範宙遊泳「さよなら日本 瞑想のまま眠りたい」

◎忘れられたものの回帰と日本の終わり
  水牛健太郎

「さよなら日本」公演チラシ
「さよなら日本」公演チラシ

 範宙遊泳は以前短めの作品も含めて3本(「労働です」「うさ子のいえ」「ガニメデからの刺客」)見たが、今回、作風が変化していて驚いた。しかし考えてみれば1年以上間を空けているので、これほど若い作り手であれば大きく変わっても全然不思議ではないのかもしれない。以前見たときの印象は、劇中で物語の進行にルールを課したり、ゲームの要素を盛り込んだりすることで、軽やかな感じを出しているということだった。だが、それほど面白いとは思わなかった。

 今回、プロジェクターを使って映像を奥の白い壁に映し出すという手法を有効に使っていた。ワンダーランドに掲載された劇評を見ると、前回の公演も同じ手法を使ったようだ(さやわかさんによる「範宙遊泳展 幼女Xの人生で一番楽しい数時間」の劇評

 奥の壁全面、あるいは左右や上下に半分ずつに区切るなどして色を映し出す。演技する俳優の上にも色がかぶる。たとえば上半身と下半身に別の色がかぶるだけで、ある雰囲気が出る。また、心の中で思ったことや独白を文字にして映し出す。漫画の吹き出しのようだが、文字は俳優の頭と比べても大きく、インパクトがある。特に感じたことは、漢字や漢字をもとにして作られた平仮名・片仮名がかつて持っていた(かもしれない)呪術性を引き出していたということだ。

「さよなら日本」公演から
【写真は「さよなら日本」公演から。撮影= amemiya yukitaka 提供=範宙遊泳 禁無断転載】

 文字の呪術性などという言葉が出るのも思い付きではない。この作品は「呪い」を巡る話だからだ。「呪い」は言うまでもなく不気味なものだが、この作品では特にその不気味さが際立って、作品全体のトーンを規定する。なぜそんなに不気味なのだろうか。

 フロイトに「不気味なもの」という論考があり、それによると、「不気味なものとは、慣れ親しんだもの、馴染みのものであり、それが抑圧された後に回帰してきたもののことである」という(フロイト著『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』 中山元訳 光文社古典新訳文庫)。これを理解するには、横溝正史原作の探偵・金田一耕助ものの映画がいい例だと思う。

 Wikipediaによれば、1970年代に入って横溝正史ブームが起こり、市川崑監督、石坂浩二主演の金田一耕助シリーズの映画が1976‐9年の間に5本公開された(「犬神家の一族」「悪魔の手毬歌」「獄門島」「女王蜂」「病院坂の首縊りの家」)。この時期にはほかの監督、主演でも多くの金田一耕助映画が製作・公開された(野村芳太郎監督、渥美清主演の「八つ墓村」など)。言うまでもないが、たくさん作られたのはヒットしたからである。たとえば「八つ墓村」の「たたりじゃ」というセリフは一大流行語となり、小学校のクラスでも毎日のように聞かれた。

 金田一耕助映画の持ち味を「不気味」とすることに異論はないだろう。ただ怖いとか気持ち悪いというのではなく、思い出してはいけないことを思い出しそうな、不安と魅惑を伴う印象である。これらの作品の公開当時小学生だった私も、山村や孤島などを舞台に複雑な血縁関係と因襲の中で起きる連続殺人事件、それを彩る陰惨なビジュアルには強く心ひかれた。そして、その「不気味さ」を説明するのに「慣れ親しんだものの回帰」という定義はまさにピッタリだ。

 1970年代の後半は、日本社会が各地に残る伝統的なものに別れの口づけをした時代にあたる。1972年に田中角栄が日本列島改造論を発表。1973年には東海・山陽以外の新幹線整備計画が発表され、上越、東北を皮切りに東京を中心とする新幹線網が整備されていく。高速道路も1970年代に入って急ピッチに整備が進んだ。それにより地方と中央の心理的な距離は近くなり、地方の特色は徐々に失われ、若者たちは鼻歌混じりの気楽さで東京へ、東京へと故郷を後にした。

 金田一耕助映画が日本中を熱狂させていたころ、そこに描かれていた地方の閉鎖性と因襲は急速に過去のものになりつつあった。多くの人が都会の明るい太陽の下で生き始めて、息苦しい地方での生活を忘れ去りつつあった。まさにそれこそが、1970年代の金田一耕助映画が、あんなにも不気味(=「慣れ親しんだものの回帰」)で、魅力的で、多くの人を惹きつけることができた理由である。実に皮肉だが、こういうことは割とよくありそうだ。

 それでは範宙遊泳の「さよなら日本」における「呪い」の「不気味さ」はどうだろうか。ここでまたフロイトの「不気味なもの」によると、「呪い」はかつてのアニミズムの残滓であり、近代化によって、また、子供時代に信じていたとしてもその後の成長によって、「あり得ないもの」として一度乗り越えられる。そこでそれが戻ってきた時に、「不気味さ」を感じることになる。また、特にフィクションにおける「呪い」の「不気味さ」についてフロイトは、作家が現実の土台に従っているかのようにふるまうことで、不気味な効果を発揮することができるとしている。「いわばわたしたちを欺いて、ごくふつうの現実の世界を描くとみせかけておいて、現実を踏み超えるのである」。

 この分析によるならば、「さよなら日本」の作品世界の場合、ビデオ屋や携帯電話といった道具立てで現代的・典型的な都会生活を描きながら、そこに「呪い」という要素が唐突に導入されることで、その効果を強めていると言える。またプロジェクターの使用に関して言えば、ミニマリスティックでモダンな雰囲気のある手法であるのに、それによって「呪い」が描かれ、また文字の呪術性があぶり出されるという点も、極めて効果的だった。

 つまりは「呪い」というアニミスティックな要素の唐突な回帰、その並々ならぬ「不気味さ」が、この作品の持つ力の核にある。そのように考えると、この作品のタイトル「さよなら日本」というのは不思議だ。アニミズムは日本文化の根底に流れているものだから、「さよなら」どころか、実は古い日本(ざっくり言えば「たたりじゃ」の世界)との再会、「また会ったね日本」なのではないか。それなのに、どうして「さよなら日本」なのか。つまりは、ここで別れを告げている相手は「近代日本」であることになる。

 そもそも「呪い」というものは、反近代的なものであることは確かだ。この作品に登場する「呪い」は大まかに2つある。第1はレンタルビデオ店の女性店員が店長に対してかけるもの。これによって店長は姿を消してしまう。また、店長の妻は「あ」という音が発音できなくなって、セリフから「あ」が落ちる。そのころ高さ1メートルくらいの「あ」が空から落ちてきて、別の女性のペットになる。第2の呪いは、ミミズからハチになる一種の動物霊が、ミミズであった自分を踏み殺した女性に対してかけるもの。この女性は椅子になる。動物霊も椅子になり、この女性を自分のパートナーにしてしまう。

「さよなら日本」公演から
【写真は「さよなら日本」公演から。撮影= amemiya yukitaka 提供=範宙遊泳 禁無断転載】

 呪いとはもともとそういうものだと思うが、この作品の中の2つの呪いも、現実世界の秩序では抑圧される恨みを超自然的な方法で晴らしていると言える。第1の呪いでは、女性店員はいつも何か食べているということで「モグタン」などと陰で呼ばれている。店長はこの店員に歌舞伎揚げを与え、自分の目の前で食べさせるという不思議な方法で、毎日のように辱めている。内向的なこの女性は、職場における力関係によって抑圧され、不満を直接ぶつけることが出来ない。そこで店長に「呪い」をかける。第2の呪いはなおさらで、ミミズやハチは人間に対して圧倒的な弱者であり、現実世界では到底恨みを晴らすすべはない。

 つまりこの作品には、抑圧された存在による秩序の転倒、それによる「近代日本」の終わりが描かれていると解釈できるが、これは、現代日本における1つのリアルな感触を確実に探り当てた表現だ。たいへん、たいへん唐突に思われるだろうけど、たとえば少子化の問題だ。

 日本の人口が減少に陥って久しい。もともと1億2千万人もいる、それがたとえば半分になったとしてもまだ多い、のかもしれない。しかし、1つの集団として、その成員の数が確実に減少していることに、なすすべもない現状が、不安を感じさせるものであることは否定できない。

 しかし、この問題には根本的なすれ違いがあって、何をどう言おうが、因果応報ということになってしまうのだ。つまり、「何とかして子供をもう少し多く生んでもらいたい」などと口にすればそれはただちに、自ら子供を生むことができない、男性という名の、エイリアンめいた寄生生物が、自分のコピーをこの世に残したいというエゴイスティックな願望のため、女性の自由と身体を犠牲にし、その夢と希望を閉ざし、その人生を破壊しようとする、邪悪で陰湿なはかりごとの表現、と受け取られてしまう。女性がここまで勝ち取ってきた生き方の選択権を奪おうとする反動的なものだと理解される。そしてその「誤解」をいかに嘆こうと、それはすべて、人口の半分を占める女性の信頼を得ることにことごとく失敗してきた男性の自業自得であって、もはや手遅れに近い。保育施設の不備、子育てに男性が割く時間の少なさ、育児を極めて困難なものにする長時間労働等々のことを思えば、事態はさらに絶望的である。

 女性だけではない。非正規従業員に対する待遇の悪さ。学校や職場における暴力。パワハラ、アカハラといった人権無視。数多くの自殺。あまりにも「義」(ただしさ)というものを無視し、「力」と「空気」によって異論を封じ込め、弱者を抑圧し、表面的な「和」を演出してきたがために、日本はもはや生きるに値する場所では、子孫を残すにふさわしい場所ではなくなってしまった。少子化は現世に突き付けたNOの集団的な表現なのだ。抑圧が限界に達し、それは日本社会の永続に根本的な異議となって噴出している。日本はもう滅びるしかない、のかもしれない。少なくとも今のままの「日本」は。

 「さよなら日本」の結末で、消えた夫が戻ってくる。妻に「子づくりしよう」と唐突に宣言する。しかし奥の壁に映し出された文字は、みな50年後には死ぬ、そして「私たち」はそれを見守っている、とあざ笑うかのように宣言し、劇は終わる。

 「私たち」とは誰か。直接的には、壁際に置かれた2脚の椅子を指すようである。しかしそれは、「日本」を呪う抑圧されたものすべて、その思念の渦巻きのように、私には思えたのだった。

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランド編集長。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ma/mizuushi-kentaro/

【上演記録】
範宙遊泳「さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-」
STスポット(2013年5月4日‐15日)

作・演出/山本卓卓
出演/大橋一輝 熊川ふみ 埜本幸良 田中美希恵 永島敬三(柿喰う客) 中林舞 名児耶ゆり

音響/高橋真衣
照明/山内祐太
舞台監督/櫻井健太郎
美術製作/中村友美
美術監督・チラシデザイン/たかくらかずき
制作助手/柿木初美(劇団はへっ)
制作/坂本もも

協力/柿喰う客 ロロ CoRich舞台芸術!
提携/STスポット
主催/範宙遊泳

料金
【一般】予約:2500円/当日:3000円
【学生】予約:2000円/当日:2500円(要学生証提示)
【高校生以下】1000円(一律・要学生証提示)
【ペア割引】4400円(一般2名予約限定)
【リピーター割引】1500円(要チケット提示)


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