tpt「皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと」(ルネ・ポレシュ作・演出)

 海外から演出家がやってきて、日本人俳優を起用して斬新なスタイルの舞台をみせてくれることが多くなりました。入れ替わり異なった演技・演劇観にさらされる俳優は、なかなか大変ではないでしょうか。ドイツの劇作家・演出家ルネ・ポレ … “tpt「皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと」(ルネ・ポレシュ作・演出)” の続きを読む

 海外から演出家がやってきて、日本人俳優を起用して斬新なスタイルの舞台をみせてくれることが多くなりました。入れ替わり異なった演技・演劇観にさらされる俳優は、なかなか大変ではないでしょうか。ドイツの劇作家・演出家ルネ・ポレシュが自作を演出したtpt公演「皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと」をみて、そんなことをあらためて考えさせられました(ベニサン・ピット、3月29日-4月16日)。


 ポレシュは2001年からベルリンのフォルクスビューネ付属プラーター劇場の芸術監督になって知名度が広がり、先鋭的な舞台はヨーロッパでの評価も高いそうです。

 会場のベニンピットはいわゆるステージが取り払われ、壁の大型スクリーンはホストクラブの宣伝が映っています。スクリーンに隣接する壁面には安っぽい楽屋風の部屋が作られ、入り口にビニール製のブルーシートが垂れ下がっています。その角に近い平土間らしき部分には天井から吊された屋根の下に大型ベッドがレースのカーテンで囲まれています。王宮の寝室か豪華なラブホテルかといった感じでしょうが、ぼくは大相撲の土俵が半ば透けて見える白いカーテンに覆われている光景を思い浮かべてしまいました。ほかに鹿の剥製もあります。場末の歓楽街の、エログロがむき出しの一角といった風情です。

 まず女3人と男1人が、ベッドに固まって代わる代わるマイクを使い、ささやくようにセックスやお金や商品などに関することばをしゃべり続けます。ミシェル・フーコーらの著書からの引用が多いようですが、読み聞かせて納得させようと言うよりは、垂れ流し状態という雰囲気に近く、筋書きではなくことばの奔流によって生まれるイメージが提示されている印象です。しゃべっている俳優のアップがビデオカメラを通じて大型スクリーンに映し出されます。「クソ」ということがば頻繁に差し挟まれますが、淀みないことばの流れに違和感を感じさせない程度の軽みを帯びているようでした。このあと楽屋らしき場所でポルノ撮影に関することばが交わされ、それがまたビデオ映像でスクリーンに投射されるなど、ロックに煽られるようにいわゆるチープなマルチメディア・パフォーマンスが繰り広げられると言っておけば、現象的表面的な劇場の進行をなぞったことになりそうです。

 「演劇都市ベルリン」の著者で、現代ドイツ演劇に詳しい新野守弘さんはまず、手際よい会場の描写から「これから楽し気なことが起こる期待が高まります」と前置きして、「演出のルネ・ポレシュは、このように高まる期待を利用して、言葉を聞かせようとしています。つまり4人の俳優たち(木内みどり、中川安奈、池田有希子、長谷川博己)はあらかじめ決められた役柄を演ずるのではなく、いわば俳優自身の心で、ポレシュが書いた台詞を語り出すのです。しかも、ひそひそ声と叫び声との両極端に振り分けられた発声を通して語るので、生の声を聞くのとは異なる面白さがあります。おそらくポレシュは、自然な発声をあえて抑えることで、わたしたちが自然と思い込んでいる声の出し方や会話、他人との交流といった生活のすべての様態をもう一度考えて欲しいと意図しているようです」(「ドイツ座来日公演『エミーリア・ガロッティ』とルネ・ポレシュの不思議な世界」)と述べています。

 おそらくポレシュの演出意図をくみ上げた理解、と言うべきかもしれません。テキスト内容というよりは、セリフや発声などにまとわりついた「演劇の垢」を落としてみようというのです。この公演で特異な位置を占めるテキスト=セリフに着眼しているのは、ポレシュ作品の肝なのかもしれません。

 公演プログラムに載っているインタビューでポレシュは、この作品のセリフが難解で観客は理解できないのではないかという問いに対して次のように答えています。

それは従来型の、いわゆる文学の上に成り立っている演劇をみてきた人が持つ疑問だよ。われわれは、何のメッセージとか、作家が描いた真実を、俳優を通して観客に伝えることを目的とはしていない。4人の生身の俳優が舞台に立って、自分たちは知りたい、知というものを求める存在であるという前提で、自分自身に問いを投げかける。「これは何だ」「お金とは何だ」とね。(中略)われわれがやろうとしているのは、(テキストに引用された)フーコーの哲学を理解することではなく、彼の理論をわれわれに応用したとき何が起こるかを検証すること。哲学を大衆に説くのではなく、あくまでも応用するのが目的なんだ。それは要するに、舞台に立っている俳優と、演出家と、それを見に来ている観客とが、演劇という素材を、自分自身の生活にどう応用するかを考える、ということ。応用することを分かち合う場が、私の演劇なんだ。(ルネ・ポレシュ・インタビュー)

 舞台が「表現」となる(である)ことを抜けだし、考えるための刺激剤、あるいは触媒を提供しようというのです。あるいはポレシュは、演出家と俳優と観客の三者の共軛関係を形成しようと言うのです。さらにそのプロセスを、まず平等な俳優の関係から作り上げようとします。つまり男女の役割が固定的でない登場人物、それぞれの俳優に割り当てられるほぼ等量のセリフ、などを前提にしています。その上で俳優には何を望むのでしょうか。別のインタビューを聞いてみましょう。

私は俳優にあれこれ指示するタイプの演出家ではなく、テキストがなぜそう書かれているかという内容からアプローチします。俳優に求められているのは、なぜこういう行動を取らなければいけないのか(中略)なぜこういう表現をとるか、厳密に考えてもらうことです。(中略)俳優が登場人物をゼロから造形していくということには同意できません。もしそうなら、俳優は血と肉を持った自己を否定しなければならないのではないか。(中略)テキストの役割をこなすのが俳優の務めではなく、テキスト自体を自分自身の問題として受け止める、取り組む方が重要だと思います。(i-morley×ルネ・ポレシュ特別インタビュー 前編 後編

 テキストと距離を取り、役に過剰に入り込まないように抑制する、という演出はそう珍しくありません。しかし稽古の初めから「思考せよ」ときっぱり宣言する演出家は珍しいのでしょうか。
 出演した木内みどりも最初は戸惑を隠せなかったようです。あるインタビューで「背を向けるときも背中で演技するとこれまで教えられてきたのに、ポレシュは演じるのではなく、思考を共有してください、と言う。客にメッセージを届けようとはいっさいしない。こんなの初めて。演技をするなって言うんだから、途中で降りる俳優がいるというもの分かる気がする」と語っています。しかし稽古が進むにつれ、「ポレシュ以前とポレシュ以後に分かれるぐらい影響が大きい」(「俳優・木内みどりさんにインタビュー」)とすっかり心酔しているようです。

 ウイーンのブルグ劇場専属俳優の原サチコさんも(注1)同じような体験を一足先にしていたようです公演プログラムのインビューで「観客に分かってもらうために俳優がやる『みせかた』をルネの場合は『とっぱらってくれ』と言う。ウイーンでやったときは皆なかなか信じられなかった」と語り、しかし公演が終わってみればすっかり影響されてしまい、「ポレシュ作品の後すぐに他の演出家と次の作品に取り組んだけれど、役柄があって、それを掘り下げていくというプロセスにどういう意味、意義があるのかと考えて、ノレなくなってしまった」と語っていることでも分かります。

 異なる演劇・演技観の演出家が登場すると、俳優は切り替えを余儀なくされます。その変容過程に関心が集まるのも、俳優の意味や意義に関わるからでしょう。
 原さんは前述のインタビューで「ドイツ人の俳優は議論好きというか、いつもいいたいことがいっぱいあるという感じで、ルネが言ったことに対して、すぐ自分の考えを言い出す、反論する、説得しようとするんです。(中略)頑固な人がいたりすると、時間がかかって、なかなか先に進まない」けれども、日本は対照的だと言います。日本人の役者をみていると「まずルネの言うことを一生懸命聞いて理解しようとしている。(中略)初めて出会うルネの作品作りの考え方を、すごい集中力で聴き取って理解して、ルネの考え方に添ってきて台本を自分のものにしていくことが、急スピードで行われている。吸収力のすごいこと。そして役者さんたちが一緒に集団として協力し合っているのが実に自然で、あっという間に一つになれるのもすごい」と驚いていました。

 最初から「すごい集中力で聴き取って理解して、ルネの考え方に添ってきて台本を自分のものにしていく」とは、どういうことなのでしょうか。これまでの役作りスタイとはまったく違うのに、どうしてこうも早々と「理解」してしまうように見えるのでしょう。原さんは、すぐに「理解」しようとする態度を受容的な特質として指摘しただけでしょうか。あるいは専属俳優が契約雇用される立場と、演出家がほとんど全権を持って配役を決めるという身分上の違いを言いたいでしょうか。少なくとも俳優を支えるはずの基盤が不安定であれば、作品への疑問が即、演出家への批判と受け取られかねず、「議論」の風土は成立しません。そんな底流が「議論」と「理解」の狭間に横たわっているのかもしれません。

 今回の舞台が「素材」を提供して「思考」に誘う仕掛けだとしたら、俳優の語りや身振りがビデオ映像を通じて提起するという回路はそれなりに有力な方法なのでしょう。それがいま世の中の支配的な手段であり、「リアル」な方法だからです。「(ぼくの舞台は)リアリティを表現することではない。リアリティをディスカッションして思考することだ。ポルノ映画の世界を描いているけれども、上映するのではなく、ポルノについて語ることに取り組んだのだ」(「i-morely インタビュー」)。共通認識からではなく、個別に考えたり感じたりすることから始めたいというポレシュの戦略なのでしょうか。「考えよ」というスタイルで押しつけがましくはた迷惑な臭いをまき散らしていることもまた、かれの戦略の一部なのかもしれません。

 もうひとつ、ポレシュがみている、あるいは生きている社会がどういうものか、いまひとつつかみかねるところがあります。「議論」が成立する前提、ポレシュが念頭に置き、立ち向かおうとしている世の中に関わる問題です。
 同時代を生きているので、情報とか商品とか資本とかお金とか、いわゆるグローバル化の指標になるような現実は共有しています。それでも日本は階級や貧富、出身によってそれほどくっきり区切られている社会ではないので、そこがドイツ(圏)と日本の違いなのでしょうか。確かに歴史的に積み上げられてきた社会的な慣行、公共的な作法、家族らの習慣などなどという生活社会関係の積み重ねが、個々人をはぐくみ、また個々人の関係のあり方に作用しているのでしょう。演劇もこういう無形の諸関係に強く規定されるのています。叩けば分厚い壁の手応えが跳ね返ってくる地と、ぬえのような、風呂敷でくるまれたような文化風土の差異を考えればいいのでしょうか。

 

*    *    *

 ここまで書いてきて、あらためて読み返してみると、ポレシュの敷いた枠組みにすっかりはまってしまったのではないかと気付きました。ぼくも舞台・劇場の出来事を報告するよりも、「ルネの考え方に添って」「理解的受容的態度」を取ってしまったようです。なるほど、こういうことなのか。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

注1:原サチコさんは「ロマンチカ」出身。ヨーロッパに渡った経緯や活動などはi-morleyインタビュー参照。ドイツと日本の演劇環境の違い、「謙譲の美徳」が存在する余地のない自己主張の社会などが率直に語られています。
注2:「from PIT」(TPTは国際共同の制作現場からアーティストの声を発信)はポレシュの発言など稽古のようすが載っています。

[上演記録]
tpt『皆に伝えよ!ソイレント・グリーンは人肉だと
ベニサンピット(3月29日-4月16日)

作/演出 ルネ・ポレシュ
美術 ヤニーナ・アウディック
出演 木内みどり 中川安奈 池田有希子 長谷川博己

投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

「tpt「皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと」(ルネ・ポレシュ作・演出)」への1件のフィードバック

  1. ザ・ミッドナイトサスペンス

    メトロニミッツ No.45(7月20日発行)に面白そうな記事が。

    「ザ・ミッドナイトサスペンス」という演劇!?(体験型イベント)。

    「ザ・ミッドナイトサスペンスとは」(公式HP

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