◎揺らぐ「主体性」を取り込み楽しむ 演技の「質」を高めた舞台
松井周(青年団、「サンプル」主宰)
平田オリザの作品をフランス人のロアン・グットマンが演出した『別れの唄』を観て、「現代口語演劇」について考えてみたいと思った。
平田オリザ作の、例えば『ソウル市民』(2005年 シアタートラム)を演出した同じくフランス人のフレデリック・フィスバックは、植民地支配というテーマを明確にし、「日本人」「間」というものを意識化し、青年団の公演と比べればほとんど「異化」と言っていいほどの舞台を作っていたのに対し、ロラン・グットマンが作り出したものは、テーマや視点を意識させない舞台であり、より「現代口語演劇」的であったと言えるだろう。ある空間の、ある時間の移り変わりを切り取る感じがとても似ていた。もちろん、『別れの唄』は平田オリザがこの企画のために書き下ろした戯曲であるので、共同作業的色合いは強い。
『別れの唄』の舞台は日本の古い家である。通夜の片付けが終わろうかというところから始まる。亡くなったのは日本人と国際結婚をしていたフランス人の妻である。そこに、妻の親や弟、そして、日本人の夫とその妹、夫婦共通の友人、葬儀屋が訪れている。翌日の葬儀の段取りについての話し合いが進む。
このような状況はフランスと日本の文化や環境の違いを描くのにはベストな設定であった。死者を悼むという目的は一つなのに、そこへのアプローチがフランスと日本ではこのように違うのかということを埋められない溝として提示していた。その溝の一つ一つは取るに足らない小さなものであるので、当事者以外、つまり観客にとっては「笑い」を誘うものではあるが、積み重なることで諦念にも似た疲れをもたらすことにもなる。
例えば、靴のまま畳に上がるフランス人を日本人が注意するシーンやフランス語のわからない日本人の前でフランス人が「日本人は困ると笑う」と言うシーンには、そこでの俳優の所作や一瞬の間に異文化に直に触れるときの誰もが経験するためらいが発生していたように思う。これは明確に意識できる差別心または親近感などが芽生える前の状態であろう。
これらのエピソードは一見すると、日本人とフランス人の違いを説明するのみのエピソードであり、戯画化することもできただろうが、俳優の演技の「質」によってそれは抑えられている。そして、この「質」は俳優の舞台での存在の仕方に支えられている。
一、台詞という行為も、人間の様々な動作の一つとして捉えていくこと
二、すべての台詞を、他者との関係、環境との関係で捉えていくこと
(「演技と演出」平田オリザ 講談社現代新書)
この二つは平田オリザの提唱する「現代口語演劇」の方法論の核にあるものであり、これらは個人の、俳優の「主体性」を疑うことを意味した。
「主体性」を疑うということは、環境や人間関係に私たちがどれほど左右されているかを感じることであり、それによって揺らぐ「主体性」をも演技に取り込もうという方法である。『別れの唄』が「現代口語演劇」的なのは何も自然に台詞を喋っているとかそういうことではなく、この点によるものが大きいだろう。主体性が揺らぐことを楽しむように舞台に存在することが演技の「質」を高めていた。
一方、フレデリック・フィスバックの演出による『ソウル市民』においては、会話そのものは「現代口語演劇」ふうなのだが、台詞上「・・・」で表される場面で俳優が皆ふと別の方向を向くというような演出が為されていた。そこで一つ、切断が起こり、またリセットされたように会話が始まる。その繰り返しがあるリズムとなっていて、「間」というものを強調しているように見えた。しかし、この演出はどこか概念的な仕掛けの域を出ていないのではないか、もしくは、「・・・」を一つの意味に閉じこめてはいないだろうか、と思った。間違ってるかもしれないが、「植民地における支配者側の家族の滑稽さを表す」といった意味に還元できてしまうような演出の意図を感じてしまった。少なくとも、俳優の身体がそこで一つの意味に束ねられてしまう不自由さを感じた。
「主体性」が揺らぐということは、自分の存在する環境や時間に束縛されるということでもあるが、それらを丸ごと把握するということでもあるので、自由とも言える。『別れの唄』の俳優たちはその自由を得ていたように思う。と言ってもこの芝居は即興ではないので、その自由を得るためのプロセスは、一度把握して慣れきった全ての感覚を潜在下に置き、本番の舞台ではその記憶(脊髄反射的なものも含む)を呼び覚ますように演技をする・生き直すということである。
例えば、フランス人が畳の上に座ることを何度勧められても、何処にどう座っていいかわからずにウロウロするシーンの新鮮さと自然さはこのように生まれたのだろう。その自然さは不自然なプロセスを経てこそ、なのだ。
更に言えば、演劇においてテーマや世界観といったものが表現され得るとすれば、それは空間と時間とそれに密接した俳優の運動(台詞も含む)そのものに内包されていなくてはならないのではないだろうか。これは何も「現代口語演劇」的演劇に限らない。劇世界内の空間が歪もうと時間が飛ぼうと台詞がコロスのようであってもダンスであっても構わない。とにかくどんな妄想やSFであろうと、現前する空間や時間や身体の束縛からは逃れられないことを認識しているかどうかだ。それらを無視した表現は、たとえ創る側の伝えたいテーマが深遠であろうと強度を保つことはできないだろう。
そう考えると、「現代口語演劇」の保守化を指摘するときに、伝えたいテーマや扱っている世界の狭さを示すのは間違っているように思う。目の前の空間で俳優がある時間を過ごすとき、その動作や台詞が一つの意味に還元されないような自由さ、豊かさを備えているならば、そこには作り手側の意図を超えたテーマや世界が潜んでいるからである。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第39号、2007年4月25日発行。購読は登録ページから)
【筆者紹介】
松井周(まつい・しゅう)
1972年東京生まれ。明治学院大学社会学部卒。1996年俳優として劇団青年団に入団。その後、劇作と演出も手がける。「通過」(2004年)「ワールドプレミア」 (2005年)が日本劇作家協会新人戯曲賞入賞。青年団所属。「サンプル」主宰。
・これまでの掲載劇評一覧(wonderland)
【上演記録】
青年団国際演劇交流プロジェクト2007 日仏合同公演『別れの唄』
作:平田オリザ
翻訳:ユタカ・マキノ
演出・美術:ロラン・グットマン
東京公演 シアタートラム(2007年4月5日-8日)
フランス語上演/日本語字幕付き
出演:
中本武雄(マリーの夫)… 太田 宏(Hiroshi Ota)
中本由希子(武雄の妹)… 角舘玲奈(Reina Kakudate)
柴田(葬儀屋)… 山内健司(Kenji Yamauchi)
…以上青年団
ジュリアン(マリーの父)…イヴ・ピニョー(Yves Pignot)
イリス(マリーの母)…アニー・メルシエ(Annie Mercier)
アンヌ(マリーの友人)…カトリーヌ・ヴィナティエ(Catherine Vinatier)
ミッシェル(マリーの弟)…アドリアン・コシュティエ(Adrien Cauchetier)
フランソワ(マリーの前夫)…ブルーノ・フォルジェ(Bruno Forget)
スタッフ:
舞台監督 熊谷祐子
舞台美術 播間愛子
装置 鈴木健介
照明 ジル・ジャントネー 西本 彩
音響 マダム・ミニアチュール 薮公美子
衣裳 アクセル・アウスト カミーユ・ポナジェ
字幕操作 岩城保
通訳 原真理子 浅井宏美
宣伝美術 京
宣伝写真 山本尚明
制作 西山葉子 ヴァンサン・アドゥリュス
主催 (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
企画制作 青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
共同制作 ティヨンヴィル=ロレーヌ国立演劇センター
助成 国際交流基金
後援 東京日仏学院
全席指定/前売・予約・当日共
一般:3,500円/学生・シニア:2,500円/高校生以下:1,500円
世田谷区民:3,300円/SePT倶楽部:3,200円
フランス国内巡演日程:
【ティヨンヴィル公演】
Centre Dramatique de Thionville-Lorraine
2007年1月22日(月)~26日(金)
【ブザンソン公演】
Centre Dramatique National de Besancon
2007年1月30日(火)~2月2日(金)
【ストラスブール公演】
Theatre National de Strasbourg
2007年2月7日(水)~22日(木)
【パリ公演】
Theatre de l’Est Parisien
2007年5月23日(木)~6月17日(日)
※公演の詳細は各劇場サイトをご覧ください。