ルイス・ガレー「メンタル・アクティビティ」
木ノ下歌舞伎「三人吉三」
番外 She She Pop アーティストトーク

◎モノの魂――KYOTO EXPERIMENT 2014報告(第3回)
 水牛健太郎

 私が京都に行ったのは11日(土)、台風19号はまだ沖縄にあり、京都は気持ちよく晴れていた。これまで3週、雨には一度も降られていないのはありがたい。
 今回、諸事情により予算を切り詰めており、来週も含め4週とも宿泊はなく、滞在は1日きり。食事は基本カロリーメイトだし、観光らしいこともしていない。空き時間は公園などで本を読んだり、原稿を書いたり。これはこれで、後々懐かしく思い出すような気がして、しみじみとした幸福感を味わっている。

メンタル・アクティビティ

 先週フロレンシア・ペシーノ出演によるソロ作品「マネリエス」を上演した振付家ルイス・ガレー。今回は4人のパフォーマーによる「メンタル・アクティビティ」である。

 平台を並べた6~7メートルの簡素な舞台は、ところどころ黒い塗料で線が書かれており、また樹脂のようなものが塗られて濡れたように光っている。奥から強い光で客席を照らし、陰になって見えなくなっているその奥から、ごん、という重い衝撃音とともに色々なモノが投げ込まれる。木材、コンクリート・ブロック、鉄くず、ビニールパイプ、竹筒、ペットボトル、岩などなど。勢いはますばかりで、モノの上にモノが重なり、建物の取り壊しの後のような状態になる。もちろん客席には届かないよう加減はされているが、コンクリート・ブロックがはねる様子は、軽い恐怖を感じるほどだ。

 女性2人(うち1人は「マネリエス」に出演したフロレンシア・ペシーノ)、男性2人の4人のパフォーマーが舞台を囲むように立つ。そのうちの1人が前傾姿勢を取ると、その勢いのまま舞台を横切って前方に走り始める。前述のように色々なモノが転がっており、その上を走るので、転んでしまうのではないか、また手足を切ってしまうのではないかとはらはらする。4人はこれを繰り返し、さらにはお互いに肩を組んで2人、3人、そして4人でひとかたまりになって、モノの積み重なった上を走り、時につまずいて転んだりする。

 さらに、女性のうち1人(ペシーノでない方)が四つんばいになり、舞台に転がった長さ1メートル、長さ60センチほどの木材を、頭で押し始める。年輪の部分を額で押すこともあれば、こめかみで横のところを押すことも。木材の向こうに何かがあれば、それも一緒に押す。木材の重さは10キロや20キロはあるだろう。ハードである。10分ほどもかけて、四角形を描くように木材を押し、元の位置に戻ってくる。

 それから彼女はその木材をゆっくりと、縦に立て始める。それに呼応するかのように、手前で男性の1人が舞台に転がっていたビニールパイプを立てる。実にゆっくりと、わずかずつ、縦にしていく。このパイプは先が細くなっており、男根のメタファーに見えないこともない。

 その間にペシーノが転がっていた自転車のタイヤを拾い上げ、胸の前に掲げる。そしてそれを両手で少しずつ幅を広げたり、狭めたりし始める。ちょうど腕の筋肉を鍛える機器を扱うような動作である。これも最初は目に見えないほど小さな、ゆっくりした動作から、徐々に速い、大きな動作に移っていく。それにつれて舞台下手から上手へとゆっくりと移動する。木材を立てていた女性は、今度は木材に向かってあぐらをかき、じっと見つめている。一方、男性の一人が砂のようなものが入っている袋をくわえて移動し始めた。

 このように舞台の上に転がっているモノを使って何かをする様子を1時間にわたって見せていくのだが、その動作はどれも、宗教的敬虔と言いたくなるほどの精神的集中とうやうやしさを伴って行われる。乱暴に蹴ったり投げたりすることはない。ハイヒールの片方を高く掲げ、ゆっくりと舞台を横切り、横になった木材の上にそっと置く動作もある。これはモノがモノだけにフェッティシュな意味もありそうに思えるが、それ以外のモノであっても扱いは同じだ。

 舞台の上にあるのは、ふだん「産業廃棄物」と呼ばれているようなモノである。もともと自然の中にあった材料を人間が取り出し、加工し、自らの生活に役立てて、その後は何の未練もなく捨て去ったゴミ。その捨て去るようすが冒頭だったと思うが、パフォーマーたちはその後1時間をかけて、それらとの関係を改めて結び直した。その間、機械の作動音のようなBGMが低く流れており、徐々に大きくなっていく。

 肉体的にハードな動きも多い。1辺60センチほどのスチロールの立方体の上に横たわり、ばたんと舞台に落ちたり、コンクリート・ブロックに縄を付けて延々と回転したりするなどだ。この回転は10分近く続けていた。縄が外れてブロックが飛んできたらという気持ちもあり、圧迫感を感じる。カーオイルか何かの空き缶を舐めるのもあった。これも何十回と繰り返される。

 先週の「マネリエス」でも感じたことだが、ある種の制限を課された動作が繰り返されていると、そこにパフォーマーの精神がありありと感じられてくるという効果がある。「心」という言葉にはもともと「眼に見えない、隠されたもの」という含意があるらしいが、人や動物が意外な行動をとると、そこに人は「心」の存在を感じ取る。単純な機械でもことごとくコマンドと違う動作をされたら、「自分に反抗しているのではないか」などと、まるで心があるように感じるだろう。人間の場合には単調な動作、ことに肉体に負荷がかかったり、抵抗感があるような動作を繰り返すには、まぎれもなく「心」の働きが必要であることから、その存在がクローズアップされて感じられるのだ。

 やがてペシーノが、細長い木の枝に青いビニールテープをまき、ボンボンのようにテープを割いたものを舞台の上から取り上げる。これを男性パフォーマーと2人の頬の間にはさみ、舞台を横切る。それから男性パフォーマーがこれを前に突きだし、観客席の上に高く掲げる。まるでお祓いの榊のようだ。自ずとあらたまった空気が漂う。

 最後にはペシーノが砂袋を両手で振り、もう1人の女性が長い髪の先に何かを付けて頭を回転させる。また男性の1人がレンガを宙に放り投げ、受け止める。やがて長い暗転があり、明転すると、誰もいなくなっている。舞台に残されているのはモノたち。多くのモノがパフォーマンスを通じて立てられ、ほのかな光の中で、厳かな気を放っていた。まるで心があるように感じられた。
(11日午後1時の回)

三人吉三

 歌舞伎のことは何も知らない。三人吉三という演目も知っていたのは名前だけで、今回初めて見た。

 歌舞伎の幕に使われている黒、緑、柿色の3色を迷彩柄にし、奥が高くなっている、いわゆる八百屋舞台をこの柄で塗りつくした。舞台の更に奥は奈落状に落ち込んでいて、役者はここから出入りすることも多い。また客席から、通路を通って舞台に上がることも。奥の一番高いところに高さ2メートル弱の大きな文字が3つ「EDO」とあり、舞台と同じ3色迷彩柄に塗られている。これを移動させて、その陰に人が隠れるなど、様々な場面で便利に使う。

 着流し姿の俳優が1人、奥に背中を向けて立ち、「蛍の光」のハードロックバージョンがガンガンとかかり、コンサートのごとく明るいライトが湧きあがるように舞台を照らして、芝居が始まる。第1幕は刀剣商の文理(村上誠基)という男が吉原の花魁一重(熊川ふみ)にほれ込み、通い詰めている、という話から始まる。女房のおしづ(兵藤公美)はよく出来た人とでもいうのか、ニコニコ笑って許しているというのが怖い。

 この話には2つのモノが登場し、その行き交うさまが物語を織りなしていく。1つは百両というカネで、一包の小判で表される。もう1つは宝刀庚申丸。まずは文理が持っていた庚申丸を、出世のために偉い人にプレゼントしようと考えた釜屋武兵衛(bable)という男が百両で買うというところからスタートするが、この百両を持ち帰ろうとした文理の手代十三郎(田中祐気)は夜鷹おとせ(滝沢めぐみ)と一緒にいる時にお金を落としてしまう。おとせがこれを十三郎に返そうと夜道を歩いていたところ、お嬢吉三(堀越涼)に奪われ、おまけに自分は川に落とされる。その百両を武兵衛が奪おうと襲ってくるが、これを撃退し、お嬢吉三は百両と庚申丸の2つを共に手にする。更にお坊吉三(大橋一輝)と百両を巡って争っているところに和尚吉三(大村わたる)が現れ、2人を仲裁したことから、3人の吉三は義兄弟の契りを結び、百両は兄貴分の和尚吉三が預かることになる。

 これだけで相当複雑なのだが、百両は更に和尚吉三から父の土左衛門伝吉(武谷公雄)に、そして結局は武兵衛が手にすることになる。一方、刀はお嬢吉三が持っている状態のままで第1幕が終わる。

 この刀には因縁があった。もともとお上の宝刀で、旗本の安森という人が保管していたが、盗賊に盗まれ、責任を取って切腹、お家は断絶となる。お坊吉三と花魁の一重は実はその子ども(兄と妹)であり、宝刀を取り戻して安森家を再興したいという願いを抱いている。一方、宝刀を盗んだ盗賊というのが実は和尚吉三の父・伝吉の若い頃の姿なのだ。幾重にも歌舞伎チックな話だ。

 だが、刀の話はここまでで、結末までほとんど動かない。第2幕以降はほとんど百両のお金が物語の動力となる。世の中カネがすべて。実に現代的な話である。

 この点だけでなく、三人吉三という話は妙に新しい感じがするのだった。新しいといっても21世紀のまさに今というのではなくて、バブルが弾ける前あたりまでの感じである。この公演でマゲが使われていないせいもあるが、刀が出てくるあたりを除けば、昭和30年代ぐらいの設定でも違和感はほとんどないと思う。

 1つには、人の内面が問題になっている点である。伝吉と和尚吉三の親子は善と悪の狭間で揺れている。そこには日蓮宗らしき宗教の問題(作者河竹黙阿弥が門徒だったのか)も見え隠れしているのだが、善を貫き通せず、悪にも徹しきれない弱さがそのまま苦悩となって主題化されている。また一重に関しても、彼女が誰を愛しているのかが問題とされる。窮乏する文理を助けたい一重は、お金(百両)のために武兵衛に身を任そうとするのだが、文理への思いが邪魔になって果たせない。こうした、特別な貴人でも英雄でもない市井の人の内面がドラマになるのはとても近代的なことと思われる。

 第2幕ではお坊吉三が武兵衛から百両を奪い、更にそれを奪おうとした伝吉を殺してしまうくだりがある。そして第3幕になると、それまで舞台奥に常にあったEDOの文字が片づけられ、照明の加減で舞台の迷彩柄も見えなくなって、一気に舞台の緊迫感が高まってくる。

 これまでの悪事によって追われるお坊吉三とお嬢吉三を、和尚吉三は寺に匿っている。そこに父の仇を撃つ助太刀をしてほしいとおとせ(これまで説明しなかったが、夜鷹おとせは伝吉の娘で和尚吉三の妹に当たる)と、今は恋仲である十三郎が尋ねてくる。板挟みになる和尚吉三はここで驚くべき行動に出る。おとせと十三郎を墓場で切り殺し、その首をお坊吉三とお嬢吉三に与えるのである。

 この行動には、十三郎が実はかつて伝吉が捨てた子であり、おとせとは双子のきょうだいで、近親相姦を犯しているということがあるのだが、それにしてもひどい話である。和尚吉三は2人を仏教で言う「畜生道」に堕ちていると考えている(「畜生道」だとか「地獄」を強調するのは日蓮宗の1つの特徴だ)。和尚吉三に死んでくれと頼まれ、快く(!)承知する2人は、お互いにきょうだいだとは夢にも知らず、極楽で一緒に幸せに暮らすつもり。和尚吉三は「実際はこの2人は、地獄落ちは免れない」と思う心を隠して、涙で切り殺す。ここはこの「三人吉三」という作品の暗黒面で、今話題のイスラム国なみの宗教的ファナティズムだとしか私には思えない。

 和尚吉三は2人に、与えた首を身代わりにして生き延び、堅気になるようにと言うのだが、この3人は結局は逃げ切れず、最後は刺し違えて死ぬことになる。

 一方、一重は文理の子梅吉を生むが、産後の経過が悪い。文理が見守る中、正妻おしづと息子鉄之助(森田真和)も現れ、梅吉を我が子同様に育てていくと約束。一重は安心し、おしづに感謝し、「長じても廓通いだけはしないように」という、何とも微妙な梅吉宛ての遺書を残して死んでいく。

 文理と一重の今生の別れの場面におしづが現れ、主役然として舞台の真ん中に座るところなど実に怖いが、ともかくもこのお芝居は勧善懲悪が徹底しているのだった。善悪の矛盾をはらんだ三人の吉三や伝吉、おとせ、十三郎は、一閃の光を放ちながらも死の闇へと消えていき、後には、一重の死によって清く正しい一家として再生した文理たち4人が残る。雪が降りしきっている。夜はもう更けた。人々はまだ知らないが、明治の御代まであと10年もないのである。

 ストーリーを追って何だかんだ書いてきたが、この複雑な、そして色々と古さもある話を分かりやすく整理し、一大エンターテインメントとして仕上げた監修・補綴の木ノ下裕一、演出・美術の杉原邦生のコンビの力はとても大きいものがあったと思う。最後まで5時間、だれることもなく、楽しく見ることができた。七五調の言葉のリズムの快さ、張った声の楽しさ、面白さ。歌舞伎の魅力を確かに伝えつつ、そこにポップな色遣いの舞台や大道具・小道具、衣装など現代的な魅力を加えた。

 特に文理・一重のくだりは、現在ほとんど上演されることがないという。他の上演を見たことがないので比較することはできないが、この部分が作者・河竹黙阿弥の家族観や倫理観を浮かび上がらせることで、作品全体の意味合いがより深く感じられるように思った。

 俳優も奮闘した。1人何役もこなしたが、夜鷹と花魁が同じ役者だったり、文理と金貸し太郎右衛門が同じ村上誠基だったりと、演出の意図を感じるところもあって面白かった。そうした中でおしづを演じた兵藤だけが、決して出番が多い役でもないのに1役だったのは、おしづの不動の位置を物語るものだろう。おしづは芝居の最初と最後に出る人であり、そして物語の間、全く揺るがない人である。まるで北極星のようだ。

 俳優は全員よかったが、なかでも武谷公雄の伝吉は実に渋かった。また脇役ばかりだったが森田真和が独特の存在感で客席を沸かせた。
(11日午後4時の回)

番外編 She She Popアーティストトーク

 7日、東京のドイツ文化センターでShe She Popアーティストトークが開かれ、先週の「春の祭典――She She Popとその母親たちによる」(以下「春の祭典」)にも参加したメンバーのリーザ・ルカセンとセバスティアン・バークが「春の祭典」の一部を映像で流しながら、She She Popのこれまでの歩みや作品のことなどについて話した。また質疑応答の機会があり、この機会に「春の祭典」を見て私が抱いたいくつかの疑問をぶつけることができた。

 ルカセンの話によればShe She Popのおおもとは1993年ごろまで遡る。彼女らはギーセン大学応用演劇学科に所属していたが、そこでは男性の演出家の下でギリシャ悲劇など古典を演じる毎日を送っており、つまらないと感じていた。そこで女性ばかり8人のパフォーマンス集団としてShe She Popを結成し、俳優、演出家、制作といった分担やヒエラルキーなく、全てのメンバーが全ての役割を果たすこととした(男性のバークは途中からの参加ということになる。なおバークの参加があっても「女性のテーマを扱う」というShe She Popのコンセプトは変わらないという)。当初は色眼鏡で見られ「一番脚が長いのは」「一番歌がうまいのは」などとメンバー相互を比べられることが多かった。そこでパフォーマンス中は客電を着け、「私たちもあなたたちを見ている」ということを示した時期もあったという。

 最初の10~15年間は「1つの状況を形成し、同じ空間の中で観客と問題をシェアする」というコンセプトで作られた作品ばかりだったという。ルールを設定してゲーム的にパフォーマンスを展開させたり、また数人の客に語りかけ、方法を決めてパフォーマンスに参加してもらったりした。リスクはあるが、それにより「今、ここ」という状況を体験できるものになった。

 しかし、そうしたパフォーマンスを続けているうちに、客に突きつける状況が尽きてしまった。そこでメンバーの個人的な状況を取り上げ、それを普遍的なものとして提示する方向に舵を切ることになる。その最初の作品が「リア王」を脚色した「Testament(遺言/誓約)」だった(2011年2月にKAATで公演)。メンバーの父親たちを巻き込み、「老い」や「父が残す『王国』とは何か」ということをテーマにした。初めて即興性を取り払ったため、字幕が着けられるようになり、外国でも上演できるようになった。その2年後、自分たちと同年代の、東ドイツで育った女性たちをゲストとして招き「シュプラーデン(引き出し)」を制作、KYOTO EXPERIMENT 2013でも上演された。

 そして今回の「春の祭典」となる。She She Popとして最大規模の、複数の国との国際共同製作作品である。はじめて音楽と向き合った作品としても位置づけているという。母親を扱うため、3つのアイディアを考えた。①母親はライブで登場しない ②なるべく話をせず、ダンスをしたり、音楽を一緒に聞いたりする ③「犠牲者」としての母親=女性に着目する これらの手段・方向性を元に、いかにエモーショナルなものを生み出していくかが作品の成功を決めることになる――という。ここまでが2人の話。

 ここで、「春の祭典」を見て私が感じた疑問についていくつか聞いてみた。
Q.1枚の大きな布を、母親たちがアフガニスタンのブルカやイランのヘジャブ、また中国服や和服のように着ていく場面があるが、イスラムやアジアにおける女性の地位の低さを示唆する意図があるのでしょうか。
A.ご指摘の部分は5分ほどの長さで、その短時間でイスラムの女性の立場に言及できるとは思っていません。これは衣装デザイナーのアイディアで、衣服の始まりということを考えて作った場面です。スリットのある1枚の布が様々な衣服へと発展していくことを示しています。

Q.当日パンフレットによれば、京都でも日本の女性についてリサーチを行ったといいます。それで何か得たものがありますか。その結果を作品に反映した、あるいは何らかの理由で反映しないことを決めた、ということがあれば教えてください。
A.母と娘の関係について何人かの人に話を聞きました。その結果わかったのは、世界中どこでも人は同じような問題を抱えているのだな、ということでした。母と子の問題について、文化の違いはないと思ったのでした。それ以外の点で、舞台造りについて日本文化に刺激を受けたことはあります。

Q.それは土俵ではないですか(舞台の上に、朱色の縄を円形に敷いたことを指している)
A.ワオ(爆笑)! それは全く考えませんでしたが、そのアイディアをいただいて、今度から「これは日本で得たアイディアだ」と言ってもいいですか?
 日本は日常に儀式が生きている文化です。伊勢神宮の式年遷宮の儀式で、前のお宮から4枚の布で大切なものを覆って、しずしずと新しいお宮に移すというのを見たものですから、今回の作品の4枚の布も、そういう風にしずしずと舞台に運んでいってつるすという形にできないかと思ったのですが、技術的にできないということでした。今後どこかでできればやりたいと思っています。

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランドスタッフ。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。2014年9月より、慶應義塾大学文学部で非常勤講師。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro

【上演記録】
KYOTO EXPERIMENT 2014

ルイス・ガレー「メンタル・アクティビティ
京都芸術センター講堂(2014年10月9日‐11日)

演出 ルイス・ガレー
出演 イヴァン・ハイダー、マルシア・レティシア・ラメラ・アド、フロレンシア・べシーノ、ブルーノ・ディアス・モレノ
制作協力 ディエゴ・ビアンチ、ルシアーノ・アッチゴッティ、ヴァニナ・スコラヴィーノ
照明 エドアルド・マッジオーロ
アーカイブ テディー・ウィリアムス
制作助手 ジュリアン・ソーター
共同製作FIBA, the International Festival of Buenos Aires, Nerinium Foundation, Basel, Switzerland and CHELA
助成the International Art Show SESC, Sao Paulo Br.Con Prodanza support
主催KYOTO EXPERIMENT

チケット料金
一般 前売 ¥2,500/当日 ¥3,000
ユース・学生 前売 ¥2,000/当日 ¥2,500
シニア 前売 ¥2,000/当日 ¥2,500
高校生以下 前売 ¥1,000/当日 ¥1,000
ペア ¥4,000(前売のみ)

木ノ下歌舞伎「三人吉三
京都芸術劇場 春秋座(2014年10月11日‐12日)

監修・補綴 木ノ下裕一
演出・美術 杉原邦生
作 河竹黙阿弥
出演 大村わたる、大橋一輝、堀越涼/村上誠基、熊川ふみ、兵藤公美/塚越健一、bable、森田真和、緑川史絵、大寺亜矢子、森一生/田中祐気、滝沢めぐみ/武谷公雄
舞台監督 大鹿展明
照明 中山奈美
音響 星野大輔
衣裳 藤谷香子
所作指導 史(Chika)
文芸 関亜弓
補綴助手 稲垣貴俊
演出助手 岩澤哲野、鈴木美波
宣伝美術 外山央
制作 本郷麻衣
製作 木ノ下歌舞伎
共同製作KYOTO EXPERIMENT
協力 あやめ十八番、柿喰う客、急な坂スタジオ、キューブ、KUNIO、劇団しようよ、サウンドウィーズ、青年団、台湾岡崎藝術座、DULL-COLORED POP、TEAM ▷りびどー大戦争、花組芝居、PAPALUWA、範宙遊泳、FAI FAI(快快)、(有)レトル
助成 平成26年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業、公益財団法人セゾン文化財団
主催KYOTO EXPERIMENT

チケット料金
一般 前売 ¥3,500/当日 ¥4,000
ユース・学生 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
シニア 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
高校生以下 前売 ¥1,000/当日 ¥1,000
ペア ¥6,000(前売のみ)


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