「ベラージオ」と「セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン」 アメリカ現代戯曲&劇作家シリーズVol.1(下)

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 東京芸術祭「アメリカ現代戯曲&劇作家シリーズVol.1 ドラマリーディング」リポートの後編は、「ベラージオ」と「セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン」を取り上げました。またもや長々と書きましたが、お付き合いください。


◎「ベラージオ」と「セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン」 アメリカ現代戯曲&劇作家シリーズVol.1 ドラマリーディング(下)

 「ベラージオ」の作者マック・ウェルマンは1970年代から作品を発表し、オフ・ブロードウェー作品を対象とするオビー賞(The Villege Voice 主催)を何度か受賞しています。さすがに年の功か、手法は実験的にみえながら、地肌をみせないように演劇的な工夫が施されています。

 「アクト・ア・レディ」は劇中劇の構造を活用したスタイルを採用していましたが、「ヘラージオ」は20世紀初頭に起きた芸術運動「未来派」の過去を参照しつつも、もっぱら「夢の時間」で起きる第1幕と、バロック調の古いホテルで起きる「現実の悪夢」を描こうとしたとする、一筋縄ではいかない、ねじれた時間構造を設定しました。

 ムッソリーニ支持者としても知られたアメリカの詩人エズラ・パウンドが登場し、イタリア未来派の主導者マリネッティの亡霊を呼び出すところから芝居が始まります。未来派は過去の伝統を否定し、当時勃興しつつあった産業社会・機械文明の延長上に芸術を構想したといわれています。事件や事故という単発的な出来事ではなく、時代の底流から世の中の動きを捕らえる視点と言っていいでしょうか。作者の関心もそこにあるように思われます。彼が終演後のトークで「9.11事件のあとで世の中が変わったかのように言うのは違う。そういう見方には与しない」と頑なに言い張っていたのも、そういう立場からではないでしょうか。

 マリネッティが語るロシア訪問体験は舞台に入れ替わり現れる未来主義者らの言葉で寸断され、当時のさまざまな言説の引用とおぼしき芸術論の断片がちりばめられると、マリネッティの言葉自体が誇大妄想気味に拡散していきます。後半もかみ合わないムッソリーニとマリネッティの会話が、同行してきた女性秘書と運転手の遣り取りによって縁取られます。歴史の闇夜から、まばゆいほどに咲き誇った花が萎れていく。その残滓が痛々しいほどです。
 この時代を現在のアメリカとアナロジーさせることはそう難しくはないでしょう。IT産業とネットワーク文明。グローバル化や構造改革という名の一連の潮流を思い起こせば、作者の関心のありようが浮かんでくるのではないでしょうか。しかしそういう類推と対比はあまりに簡易にすぎるのかもしれません。

 中島演出は、学校用の小さな机といすを横一線に並べ、言葉の散乱するイメージを腹から響くような発声で定着させようとしていました。時折いすや机に上がるぐらいで、基本的にはリーディングですが、その異様な迫力は、たしかに狂気が駆け抜ける時代の空気を伝えていたように思われます。中島=ジンジャントロプスボイセイの実力のほどをみせたといっていいのではないでしょうか。

 最後に取り上げる「セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン」は皮肉の効いた作品といいリーディングの構造を生かした演出の優れたセンスといい、4作品の内で最も印象に残りました。

 ネット上でも評価が高いようです。目に付いたものを挙げてみると「力がいい感じに抜けて軽快で、アイデアも面白かったです。素舞台のスフィアメックスを思い出しました」(しのぶの演劇レビュー)「上演として一番面白かった作品」(CUATORO GATOS広報部はてな非公式出張所)「やはり、とても好きである中野さんの世界観が見られた気がします。題材が題材なだけに、センセーショナルだったりもしましたが、それでもすうっと隙間から入り込んできて、じんわり染みてくるような、そんな作品に感じられたのは、中野さんの技量・センスのなせる技?」(今日の産声)などなどです。最後の「?」が気になる? 抑えて抑えて-。
 演出した中野成樹さんがインタビューで「初めにみんなで戯曲を読んだんですけど(略)全員が共通のある言葉を口にしたんですよ。それは、『普通に面白かったですよ』っていう言葉(笑)。頭で考えて観るんじゃなく、情報として理解するんじゃなくて、単純に聞いて『面白い話だな』って思える、そこの感覚はしっかりキープしなきゃいけないって思いましたね」(BACK STAGE REPORT「演劇のチカラ~その可能性をめぐって」)ということばが、ダイレクトに実現したのではないでしょうか。

 まだ保守的な空気が濃厚な1950年代アメリカの家庭がメーンの舞台です。ドイツ人の博士とアメリカ人の妻、学校の教師をしている30代の未婚の娘、それに博士の教え子の精神分析医らが登場します。「セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン」という本を書いている博士なのに、妻へのいたわりや想像力にも乏しいシーンが頻繁に差し挟まれます。象徴的なのは、女性の性生活を研究しているのに相手の気持ちに気づかないまま先に寝込み、妻が自慰にふけるシーンがあるのです。戯画的と言えば戯画的ですが、芝居の一こまとして無理なく挿入する作者の腕は確かでした。そんなこんなで60代半ばの妻は、娘と同年配の夫の教え子と気持ちを交わす仲になってしまいます。しかし娘が学校で女生徒にキスしてしまった話を告白されて決心、教え子と娘の結婚を図る、というのがおおざっぱなストーリーです。

 これだけではありきたりのラブコメディーになりかねませんが、台本では「現代」が映像で折々映し出されることになっています。画面に出てくるのは50歳代の女性。若い男性が「セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン」のドキュメンタリーを撮影しながら、女性にさまざまな質問を投げかけるのです。1950年代と現在。半世紀の歳月が女性たちの性意識や性行動にどのような影響を及ぼしたかが舞台にフィードバックされる仕掛けです。

 この50年で何が変わり、何が変わらないのか。作者はあちこちにさまざまな言葉を埋め込んでいます。みる側の数だけ想像できるとでもいった内容ですが、「現代」でインタビューを受けている女性は少なくとも「性」と「愛」の微妙なあわいをはっきり意識しています。しかも頑迷な性道徳や世間体に縛られず、自分で経験を重ねながら生きています。しかし-。それでも本人が望むような関係が実現できているとは描かれていません。さらに彼女の娘が、母親の行動を醒めた目で見ている場面がはめ込まれているのです。時の流れと「セックスハビッツ」の変容を追いながら、登場人物をそれぞれ相対化する視点を用意した、したたかな作品でした。

 さあ、映像を使わないリーディングで、この映像場面をどう可視化するのか。この問いを、中野演出は舞台の2分割で実現しました。真ん中に「何をみてるの? 1950 ←→ 2006」と書かれたボードが立ち、下手側にいすやテーブルが置かれた50年代の家庭、上手側にソファーがあり、ビデオカメラに向かってセックスライフをしゃべっている女性がいます。
 しかも博士の家庭に出入りする娘の友人ルビー役の女性が、下手側から上手に移動して50代の女性に早変わりして若い男の質問に答えるのです。台本に指定されてはいませんが、1人2役。博士の家庭に連れてこられたルビーの赤ちゃん、博士の妻によくだっこされた赤ちゃんの50年後であることを強く示唆しているようです。ぼくは、娘のデイジーとインタビューに答えるジョイの1人2役で、デイジーが結婚、生まれた赤ちゃんの50年後かと思い込んでいたのですが、台本を読み返すと内容的には無理筋です。配役もどこかで錯覚していたようです。一体、何をみていたのでしょうかね。

 映像の可視化に次いで、中野演出はリーディングの構造を生かしたしゃれた仕掛けを施しました。最初は50年代の家庭劇として、いすに腰掛けたままテキストを読み上げていきます。やがて立ち上がる登場人物も現れ、歩き回ったりテキストを手放す人も。最後にはほぼ全員がテキストなしで舞台に立っていました。本読みから上演までのプロセスが時系列を追ってそのままなぞられたのです。1回性の強いアイデアかもしれませんが、演出の独創性を強くアピールしたのではないでしょうか。

 それでも注文がないわけではありません。60歳代半ばという設定の妻が背中を丸めて舞台に現れた瞬間、ややたじろぎました。その歳で背中が丸くなる人はそう見かけないのですが、ご本人がもともと猫背気味だったりして…。もう一つ、上手でインタビューを受けていた女性が、どうしても50年後の赤ちゃん、50代の女性とは思えないことです。年齢の壁を越える工夫がほしいところでしたが、どっかでまたぼくに見落としや見間違いがあったかもしれません。その際はご容赦を。

 今回の「アメリカ現代戯曲&劇作家シリーズ」は3年計画の初年度。まだ一部が現れただけにすぎません。出だしからとやかく言うのはひんしゅくを買いそうですが、それでも今回上演された4作品がどのような内容的基準で選ばれたかは明らかにしてほしいと思いました。
 日米で何度か遣り取りがあったと聞きましたが、実質的な選択はアメリカ側にあったようです。作者の年齢はほどよくばらけ、男女も2人ずつ。バランスを配慮したのでしょうか。現代の出来事を時系列にまとめた作品から、劇中劇を差し込んで入り組んだ構造を作ったり、過去を導入して歴史的な時間を攪拌したり、劇の形式もバラエティに富んでいました。
 しかしいずれの作品も濃淡はあっても、夫婦関係の亀裂、ドラッグ、セックス、同性愛、暴力などが描かれています。ジャーナリスティックな題材といえばいいのかもしれません。さらに付け加えると、作者は全員白人、「べラジオ」はちょっと別ですが、アメリカ中流、白人家庭が舞台の作品でした。

 テーマや舞台背景はたしかにアメリカに内在し、時に噴出する問題なのでしょうが、噴出したものが最重要とは限りません。どんな選択にも基準が隠されていて、その意味では偏りがあります。選ぶ側がその辺を意識していないと、これからのラインナップに影響を与えそうな気がします。つまり、初年度に白人作品を選んだから、次年度は黒人やアジア系など少数民族出身の作品を選ぼうというような形で現れたら、それは本末転倒でしょう。アメリカの「いま」が表現される優れた戯曲と出会いたい-。それが狙いであり、ぼくらの要望です。今回はその期待に応える作品があり、演出・出演陣も持ち味と力量を発揮したのではないでしょうか。これからも、シャープで充実した作品との出会いを楽しみにしています。

 本格的なドラマリーディングは世田谷のSePT(世田谷パブリックシアター/シアタートラム)が先鞭を付けたと記憶します。最近では新宿タイニイアリス劇場の「Alice Festival2005」で、ク・ナウカの美加里らが出演した「イラクNow!」があり、横浜の相鉄劇場では「横浜リーディングコレクション 福田恒存を読む」が2月中旬に開かれました。
 リーディングにはとにもかくにも作品を紹介する役割があり、上演の前段で観客の反応を吸い上げる機能も持っています。主催者側は、演出家の力を見定めようとする意図があるかもしれません。安易に実施される懸念はありますが、しかし埋もれた秀作、問題作を紹介する重要性は変わらないでしょう。TIFのリーディング上演がこれからさまざまな形で発展し、本舞台につながることを願っています。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

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