TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作)

◎置いてきぼりにされたメロドラマ・ジャンキー 観客の場所はどこ?
都留由子

TAGTASプロジェクト公演チラシTAGTASプロジェクトの「百年の<大逆>」前編と後編を観た。TAGTASとはトランス・アヴァンギャルド・シアター・アソシエーションの略で、今回筆者が観た「百年の<大逆>」は、円卓会議、リーディング、映画の上映などとともに、その設立公演のひとつ。一週間の間隔を置いて前編と後編が上演された。

正直に言おう。前編を見終わって客席に座ったまま、呆然としてしまった。いわゆる「普通のお芝居」になじんできた筆者も「アングラ」と呼ばれる作品はいくつか見たことがある。しかし、この「百年の<大逆>」はその印象とも違う。「アヴァンギャルド」だからか?いや、早まってはいけない、後編を観よう。
そして、後編を観た。よし、とにかく書いてみよう。

まず前編。舞台の上で行われたことは、たぶんパフォーマンスと呼ばれるものだ。その方面には疎いのだが、たぶんそうだ。

ほとんど何もない舞台。下手にダンスのレッスンバー、上手に明治時代の法廷の証言台みたいなのと、スクリーン。おもむろに証言台に人が現われ、盛んに本をめくりながら、証言台を持ち上げて一歩ずつ客席に向かって歩みつつ、何ごとかしゃべり始める。お昼のワイドショー番組の証言映像のようにイコライザーがかかっていて、何を言っているのかよく分からない。補うかのように、ホリゾントには一文字ずつ文字が投影される。言葉がほとんど聞き取れないので、現われる文字を一所懸命たどる。が、途中でいやになって、聞き取る努力も読み取る努力も放棄。

一方、舞台の上では、何やらダンスが行われている。上手のスクリーンには神祇官、太政官などと筆文字で書かれたものが映し出される。
これはダンスではなく、舞踏ってやつか、などと思ううちに、新たに、とても薄着の女性がふたり出てきて、さらに踊り始める。わたしの前の客席で盛大に舟を漕いでいた男性三人が、ばらばらの席だったにもかかわらず、ほとんど同時に目覚めて、三人とも同じように身を乗り出して舞台を観始めた。薄着の女性の身体というのは、強力に人を覚醒させるものらしい。上手のスクリーンでは、ヨーロッパ系のように見える男性が、神経の病気と思われる痙攣の発作を起こしている。フィルムは古びていて、たぶん戦前の医療用記録フィルムみたいなものだろう。

流しのおじさんみたいな人が現われ、あちこち行ってますが、ここのお客さんが最高です、みたいなことを言う。続いて、死刑囚だという犬の首輪のようなものをつけた若い男性が、水戸刑務所の所内放送(があるのかどうか知らないが)のDJを始める。そして最後に「陛下!」などと言う。

やがて、白シャツ黒ズボンの男性と、白いブラウスに黒スカートのポニーテールの女性が、日本国憲法と大日本帝国憲法の条文を交互に唱え始める。聞き取れない証言やダンスや「陛下!」との間に何か関係があるのだろうか?この憲法の条文は極めてはっきり発語されるので、何を言っているかはよくわかる。「何を言っているかわかる」ことが、ただそれだけですばらしいことのように感じられる。とは言え、何を意味しているのかは判然としない。

舞台奥から帽子と浴衣の女性がゆっくり登場し、低い声で何か言う。大逆事件について永井荷風の書いた文章のようだ。やがて、先ほどの流しのおじさんと、ダンスパフォーマンスのときに下手でマネキン人形のように立っていた男性と三人で、爆裂弾を投げつける相談を始めた。この人は菅野スガらしい。

新たに、着物を着て、ピンクの細い角棒をたくさん持った男性が現われ、儀式めいて棒を投げたり、拾ったり、並べたり、立てたりし、ダンスを始める。曽根崎心中の天満屋の段、お初が徳兵衛と九平次のもめごとに気をもむ場面の浄瑠璃が使われている。曽根崎心中と大逆事件?

疑問符でいっぱいになっているところに、リュックを背負った男性登場。「わたしの名前は山田零」と語り始める。再び、何を言っているかわかるということだけで、ほっとする。が、どうも意味は取れない。日本史の重要なことはすべて「ヤ族」がかかわってきた、という主張のようだ。そして、この人は着ているものを脱いで、黒いパンツ一枚になってしまうのだ。だけど、せっかく脱いでくれたのだが、それは、さっき薄着の女性が居眠りしていた男性に対して持っていたような覚醒作用は持っていなかった、少なくとも筆者に対しては。とても残念なことだ。

置いてきぼり感に満ちた公演<前編>が終わった。

さて後編。後編ではパフォーマンスのほかに「ディスカッション」が入ることが最初に告げられる。曰く、前編では問題提起はできたが、「閉じてしまって、公演としては失敗だった。後編ではその反省としてディスカッション+パフォーマンスという形で行いたい。ひとつひとつの演目の間にディスカッションをはさむ形で」。

おお、前編は問題提起だったのか。何を?誰に?それにしても、公演としては失敗だったなんて言っちゃっていいのか?前編しか観ないお客はどうなるんだ?

ひとつひとつの演目の間にディスカッションをはさむ、ということは、それぞれ独立した演目を順番に並べて上演していたということか。それならそう言っておいてよ、全体としての意味を取ろうとして苦労しちゃったじゃないか。前編では、全くクレジットがなかったが、今回は遠藤さん、清水さん、佐々木さん、笛田さん、脇川さん、山田さんの順番です、とアナウンスがあった。

びっくりしたのは、パフォーマンスの内容が前編とほとんど同じだったことだ。違っている部分はあった。前編のパフォーマンスを撮ったビデオをスクリーンに映すとか、客席から舞台へ上がった女性が菅野スガの供述調書を語るとか、男女がひたすらハンバーガーを食べ続けるとか。しかし全体の印象に大きな違いはなく、前編と後編の関係はよくわからない。もしかして、前編が「失敗だった」ので同じことを手直ししてやり直した?

ひとつのパフォーマンス後にディスカッション。ディスカッションとは討議とか議論の意味だと思っていたが、この場合は説明ということらしい。舞台上に並んだTAGTASのメンバーが、表現したかったことは○○で、とか、○○さんのこのシーンですけど、などと発言。え?言葉で説明するんだ! それに、そう言われても、どれが誰のパフォーマンスなのか、そのシーンがどこのことなのかよくわからない。当然、ディスカッションに参加するのは、もっぱらTAGTASのメンバーで、そのためディスカッションは、まるで仲間内の話し合いを公開しているかのようで、ここでも置いてきぼり感が充満する。前編は閉じてしまって失敗だったと言うけれど、このディスカッションを開いていると言うのだろうか?

それでもようやく、客席からも、台詞が全く聞き取れない、ナルシズムとしか思えない、などの声が上がる。それぞれについて説明はあるものの、説明に留まり、議論がかみあい、積み重なって理解が深まっていく手応えは感じられない。

順次、パフォーマンスが行われ、ディスカッションでは、ドゥルーズの「意味=身体」、ホッブスのリバイアサン、パゾリーニやデリダなどの名前が何の説明もなく当然のことのように出て来る。マルクスやゲバラの名前も出てきたような気がするが、小難しい言葉の連打にすっかり集中力を欠いてしまった筆者は記憶が定かではないことを告白しなければならない。土方巽が断食をして公演に臨んだことも誰もが知っている常識だったようだ。
そしてディスカッションに時間を取られ、「バラシをしなくてはならなくて時間がないので端折って」公演は終わった。

後編の収穫はあった。まず、ここでは「出演者の名前や経歴やそのパフォーマンスについて知っている」ことが前提になっていて、何の予備知識もなく客席に座って見る者には、この公演の観客は務まらないとわかったことだ。

そう言えば、TAGTASの第一宣言に書いてあった。「物見遊山や、浅薄な好奇心を抱いて来た者や、利益を漁りに来た者は、意気阻喪するだろう」。予言は的中した。さすがである。でも、それならぜひ最初にそう言っておいて頂きたかった。この公演はお客を選びます、いくらチケット代を払ってくれても、誰でも観ていい作品ではありません、と最初に言っておかないのはアンフェアだ。

もうひとつ、わかったことがある。この公演のお客は、出演者についてだけでなく、デリダやドゥルーズやホッブスやパゾリーニや、さらに、マルクス、ゲバラ、土方巽などについて、ちゃんと知識がなければならないのだ。

さらに、後編のディスカッションを聞いて本当にショックだったのは、前編を観た筆者は、パフォーマンスが提起していたことを、なにひとつ感じ取ってはいなかったということだった。ダンスを見ても、そこから訓読システムについて考えることはなかった。神祇官とか太政官とか書いたものを見ても、国体にいかに抵抗するかについては全く考えが及ばなかった。

筆者が無教養なのは認めよう。デリダもドゥルーズもホッブスも読んだことはない。土方巽が公演の前に断食することも知らなかった。利益を漁りに来たつもりはないが、お前は物見遊山で浅薄な好奇心を抱いて来たのだろうと言われれば、そうかもしれない。TAGTASの水準からすれば、まさに筆者はTAGTAS第一宣言の中に出てきた「メロドラマ・ジャンキー」だ。ついでに言えば、トランス・アヴァンギャルド・シアター・アソシエーションと言われても、何のことだかわからない。

それでも、この公演に関心を持ち、お金を出してチケットを買ったのだ。長い長いTAGTAS第一宣言もちゃんとプリントアウトして目を通し(理解したとは言わない)、ちょこっとだけれど大逆事件についても調べて、どんな作品なんだろうとドキドキしながら、期待して劇場に来たのだ。若いアイドルの出る作品ではなく、TAGTASという聞きなれない団体の、大逆事件をモチーフにした作品を選んで、しかも前・後編の二回にわたって観に来たのだ。自分の意志でそうしたのだから恩に着せるつもりはないが、他の観客はみんな面白く観て、満足して帰宅したのだろうか?

その後、TAGTASの参加者、清水、脇川、佐々木、山田、笛田の五氏のお話を聞く機会を得た。お話はとても興味深いものだった。「百年の<大逆>」の上演までにどれほどディスカッションが繰り返されたか、その意味で五氏がいかに真摯だったかがよく分かるお話だった。国家による未曾有の大冤罪事件(しかも、十二人もが死刑になった)なのに、まるでなかったことにされている大逆事件に対する問題意識には、目を開かれる思いだった。芸術家ならではの鋭敏な危機意識というのはまさにこういうものを言うのだろう。そのことを実際の上演から感じ取り難かったのが返す返すも口惜しいが、もちろんそれは筆者の凡庸な感受性が責められるべきであろう。

そして同時に、観た人の「もうすこし『面白い』ということを意識してもいいのではないか?」という意見に対する佐々木氏の「あなたの『面白い』という基準になぜわたしが合わせなくてはならないのか」という発言から、TAGTASでは「お客が面白いと思う」ことに全く重きがおかれていないこともよくわかった。

そうか、あの置いてきぼり感は、ここから来たのだ。お客がどう思うかがたいした問題ではないのなら、劇場に観客の場所はない。パフォーマー同士が真摯に討議して創り上げたものを舞台に乗せることで目的は達成されるのだから。筆者の好みではないが、そういう作品もあっていいし、きっと「百年の<大逆>」はそういう作品だったのだろう。時代の前衛が時間をかけ、心血を注いで創り上げたものを、メロドラマ・ジャンキーが直ちに理解できるはずもなく、お客がどう思うかなど、問題ではないに違いない。誇り高きアヴァンギャルドが、メロドラマ・ジャンキーが面白いと思う基準になぜ合わせなくてはならないのかと問うのは当然である。

しかし、それなら、観客は何のために客席にいたのだろう? それなら、デリダやドゥルーズやパゾリーニをよく理解し、TAGTAS第一宣言に共鳴し、TAGTAS諸氏についてもよく知っている人だけを集めて上演すればよかったではないか? 一般向けにチケットを販売して舞台作品として上演した理由は何なんだろう?

TAGTAS第一宣言にいう「メロドラマ・ジャンキー」である筆者は、舞台作品には「何か」、それははっきり言葉で説明できないものかもしれないが、伝えるもの、伝えたいものがあるのだと思っていた。もちろん、創り手側と受け手側に(TAGTAS諸氏と筆者のように)教養においても問題意識においても、大きなギャップがある場合、伝わりにくいということはあるだろう。お客には分かりにくい難解な作品だって世の中にはいっぱいある。それにしても、「あなたの『面白い』という基準になぜわたしが合わせなくてはならないのか」とお客に向かって言うのである。清水氏も「上演までにどれだけのディスカッションがあったかが問題で、出来上がりは問題ではない」と発言していた。なるほどそのとおりかもしれない。だからディスカッションに時間を取られたら、作品を「時間がないから端折」ることにも不都合はないわけだ。

五氏のお話を伺ったところからすると、伝えた(かったのかどうかはよくわからないが)い内容はすばらしいことだったようだ。しかし、やはり同じ問いを繰り返したい。観客の必要はどこにあるのだろうか? 上演という形を取っているのに、お客がいる意味がないというのはどういうことだろう? 観客は「何か」を伝える相手ではないのだろうか? 観客に伝えるのでなければ、誰に伝えるのだろう? それならそもそも上演形式にする必要があったのだろうか?

創る側が「あなたの『面白い』という基準になぜわたしが合わせなくてはならないのか」とお客に向かって言い放つのなら、お客の側も、「あなたの『面白い』という基準になぜわたしがお金を払わなくてはならないのか」と言っても特に差し支えはないだろう。木戸銭を取らずに上演し、帰りに、いいと思うだけの金額を支払うという、「つまらなかったらお代はいらない、お代は見てのお帰りだよシステム」を、今後、採用されることを勧めたい。

なお、念のためにつけ加えるが、お客はみんな「わたしの『面白い』という基準に合わせてほしい」と思っていると考えているのなら、それはちょっと違うのではないかと思う。少なくとも筆者は「わたしの『面白い』という基準に合わせてほしい」と考えてはいない。自分の『面白い』という基準に合わなくても、上演中身じろぎもできないような作品、さっぱり理解できないのにすごいということだけはひしひしと分かる作品、あまりに圧倒的で決して忘れられない作品、まばたきするのも惜しい気のする作品など、観てよかったと思う作品はあるし、何より、今までの自分の「『面白い』という基準」を揺さぶり広げてくれる作品、その作品を面白いと思うこと自体に自分でびっくりするような作品にぜひ出会いたいと思うからである。(2009年7月4日、7月11日観劇)
(初出:マガジン・ワンダーランド第152号[まぐまぐ! melma!]、2009年8月12日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
都留由子(つる・ゆうこ)
大阪生まれ。大阪大学卒業。4歳の頃の宝塚歌劇を皮切りにお芝居に親しむ。出産後、なかなか観に行けなくなり、子どもを口実に子ども向けの舞台作品を観て欲求不満を解消、今日に至る。お芝居を観る視点を獲得したくて劇評セミナーに参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tsuru-yuko/

【上演記録】
トランス・アバンギャルド・シアター・アソシエーション(TAGTAS)結成プロジェクト
座・高円寺(2009年07月03日-12日)
全プロジェクト構成・演出 | TAGTAS
※円卓会議総合司会:鴻英良 通貫報告:TAGTAS

◎=上演『百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-』前篇(7/03-04)
◇=ドラマ・リーディング『魔女傳説』(7/04)
(作:福田善之 構成・演出:福田善之+TAGTAS 出演:渡辺美佐子+TAGTAS)
☆=上演『百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-』後篇(7/10-11)
○=ドラマ・ワークショップ『明治の柩』 作:宮本研(7/08)
●=ドラマ・ワークショップ『冬の時代』 作:木下順二(7/09)

A=円卓会議「<大逆>と日本近代演劇の起源」(報告者:TAGTAS)(7/04)
B=ドキュメンタリー映画『ルワンダ』上映とレクチャー「虐殺と演劇をめぐって」(講師:鴻英良)(7/05)
C=円卓会議「『魔女傳説』とその時代」(7/07)
(報告者:菅孝行、佐伯隆幸、佐藤信、福田善之)
D=円卓会議「革命の身振りと言語Ⅰ:演劇の自由と倫理」(7/11)
(報告者:井上摂、遠藤不比人、鈴木英明)
E=円卓会議「革命の身振りと言語Ⅱ:ビオス・ポリティコスの実践と方法(報告者:内野儀)(7/12)
F=レクチャー「前衛の系譜」大貫隆史+河野真太郎、マニフェスト・アクション「TAGTAS第二宣言」(7/12)

<会場>
◎◇☆…座・高円寺1
○●…カフェアンリ・ファーブル
ABCDEF…座・高円寺稽古場

スタッフ:
TAGTASプロジェクト2009参画者
青田玲子、石井康二、伊藤大輔、遠藤寿彦、大貫隆史、落合敏行、柿崎桃子、熊本賢治郎、久保田寛子、河野真太郎、佐々木治己、清水信臣、竹重伸一、寺内亜矢子、豊島重之、羽島嘉郎、羊屋白玉、日野昼子、笛田宇一郎、山田零、脇川海里ほか(50音順)

照明 河合直樹(有)アンビル
音響 曽我傑
舞台監督 佐藤一茂、高橋和之
宣伝美術 Studio Terry“OVERGROUND”
映像 藤野禎祟
記録 村岡秀弥
写真 宮内勝

主催:TAGTAS
後援:杉並区
提携:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク

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