快快「SHIBAHAMA」

◎酷薄な皮肉さを肯定すること  柳沢望  快快の『SHIBAHAMA』は、古典落語の『芝浜』をモチーフにしながら、天井と四つの壁すべてにせわしなく映像を上映しつつ、断続的に多様な場面が入れ替わる、極めて同時代的な舞台作品 … “快快「SHIBAHAMA」” の続きを読む

◎酷薄な皮肉さを肯定すること
 柳沢望

 快快の『SHIBAHAMA』は、古典落語の『芝浜』をモチーフにしながら、天井と四つの壁すべてにせわしなく映像を上映しつつ、断続的に多様な場面が入れ替わる、極めて同時代的な舞台作品に仕上げられた上演だったと思う。

 舞台作品の上演である、と言うと、少し異論があるかもしれない。『SHIBAHAMA』は、日替わりのゲストが登場したりもして、その場で予測不能のハプニングも起こるようなイベントとして成り立っているのではないか。上演というよりも、一種のパーティーのような場となっていたのではないか。そう考えたときには、舞台作品という評価に収まらない部分をこそ、むしろ、評価すべきなのではないか。

 確かに、『SHIBAHAMA』の舞台に登場するパフォーマーは、パフォーマー本人として舞台に立っていたように思える。『芝浜』のストーリーを体感するためのフィールドワークをしてみました、と言って、演出の篠田千明が競馬に行った話をしたり、山崎皓司が「三日寝ない」で過ごすとハイになるという都市伝説を実体験しようと試みた経験を語ってみたりする場面は、あくまで本人が本人として自分の経験を語っている。

 そんな、パフォーマーたちが自分自身として立つ演技スペースは、観客参加型のゲームが展開する場所になったりもするし、篠田千明は観客に「写真もどんどん撮っちゃってください」と煽ったりもする。
 つまり、舞台は単に見られる場ではなく、観客も出演者も、互いに本人としてその場に現れる場であり、その限りでは、上演というよりも、イベントであったと言うべきなのではないか。

 会場は東京芸術劇場の小ホールだったが、客席は、四方の壁際に設置されていて、中央のスペースは大きく開かれている。そこに、さまざまなオブジェが散在していて、パフォーマーが出たり入ったりする。そうしたパフォーマーの出入り口は、日本家屋風にしつらえられていたりもする。

 中央のスペースがイベント空間的でDJブースもあったことを踏まえると、「彼らが得意なオールスタンディングのイベント仕立てとした方が『らしくて』いいように感じます。(注)」という感想があがるのも、もっともではないかと思える。
(注)「休むに似たり。」の次の記事参照。
http://kawahira.cocolog-nifty.com/fringe/2010/06/shibahamafaifai.html

 ただ、『SHIBAHAMA』の上演形式について考える場合、イベント的、パーティー的なものが、全体として、舞台と客席という関係に枠付けられていた点に、むしろ注目すべきだろう。
 それは、古典落語の設定を様々に換骨奪胎しながらも、落語という枠、そして『芝浜』という原作のモチーフを尊重し続けている点とも関わる。

 『芝浜』というフィクションは、快快のメンバーたちにとっては、現在の東京に生きるリアリティーを探るための、ひとつの準拠枠にようなものになっていたかのようだ。それは、落語の登場人物を、現代のあまり働きたくない若者になぞらえてみる仕方においてもそうだし、フィールドワークと言って、様々な直接体験に乱暴に乗り出していくきっかけに落語のネタを利用しているように見えるところにも伺える。

 しかし、それは、裏返して考えれば、フィクションのパターンをなぞる程度にしか現実と出会えないという、どこか皮肉な現実感覚の反映であるかのようでもある。どんな捨て鉢で直接痛みを伴うような体験も、ネタにならなければ意味が無い、とでも言うような、酷薄な皮肉さがそこにあるようにも思える。

 舞台上で、ストリートファイトのように殴り合ってみせる場面がショーとして展開されるのも、そこで怪我をしかねないというリスクも含めて、上演という名の括弧にあらかじめ括られてしまっているかのようだ。

 あるいは、私が見た回では、ホームセンターのCMソングを、若者の一群が大きなダンボールを被ってエンドレスに繰り返し合唱し続けるという場面がしばらく続いた。その場面は、ダンボール箱から血がしたたって、歌い続ける若者たちの足元にどんどん血糊がたまっていくという風に展開して、特に何の落ちもなく禍々しい大量出血のイメージだけを投げ出して、しまらないまま、なんとなく次の場面に移っていったのだけれど、こうした一種、あまりに直接な現実の禍々しさの提示は、しかし、どこか記号的であり、単に、直接的に印象を残すような表象を持ち出しているだけのようにも思える。

 きわめて直接にイメージが提示されることにおいて、逆にそれはイメージに過ぎないことが明白であるというような皮肉さが、そこにも付きまとっていたように思える。それは、舞台に示された性的なイメージの直接さについても同様に語れることだ。性的な事柄も、キャラクター化なしでは示されないようなものとして扱われている、というような。

 そうした皮肉さのコアとして『SHIBAHAMA』において召喚されているのは、やはり、酩酊によって現実と夢とを取り違えること、現実を夢と思うことによって現実に豊かになるという『芝浜』の核心にある皮肉さ、なのだろう。
 舞台の後半、場面が宇宙に置き換えられたり、そこで世界史的な人物も含めた、マスメディアをにぎわす著名人の顔写真が宗教的なアイコンのように列になって舞台に現れたりする場面は、ある種、現実感の根底には夢のようなイメージの配置が浸透しているのだと示唆する風な展開のようでもあった。
 そこに賭けられているのは、虚構を介して現実に到達するというハッピーエンドが、いつ虚構に足をさらわれるかわからないといった、どこか乖離した現実感覚だったのではないだろうか。

 『SHIBAHAMA』では、めまぐるしい映像の展開にあわせて、断片的なイメージが入り乱れ、iPhoneのアプリやラジカセなども含めて、舞台上に仕込まれたさまざまなスイッチをパフォーマーが操作することによって、音響の断片が脅迫的に反復されるような場面が何度か展開されたが、そうした展開は、私が立ち会った範囲では、迫力やスピードにおいて、それほど圧倒的であるとは思えなかった。むしろ、そこにはどこか醒めた感覚があった。どれだけめまぐるしく映像が移り変わり音響が変化しようが、それは、舞台表象でしかない、という皮肉さに彩られていたように思える。

 そこで印象深いのは、舞台の中盤で、それまでの狂騒が静まり返り、誰も居なくなって暗転した舞台で、すべての壁面に様々な実写映像が映される、むしろ淡々と醒めた場面だった。何かのライブカメラの映像なのか、たまたま事故を映した映像なのか。雑多な映像に囲まれて、部屋の全体が灰色の気配に覆われたかのようだった。
 しばらくしてひとり舞台に現れた篠田千明が、映像にコメントをつけていく。壁面に何十も重ねて上映されているのは、ネット上から拾ってきた映像なのだという。やがて篠田は、ひとつの画面に注意を促す。オフィスの中で起きたアクシデントが、ネットで世界に中継されてしまったというひとつの事例だ。
 インターネットを介して、現実感が変容しつつあることへのコメントに続いて、壁面に映された画像のひとつが、舞台の外の廊下をリアルタイムで映すものに切り替わっていて、映像の奥から役者の一人が歩いてくると、開かれたドアからその本人が登場してくる、という仕掛けだった。

 そういうライブ映像の利用は、アイデアとしては今や目新しくもない。しかし、現実感の変容についての、そういうどこか素朴な気付きにこだわるところに、今回の上演における快快の作品性の重要な核心があったように思える。そしてそれは、イベントとして出会いを演出するようなパーティー会場自体が虚構に枠付けられているという皮肉さを、むしろ肯定することから始めるしかないという現実感と直接つながっているのではないか、と思う。

 マルチメディア型パフォーマンスとして舞台上演を展開した日本のグループの系譜を、世代別に、DUMB TYPE、ニブロール、快快に代表させて考えてみることができるとして、現実感覚の変容による、ある種の皮肉さの全面化、前景化の過程としてこの系譜を整理してみることもできるのではないか。この舞台を見て、そんなことを考えた。

 そう考えるとき、たとえば、今回の『SHIBAHAMA』で、イベント会場のような舞台を囲う客席のありかたを、DUMB TYPEの作品『pH』で上演スペースを客席が囲んでいたことと比較してみることもできるだろう。
 客席は、『pH』においてはどこまでも反省的な視点として舞台表象から冷徹に切り離されていたが、『SHIBAHAMA』では、すべての壁面に展開される映像が観客を包み込んでしまうかのようであり、イベント会場のような舞台と地続きであるかのようにしつらえられている。
 しかし、そのように比較してみて明らかになるのは、『SHIBAHAMA』での客席のあり方そのものが、逆説的に、客席と言う虚構のあり方を強く感じさせるものになっていないだろうか、ということだ。『SHIBAHAMA』においては、皮肉な仕方で、客席はより強く反省的な場として組織されるのではないか。

パフォーマーたちが、まるで自分自身として率直に客席に語りかけようとするとき、観客は、観客として座っているしかない。そこで観客を黙って座らせておく客席という制度もまた虚構に他ならないという皮肉がどこまでも残るのだ。そして、問題は、その皮肉さをどのように肯定できるのかをめぐる、演劇的な思考のあり方に他ならない。

その限りにおいて、皮肉ではあるが、『SHIBAHAMA』は、そのイベント性の高さにおいて、どこまでも舞台作品だったと言うべきだ。夢を語ろうとするほど醒めてしまうような質感がこの舞台にあったとすれば、それはむしろ作品としての成功の証だろう。
(初出:マガジン・ワンダーランド第197号、2010年6月30日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
 1972年生まれ長野県出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。個人ブログ「白鳥のめがね」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yanagisawa-nozomi/

【上演記録】
快快(faifai)『SHIBAHAMA』(芸劇場eyes
東京芸術劇場小ホール(2010年6月3日-13日)

脚本 : 北川陽子
演出 : 篠田千明
出演 :天野史朗 大道寺梨乃 加藤和也 千田英史(Rotten Romance) 中林舞 野上絹代 山崎皓司 北川陽子 篠田千明 佐々木文美 藤谷香子 他

舞台監督:佐藤恵
技術監督:遠藤豊(ルフトツーク)
美術:佐々木文美
照明:上田剛
音響:星野大輔
衣装:藤谷香子
映像:天野史朗
海外ツアーチーフ:Olga Nagy
宣伝美術:cochae
制作:河村美帆香
制作協力:小山与枝乃
協力:Budapest kitchen

提携:東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)
助成:財団法人セゾン文化財団、社団法人企業メセナ協議会

企画制作・主催:快快(faifai)

料金:初日割引 前売・当日共に2000円(6/3のみ)前売3000円/当日3300円(6/4-6まで)前売3500円/当日 3800円(6/9-13まで)

「快快「SHIBAHAMA」」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: yasu

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