MU「きみは死んでいる/その他短編」

◎風通しの良さと揺るぎない自信 反転する演劇における「死」
松井周(サンプル主宰)

「きみは死んでいる/その他短編」公演チラシ演劇で「死」を扱うのは難しい。死体であることを観客に了解させるためにどのように舞台上の世界を作るかは、演出家にとってとても頭を悩まされる課題であるように思う。今回観たMUの『きみは死んでいる/その他短編』は、その課題をアクロバティックな形で表現していた。

この芝居は、AとBのバージョンに分かれていて、観客は1回につき、どちらかのバージョンを観ることになる。どちらにも『きみは死んでいる』という作品は含まれており(Aバージョンは主人公と友達の性別が男でありBバージョンは女。台本は微妙に変更されている)、それ以外の2作品は、バージョンによって違う。つまり、AとB合わせて5作の短編が上演された。全ての作品を作・演出しているハセガワアユムは、この試みについて下のように書いている。

「演劇界において、長編を半年に一本書き続けるというスタンスは、冷静に考えると作家にとって正直無理があるし、何より本当に届けたいものが霞んでしまう場合がある。村上春樹の『蛍・納屋を焼く・その他の短編』という短編集の表題作『蛍』が、いずれ長編『ノルウェイの森』となってベストセラーとなったように。演劇界にもそういうスタンスがあってもいいのに、とフツーに思う。その短編の切れ端には余韻と実験と発酵があるよね。」 (『きみは死んでいる/その他短編』当日パンフレットより)

ハセガワアユムはそれぞれのコンテンツは単独で楽しめるよとでも言うように、当日パンフレットに掲載されていたそれぞれの話のあらすじの上に「シリアス」「ユーモア」「因果応報」など幾つかのパラメーターを★マークで記している。この情報公開ぶりは、上記の言葉に嘘がないことを証明しているし、観客の肩の力を抜く効果があるだろう。しかし、そうは言っても演劇と小説はやはり違うように思う。経験としての質の差がそこにはあるのではないだろうか。文章を読むという経験と発語や身体表現を体験することには差があるし、当然、本なら途中で読むのを止めることも出来るが、演劇はそうもいかない。今回はトータル2時間ほどのノンストップ上演であった。つまり、観客は座りながらある空間を共有しなければならず、2時間の作品を経験したのである。観劇後の今、やはり、それぞれの物語をつなぐトーンがあったように思う。題名にもあるように、それは「死」だ。私が観たのは、Bバージョンであり、もしかしたらAバージョンを観たらまた違う感想を抱いたのかもしれないが、Bバージョンの短編群は「死」のループのような展開であった。

一話目の話はこうである。あるコミューンで暮らしていた女二人の物語。主人公の戸部勇子は以前にそのコミューンを抜け出している。最近になって、もう一人の二ノ宮隆子も抜け出すのだが、コミューン仲間のリンチにあって死んでしまい、「首の絞められた痕をスカーフで隠し、飛び出た目玉を戻し、股間を濡らしてしまったまま」ゾンビの状態で、戸部の元を訪れる。二ノ宮は戸部に自分の仇を討って欲しいと訴える。しかし、そこにはすでに二ノ宮隆子が死んだことを知らないコミューンの仲間たちが先回りして二ノ宮を捕まえようと待ちかまえていた。戸部が社会復帰のためのリハビリとして(?)付き合っている自称恋人の磯貝結雄も巻き込みながら、殺し合いが始まる。

「きみは死んでいる/その他短編」公演
【写真は「きみは死んでいる」から。撮影:石澤知絵子 提供:MU 禁無断転載】

設定の面白さと展開の素早さ、台詞の小気味よさが心地よい。人民寺院を連想させるような、集団自殺で天国へ行こうとするカルトやゾンビを登場させるという発想の思い切りからは、特殊な空間が現出しそうな気配たっぷりであった。しかし、どこか俳優の身体との齟齬も感じた。ナイフやスタンガン、灯油などの小道具や、殴る身振りや俳優の呼吸が荒くなったり目を剥く演技がシーンを説明する「記号」として機能してしまっていて、空間の気配を創りだしているようには思えなかったのだ。「記号」が悪いと言っているわけではなく、俳優が生身であるからには、「記号」との間にどこか妥協点(様式としての演出を施す等)を見出さないことには、例えば、目を剥きだした形相で電気の走らないスタンガンを押しつけても、どうしても殺し合いごっこかもしれないという観客の視点を取り除けない。そして、その舞台で登場人物たちは死んでいくのだが、これも寝そべったり、血糊を塗ることで表現される。私には、これほど「死」から遠く離れた表現も珍しいという余韻が残った。しかし、もしかしたら、この「死」こそ作者が用意した罠であったのかもしれないと思うのは、もう少し先のことであった。

二話目の『90%VIRGIN』は、Mr.Children のCD が割られてばらまかれる事件が起きて、教師からミスチルを演奏するように強制されている女子高生のバンドが、その犯人として疑われるという話であった。この話は、ミスチルの歌詞の世界を受け入れるか、受け入れないかを巡って、コントのような演技スタイルで展開していく。舞台上でも言及されているような「中二的」な会話が実は、大人も子供も含めて日本の社会を覆っている。Mr.Children の歌詞の世界観が一種の権力として機能している世界は一つの冗談であるのだが、その外に世界はないかのように息苦しさを感じながら生きている人物たちにそれはわからない。

「きみは死んでいる/その他短編」公演
【写真は「90%VIRGIN」から。撮影:石澤知絵子 提供:MU 禁無断転載】

そして、三話目。これまでの話が前振りかのように、視点がガラッと変わった。
中東の(イラクを思わせる)戦闘地域で人質になって解放された経験のある、五味、浜口、青木の男3人が、帰国後にガールズバンドに反戦歌を依頼する。彼らの目的ははっきりしている。五味は金、浜口は恋愛、青木が平和といった具合である。つまり、青木を除いて動機はもとから不純なのだ。青木にしたって銃オタクであったりする。そうは言っても、ガールズバンドの作った歌詞は「戦争は無くならない/だってもうジャンルだから/戦争はなくならない/だって人間多過ぎるもの/戦争は無くならない」というものであり、戦場に行った経験のある三人にとってはやはり納得が行かない。そこで、田舎の深夜のファミレスでガールズバンドに自分たちの体験談をまじえて、クレームをつけようとしていた。その話し合いを合コンだと勘違いした地元のやくざがいちゃもんを付けてくる。

ここに出てくるガールズバンドは二話目『90%VIRGIN』のMr.Children の曲を演奏するかしないかで揉めていたあの女子高生のその後であった。しかも、バンド名は「NO VIRGINS」。彼女たちは資本主義的価値観をすっかり身につけて、反戦歌を音楽の1ジャンルとみなし、仕事に励んでいたのだ! この彼女たちの成長(?)ぶりは、安易な憂国の情を寄せ付けない強さを秘めているのでよっぽどたちが悪い。一方、中東で人質になった男三人組も興味深い。彼らは「戦争に行った」という特権的体験を免罪符にして、あらゆる世俗的な欲望を満たそうとするのだ。

「きみは死んでいる/その他短編」公演
【写真は「戦争に行って来た」から。撮影:石澤知絵子 提供:MU 禁無断転載】

男三人と女三人の対立はとてもスリリングである。演技スタイルもこれまでと一変する。俳優個人の身体性が色濃く出ている、いわばリアリズムである。男三人が「戦争」の恐怖を伝えようとすればするほど、世俗的な欲望が透けて見えるし、女三人組が「戦争」を軽く受け流せば流すほど、その恐怖感を隠しているように見える。「死」を語ることの難しさがここにある。「死」を直接に語ろうとすると、逃げるのが「死」であり、それは1話目『きみは死んでいる』で目撃した通りだ。そして、「死」の予兆は思わぬところからもたらされる。それが、ソープランド帰りでありながらも、まだ欲望を持て余し苛立っているヤクザである。

一話目と二話目はこの狭い日本という国の演劇ごっこでしかなく、私たちの生きている世界はこんなにも薄っぺらですということを目の前に突きつけるのだ。小劇場で表現しているような「死」は、たかが小さい芝居小屋の中での身振りに過ぎないし、私たちはMr.Children の歌詞の世界がいけてる/いけてないを言い合うことでコミュニケーションを成り立たせているような貧しい世界に生きているけれど、どうなんですか?と言っているようなのだ。この話のラストで、出口なしの状況でヤクザに立ち向かわなくてはならなくなった一人の男が失禁する。まあ、水なのかもしれない。しかし、この水こそ、スタンガンや血糊よりもよっぽど「死」に近い。この後彼は死ぬのかもしれない。そして、死にきれない「股間を濡らしてしまったまま」の死体として1話目に戻ってくるのだ。それからまた、ごっこ遊びのような「死」を演じ続ける。

ここまで来て初めて1話目の「死」が反転する。つまり、私たちは演劇的に「死」を表現するためには、「死」から遠ざかることを覚悟しなければならない。その手続きを踏むことで初めて「死」を表現する切符が手に入る。後はそれを何と変換すればいいかだ。この芝居においてそれは、戦闘地域で人質になった経験のある男がヤクザにびびって失禁したときの、股間に滴る「水」であった。その「水」がループして1話目に繋がることが、演劇における「死」の不可能性に揺さぶりをかけることが出来る。観ている側に「死」の恐怖を垣間見せる。もちろんそれは一瞬のことであり、すぐにごっこ遊びのネタと化す。

断片化された物語たちが奇妙なつながりをもって化学変化を起こし、1つの作品として受容されようと、またはバラバラに受容されようと、どちらでも構わないという作者のスタンスの新しさに、風通しの良さと揺るぎない自信を見た。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第57号、2007年8月29日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
松井周(まつい・しゅう)
1972年東京生まれ。明治学院大学社会学部卒。1996年俳優として劇団青年団に入団。その後、劇作と演出も手がける。「通過」、「ワールドプレミア」が日本劇作家協会新人戯曲賞入賞。青年団所属。「サンプル」主宰。新作「カロリーの消費」(2007年9月14日-24日予定、三鷹市芸術文化センター)
・wonderland掲載の劇評一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/matsui-shu/

【上演記録】
MUきみは死んでいる/その他短編
下北沢OFFOFFシアター(2007年8月15日-20日)

脚本・演出
ハセガワアユム(MU)

出演
古市海見子(メタリック農家) 佐々木なふみ(東京ネジ) 橋本恵一郎 渡辺裕也(クロカミショウネン18)
杉木隆幸(play unit-fullfull) 中川智明 平間実貴 藤本真弓 田中涼子 熊野善啓(チャリT企画)
印宮伸二(劇団神馬) 山内一生 小松君和(神様プロデュース) 酒巻誉洋(elePHANTMoon)

『きみは死んでいる』(女×女)Bバージョン
戸部勇子:古市海見子(主人公、編集の仕事をしている。コミューンから抜け出すが溜め込んだ欲望を日記に書き続ける)
二ノ宮隆子:佐々木なふみ(戸部の行方不明になった友人)
男1:中川智明(コミューンの住人)
男2:酒巻誉洋(同じくコミューンの住人)
結雄:橋本恵一郎(戸部の自称恋人)

『90%VIRGIN』
真弓(ギター):藤本真弓(軽音部のリーダー。尖りすぎているため高校を中退しようと考えてる)
涼子(ドラム):田中涼子(真弓の友人。ドラム顔)
ミキ(ベース):平間実貴(メイド喫茶でバイトしてる)
佐々木先生:佐々木なふみ(軽音部の顧問。現国教師。歌詞を添削してる)
古市ちゃん:古市海見子(10年前、高校をドロップアウトしたサーファー。佐々木の元同級生)
坂崎先生:(変態体育エロ教師)
充くん:熊野善啓(変態中学生)

『戦争に行って来た』
五味圭介:中川智明(自称・戦場カメラマン。売名行為と称されるのを恥じている。戦場をたらいまわされた元人質の1人)
浜口真治:小松君和(反戦団体「WENT WAR」のリーダー。愛に目覚め始めてるグロマニア。同じくもと人質の1人)
青木 裕:酒巻誉洋(明治大学の現役学生。もちろん戦争には反対。銃(ガン)オタ。同じくもと人質の1人)
真弓(ギター):藤本真弓(ギャルバンドの「NO VIRGINS」のリーダー)
涼子(ドラム):田中涼子(同じバンドのドラム)
ミキ(ベース):平間実貴(同じバンドのベース。メイド喫茶でバイトしてる)


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