東京デスロック「演劇LOVE 2009~愛のハネムーン~」(LOVE 2009 Kobe ver.)

◎自足的世界から現在に投企する 前後半を結ぶ「LOVE」  藤原央登  舞台作品を創るために、その担い手達の関係性がいかに濃密で、意思疎通の取れたものであるかどうかは非常に重要である。その成果は、制作面での効率の良さや、 … “東京デスロック「演劇LOVE 2009~愛のハネムーン~」(LOVE 2009 Kobe ver.)” の続きを読む

◎自足的世界から現在に投企する 前後半を結ぶ「LOVE」
 藤原央登

 舞台作品を創るために、その担い手達の関係性がいかに濃密で、意思疎通の取れたものであるかどうかは非常に重要である。その成果は、制作面での効率の良さや、舞台での均整のとれたアンサンブルとして表れる。だが濃密な関係は、外部性が欠如し自足した小宇宙を形成する悪しき方向へ進むことがままある。そして、それを優しく承認する受け手が馴れ合いという意味での他者不在の単一自己を完成させてしまう。プロかアマか。演劇に限らず芸術に胎胚し、分かちがたく関連するこの背反要素からは逃れることができない。だからこそ創り手には、自己満足的に完結しがちな劇集団という制作工房を常に今現在と切り結ばんと進んで投企する意思が必要となる。加えて受け手側、少なくとも劇評をものする者は創り手の意思を丹念に掬い上げ、時に方向を修正し自覚させるくらいの気概がなければならない。

 昨年の7月、初の地方公演(『3人いる!』)に神戸を選んだ東京デスロック。その後、劇団は東京を離れ埼玉のキラリ☆ふじみのレジデンスカンパニーとなった。昨年の神戸公演が現在の形態へ少なからず影響したと言って良いかもしれない。今年は、『演劇 LOVE 2009~愛のハネムーン~』と題して韓国・埼玉・神奈川・青森を経て、最終地を昨年同様7月の神戸で締めくくった。

 2007年公演の『LOVE』を公演地に合わせその都度改変したというから、再演を現在形で発展させ続ける熱の入れようを感じさせる。この作品は、言語の有無によって前半部と後半部とに分かれる。舞台背面いっぱいを覆うスクリーンに常に投影された、タイトルにもある「LOVE」の4文字が、そのことを強く印象付ける。字義通り終始「LOVE=愛」が充溢し、作品の方向性を規定する。つまり、「LOVE」という共通テーゼから伸びて並列された、始原的コミュニケーションであるボディランゲージ(前半部)と言語を介する近代的文明コミュニケーション(後半部)は、あらゆる人間への平等で全幅な愛と、イロニー的にならざるを得ない文明人の愛という違いに対応しており、さらにこのような人と社会の関係を描き出す制作工房=劇団(を構成する人間)の2つの在り様にも重なってくる。冒頭で私が記した外部性の欠如を指針としたプロ・アマという要素はここに関連するのだが、そのことについて述べる前にまずは作品内部へと迫ってみたい。

 作品の前半部は身体運動のみの、単純だけれど濃密なコミュニケーションが展開される。作品が動き出すまで、つまり何が行われているかを理解するまでがとにかく長い。カラフルに照らされたスクリーン、流れるYMO『RYDEEN』。気分が盛り上がり、そろそろ何かが始まるだろうかとの思いはしかし、曲が終わっても何も起きないことであえなくハズされる。その後、ようやく女性が一人現れるが、これまた客席に正対したまま長い沈黙。この無音空間はいささか私を居心地悪くさせる。一人また一人と時間をかけて3人になるまで耐えた時点で、なんとなく劇を掴みかけてくる。3人寄れば人間関係がほぼ展開されると言うが、何かのゲームなのか、立ったり座ったりを3人が互いの顔色を見ながら組み合わせを変えて行う。その様子をつぶさに見守ることで、彼らの関係性と内的会話が確かに読み取れてくるのだ。そのようにして以後も一人ずつ人が加わってゆく。

 始めは新参者を訝しく牽制するが、その中の一人が受け入れに動くことをきっかけに、全員に伝播し、仲間になってゆく。それを逐次繰り返してゆくことで、人の輪は次第に大きくなる。それは、題して「仲良くなる」とでも呼びたくなるような人と人とのコミュニケーションが成り立ってゆく過程の丁寧な描写である。冒頭に抱く居心地の悪さは、彼ら自身のコミュニケーション同様、舞台と観客とのコンセンサスが醸成されてゆくに従って消え、空間全体が一つの親和的共同体に発展してゆく。身振りや目線、表情で何を思い、何を伝えようとしているか、共同体の関係の動きが理解できるようになるのだ。彼らの関係の構築を参画的に見守ってきたため、ちょっとした機微にも素直に同調し、時に笑ってしまう。

 相手の微妙な変化に敏感に反応し、素直に受け反応する。相手もまたそれに応じて返す。これを全員で様々に組み合わせて反応し合う。コミュニケーションの原初的な単純さや基本がここにはある。彼らのその様を見ることは、共にコミュニケーションを成り立たせる場への参加に極めて等しい。そのため、全体が一つになった時、分かり合えたと思い、爽快で充実した気分にすらなる。だからやがて、音楽に乗って全員で狂喜の如くダンスする様に私も自然に興じる。数度繰り返されるダンスで、彼らは次第にリアルに疲弊してゆくが、反比例するようにどんどん躁状態になり、そのピークを迎えようとする彼らにとっては、さらなる強固な連帯感を築く材料でしかない。彼らと私達はまさに一つ。スクリーンの「LOVE」そのままに、空間は愛で満ち溢れている。

 膨らみきった風船のようにパンパンになったナチュラルハイはしかし、ほんの些細な事で破裂する。ダンスが終わり、各々ハイタッチをする彼らは変なノリになっている。よくあることだ。そのふざけたノリのタッチがちょっと強かったのかそれともズレたのか、はたまた手と違う部位にされたのが気に食わなかったのか、いずれにせよ、それのやり返しという子供じみて動物的な反応をみせる。おふざけはやがて彼らを本気にさせ、乱闘場面へ昇華してしまう。先ほどの友愛とは真逆のベクトルへと一気に突き進むのだ。しかし、この諍いをも含め良くも悪くも互いに素直な反応が可能となるのは、自分はもとより、隣人をも自分のこととして愛するが故である。ということは、そういった者達の住む世界そのものが愛に満ちていることを意味する。つまり、自他の境界が融解した一人称的な単一世界が前半部なのだ。スクリーンの「LOVE」の文字は、そのものズバリの意を終始意味している。根底に共同体を信頼する熱度に支えられた彼らの行動はしたがって裏表がない。でなければ、意思疎通のとれたあのダンスへ至ることはない。

 以上述べた前半部の無垢な愛は、後半部から逆照射されたものだ。裏を返せば、後半部があるからこそ、この作品が生きたとすら言って良い。もっとも、見ごたえで言えば確かに前半部に軍配が上がる。始原的コミュニケーションの体現はまた、演劇の基本であることを再認識させるからだ。それをここまで見事に表現する点は目を瞠るものがある。しかし、それだけでは正直言って物足りない。言語が発せられる後半部では、「LOVE」の意味が素直なものではなく非常に文明社会らしい関係性、すなわち上っ面で他人行儀といった抵抗を介したイロニーを伴ったものへ変質する。このことが重要だ。それは例えば、客席に背を向けた夏目慎也を取り囲んだ他の人物が「すきな○○は何ですか?」と次々に質問し「ああいいですよねぇ」と同意するシーンに顕著だ。夏目は何も答えない。次から次へ質問を受けるだけだ。矢継ぎ早の質問の意図は、仲良くしようとするものでもあろうし、会話の糸口を探ろうとするとりあえずの挨拶なのかもしれない。いずれにせよ、手ごたえがなく温度の低い、如何様にも取れる空虚な言葉群だ。虚の言葉は誰が受け取ってもいい性質を持つが故、我々に問いかけられたもののようにも聞こえる。そして、同じような言葉を繰り返し聞く内に、声は機械的なもののように聞こえ、時に怒っているのではないかと思い、居心地が悪くなる。この居心地の悪さは、劇冒頭のものとは明らかに質が違う。

 ここでの居心地の悪さとは、人と人の間の決して埋まることのない距離を意識させる。間にあるもの、それが言語だ。言葉の意味を見出すか否かは受け手に丸投げされ、当事者同士は深く介入せずに曖昧な領域を作る。意志伝達を迅速に且つ正確に遂行するための共通ルールとしての言語がかえって距離を取らせるというわけだ。意思疎通の迅速さと正確さは、文明発達のための必須条件であり、それが今日までの近代社会を齎した一端を担っていることは間違いないが、そのようにして手にした成熟社会の代わりに失ったものもここにある。挨拶や機嫌を伺う言葉でほぼ占められる後半部はだから、他人行儀に構えて間合いを計る「私たち」が描かれている。また、文字としての言語はボディーランゲージのように、人と人が正対しじっくり相手を受け止め、徐々に距離を詰めてゆく作業がない。そのため、人から遊離した言語記号が、その裏の文脈や感情を抜きに一人歩きすることも起こる。後半部の「LOVE」には純粋な意はなく、愛を装った欺瞞的な世界と人を示すイロニーにならざるを得ないのだ。とは言え、我々は原始時代へ戻ることなどできやしない以上、ギスギスとした世界で生きるしかないのであれば、それを意識的に受け入れるしかない。欺瞞であることを知りながら、それでも「LOVE」と肯定しようとする姿勢に、私は多田淳之介の、現代社会と正対しようとする意志が顕著に表れていると考える。

 この作品は、前半部と後半部が「LOVE」という因子で接続、並置されることによって、互いの世界と人間が合わせ鏡が如くよく映し出されるという劇構造を成している。この「LOVE」の構造を、多田が「演劇LOVE」と正面きって主張するように演劇の問題に置き換えてみれば、劇団のプロ・アマのそれになぞらえることができる。すなわち、「LOVE」が無自覚に信じられる前半部は、擬似他者の観客を含めた共同体内という身内で自足するだけのアマチュア意識。対して、捻じ曲がって複雑な回路を示す「LOVE」を見据え、批評的に捉える後半部をプロフェッショナルに。多田は、公演後の作品解説で、前半部と後半部は一連なりだという旨の発言をした。すなわち、二足歩行を始めた人類が、道具を使用するまでの進化過程だとのことである。その見方に則れば、演劇の基本をよく体現し、それで完結するアマチュア精神の先にプロフェッショナルに辿り着くという、なるほど劇団の成長という連続性が認められる。しかし、それは優しい見方だ。私は前半部と後半部を各々別世界に住む現代人の様相と受け取った。そして双方を比べた時、現代社会を示すイロニーを含んだ後半部が前半部を批評するものとして映ったことが興味深かった。演劇としてどれだけ良くできてても、前半部だけでは物足りなかったろうと私が考えるのは、外部への扉を閉ざし空中楼閣を保守することは、アマチュア精神でしかないからだ。

 しかし、そのようにして両者に優劣を付けるだけではあまりに図式的になるとの思いも湧いてくる。かと言って、多田のように連続したものと捉えて一方向への動きだけを規定するのでは、内省なくやみくもに発展を突き進める内、今後さらに我々はそのことで取り返しの付かないものを捨てることになるかもしれない。問題はどちらが上下というものではなく、不即不離に絶えず双方を往還して自身を相対化することが重要なのだろう。そこに、文明発展の脅迫観念に追いたてられながら、その中で埋没することなく現代を肯定しながら生きる一助があるのかもしれない。それを演劇で思考しようとする劇団にとっても同様である。いずれにせよ、多田が言う「演劇LOVE」が単なる青臭い居直りや全面肯定ではなく、少なくともそのことへ触れようとする意識があることを、感触の違うブロックを並列したことから感得することができた。
(7月4日 神戸アートビレッジセンター KAVCホール マチネ)
(初出:マガジン・ワンダーランド第150号[まぐまぐ! melma!]、2009年7月29日発行。初出のタイトル変更。購読は登録ページから)

【著者略歴】
 藤原央登 (ふじわら・ひさと) 1983年大阪府生まれ。近畿大学文芸学部卒業。劇評ブログ『 現在形の批評 』主宰。他にAICT関西支部発行『act』・『Corpus―身体表現批評』等に劇評執筆。国際演劇評論家協会(AICT)会員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/

【上演記録】
東京デスロック 『演劇LOVE 2009~愛のハネムーン~』「LOVE2009 Kobe ver.」
神戸アートビレッジセンター KAVCホール(2009年7月3日~5日)
【LOVE director】
多田淳之介
【LOVE actor】
夏目慎也 佐山和泉 坂本絢 佐藤誠 髙橋智子 堀井秀子 山本雅幸 井坂浩
【スタッフ】
LOVE 照明:岩城保
LOVE 制作:服部悦子
LOVE 宣伝美術:宇野モンド
LOVE 助成:財団法人セゾン文化財団
LOVE 協力:青年団  (有)レトル krei inc 森下スタジオ シバイエンジン

主催:東京デスロック
共催:神戸アートビレッジセンター(指定管理者:大阪ガスビジネスクリエイト株式会社)

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