「メイヘム」と「アクト・ア・レディ」 アメリカ現代戯曲&劇作家シリーズVol.1 ドラマリーディング(上)

 これまで中東と東欧の舞台を精力的に紹介してきた東京国際芸術祭(TIF)が今年から、現代アメリカの作品を取り上げました。3年間継続のプログラムです。ヨーロッパやアジアのパフォーマンス・アートは日本でよくみられるようになりましたが、演劇を通してアメリカの「いま」に接する機会は意外に多くありません。「アメリカ現代戯曲&劇作家シリーズ/ドラマリーディング」と題して、今年はとりあえず4作品が紹介されました。やっとというべきか、いよいよというべきか、時宜にかなったTIFらしい企画ではないでしょうか。リーディング形式での紹介ですが、いわゆる小劇場系の演出家も起用して、ひと味違った「上演」に仕立てる趣向だったようです。


 登場したのは「メイヘム」(ケリー・スチュアート作、宮崎真子(俳優座)演出)、「アクト・ア・レディ ~アメリカ中西部ドラッグショー~」(ジョーダン・ハリソン作、江本純子(毛皮族)演出)、「ベラージオ;もしくはメタル製のすべてのもの;もしくはおじいちゃんがパパを射殺させるとき」(マック・ウェルマン作、中島諒人(ジンジャントロプスボイセイ)演出)、それに「セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン」(ジュリー・マリー・マイアット作、中野成樹((POOL-5)+フランケンズ)演出)の4作品です。ともに2000年以降に書かれ戯曲の中から、9.11事件(2001年)を経た「アメリカのアーチストの声に耳を傾ける」ために選ばれたようです。

 「小劇場系」は「メイヘム」と「アクト・ア・レディ」を対照的に取り上げています。
 「アクト・ア・レディ」は「1927年、アメリカ中西部の小さな町で、3人の男が派手な女装でメロドラマを演じる。やがて、芝居と現実世界が混同し始め、登場人物の性別の境界線が曖昧になり、それぞれの素顔やアイデンティティーが明らかになる」(TIFサイト)内容。この「レディを演じる男たちの劇中劇」を通して、「グレーテを演じていたキャスパー(水谷)はこれまで抑圧してきた彼の中にある(そして作者によれば全ての男の内面で抑圧されている)女性性が解放されるにいたる」とともに、もう一つの側面があると次の指摘しています。

 劇中劇を通じてもう一つ呈示されるのは、我々が「性を演じている」―ありきたりといえばありきたりだが―ということであり、その演技は化粧、服装、身振りといった外面的なものだけではなく、内面をも侵食しているということだ。玉ねぎのように一皮向けばまた一皮向ける、そのような演技の層のなかに我々は閉じ込められている。その中心には、やはり玉ねぎのごとく、空位があるだけかもしれないにも関わらず。そのような演技の層を一枚一枚剥がしていくような、そのような上演だった(略)。
 しかし江本及び毛皮族の演劇的戦略/実践は、そうした「演技としての性」を戦略的に利用することであり、それとの遊戯をエンタメとして舞台で呈示することにあることを念頭に於いてみると、今回の演出プランとしては、誤解を恐れずに言えば、彼女がテクストに於いて開示されるジェンダーのポリティクスにどれほどの関心を示したかは定かではない。少なくともそれを際立たせる演出はしていないことは確かである。

 「せきねしんいちの観劇&稽古日記」はこの肝心の点が江本演出で生かされていないと残念がっています。

 演出は、冒頭から「マイアヒー」を流したり、最後に踊ったりと、現代につなげる試みをしていたが、それよりも、劇中劇で演じられる女性たちの言葉のもつ意味(演じている男達にとっての)と、「演じる」ということへの彼らの自意識のありようをていねいに積み重ねるべきではなかったかと思う。(そのまえに、もっとあたりまえにきちんとリーディングできるようになってほしいとも思う。)
 非常な早口で、何を言っているのかわからないセリフが、時に、日本のアングラ風(歌舞伎的なものも含めて)な言い回しで語られるのも、演じている劇中の彼らの内面をべたっと塗りつぶしてしまってもったいない。
 演出で試みている「おかしみ」は、戯曲に描かれた自然発生的なドラァグショーのおもしろさとは全然ちがうものになっていて、どうしてこれがわからないの!!?ととてもはがゆかった。大げさな古くさい言い回しと、苦し紛れに生まれた、べたな表現のもつおもしろさが、戯曲にはきちんと書かれているのに(馬に蹴られた女性の額には、赤いひづめの跡がついている!)。無骨な男たちが、芝居を通じてゆれうごき、変わっていく様子をもっとちゃんと見てみたかった。

 「江本がテクストを自分に引き付けていた(内容を引き付けていたという意味では必ずしもない)」(小劇場系)という指摘の実態がこの辺にあるようです。「mono-log」も「4本の中ではやっぱり毛皮族の江本純子演出の『アクト・ア・レディ』に人気が集まっていた様子。脚本自体は、男性女性の内面に潜む異性的な部分、そこから軽くゲイ的なテーマも浮かんで来るシリアスなものだったが、そこはいつもの江本節でぶっとばす」という記述からも舞台のようすが想像できそうです。
 ぼくは江本演出のステージは最後の15分あまりしかみられませんでした。例の締めくくりとなるダンスシーンはみたから記念にはなりましたが、ちょっと残念です。

 では「メイヘム」はどうでしょうか。「小劇場系」は「江本演出に於いては、リーディング公演とはいえ、小劇場系俳優が所狭しと動き回っていたのに対し、宮崎演出は俳優四人がマイクの前に直立し、黙々と落ち着いて翻訳劇スタイル(吹き替え海外ドラマスタイル)で台本を読んでいたのが印象的だった(略)。もっとも、この差異を際立たせた要素として『メイヘム』というテクストが、形式的実験性に富む『アクト・ア・レディ』とは異なり、西洋演劇の正統である対話形式であったということも大きいと思う」と述べています。作品自体が要求するスタイルとも合致していたとの判断です。

 舞台の進行を「すてらのまったり日和」はこう描写しています。

 パッとライトがつくと、4人の俳優さんたちが4本のスタンドマイクの前にそれぞれ立っていて、戯曲の題名やト書きを話すことから始まっていきました。そうか、ト書きは全て読むのですね。成る程。
・俳優は自然についてしまう表情程度、殆ど声だけでの表現です。皆さんいい声でした。阿部一徳さん、大原康裕さん、塩田朋子さん、坪井木の実さん。声だけでこんなに演じることが出来るものなのか。ほれぼれ。
・ト書きによって動作の様子は分かります。ト書きに退場とある場合には、マイクから離れていました。
・目の前に俳優がいて、あくまでも舞台での演劇に近い感じ、ラジオ・ドラマほどに説明的ではないように思えました。

 登場人物は4人。絵本作家でありながら家庭生活を続けてきた主婦、元ミュージシャンでアルコール依存症だった夫はいま依存症患者の自立援助に携わるカウンセラー、しょっちゅうこの家に来る活動家の友人(女性)と海外の紛争地に出かけるジャーナリスト(男性)という配役です。妻とジャーナリストとの恋愛感情が進行する一方、夫は再度ドラッグに手を出して職場を解雇されていたことが明らかになります。その上警官隊のデモ弾圧で衝撃を受け、さらにアフガンに出かけたジャーナリストの死が伝えられるなかで、夫妻はやり直そうとするところで幕となります。夫婦関係の亀裂と再生、世界の至る所で来る広げられる戦争と暴力、国内でも政治的意思表示の行動が弾圧にさらされるなど、内外の出来事が万華鏡のようにとりこまれた作品でした。

 「Mayhemとは破壊、傷害、大混乱、荒廃などを示す英単語です。とてもシンプルに明快に、戯曲そのものを伝えてくださいました。しゃべり言葉はいかにも新劇っぽくて興ざめなこともありましたが、全体としてはとても質の高い、演劇でした」(しのぶの演劇レビュー)「戯曲内容もよく書き込まれた」(CUATORO GATOS広報部はてな非公式出張所・『渋谷ハチ公前広場』)という評価もありますが、「妻が戦場ジャーナリスト・ウェズレイとの出会いによってジェノサイドなどの政治問題に惹かれていくのだが、しかし実は運動よりは男の方に惹かれていたのではないかと思わせるテクストであり、政治的関心の欺瞞の側面を次々と暴いていくような作風だった」「彼女らが声高に叫んだ政治運動というものが実は現実の生々しさを一切排除し全く抽象化されたただの理念というか(古い言い回しを使えば)浮遊するシニフィアンとしての分節言語にすぎなかった」(ともに小劇場系)という見方もあります。

 ぼくはみていくうちに痛々しさが先にたって、いささかつらくなってしまいました。いかにもありそうな素材をほぼ疑うことなく組み合わせ、ストーリー展開がそのまま問題を捕らえてくれるというナイーブな手付きが垣間見えるからです。特に、飢えで倒れた少女に忍び寄るハゲワシを撮った写真の件で、追い払うべきか記録するべきかの問題をえんえんとジャーナリストにしゃべらせる感性は、警官隊がデモを弾圧したと憤る無邪気さと対になっています。公民権運動やベトナム反戦運動など過去の体験と蓄積は参照されることがないまま、「現在」だけに関心を向ける性癖を浮き彫りにしているような気がしてなりませんでした。

 書き込まれた人間関係に時間や経験の差異が参照されなければ、その光景に奥行きは感じられず、やせ細るばかりでしょう。おそらく作者はいまありそうなシーンの組み合わせとして、映画のシナリオを書くようにこの作品を構成したのではないかと思われます。夫婦と家庭の亀裂、アルコール依存やドラッグ問題、街を覆うむき出しの暴力、世界に存在する飢えと戦争…。身の回りに存在したり見聞したエピソードを盛り込んだと、作者は終演後に語っていました。それぞれのシーンを映像で、現場のノイズ入りで大写しにしたらいかにも映えそうな題材であり、書き方です。しかも最後に希望を託して心地よく終わるという、ハリウッド映画によくあるプロットではないでしょうか。それもまた、アメリカ現代演劇のひとつの現実ということなのでしょうか。(続)


投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

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