「レヒニッツ(皆殺しの天使)」「光のない。」「光のないⅡ」
重力/Note「雲。家。」

◎「ことば」の彼方には何があったのか F/Tイェリネクのテクストによる4作品
 柴田隆子

 舞台芸術の祭典「フェスティバル/トーキョー」(以下F/T)2012年のテーマは「ことばの彼方へ」であった。ラインナップされた作品では、舞台芸術とことばとの関係を様々な形で問い直す試みがなされた。中でも目を引いたのが、オーストリアの作家エルフリーデ・イェリネクのテクストを用いた作品が、4作品も上演されたことである。
 イェリネクの「演劇テクスト」は、多くの引用からなり難解なことで知られる。登場人物や筋はなく、演出の力を介して初めて舞台に活かされるテクストなのである。
 F/T主催プログラムではヨッシ・ヴィーラー演出『レヒニッツ(皆殺しの天使)』、地点の三浦基演出『光のない。』、Port Bの高山明演出『光のないⅡ』、公募プログラムでは重力/Noteの鹿島将介演出『雲。家。』があり、4人の演出家のアプローチはそれぞれに個性的であった。ここでは、各作品がイェリネクのテクストとどのように向かい合ったかをみて行きながら、舞台芸術における「ことば」について、その役割を考えてみたいと思う。

 4作品のうち、イェリネクの書いたドイツ語を素材にしたのはヨッシ・ヴィーラーの『レヒニッツ』だけである。彼は既に『雲。家。』(1993年初演)で高い評価を得ており、2008年初演の本作の他、『ウルリケ・マリア・シュトゥアルト』(2007年初演)も手掛けている。
 本作では、語りの主体が特定できないテクストを5人の俳優に分け、「使者」として登場した彼らは、レヒニッツ城の城主とその妻、愛人、パーティの招待客を演じながら、イェリネクが引用に用いたテクストや映画をもその身体にオーバーラップさせていく。
 筆者がそれとわかったのは、関連企画としてF/Tテアトロテークで上映された『黙殺』の人物くらいであったが、多層な「声」を身体に刻々と体現してみせる俳優の演技は、職人技ともいえる素晴らしいものであった。

 しかしここでは「ことば」の壁が大きく立ちふさがった。引用されたテクストや映画に馴染みが薄く、かつ批判されているコンテクストの理解も十分でない観客の多くは、舞台の意味を字幕に求めた。字幕の一般的な目的は、登場人物の台詞を要約し、俳優の身振りや声を補完して物語の筋を追えるようにするものである。
 第5回小田島雄志・翻訳戯曲賞を受賞した林立騎の翻訳を元に、萩原ヴァレントヴィッツ健が作成したその字幕は、ポリフォニー的な発話内容を犠牲にしてでも「意味」を要約して伝え、舞台で起きている出来事を観客が理解できるよう苦心されていた。しかし一方で、元になったテクストへの良心的な配慮から、一般的に読解可能な文字数を越えていたため、難解で大量な文字情報の解読という新たな負担を観客に強いることになった。
 字幕を読むか舞台を見るかの択一を迫られ、筆者のように字幕をあきらめてしまった人間は他にもいるだろう。俳優の演技や舞台美術や音楽が多声的に描くものが見えることもあったが、「ことば」は理解できなければならないという思いに邪魔をされてしまった感がある。
 これは非言語の「ことば」の効能をみるのに有効な舞台ではあったが、奇しくもその限界を露呈した舞台でもあった。

、「レヒニッツ(皆殺しの天使)」公演から
【写真は、「レヒニッツ(皆殺しの天使)」公演から。撮影=Jun Ishikawa© 提供=F/T12 禁無断転載】

 他の3作品は、林の翻訳を用いてイェリネクのテクストと対峙している。三浦と鹿島の場合、演出家の解釈を通して客席に伝えようとする点ではヴィーラーと同じだが、2人は素材としての「ことば」を、俳優の身体を媒介にして観客に手渡す、物質的な塊として扱う。
 『雲。家。』は、ドイツ文学や哲学の文献から「ドイツ」や「ドイツ人」を扱った箇所を引用して執筆された作品である。鹿島は共同体意識である「わたしたち」に注目し、多くの表象と結び付けながら、他者である「彼ら」と対置させる。幕開きでは客席を回遊し客席に背を向けた椅子に座る俳優たちは、場面を経る毎にその向きを変え、最後には舞台奥の衝立の向こう側から観客に臨む。多くの断片的なイメージを通じて、「わたしたち」の境界をめぐる問いを具現化させる鹿島の試みはそれなりに理解できたが、イェリネクのテクストは単なる手段に過ぎないようにみえた。
 それは決して咎められることではないし、またドイツ人のもつナショナルな意識を歴史哲学的に思考することは、日本の観客の多くにとってあまり関心を寄せる事柄ではない。ただ、単に共同体意識と他者性を問題にするだけであるならば、このテクストでなくてもよかったのではないかというのが正直な感想である。

「雲。家。」公演から
【写真は、「雲。家。」公演から。撮影= 青木祐輔© 提供=F/T12 禁無断転載】

 それに対して、『光のない。』への三浦のアプローチにはもっと密接なものを感じた。
 F/Tに先駆ける昨年12月の富士山アネットの長谷川寧によるリーディング公演では、第1、第2原発を想起させるバイオリンA、Bに割り振られたテクストを2人の俳優が早口で読み上げた。パフォーマンス自体は、ダンサーと演奏者が並奏する非常に面白いものであったが、テクストは全て発話されはしたもののイメージとして伝えられただけで、「意味」を伝えるという点はあまり重視されていなかった。
 三浦はイェリネクのテクストの設定や「ことば」そのものは極端なまでに省略しながらも、テクストのもつ「意味」を解釈し、観客に丁寧に手渡すことに腐心していた。
 安部聡子の身体と声を柱として舞台上の俳優が多声的に膨らませるだけでなく、バイオリンのメタファーを用いてイェリネクが描こうとした音楽的な世界の一部を、突き出した裸足の足しか見えないコロスによって、視覚的、聴覚的に舞台に提示する。地震や津波の被害で亡くなった死者の声も舞台に加え、より広い視野でより身近に起こった切実な問題として問題提起をおこなっていた。しかしその前提にあるのは、テクストの深い読みであることは間違いない。
 日本から離れたオーストリアの地で、日本語を解さない作家の書いたテクストに対し、「当事者性」をひけらかすことなく、距離をとるための回路として利用した点は好ましかった。

「光のない。」公演から
【写真は、「光のない。」公演から。撮影= Hisaki Matsumoto© 提供=F/T12 禁無断転載】

 『光のない。』と同様、『光のないⅡ』も原発事故がテーマになっている。メディアの情報やソフォクレスの『アンティゴネー』を読んで書かれたテクストは、「哀しむ女」の声で語られる。ここでは使者や死者ではなく、生き残った当事者である「わたし」の声で、「わたしたち」「あなたたち」「彼ら」の問題として震災や原発事故のイメージが再構成される。ドイツ語の原題は「エピローグ?」であり、本作は結末ではなく、歴史の分岐点として示されている。
 「哀しむ女」の声にはソフォクレスのアンティゴネーも含まれ、ジュディス・バトラーが『アンティゴネーの主張』の中で「政治に対立する前=政治を語る形象」として注目した国家と親族関係をめぐる問題意識が重ねられるだろう。バトラーの関心は、言語と行為と行為主体との関係だが、国家の権威と社会的配置が書かれない法としての象徴的機能に関係していることを合わせて指摘している。
 高山が自身の解釈を通さず、声に出して読むことでイェリネクの原文の意図を最大限反映させることをめざした林の翻訳のことばをそのまま使うことで、イェリネクがテクストに含意した意図と向かい合う機会を観客に提供したといえる。

 Port B『光のないⅡ』は新橋の街を舞台にしたツアー・パフォーマンスである。
 昨年の『Referendum- 国民投票プロジェクト』の流れから「福島原発事故をめぐる演劇」として構想され、「社会的現実への介入」を考察する場として仕掛けられたという鴻英良の指摘は正しいだろう(『ユリイカ』2013年1月号, p.244)。しかし、観客はそれぞれの文脈でパフォーマンスの意図を誤読する。リファレンスの少ない街を歩く際は、演出意図を探るのは比較的容易いが、筆者にとっての新橋は、単に東京電力本社のあるサラリーマンの街といった単純なイメージには収まりきらない。
 各地に設けられたインスタレーションが示していたのは確かに福島地域につながるイメージではあったが、個人的なもっと身近な、もっと切実な問題ともリンクした。東京と福島を結ぶ意図は頭では理解できたが、乱反射を起こしていた。当然のことながら、個々人にとって福島との関係は原発だけに集約されるものではなく、地縁、血縁、姻戚関係、友人や知人など複雑な人間関係は、都市と地方といった簡単な問題に割り切れるものではない。様々な人間関係の中で生きている「わたしたち」は、オルタナティヴな場所である劇場とは違い、現実空間を挟んでは簡単にパフォーマンスが促す方向には向かえないのである。

「光のないII」公演から
【写真は、「光のないII」公演から。撮影=Masahiro Hasunuma© 提供=F/T12 禁無断転載】

 現実に引き裂かれ苛立ちの消えない心には、ラジオからの抑揚のない声は雑音でしかない。それが不思議なことに、じっと周波数の届く範囲内に留まり耳を傾けていると、意味のある「ことば」として聞こえてくる。高山は抜粋したテクストに似つかわしい場所やインスタレーションを用意していたのだ。どちらかだけではだめで、「場」と「声」が揃うことが必要だった。
 筆者にとってこのツアー・パフォーマンスは、内的葛藤と折衝の連続であった。インスタレーションがもたらす原発事故関連の表層的な意味と、勝手に類推されてしまう個人的な記憶との間を振幅しながら、ラジオからの「音」が「ことば」となり「声」として聞こえてくるまでその場に居つづける。心は事象ではなく、知らない誰かの元に飛ぶ。実在するかどうかは知らないその「声」は、しかし確かにそこにいた。「ことば」に「場」を与えることで、「声」が主体化される。「ことば」が心に落ちてくる。イェリネクのテクストの意味が伝わってくる。他者の「声」が聞こえるようになる。
 Port Bの作品が単なる福島原発事故への問題提起であれば、演出意図を客観的に捉えるに過ぎなかっただろう。が、福島の中高生によるという拙い語りにはほとんど演出は感じられず、インスタレーションも驚くほどすばらしい出来とは決していえないにも関わらず、この「声」と「場」が揃う時、不思議なほど「ことば」のもつ意味が素直に届いたのだった。他者の「声」を聴くことで初めて、共感や反発だけでない関係のあり方が始まる。それゆえ他者の「声」を本当に聴くことは難しく、かつ必要だ。
 筆者にとってこの作品は、様々なしがらみの中でその束縛から逃れることなく他者の声を聴くことの重要性を認識させる、「ことば」の演劇であった。

 イェリネクに取り組んだ4作品を見る限り、「ことばの彼方へ」というテーマで問題化されていたのはやはり「ことば」であった。書かれたテクストの「ことば」は、人間の身体を通して「声」になることで主体性を帯びる。その目的は感情移入のためではなく、「場」を介在させることで「他者」との関係を結ぶ可能性を示すことである。現前に人間の身体はなくとも、「場」が与えられることでテクストは身体性を獲得し、主体的なものが立ち現われてくる。もちろん「ことば」にはコンテクストや歴史性もあり、そこでの伝達内容には限界があるが、ことばを介在させてしか「他者」との関係は築けない。
 「3.11」や「ポスト3.11」と表象化してしまう以外の、歴史や人間関係に縛られた「ことば」の在り様と可能性を探る意味でも、今後もこうした「ことばの彼方」を模索する試みは続けられなければならないだろう。

【著者略歴】
 柴田隆子(しばた・たかこ)
 東京生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科身体表象文化学専攻博士後期課程在籍。バウハウスのオスカー・シュレンマーで博士論文を執筆。専門はドイツ語圏を中心とした20世紀初頭の舞台芸術理論。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/shibata-takako/

【上演記録】
▽「レヒニッツ (皆殺しの天使)
 東京芸術劇場プレイハウス(2012年11月9日-10日)

作:エルフリーデ・イェリネク
演出:ヨッシ・ヴィーラー
舞台美術・衣裳:アンヤ・ラベス
音楽:ヴォルフガング・シウダ
照明デザイン:マックス・ケッラー
ドラマトゥルク:ユリア・ロホテ
出演:カトヤ・ビュルクレ、アンドレ・ユング、ハンス・クレーマー、スティヴェン・シャルフ、ヒルデガルド・シュマール
製作:ミュンヘン・カンマーシュピーレ劇場

東京公演スタッフ
技術監督:寅川英司+鴉屋
技術監督アシスタント:十万亜紀子
舞台監督:鈴木康郎
演出部:佐藤豪
小道具:栗山佳代子
美術コーディネート:大津英輔
照明コーディネート:佐々木真喜子(㈱ファクター)
音響コーディネート:相川晶(㈲サウンドウィーズ)
翻訳:林立騎
字幕:萩原ヴァレントヴィッツ健
字幕コーディネート:幕内覚(舞台字幕/映像 まくうち)

特別協力:ドイツ連邦共和国大使館、東京ドイツ文化センター、オーストリア大使館/オーストリア文化フォーラム
主催:フェスティバル/トーキョー

▽重力/Note「雲。家。
 シアターグリーンBIG TREE THEATER(東京・池袋)(2012年11月21日-24日)

構成・演出:鹿島将介
原作:エルフリーデ・イェリネク
翻訳:林立騎
出演:稲垣干城、井上美香、瀧腰教寛、立本雄一郎、平井光子、邸木夕佳
舞台監督:中原和樹
照明:木藤歩
音響:佐藤武紀
音楽:後藤浩明
衣裳:富永美夏
舞台美術・宣伝美術:青木祐輔
ドラマトゥルク:關智子
字幕:伊藤羊子
演出助手:佐々木琢
記録:永井彩子
制作補佐:藤田侑加、秦朝弓
制作統括:増永紋美
協力:アマヤドリ、酒井著作権事務所
宣伝協力:有限会社ネビュラエクストラサポート
後援:オーストリア大使館/オーストリア文化フォーラム
共催:フェスティバル/トーキョー
主催:重力/Note

▽F/T12「光のない。
 東京芸術劇場 プレイハウス(2012年11月16日-18日)

作:エルフリーデ・イェリネク
翻訳:林立騎
演出:三浦基(地点)
音楽監督:三輪眞弘
美術:木津潤平
出演:安部聡子、石田大、窪田史恵、河野早紀、小林洋平(以上、地点)
合唱隊:石田遼祐、板野弘明、小柏俊恵、黒田早彩、平良頼子、中原信貴、野口亜依子、林美希、藤崎優二、幣真千子、村田結、米津知実
衣裳:堂本教子
照明:大石真一郎 ( KAAT )
音響:徳久礼子 ( KAAT )
舞台監督:山口英峰 ( KAAT )
技術監督:堀内真人 ( KAAT )
制作:田嶋結菜 ( 地点 )

製作:フェスティバル/トーキョー、地点
制作協力:KAAT神奈川芸術劇場
協力:急な坂スタジオ

助成:EU・ジャパンフェスト日本委員会
主催:フェスティバル/トーキョー

▽Port B「光のないⅡ
 新橋駅周辺(2012年11月10日-24日)

作:エルフリーデ・イェリネク
翻訳:林立騎
構成・演出:高山明
写真:土屋紳一
舞台監督:清水義幸(カフンタ)
装置:江連亜花里(カフンタ)
衣裳:有島由生(カフンタ)
技術:井上達夫
記録写真:蓮沼昌宏
プロジェクトアドバイザー:猪股剛
声の出演:福島の中高生

製作:フェスティバル/トーキョー、Port B
主催:フェスティバル/トーキョー

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください