ク・ナウカ「王女メデイア」

 ク・ナウカの「王女メデイア」 は1999年に初演されて以来、国内はもとより海外8カ国15都市で上演を重ねてきたク・ナウカの代表作です。 古代ギリシアの英雄イアソンとその妻メデイアをめぐって繰り広げられる壮大な「子殺し」 … “ク・ナウカ「王女メデイア」” の続きを読む

 ク・ナウカの「王女メデイア」 は1999年に初演されて以来、国内はもとより海外8カ国15都市で上演を重ねてきたク・ナウカの代表作です。 古代ギリシアの英雄イアソンとその妻メデイアをめぐって繰り広げられる壮大な「子殺し」の悲劇を、明治時代の日本に舞台を移し、歓楽街の座興で演じられる劇中劇として再現します。 セリフを語るのはすべて男。その言葉に操られるように動く女たち。 ク・ナウカが15年間追求してきた語りと動きを分ける‘二人一役’の手法がストーリーと密接にからみ合い、 やがて言葉の支配をくつがえすかのように女たちの反乱が始まります――。
 ク・ナウカのWebサイトに載った一文が、「王女メデイア」の簡潔な導入になっています。有力劇団の代表作だけに、力のこもったレビューをいくつも読むことができました。
 今回はCLP(クリティック・ライン・プロジェクト)の 皆川知子さんのレビューを取り上げます。


 古代ギリシャの世界が、どのように明治時代の日本に移し替えられているのだろうか。皆川さんは次のように簡潔に描写します。

文明開化の情景を描いた布が、方形の舞台を取り囲むように立てかけられている。布が取り払われると、和装の女たちが、頭を袋ですっぽり覆い、自らの顔写真を両手に抱えて並んでいる。そこへ黒い法服を着た男たちが現れ、女たちの品定めを始める。宴会の余興だろうか。男たちの語りに合わせて、女たちが人形のように無言・無表情で演じ、劇中劇が繰り広げられるのだ。メデイアは、朝鮮の民族服チマチョゴリを身につけ、その上から和柄の着物を羽織る。ここでは、ギリシャとギリシャによって支配されたメデイアの祖国コルキスの関係が、明治時代の日本と韓国の関係へと置き換えられている。
ク・ナウカ『王女メデイア』で、演出家はギリシャ時代の法治主義、ロゴス、男性原理社会を、近代化に向けて邁進する明治の日本に見いだす。

 「演出ノート」からではなく、目の前の舞台に何がありどう見えどう聞こえるかということから書き出している手法にきっぱりとした潔さを感じます。
 会場となった東京国立博物館の本館特別5室は天井がとても高く、残響が長くて声が聞き取りにくいとの指摘がかなりありました。しかしその聞き取りにくい有様自体がどう見え、どう聞こえるかと皆川さんは続けます。

(上演会場は)高い天井をもつ空間構造上、残響が長い。このため、男性のコロス(語り手)たちが同時に語ると、ことばが反響し合い、大きな音の塊となって空間を支配する。ひとつひとつのことばは聞き取りにくい。何よりことばを重んじるギリシャ悲劇の上演においてはあるまじき現象かもしれない。しかし見方を変えれば、あたりを圧するように包み込む、獏としたことばの集合体は、近代化のために弱者や不合理な存在を圧殺してきた日本の姿とも重なってくる。

 いくつかのレビューで言及されている「子殺し」の場面も、「子殺しの場面が、物語を転覆させる契機として描き出されている」とした上で、その前後の舞台上で生起した動きを具体的に伝えて次のように提示されます。

自分を裏切った夫への復讐のため、メデイアは逃げまどう我が子に向かい、刃物をふりおろそうとする。それまで阿部一徳の猛々しい声によって突き動かされてきた美加理のメデイアは、刃物をふりおろす瞬間、初めて彼女自身の、低く短い叫び声を発する。虐げられ、裏切られてきた者の恨みの声、そしてことばを奪い返さんとする逆襲の声である。

なるほど、美加理が「初めて彼女自身の、低く短い叫び声を発する」意味が、その決定的に重要な意味が、短い文章に濃縮されているように受け取れます。そこに細部を見逃さない確かな目を感じました。指摘はさらに続きます。

そしてメデイアはしずかに刃物を口にくわえなおすと、優しく子どもを引き寄せる。子どもが母親の涙を拭くしぐさをした直後、彼女は口にくわえた刃物を、子どもの腹に突き刺す。叫び声をあげた後で、刃物をくわえて自らの口を再び封じた行為は、子殺しという罪と引き換えに、ことばを奪われる立場を受け入れる女の悲しき覚悟をしめす。さらにメデイアが象徴する、近代化によって虐げられてきた国の諦念ともみえる。しかしこの後、語り手(男)と動き手(女)の関係が転倒する。動く人形、あるいは裏方の演奏者に徹していた女たちが、赤いスリップドレス一枚になり、つぎつぎと男たちに刃物を突き立てていったのである。

と言う形で、レビューをほとんど引用してしまうのはマナーを外しているかもしませんが、目に見えたこと、耳に伝わってきたこと、肌で感じたことから具体的に構成するという皆川さんの劇評作法を伝えたかったのです。あとは原文(全文)をご覧ください。彼女の分析や指摘に違和を感じる部分もあるかもしれません。ぼくも異論のあることを隠しませんが、しかし繰り返しますが、きっぱりとした潔さを感じました。

[上演記録]
ク・ナウカ王女メデイア
原作: エウリピデス
台本・演出: 宮城聰

東京国立博物館 本館特別5室
2005年7月19日-8月1日

出演:
美加理・阿部一徳・吉植荘一郎・中野真希・大高浩一・野原有未
萩原ほたか・本多麻紀・江口麻琴・片岡佐知子・諏訪智美
桜内結う・たきいみき・藤本康宏・牧野隆二・池田真紀子
大道無門優也・黒須幸絵


投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

「ク・ナウカ「王女メデイア」」への3件のフィードバック

  1. 「異論」があると書くのなら、その中味をきちんと書くべきなのではないでしょうか?

  2. やっぱり出ましたね。「tds@hotmail.com」さんのような指摘が来るだろうと思っていました。この「異論」の個所は、ぼくもじつは触れるかどうか少し迷ったところです。というのも、ここで取り上げたかったのは、「劇評の作法」でした。ひたすら、舞台上の出来事から構成するという方法に徹底した文章をあまり目にしていないからです。
    ぼくもそうしたいと思いながらなかなかできません。筆が動かないと言うより、目が舞台をとらえていないという実感があります。記憶もなかなか思い通りになりません。ということで、自戒の意味を込めて紹介しました。
    ただ「分析や指摘に違和」を感じたのも事実です。演出の大枠として、「『子殺し』の悲劇を、明治時代の日本に舞台を移し、歓楽街の座興で演じられる劇中劇として再現」したという宮城演出の「読み替え」に強いて触れないままレビューが書かれていること、「女たちの反乱」という演出のもうひとつのモチーフも、宮城演出を前提として記述が進んでいくこと、などです。これらの事柄に言及もしていないことから考えていくと、宮城演出が肯定的に受け止められているような気がしました。そうであれば、その線に添った分析と解釈が舞台の具体的な描写として表現されるのは自然なのかもしれません。

    宮城演出をふくめて、1行の問い掛けだけでなく、あなたご自身の舞台レビューを寄せていただけませんか。じっくり読ませていただきます。

    追記
    投稿アドレス「tds@hotmail.com」を検索サイトで調べてみたら、ハングル、中国語、それにヨーロッパ系と思われる言語のページに出会いました。ということは、上記の言葉+日本語などの多言語を駆使する方でしょうか、それとも文字通り「仮の宿」なのでしょうか。差し支えがあるのかもしれませんが、できるかぎり、名前を出して遣り取りができれば幸いです。

北嶋孝@ノースアイランド舎 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください