Monochrome Circus「The Passing01-03 WASH」

◎内と外が激しく渦巻くイメージ 全体を貫くのは意味世界かダンスか
 藤原央登 (劇評ブログ「現在形の批評 」主宰)

 己が身体を拠り所に世界のある断面を切り取り、そこに全てを凝集し且つ抽象化を施して、舞台上に書き付ける。パフォーマンスやコンテンポラリーダンスの担い手とはいわば身体を一つの焦点に、世界全体のバイアスを進んでまるごと引き受ける者のことを差す。時として文字(台詞)の意味内容から構成されるテクストが紡ぎ出す文脈以上の直截性を持ち得るのは、身一つで茫漠とした荒野にそれでも立ちつくそうとする意志を滲みだす身体の純化された姿があるからだ。その身体が書き記す様々な手つきが批評となるからこそ、「同時代」と冠されたことの価値へと接続されるのだろう。京都を拠点に海外でも活動するモノクロームサーカスの公演を、この点から即してみると、いまひとつ納得し難いように思われた。

 今回が初見となったこの集団は、コンタクトインプロヴィゼーションという、身体相互のふれ合いを根幹としたダンスを創っている。それは舞台開始直後に窺い知れる。黒いフード付きレインコートを羽織った合田有紀の逐一の動きに呼応して、他の三人のパフォーマーが追いかけ、つかまえるシーンである。逃げる力と引き寄せる力、双方の微妙な力関係の変化に素直に応じて相手に身をもたせ掛け、あるいは振り回されることで、ゴムのようなしなやかな運動体へと転換した身体から生成されるなめらかな動きが生まれる。この「共同作業」はコートを着用する者をオニとして交代し、全員が受け持つ。私はこのシーンにダンスが生まれる、プリミティブな地点にまで遡及した遊びの逐一を見る思いがした。それは、スピードと重心移動をそのまま生かしてその時・その場で取り交わされるまさにボディーコミュニケーションなのだ。

 この作品は、昨年12月の短編が基になっている。そのためか、一本の作品として全体像が浮かび上がるというより、断片を継ぎ足したコラージュに近いものである。ぶつ切りのように個々のシーンが提示されるため、飛躍しているように見える。パンフレットにもあるように、舞台空間は、取り壊されるマンションに張り巡らされた防音シートを思わせる物が三方(冒頭、客席入り口から登場した合田が舞台内へ入るまでは四方)から垂れ下がっている。一見、外部からは変容がないように見えるが、着々と役割を終えた建物が更地へと向かって激しい音と粉塵を撒き散らしながら解体されていく内部の謂いを、舞台上に屹立させようとしている。崩壊という一点で留め置かれた場所で、内と外が静動の両面で激しく渦巻くイメージは確かに劇性の発生装置に相応しい。

 アフタートークゲストの服部滋樹(graf代表)は、現実世界でこのところ起こっている不可解な出来事(秋葉原の連続刺殺事件、岩手・宮城内陸地震を想定しているのだろう)をフラッシュバックさせると評した。主宰者の坂本公成は、冒頭のシーンは逃げてはいるが捕まえてほしいと願う人間を表していると発言した。それを、孤人として存在する者の我侭にも似た複雑な介入願望へとパラフレーズすれば、まさに秋葉原の犯人の犯行動機を思わせもする。また、単純にダンスを見せる作品にしたかったが、意味を喚起させる創りになったとも語った。私はこれらの発言のように、日常との連続性を想起させる強度を手放しで感じることに躊躇いを覚える。それは、個々のシーンが詰まるところ動きの審美眼的な機能内で留まっているように私に思われたからだ。確かに、ダンサー個々の身体能力の高さは目を見張るものがある。コンタクトインプロヴィゼーションがワークショップに積極的に取り入れられていることからも、このスタイルが身体を通したコミュニケーションツールとして有効であることは、冒頭のシーンを見ても納得できる。だが、その動きのシークエンスが有機的に連関していかないことで、現前する動きの技巧に大きく視点を引きずられ、全体で効果を出すには至らないのである。

 冒頭のシーンに時事ネタを想起させようと、単線的な意味に身体を隷属させればそれ以上の何物も生まれはしまい。反対に、その他のシーンのように、荘厳なクラシックが流れる中でのドラマティックな動き、あるいは十分に取った静謐な間とのコントラストといったようにダンスへ傾注すれば先述したように審美眼的な技巧を云々するしかなくなる。断片が断片のままで燃焼しきれないのは、作品全体を貫くのが意味世界かダンスかの視点が定まっていないからではないか。ダンスの生成するプリミティブな瞬間を始めに恣意的にでも見出したように、純化されて凝集された、そのものでしかない素朴さの中に、思わぬ豊穣さを伴って見るものを刺し貫く要諦がある。設定された舞台空間の閉鎖性を反転させるような力強い意志を湧出させるための、根源的な部分に降り立った地点からの表現をこそ私は見たい。

 では、この舞台に私が求めるいかなるものがないかと言うとそうではない。その場面を記しておこう。スポットライトが当たる中、下着一枚の姿になった合田が、直立してぴたりと静止している。やがて、ゆっくりと身体がさながらショーアップされた人形のように左回転してゆく。筋肉の微妙な動きを維持しコントロールする集中力はやはり感心させられる。その合田の頭上から突然、大量の小さな粒が降りかかり、倒れてしまう。その空間に巻き散らされた粒はダンサー・荻野ちよがモップで片付ける。合田がその間にも激しく動いて粒を拡散させている中、客席に何かのはじける音と匂いが伝わってくる。それはポップコーン!なのであった。モップで集められた粒は舞台上手前に置かれたホットプレートへと乗せられ、時限爆弾よろしくカウントされていたのだ。後ろの方へ座っていた私はしばらく気付かず、それが飛び上がる様を認めてようやく得心した。私はこの一連のシーンがこの舞台で一等大きな意味を持っていると考える。日常、不意に襲い掛かる外部の圧力とはその対象者のあらゆる感覚中枢に揺さぶりをかける。それは、埋没させた自らの存在を改めて想起させる内向きのベクトルを覚醒させるばかりか、同心円状にその余燼を振り巻き周りをも取り込む外部への作用を孕むだろう。不意であるが故にそれは恐怖にもなる。秋葉原の事件や宮城県での地震のシーニュになり得るのはまさにこういったシーンなのである。物質同士の単純な配合は、簡素であればあるほど、峻厳で壮大な意味作用の生成による単一的な押し付けから開放される。

 そういった場面に出くわした時、観客は個々自らの問題意識を自由に照射するものだ。舞台空間が創り出した特性が云々されるのは、このシーンに見られる、被害と加害の複雑な両義性が観客をも侵犯することで初めて可能になるのだ。閉塞に荘厳さとダイナミズムを対置させるばかりでは外部への通低路は開かれず、図式的に映らざるを得ない。

 その後、いつの間に用意したのか、ポップコーンの入った容器を荻野が合田とすれ違った時にすっと手渡す。それが私にはもはや危険な檸檬爆弾のように見えていたため、何の躊躇もなく食べながら立ち去る合田の行動のあっけなさがどうにも解せなかったのである。
(6月15日 アトリエ劇研 マチネ)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第100号、2008年6月25日発行)

【著者紹介】
 藤原央登 (ふじわら・ひさと)
 1983年大阪府生まれ。近畿大学演劇・芸能専攻卒業。劇評ブログ『 現在形の批評 』主宰。Wonderland 執筆メンバー。国際演劇評論家協会会員。
・Wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/

【上演記録】
第6回アトリエ劇研演劇祭参加作品
Monochrome Circus 『The Passing01-03 WASH』
アトリエ劇研(2008年6月13~15日)
【演出・振付】坂本公成
【振付・ダンス】
Monochrome Circus 森裕子+荻野ちよ+合田有紀+野村香子

【スタッフ】
舞台美術:井上信太
舞台監督:渡川知彦
照明:川島玲子(GEKKEN Staff Room)
音響制作:take-bow
音響オペレーション:Shinommy
衣装:石野良子
宣伝美術:sheep design works
写真撮影:清水俊洋
映像撮影:松村陽・加藤駿介
制作:小鹿由加里(Underline)・Monochrome Circus
協力:茶水・大藪もも・木村麻耶・福井幸代・小寺昌樹・琴塚恭子・出川晋・野上裕里恵・前田さん・高木すずな・アトリエ劇研ボランティアスタッフ

【主宰】NPO劇研
【共催】Monochrome Circus
【助成】平成20年度文化庁芸術拠点形成事業・京都芸術センター制作支援事業


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