AI・HALL「寿歌Ⅳ〜火の粉のごとく星に生まれよ〜」

◎劇場と観客を祓い、喜びを寿ぐ
 岡野宏文

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 AI・HALLで北村想作・演出「寿歌Ⅳ」を見ました。
 「寿歌」は「ホギウタ」と読みます。「ジュカ」とか読むと、「本当にあった怖い話 呪歌」になってしまうのでよろしくありません。呪いの歌よりもむしろ寿歌は「寿ぐ歌」ですから佳き時、祝うべき時に歌う、あるいは歌われる歌ということになります。なにが寿がれるのかはまだちょっと後に書きましょう。

 「寿歌Ⅳ」というからには1から3までのシリーズがあったことになります。ここでは、「Ⅳ」によって輪が閉じることになる、一作目の「寿歌」を引いてお話ししたいと思います。そこで「寿歌」をよく知らない人もいると思うので、「解説しよう」(C「タイムボカンシリーズ」)ということになるわけです。

 シリーズを通した主要登場人物は旅芸人のゲサクとキョウコ。核戦争のあとの瓦礫の世界を、わずかな家財と芝居の小道具をリアカーにのせ、二人はさすらっています。食べるものもなくなっているので、どこかの町にたどり着けば、ささやかな芸をしてなんぞもらおうというつもりでいます。

 ここまでで四つの空気が作品に織り込まれています。

 ゲサクはたぶん戯作ですから、アホくさくってアチャラカなお話になるだろうという予感。キョウコはおそらく今日子で、絶望的な状況の中においても、余計なことに悩まず、今日を豊かに生きる少女の姿が描かれるだろうということ。「汝ら幼子のごとくあれ」つったイエスのあれですね。彼らを取り巻く廃墟と化した日本の姿は、すべての終末を現す「はかなさ」の記号であると同時に、すさみ、うらぶれ、疲れ、倦んだ作者の心象風景でありましょう。そしてリアカーという前近代的な小道具。これは、テクノロジーの発達によりもたらされたスピードと便利さの生活よりも、手業の届く範囲での等身大の生活へのあこがれとノスタルジー、を現してるんじゃないかと思います。

 一作目の、「寿歌」のあらましをざっと説明します。

 核戦争が終わり、一面焼け野原となった関西の一地方都市を、ゲサクとキョウコが流れ歩いてたきます。二人はヤスオというけったいな青年に出会います。三人は道づれになり、リオナという町にたどり着くと、芸をしてホシイモでももらおうとするのですが、ゲサクは弾丸受け止めの術に失敗し瀕死に陥ります。場面は変わり、キョウコが墓に向かいゲサクはんいい人やったのになあ、などとこぼしているとゲサクはひょっこり帰ってきます。ゲサクは復活したのです。ヤスオというのはヤソ、つまりイエス・キリストのことだったわけです。イエスはエルサレムまで行くのだといい、お別れになります。立ち去ったヤスオに贈り物を届けてやれとゲサクはキョウコにいい、それはそのままエルサレムまで一緒に行ったげなという謎かけなのだが、キョウコは帰ってきてしまう。二人はモヘンジョダロにでも行こか、と再びリアカーを引いて去って行く。

 読んだり見たりすればその手ざわりはさらにはっきりするのですが、はっきりいってなんだかよう分からん作品です。よう分からんのは「論」がないからです。理屈が背骨になって支えていないからです。AがBだからCである、とそういう裏ストーリーをたどってみていくことができない。こういうの「ヘソがない」と評す人もいましたっけ。

 なのに、「寿歌」はまっこと鮮烈な観劇感を与えずにおきません。それは見るものの心を冷たい水のように満たす、抜き差しならない淋しさ、ぬぐいようのない飢餓感のようなものが、ひたひたと打ち寄せてくるからに他なりません。しかも、ナンセンス喜劇に仕立てられた劇世界にまぎれて、そのような情感がどうやって観客に手渡されているのか、作者の手管はまったく見えないとくるのです。

 北村想は、みずからのドラマツルギーを「テキヤ」のそれと発言したことがありますが、縁日の屋台で「いま蛇を出すからね」というタンカに乗せられて、気がついたら薬を買わされていたという、あの「寅さん」にも似たあやつりと同じく、北村の芝居につきあっていると馬鹿馬鹿しい喜劇を見ているつもりが、ふと気づくとまったく違う切実な気分を懐にしのばされている、そんなことがたびたびおきるのです。

 あえて理屈を言ってしまうと、この芝居は、イエスたるヤスオに出会った「わたし」が、「いいかげんな生き方」しかできないためにとてもキリスト教にはついて行けないと、訣別を宣言するといった話ではないかと邪推できるのです。なににも頼ることができないし、どこへも行くこともできない孤絶が歌われていると。その歌がなぜ「寿歌」なのか。邪推をかたわらに「寿歌Ⅳ」の説明に移ります。



【写真はいずれも「寿歌㈿」公演から。撮影=石川隆三、提供=AI・HALL 禁無断転載】

 「寿歌Ⅳ」は、1時間少しの戯曲。リーディングのスタイルで上演されました。三人の出演者のほかに、マリンバの生演奏が加わっているのも彩りです。動きのないリーディングにうまくはまっていたからです。

 ゲサクとキョウコがソウジュンという名の雲水と出会うとこから物語は始まります。雲水とは、ゆく雲と流れる水のようにゆく当てもなく諸国をあるきながら修行する僧のことです。

 物語というほどのものはなく、いくつものエピソードが恣意的に並べられつつ劇は進んでいきます。ソウジュンの目的は、300人とか500人とか生き残っているらしい人を訪ねていくことだといいます。食べるものもない彼らは、死んだ順から食べられているらしいとソウジュンは語るのです。プラズマのことや素粒子のことなどなどをたとえに、ソウジュンは人のあり方、生き方についての悩みをこぼすのですが、むずかしい考え方よりも、キョウコのなにものにもとらわれない受け答えに、有無も言えない繰り返しです。

 印象的なセリフがありました。引用します。

 キョウコ ふつうに生きたらええねん。
 ソウジュン ふつう。
 キョウコ そうや。ふつうや。ふつうに生きるのがイチバンや。
 ソウジュン ふつう、か。ふつうって何かな。
 キョウコ ふつうというのは、快速でも新快速でも特急でも新幹線でもあらへん。ガタンゴトンと、山の中を走る汽車みたいなもんや。ほんで、ときどき、汽笛がピューと谷間にこだますんねん。どこまでいっても山また山や。ガタンゴトン、ガタンゴトン。ときどき停まる駅にな、駅長さんがひとりだけおるねん。ほんで、こういいはるねん。今日も何もなかったですなあ。ほな、車掌がいうねん。はい、何も。ほしたら運転手がいうねん。この先も何もナイといいですなあ。ほんで、三人で、笑わはるねん。そういうのがふつうというこっちゃ。

 なんと困難な普通でしょう。この普通を手に入れるために、私たちはさまざまなものを断念する必要があります。金銭も欲望も希望も、そして明日も。それでもやはり私たちはこのセリフに感動してしまうのです。

 あるいはこんなやりとりもあります。

 ソウジュン 自然、そうだ、ここに来る途中で、古い遺跡を通りました。(中略)剥き出しの井戸がありました。(中略)発掘されたんでしょう。塔のように立っていました。
 キョウコ その井戸がどないしたんや。
 ソウジュン 七つの層になっていました。煉瓦で造られた井戸で、上にいくほど、造りが乱雑になっていました。いちばん下は、きれいな煉瓦です。それが、次第に粗雑になっていって、いちばん上はもう煉瓦とはいえないものでした。つまり、文明が次第に衰退していったのが、その井戸をみればワカルのです。
 キョウコ 手抜き工事になっていったんやな。
 ソウジュン いや、そうじゃなくて、
 キョウコ そうやないんかいな。
 ソウジュン 煉瓦じたいが、もうダメになっているんです。私が思うに、七つ目の文明に住んでいた人々は、もう煉瓦を焼く技術を失ったのか、あるいは、煉瓦の土がとり尽くされたのか、あるいは、煉瓦を焼く木材が伐採されてなくなっていたのか。
 キョウコ ほんで、何がいいたいねん。
 ソウジュン 文明というのが発展しているというのは間違いなのではないかと、私はそれを観て思いました。
 キョウコ アカンわ。難しい。
 ゲサク 逆に衰退してきてるというこってすか。
 ソウジュン そうです。いや、単純にそうではナイんです。私たちは文明が次第に発展していっているように思っている。しかし、私たちが目にしている文明は、みかけだけの発展で、ほんとうは衰退しているのではないかと。

 こうやって「寿歌Ⅳ」は、ソウジュンが求めているような「悟り」を気づかせようとしているのでしょうか。あるいは自己犠牲を、あるいは「普通の暮らし」を。

 いえ、「寿歌」はなにも迫ってはきません。ゲサクとキョウコがどこに行ってもどこでもない世界を、あてもなく「ただ行くだけ」のように、ただ「演じられるだけ」なのです。演じることによって劇場と観客を祓い、汚れちまった現実を清め、刷新し、喜びを寿ぐこと。それが「寿歌」です。「寿歌」は神楽なのです。




【筆者略歴】
 岡野宏文(おかの・ひろふみ)
 1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に『百年の誤読』『百年の誤読 海外文学編』『読まずに小説書けますか 作家になるための必読ガイド』(いずれも豊崎由美と共著)『ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)』(扇田昭彦らと共著)『高校生のための上演作品ガイド』など。
・寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/

【上演記録】
AI・HALL reading evolution マリンバと物語の響演「寿歌Ⅳ〜火の粉のごとく星に生まれよ〜」http://www.aihall.com/lineup/gekidan67.html
AI・HALL(10月26日-27日)

作・演出 北村想
音楽 新谷祥子[marimba & percussion]
出演 桂九雀、船戸香里、ごまのはえ(ニットキャップシアター)

料金 前売=1,500円 当日=1,800円

主催/公益財団法人伊丹市文化振興財団・伊丹市
平成25年度 文化庁 劇場・音楽堂等活性化事業


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