ドイツ座「エミーリア・ガロッティ」

 ドイツ座「エミーリア・ガロッティ」公演は、演出・演技、舞台装置・美術、照明、音楽などが溶け合って見事な舞台空間を造形しました。封建的な貞節観念と父性の相克、王侯貴族と興隆する市民階級の軋轢を扱った歴史劇は、男女の愛憎が … “ドイツ座「エミーリア・ガロッティ」” の続きを読む

 ドイツ座「エミーリア・ガロッティ」公演は、演出・演技、舞台装置・美術、照明、音楽などが溶け合って見事な舞台空間を造形しました。封建的な貞節観念と父性の相克、王侯貴族と興隆する市民階級の軋轢を扱った歴史劇は、男女の愛憎が絡み合う光と影の現代ドラマに姿を変え、私たちの胸をかきむしります。「堪能」という表現がぴったりの、味わい深い舞台でした(彩の国さいたま芸術劇場、3月19日-21日)。


 まず目を引いたのは、舞台の奥に向かってV字型にしつらえられた、高さ十メートルはあろうかという木製とおぼしきパネルです。幅1メートルほどのパネルが並んだ高い壁の、とりあえず区切られた空間で登場人物はもがき苦しみ、愛憎劇を繰り広げます。これがドラマの境界線を形成します。

 昨年みることのできたドイツの劇団の公演は舞台装置・美術が公演の性格を先取りしているような印象でした。フォルクスビューネ公演「終着駅アメリカ」は、最後に舞台が傾いて、いままで存在していた舞台空間が登場人物を含めてほとんどが滑落してしまいます。シャウビューネ公演「ノラ」では、玄関から居間へ行くまでの間に渡り廊下のような板が懸かり、横木のような仕切を跨がなければなりませんでした。やがて破滅に至る家庭の複雑な障壁を暗示しているようです。さらに舞台がぐるりと回転すると、見えていた部屋の後ろはすっぽり裁ち落とされています。ノラと夫、子供らが暮らす家庭は実は、表面だけを取り繕っているだけに過ぎないと示すあからさまな舞台装置でした。子供らの顔が映し出された住まいの切断面を背に、夫を撃ち殺したノラが腰を下ろしているラストシーンはいっそう強烈な印象を与えました。

 今年の「エミーリア・ガロッティ」公演でも、舞台装置・美術が、芝居の枠線を象徴するようです。パネルで示される高い壁、そのそびえ立つ威圧的な光景の中で、登場人物は奥の入り口から舞台前面まで二十メートル前後の間を、背筋をピンと伸ばし、前を見つめながら歩いてきます。退場するときも通常は同じように歩いて姿を消します。舞台前面で感情を露出、交錯した登場人物はやがて、基本的にはすり鉢状の底である出入り口に吸い込まれるように消えていくのです。それはまるで、男女関係のアリ地獄に落ち込むような印象さえ与えます。
 導線はあくまで縦、垂直です。しかしこの境界を逸脱するグアスタッラ公爵(王子)とエミーリアらはパネルの外へ姿を隠し、また再度姿を現します。垂直と水平、縦と横。縦系列の導線から外れ、パネルを開いて出入りする人たちの横系統の振る舞いによって悲劇が引き起こされるという設定です。劇の後半に測ったように、この枠線の交錯が繰り返されます。

 この舞台で欠かせないふたつ目の要素は、劇中の要所要所で流れたテーマ音楽でした。登場人物がすり鉢状の底から姿を現して、縦の導線をたどって舞台前面に歩いてくると、弦楽器群のピチカートを従えて、やるせない調べがバイオリンで奏でられます。また恋心にときめく男女がすれ違ったり向き合ったりするときはほとんど、このメランコリックなメロディーが流れます。ときにはポルタメントを掛けて纏綿嫋々と情緒を掻き立てますが、基本的には3拍子の単線的メロディーや、ゾクッとするようなピチカートがユニゾンで陰に陽に、秘めた情念や嫉妬、恋情の暗い渦を浮き彫りにするようです。
 演出のミハイル・タールハイマーが映画「花様年華」(ウォン・カーウァイ監督)の挿入曲を耳にして採用したそうですが、もとは鈴木清順監督作品「夢二」に使われた曲(梅林茂作曲「夢二のテーマ」)です。テーマ音楽の情緒喚起力が舞台の基盤を形作ったように思われます。

 冒頭、暗がりから姿を現したエミーリアがロウソクの火だけの薄暗い舞台を進んでくると、照明が一気に輝いて花火が雨のように降り注ぎます。華やかな輝きと、はかなく消える瞬間の交錯。そのイメージを刻印する印象的な出だしでした。
 そして終幕。父親は短銃を手に、よろめきながら娘エミーリアを探してパネルを次々に開けていくとそれぞれのパネルに青ざめた光が当たり、月光のように反射します。信頼していた娘の婚約者は殺され、当の娘は邪な思いを寄せる男のもとにいる。父親のやるせない心情が青白い光に託されているような気がしました。やがてエミーリアが現れ、取り乱した父と別れた後、パネルの両側から一斉に現れた礼装の男女が薄闇の月光の下で踊ります。その舞踏の渦に包まれるようにしてエミーリアの姿が漆黒の闇に溶けて幕が下ります。それらの印象的な場面を仕上げる照明がまた見事でした。花火で始まり、舞踏会という悦楽の闇に溶ける最後。光と影の巧みな演出です。

 こういう舞台全体の采配をふるったのがタールハイマーだったことは言うまでもありません。彼はまず、レッシングの原作をシンプルな男女の愛憎劇に仕立て直し、18世紀の物語の枠組みを現代にリセットしました。登場人物の呼称は公爵や伯爵などとなっていますが、全員現代の服装です。男性はノーネクタイのジャケット姿だったりしますが、女性たちはシックなワンピースをまとってあでやかなシルエットを見せてくれます。

 恋心を抱いたグアスタッラ公が配下のマリネッリの策略で挙式直前のエミーリアをある屋敷に連れ込みます。原作は誘惑に屈してしまうかもしれないと訴える娘エミーリアの願いを受けて、父親が彼女の胸を刺す、という筋書きでした。貞節と父性の観念がねじれる時代に封建領主への批判をも表現して当時の宮廷や市民社会に新風を吹き込んだ作品といわれています。しかし王子に誘惑されそうな娘を刺し殺す父、という筋書きは現代ではなかなかピンと来ません。古典に感じる違和感を違和感として表現しながら上演する方法もあり得ますが、ここでは物語を作りかえ、父は持っていた短銃を捨てて立ち去り、娘は舞踏会の闇に姿を溶かすというシーンを用意して終幕にしました。

 この枠組み変更は大事なポイントですが、そう驚くことではありません。しかしそこへ至るまでの男女の交錯の描き方には驚きました。この作品が初演されたとき、タールハイマーは30代半ば。若手と言っていい年齢なのに、じっとりとした愛欲や、繊細な感情の遣り取りまで、じつに情愛の綾を押さえた表現なのです。しかも見取り図にきっちり収めます。

 例えば、挙式の地に向かう列から策略で連れ込んだエミーリアに、グアスタッラ公が前日のぶしつけな告白を詫びつつ誘惑する場面。エミーリアの背後から「そなたが余に対して絶対的な力を持っているということをかたときも疑ってはならぬ」などと耳元でささやき続けるのです。するとエミーリアが頭を傾け、グアスタッラ公の肩にもたせかけるような姿勢に変わります。彼女の瞼から流れ落ちる涙をぬぐったグアスタッラがパネルに身を隠し、手を突き出して招き寄せます。パネルからはみ出した手。後ろを振り向き、その手招きをじっと見つめるエミーリア。やがて迷いを振り払うようにエミーリアは向きを変え、しっかりした足取りでそびえ立つ高い壁の向こうに消えていきます。テーマ音楽に寄り添いながら、そのひとつひとつの動作が感情の揺れや高まりのリズムに適っています。

 もう一つ挙げましょう。グアスタッラ公と付き合ってきたオルシーナ伯爵夫人が屋敷に現れ、追い返すように言われたマリネッリと押し問答する場面。ここはマリネッリ役のインゴ・ヒュルスマンの独壇場です。伯爵夫人の問いを「うー、ううーん」「うー、うー、うーん」などと抑揚を付け、木で鼻をくくったようにあしらいます。しかしその傲慢も、夫人の激しい口づけによって打ち砕かれてしまいます。マリネッティは文字通り、身もだえしてのたうち回るのです。このあたりの一連の遣り取りや振る舞いは、愛欲と打算に通じたしたたかさと言ってよいでしょう。

 冒頭と終幕の場面はすでに触れましたが、終幕の場面にさらに付け加えるとしたら、探し回る父親はパネルを開きながら、しかし境界の外へ足を踏み入れません。そのとき、エミーリアは横のパネルから、つまり父が住む世界の外側から姿を現しました。互いに伸ばした手は握り合えないままで終わります。境界の内と外の設定が人物の住む世界を鮮やかに象徴していたのではないでしょうか。

 再度繰り返しますが、舞台の各要素が渾然一体となったステージでした。おそらくどこの国でも、観客をうならせる出来栄えではないかと思われます。愛憎のるつぼを描く手腕はしたたかです。

 しかし逆に言うと、最新多様な演劇的技法を、いまの私たちがほとんど抵抗なく受け入れることができるように計測、加工していることを意味しています。唐突な所作や構成は注意深く排除されています。そのあたりは、音楽を感情喚起のツールとして割り切って使っていることに典型的に現れているような気がします。極端に言ってしまうと、年不相応にうますぎ、なのです。受け手の容量や形状を知りすぎて、熟達の域に達しているかのようです。

 タールハイマーは尖ったりはみ出したり未熟だったりしながら時代の先端を荒々しく突き抜ける道筋を採ってはいません。同じドイツの演出家でTPT「皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと」日本公演を実現したルネ・ポレシュとは明らかに姿勢が違うように思われます。この公演だけで判断するのは早計ですが、ぼくは存分に堪能しつつ、これからも熟達の代償が限りなく少なくなるようにと欲深な期待をしてしまいました。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 2006.4.12 4.13「他の主な関連レビュー」追加、一部修正)

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[上演記録]
ドイツ座「エミーリア・ガロッティ
■彩の国さいたま芸術劇場(3月19日-21日)

原作:G.E.レッシング
演出:ミヒャエル・タールハイマー
美術・衣裳:オーラフ・アルトマン
音楽:ベルト・ヴレーデ
(『花様年華』挿入曲「夢二のテーマ」作曲:梅林茂より)
ドラマトゥルク:ハンス・ナドルニー

出演:
エミーリア・ガロッティ:レギーネ・ツィンマーマンRegine Zimmermann
オドアルド:ペーター・パーゲルPeter Pagel
クラウディア:カトリン・クラインKatrin Klein
グアスタッラの公爵:スヴェン・レーマンSven Lehmann
マリネッリ:インゴ・ヒュルスマンIngo Hulsmann
アッピアーニ公爵:ヘニング・フォークトHenning Vogt
オルシーナ伯爵夫人:ニーナ・ホスNina Hoss

スタッフ:
技術監督: 草加叔也(空間創造研究所代表)
舞台監督: 平井徹(財団法人埼玉県芸術文化振興財団)
照 明: 岩品武顕(財団法人埼玉県芸術文化振興財団)
音 響: 山海隆弘(財団法人埼玉県芸術文化振興財団)
翻 訳: 萩原健(早稲田大学演劇博物館)
制 作: 大久保聖子(NPO 法人アートネットワーク・ジャパン)

東京国際芸術祭2006
平成17年度文化庁国際芸術交流支援事業

山口情報芸術センター(3月25日)
山口公演主催 財団法人山口市文化振興財団
共催NPO法人アートネットワークジャパン、大阪ドイツ文化センター
助成財団法人地域創造、アサヒビール芸術文化財団
特別協賛アサヒビール株式会社
山口公演企画制作 山口情報芸術センター


投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

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