PARCO STAGE「金閣寺 The Temple Of The Golden Pavilion」

◎イメージの中の輝き
 植村真

 想像は現実を超える。
 『金閣寺』は三島由紀夫の代表作の一つであり、今も国内外で多くの人の支持を得ている小説である。
 2011年、演出家の宮本亜門によってKAATの杮落としとして上演された『金閣寺 The Temple Of The Golden Pavilion』はニューヨークのリンカーンセンターフェスティバルでも好評を受けた。海外でも三島の小説は多くの国で翻訳がなされ、高い評価を受けている。1985年にアメリカで公開された『Mishima: A Life In Four Chapters』(Paul Schrader監督)では三島の生涯と、3つの三島の小説を映画化し、第一部の「美」というテーマの中では、『金閣寺』が描かれている。

 そして今年4月、『金閣寺 The Temple Of The Golden Pavilion』が、赤坂ACTシアターにてキャストを新たに再演された。
 原作の『金閣寺』は1950年に実際に起こった事件をモチーフに書かれた作品であるが、その根底には、三島自身の美や芸術への思いが強く込められている。主人公の溝口少年は、金閣は完璧な美であると父親から教えられて育った。そのため、彼の中で金閣は絶対的に崇高な美として存在していた。そんな溝口が鹿苑寺の金閣を実際に見たとき、目の前にある本物の金閣の姿は、心の中で思っていたほどの美しさではなかった。しかし、戦争によってこの金閣も消えてなくなってしまうと思うと、忽ち金閣が美しく思えてきたという。

 三島がこの金閣寺の炎上事件を題材として扱おうとした意図は何か、そして何故今この作品を上演したのだろうか。

 本作の舞台美術は、1950 年当時の教室を再現するように作られていた。舞台の上には一般的な教室にあるような蛍光灯が点灯する。客席では開場中から話し声のような雑音が、客席側のスピーカーから鳴り響いており、物語の時間は開演前から緩やかに進み始めていた。開演時間になると、衣装ではなく普段着と思われる服を着た役者たちが舞台の前面、客席に近い場所に椅子を置いた。そして椅子に座ると『金閣寺』の冒頭をマイクを使いながら淡々と朗読していく。まるで朗読劇が始まるかのように思わせる演出である。このとき舞台奥からは山川冬樹が歩み寄る。そして『金閣寺』を読む役者の後ろに立ち、時折自らもテキストを読んだ。このときの山川は、他の朗読をしている役者と同じく、何かの役としてではなく、山川冬樹本人として舞台上に存在していた。最後に主人公・溝口役を演じる柳楽優弥が一文を読み終える。すると同時に山川が強烈な“音”をマイクを通して発する。これを皮切りに舞台は暗転し、柳楽は溝口となり、山川は金閣を象徴する役である鳳凰へと変化した。

 オープニング以降は、これまでとは一転して、私たちのよく知るような台詞劇として描かれる。しかし、劇中での場面転換の様は鮮やかだった。教室から剣道場、映画館から金閣寺、といった何度も場面の移動があるが、完全な暗転をせず、机の移動や周囲の人物の役割の転換によって舞台が止まることなく進行する。小野寺修二による振付けであるが、パントマイムで培ってきた技量が感じられた。

 この舞台で特に印象的な点は、吃音を持つ溝口の心境を表現する場面での演出であった。作中には金閣という言葉が繰り返し登場するが、ヴィジュアルイメージとしての金閣は一度も出現しない。黒板に書かれる金閣という文字、黄金色の照明効果、そして何より絶対的な美を可視化した存在である鳳凰によって金閣は体現される。溝口の心の中に金閣が出現するシーンでは、長い髪を下した山川はトゥバ共和国の独特の発声法であるホーメイを、舞踏集団・大駱駝艦の6人は身を攀じるような舞踏の動きを上半身裸の姿で行う。同時にストロボのような激しい照明と大音量の音楽が鳴り響き、場を一転させる。その鍛錬された発声と肉体による光景は神々しくもあり、またある種の恐ろしさを持っていた。

 休憩前の一場の最後には教室の中の机が階段状に積まれ、その頂上に鳳凰が登場する。物理的にも高さと質量のあるこの場面は、聳え立つ金閣が溝口の中でいかに大きく存在するかを体現するかのようであった。戦争が終わっても残された金閣に対して、葛藤を続けていた溝口はいよいよ金閣寺に火を着ける覚悟を決める。鳳凰が舞台から消え、金閣寺が燃えるとき、舞台の奥から客席に向かって一面オレンジの照明が灯る。その光は舞台を直視できないほどの光量を放ち、眼球と記憶に強烈な印象を残した。

 全てを終えた溝口が最後に一人煙草を吸う場面では、溝口は客席へと向かい、前列の席に座り、舞台上には冒頭のように普段着に戻った出演者が現れ、台詞を言って舞台から去っていく。これは再び物語の世界から、現実に戻るための演出だろう。金閣寺を燃え尽き、それでも続く現実と向かい合う溝口。その物語の中での心境を現代へと引き出すためには、この演出が必要だったのだと感じた。観客は常に現実に生きている。物語の世界に生きていると錯覚できるのは、舞台を見ている間だけであり、芝居が終わると観客は皆それぞれの生活に戻ることになる。その現実の生活と物語とを完全に分断するのではなく、緩やかに繋ぐ潤滑油のような演出である。

 現代から昭和の激動の時代へと遡り、再び現代へ戻っていく。現実と物語は、別の世界の出来事のようでいて、そこには共通したものが確かに存在する。この舞台を見終わった後、改めて金閣寺のあの強烈な出現のシーンや金閣が燃えるシーンなどを思い返すと、実際に観た印象より美化されて記憶されている、と感じる。舞台が無常であることの、目に見えない美しさ故の感情なのかもしれない。

 大学の美術教育でも、未だに物質的に後世に残る作品しか認められないという考えが残っているように感じる。勿論、歴史ある文化財や、ピカソやゴッホといった有名な絵画作品などの価値は計り知れない。それらは今後も言うまでもなく価値あるものとして、残り続けるだろう。だからこそ、日本でも重要な文化財の多い京都は、第二次世界大戦中、爆撃の対象にはならなかった。しかし、今を生きる私たちにとって、大事なものは古いものを守ることだけなのだろうか。震災以降、今目の前にあるものがいつ崩壊し、消えるか分からない状況を認識させられている。美術も今その問題と対峙し、変革を迫られているのかもしれない。

 演劇やダンスなどの舞台芸術は、どれだけアーカイブ化が発達しようとも、特定の場所と時間に立ち会わなければ簡単に風化してしまう、という性質から逃れられない。舞台においては、そこに立ち会った観客の受容に、作品の今後が委ねられる。今作も再演ではあるが、決して同じ公演は存在しない。演じる人間や、時代背景、劇場、観客が違えば全く違うものになりうる。だからこそ、舞台芸術は人々の記憶の中で最も輝き出すのだろう。

 私が抱いたこの感覚は、溝口が金閣に対して長年描いていたイメージと重なる。金閣が燃え尽きる場面をあれだけの高揚感のあるシーンにしたのは、おそらく演出家が最も印象づけようと狙った効果だろう。同時に舞台芸術に関わっていた三島自身が、『金閣寺』を通して描きたかった、芸術への思いと重なる。

【筆者略歴】
植村真(うえむら・まこと)
 1990年1月愛知県名古屋市生まれ。
名古屋造形大学造形学部 先端表現コース総合造形クラス(現コンテポラリーアートコース)卒業。東京藝術大学大学院 先端芸術表現科修士二年。ホームページ【RETRONICA】

【上演記録】PARCO STAGE「 金閣寺 The Temple Of The Golden Pavilion」
赤坂ACTシアター(2014年4月5日-4月19日)

原作:三島由紀夫
演出:宮本亜門
原作翻案:セルジュ・ラモット
脚本:伊藤ちひろ 宮本亜門

出演
柳楽優弥、水橋研ニ、水田航生、市川由衣、高橋長英、大西多摩恵、花王おさむ、山川冬樹、磯部勉、大駱駝艦(村松卓矢、湯山大一郎、若羽幸平、橋本まつり、小林優太、宮本正也)、岡田あがさ、天正彩

チケット料金:
S席:8,500円 A席:6,000円、U-25チケット:4,500円
高校生以下チケット=2,500円(4月5日18:30、6日13:30公演のみ対象)

主催:PARCO/TOKYO FM/朝日新聞社
後援:WOWOW
企画・製作:(株)パルコ


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