤務。2013年1月よりワンダーランド編集部に参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hirosawa-azusa/

【上演記録】
東京デスロック「CEREMONY

[ARTISTS]
多田淳之介[演出家/東京デスロック]
夏目慎也[俳優/東京デスロック]
佐山和泉[俳優/東京デスロック・青年団]
間野律子[俳優・ダンサー/東京デスロック・flep funce! ]
田中美希恵[俳優]
伊東歌織[振付家・ダンサー/アマキオト]
大谷能生[音楽家・批評家]
ENRIC CASTAYA[演出家/CASTAYA Project] 他

舞台監督:三津 久
照明:岩城 保
音響:泉田雄太
演出助手:杉 香苗
宣伝美術:宇野モンド
制作:服部悦子
企画製作:東京デスロック 一般社団法人unlock
協力:青年団 アマキオト (有)レトル krei inc. シバイエンジン にしすがも創造舎

助成:芸術文化振興基金

■横浜公演 2014年7月5日(土)-7月13日(日) STスポット
料金:(日時指定・全席自由・整理番号付)
一般…予約 2,500円/当日 3,000円
学生・シニア(65歳以上)…予約 2,000円/当日 2,500円

主催:一般社団法人unlock 東京デスロック
提携:STスポット

■高知公演 2014年7月18日(金)19:00開演 高知市文化プラザかるぽーと 小ホール
料金:(全席自由)
一般…前売・予約 2,500円/当日 3,000円
学生・シニア(65歳以上)…前売・予約 2,000円/当日 2,500円

主催:東京デスロック 一般社団法人unlock
共催:公益財団法人高知市文化振興事業団

■福井公演 2014年7月26日(土)-7月27日(日) 福井市文化会館 ホール舞台上
※両日共終演後ポストパフォーマンストーク 7月27日(日)ゲスト:相模友士郎氏

料金:(日時指定・全席自由・整理番号付)
一般…前売・予約 2,500円/当日 3,000円
学生・シニア(65歳以上)…前売・予約 2,000円/当日 2,500円
フォーラムメイト…2,200円

主催:東京デスロック 一般社団法人unlock NPO法人福井芸術・文化フォーラム
協力:(公財)福井市ふれあい公社
後援:福井市教育委員会 (公財)福井県文化振興事業団 福井新聞社 FBC福井放送 福井テレビ FM福井 福井ケーブルテレビ さかいケーブルテレビ 福井街角放送 月刊URALA


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