「春琴」(サイモン・マクバーニー/演出・構成)

◎身体と言葉‐陰翳のポリフォニー
芦沢みどり(戯曲翻訳家)

「春琴」公演チラシ谷崎潤一郎は『春琴抄』の冒頭を、<私>が大阪市下寺町にある春琴の墓を訪ねて行く場面で始めている。『鵙屋春琴伝』という架空の原テクストを設定した谷崎は、たまたま入手した小冊子の内容を紹介するという形でこのあと春琴と佐助の物語を展開させて行く。したがって冒頭部分は、墓参りをしている<私>(たぶん谷崎)が物語の作者ではなく解説者であることを読者に印象づけるためのプロローグなのである。さらにこの小冊子は春琴の弟子であり事実上の夫であった佐助が晩年に、そばに仕えた鴫沢てるに話して書き取らせたものであることまでほのめかしている。なぜ谷崎は物語を語るのにこのような複雑な構造にしたのか? それについて岩波文庫版『春琴抄』の解説者である佐伯彰一は、「谷崎流の語りの戦略」だと言っている。一人語りでは当然、語られる知識の内容が限定せざるを得ない。これはその視野の狭さを解消して語りにさまざまな声を取り込むための仕掛けなのだという。つまり作者、解説者、物語の語り手という複数の声を投入して一人語りを多彩なものにする装置というわけだ。

谷崎の『春琴抄』を舞台化するに当たってサイモン・マクバーニーは、原作のこの重層的な構造をさらに極限にまで押し進めたように思われる。まず解説者としての谷崎を舞台に登場させると同時に、もう一人、物語を読むナレーターも登場させている。このナレーターは現代の録音スタジオで『春琴抄』のナレーション部分のみを録音する(なんと今日的!)という設定になっている。この重層的構造の中で春琴と佐助の物語が展開してゆくのだが、観客が目にするのは流れるように展開して行くシーンのモザイクであって、通常のストーリーの展開ではない。そもそも春琴を人形二体と女優が演じ、佐助を複数の俳優が演じるなど、キャラクターとキャストの一対一の関係が壊されていることも、舞台で複数の要素が同時並行的に展開している印象を強めている。

シーンのモザイクは主として身体表現によるものである。再び谷崎に戻ると、寺の墓地で春琴の墓を探していた<私>は墓が彼女の生家の墓所内ではなく、そこから少し外れた場所に佐助の墓を後ろに従えるようにして建っているのを見出す。事実上は夫婦でありながら生涯主従であり師弟であることを貫き通した二人の関係を暗示する書き出しだが、マクバーニーは原作のこの部分をきわめて象徴的に舞台化して見せた。長さ二メートル弱の細い白木の棒を持った数人の俳優が春琴の墓の後ろで枝を差し伸べた松となり、その前に置かれた台に端座した春琴(深津絵里)は頭にふわりと暗色の布切れを掛けて墓石となり、胡麻塩頭の晩年の佐助(ヨシ笈田)は春琴の後方に座しただけでもう墓石になっている。この図は二人の関係を可視化させた見事な舞台表現である。

俳優たちが松の木になる時に使った白木の棒は、そのあと薬種商鵙屋の広壮な家屋敷を描写する際にフル活用される。当時の大店の娘たちの暮らしぶりを解説する谷崎(瑞木健太郎)が家の奥へ奥へと入って行く場面。俳優たちは白木の棒を縦横に組みながら格子を作り、別の俳優たちが動かす数枚の畳と一緒に舞台をすばやく移動して行く。このとき谷崎は音(効果音)を立てながら次々に襖を開けてゆくのだが、ここでは棒と畳の移動と襖を開ける効果音だけで広く奥深い屋敷が表現される。(おまけに谷崎が坪庭を迂回する動きまで入っている!)このシーンの俳優たちは、舞台装置の作り手でもある。

もう一つ、身体表現が印象的だった場面を挙げておきたい。盲目の春琴は二十歳の時に三味線師匠の看板を掲げることになり道修町の親の家を離れるが、親元にいる間の春琴は深津が遣う二体の人形と人形振り(宮本裕子)である。(人形の顔が岸田劉生の麗子そっくり!)その人形春琴が十七歳の時に佐助(チョウソンハ)の子を身ごもり出産する場面。舞台奥に頭を向けて横たえられた人形のきものの裾がさっと広げられ、そこから引き出された赤子を俳優三人の六つの手が支え持つ。六つの手は産婆の手であり、孫を抱く祖父母の手であり、生まれたばかりの赤子そのものでもあるのだが、この時の繊細でなまめかしい手の動きは、性的なものを感じさせると同時にそこに生命が迸り、実際に赤子が手足を活発に動かしているかのような生き生きとした光景になっている。

以上のような洗練されたさまざまな身体表現のモザイクは、俳優の声、三味線(本條秀太郎)、映像で結合される。今回の公演では特に言語の力を際立たせる演出になっていたと思う。舞台前面に現代服の俳優たちが立ち並ぶオープニングシーンのあと、録音スタジオに現れたナレーター(立石凉子)の携帯電話の着メロが鳴る。かけてきたのは不倫の相手だ。別れ話を持ち出す彼女の艶のある低い声は、そのあとの「春琴」の語りへと違和感なくすべり込んで行く。ナレーターは物語の語り手であると同時に舞台の上に常にいて、春琴と佐助の変則的な愛のあり方を見つめる現代女性の目でもある。彼女は『春琴抄』について感想らしいことは何も言わないが、不倫相手との電話による三度の会話は時を追って微妙に変化し、物語の影響が暗示される。また人形春琴のセリフは遣い手の深津が担当しているのだが、その澄んだ甲高い声が人形に命を与え、驕慢ではあるけれど純粋でもある少女を見事に現前化させている。ナレーション以外の登場人物たちのセリフはそれほど多くないし、短い。その短い関西訛りのセリフが、時に数人によって繰り返される時、舞台表現には身体に拮抗する言語の力もあることを再確認させられると同時に、逆説的ではあるが俳優たちの質の異なるさまざまな声もまた身体であることを改めて確認させられる。

この物語にとって三味線は不可欠の楽器だが、奏者は単なる音楽担当者ではない。ナレーター同様ほとんど舞台の上にいて劇の進行を支えている。伝え聞くところによると、本條は昨年末のロンドン・ワークショップから稽古に参加したとか。チーム・マクバーニーのアンサンブル・プレーの創造過程の一端が窺えるエピソードだ。そもそもマクバーニーの舞台に台本は存在しないという。エコール・ジャック・ルコック(パリ)でマクバーニーと共に学び、コンプリシテに創設の翌年から参加したクライヴ・メンダスがNTQ誌のインタビュー(2006年8月号)の中で、言葉は稽古場で探してゆくのだと明かしている。「サイモンはシーンの始まりと終わり、つまりシーンがどこで変わるかをはっきりさせないことにこだわりを持っている。流れるような継続性が重要なのだ。コンプリシテの舞台ではアンサンブルのムーブメント、ジェスチャー、音、テクスト、リズムが一体となるコーラス・ムーブメント(chorus movement)に重点が置かれる」と言っている。最初から存在する台本に俳優をはめ込むのではなく、俳優の動きを見て舞台を創って行く。そのために断片を創っては壊し、壊しては創る創作過程では、演出家、俳優、音楽などの分業は不可能だろう。パワフルなアンサンブル・プレーの秘密は、キャストとスタッフを線引きしない共同作業から生まれるようだ。

マクバーニーは『陰翳礼讃』を読んで谷崎に興味を持つようになったという。「春琴」の舞台では、落とした照明、蝋燭の光、程よくセピア色が入ったモノクロの映像などをその反映として挙げることができるだろうが、そこには外国人の日本趣味という嫌味はない。むしろ現代日本人の方が『陰翳礼讃』の世界を型にはめて捉えているかもしれない。「サイモン・マクバーニーが『春琴抄』を舞台化するって?」という驚きの中に、こちらのステレオタイプな思い込みがあった。そういうことに気づかされる舞台だった。チーム・マクバーニーは真正面から谷崎と向き合って舞台を創り、演劇の可能性がまだ様々な方向にあることを示して見せた。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第86号、2008年3月19日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
1945年9月中国・天津市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。1982年から主としてイギリス現代劇の戯曲翻訳を始める。主な舞台「リタの教育」(ウィリー・ラッセル)、「マイシスター・イン・ディス・ハウス」(ウェンディー・ケッセルマン)、「ビューティークイーン・オブ・リーナン」および「ロンサム・ウェスト」(マーティン・マクドナー)、「フェイドラの恋」(サラ・ケイン)ほか。2006年から演劇集団・円所属。
・wonderland掲載劇評一覧 :http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ashizawa-midori/

>> 上演記録

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