◎テント通いはとまらない
岡野宏文
こういう歌がございます。
犬を選ばば 書を読みて 六分の狭義 四分の熱
猫は美の生き物だから存在が本質なんであります。犬は情の生物ゆえに本くらい読まないとダメなのですね。
片方で犬のやつは、人類の最古にして最良の友と呼ばれたりしますが、奇妙なことにもう片方では犬なる文字のついた言葉にろくな手合いがないのであります。犬死に、犬ざむらい、犬畜生(なんと理を知らぬケダモノの代表選手)、負け犬などなど、犬儒派なんてのもあったっけ。
理由は簡単で、犬が人にとって最も身近な獣であったからであり、同時に、狼を都合よく飼い慣らしてこしらえた最初の「創造上の生き物」であるからでしょう。つまりおのれの餌もおのれで獲れぬというありさまが、本来の独り立ちした生き方からの堕落に見えるっつーわけです。でもそんなこといったら人間の子供など目も当てられぬ台無し生物の大親分に違いないのに、子供死に、子供ざむらい、子供畜生、はなにか別の意味を含んで危なそうなのでそれはちょっとこっちへ置いといて。
唐組の「盲導犬」を観たのです。三鷹ジブリの森入り口満月の夜のテントにて。
いわずとも盲導犬とは盲人の道案内をするよう特別な訓練を受けた犬のことであるのはみなさま先刻ご承知。我が家で飼いおる、人間さまの食卓によじ登っちゃキムチまでむさぼり食うヨダレだらけの駄犬とは比ぶべくもない、賢き名犬と誰しもが呑み込んでおられようものを、唐十郎は劇の冒頭、盲導犬とはどんな犬ですか? と尋ねる邪気なき天からの声に、盲人の第二の目となって主人の安全な歩行を助けるそいつは、みずからの意志は持たぬままひたすら主人に服従する胴輪をはめられた犬だと、五人の愛犬教師たちに唱和させるのでした。
間違いありません。これは、手なずける劇、牙を抜く劇、籠絡する劇、丸め込む劇ではありませんか。唐十郎の劇が分かりにくいと呟き、また同様に筋の入り組んだ野田秀樹の芝居の意味がつかめないとこぼす、いやこの頃はそんなこともないのかとは思いつつ、けれどしばしば彼らの作品の冒頭に物語の迷路をほどく鍵、アリアドネの糸の端っこがすまし返って顔を覗かせていることがあるんですねえ。
舞台を観ててください。そこへ手探りしながらひとりの盲人が現れ「ファキイル、ファキイル」といずこかへさまよい去った自分の犬を呼ぶのですが、ファキイルとはオオカミの血を引く幻のケモノ、怯むことなく街を進みゆく一匹の野生である、と五人の愛犬教師たちが再び語りますから。懐柔されぬ怪獣がこの幕開けからきな臭い世界のどこかにはいるんです。
ファキイル。不服従の獣ファキイルを盲導犬としたこの盲人の行く末ににわかに興味がそそり立たずにはおられません。すでに眼は舞台に釘付けです。
実は本作品、37年前に書かれた戯曲だとあらためて聞いて、暗闇でふいに背中をたたかれたような驚きにうたれたのでした。唐は流れを絶やさず現役の劇作家でありましたから、まさか気づかぬうちに数十年がたっていようとは迂闊千万。浦島効果とは唐十郎のことかもしれません。
データです。1973年、東京・アートシアター新宿文化で演劇集団「桜社」が上演。蜷川幸雄演出。石橋蓮司/蟹江敬三/桃井かおり/緑魔子らの出演。もの凄いメンバー。といっても、もの凄いと感じずに、ただ現在を走る若い俳優たちって具合に、時間のはかす下駄に惑わされることなく観ていた当時の観客たちの幸せのほうが贅沢。今この贅沢はどこへ行ったら味わえるのか。
ま、それはそれとして、気づいている人はとっくに気づいている暗号ではありますけれど、あまたの傑作戯曲を矢継ぎ早に生み出してきた唐十郎の、他劇団に書き下ろした作品は分けてもの大傑作となる不思議はどこに帰すればいいものとお考えですか。「少女仮面」(早稲田小劇場)、「唐版 滝の白糸」(花の社交界)、「ハメルンの鼠」(第七病棟 演出佐藤信)などなど、あっテレビドラマの「幻のセールスマン」(NHK)とか「安寿子の靴」(同)、なんてのもありましたっけ。たぶん演出を他者に渡す気づかいから、作品の構造とモチーフが明確になってるため、かえって唐の紅の脳細胞がタガをはずして彼方へと突っ走っても、ちゃんと構造という釈迦の指がすくい取るからだと僕は考えているのですがね。
そこでその構造についてデータその二、です。
「盲導犬」は、澁澤龍彦の「犬狼都市」と泉鏡花の「化銀杏」、この二つの小説を胎動としていると聞いています。
「犬狼都市」は、太陽神にもつらなる高貴な犬狼貴族の末裔であるアメリカ狼コヨーテのファキイルが、永遠に対立・抗争する魚族のスパイ魚類学者の娘にしてヒロインの麗子と混交するようにして交わり、犬狼族の子孫を孕ませるっちゅうものでして、どこかフランスの幻想小説家マンディアルグじみたエロティシスムを感じさせる短編なんでございます。
で、22、3才の人妻お貞が16才ばかりの少年芳之助と姉弟のごとく親しむのを、不倫と踏んだ夫は大病にかかり手厚い看護にも夫婦の気持ちはますますすれ違う。銀杏返しなら姉さんだが、今の丸髷だからどうしても奥さんだと芳之助にいわれ気の乱れるお貞には、決して悪い人でないむしろ愛情をたっぷり注いでくれる亭主がしかし相性というのかいっかな好きになれない。どころかなにが苦しいといって、尽くしましょうと手当てするはしから「死ねばいい、死んでくれればいい」という気持ちが、鬼か蛇か、なんともいいようのない恐いものとなって眼のまわりをぐるぐる回り、それがいつばれやしないかと怯える毎日。さて結末は……というのが「化銀杏」。
澁澤の「犬狼都市」から漆黒の盲導犬、否、獰猛犬を借りだしてきた唐は、ミニスカポリスなんかちゃっかりと登場させて国家権力とそれに腑抜けにされる国民の図式を描き出すふりをして、それはもちろん当時反権力のラジカルな芝居に明け暮れていた「桜社」の諸君へのリップサービス。狙いはもっと広い。日々の暮らしの中で営みの盲人となっているすべての庶民、国境の堰すら越えてアジア全土の働く人々に、目は見えなくともあの荒々しい逆巻く混沌をあたら水に流すな、とたぶん話しかけているのです。その向こう側は今の甘やかな時間に比べひどく過酷な肌触りの世界だ、しかしその道を夢見ろ、見続けることを忘れるな、と。
鏡花の「化銀杏」を本歌取りしたエピソードを、ファキイルのストーリーを横切るように交わらせることで、その祈りは強化されています。いえ、洒落ではありません。
ファキイルを求める盲人・影玻璃夫に続いて現れる人妻・銀杏の日課といえば、舞台背後に据えられた新宿駅のコインロッカーに、毎日百円を投入することでした(当時コインロッカーの追加料金は百円だったのです)。そこには彼女が結婚する前に憧れていた人からもらった手紙の束が眠っているのです。バンコクへ赴任した夫が出立の前に、お前の操をしまうんだと330(ミサオ)番のロッカーに手紙を入れ、毎日百円の勤めを課して鍵は持ち去ったのでありました。
旦那ときたらおのれとめぐりあう前の銀杏の恋までも管理してやろうと企んだわけですね。そしてその百円の細引きは、まんまと銀杏の全身をくくりあげているようです。なぜならやがて彼女は犬に用いる胴輪を調教師たちからはめられてしまうからです。
あの「化銀杏」のお貞が芳之助と結んだちぎりがいってみればこの世ならぬ恋であったように、銀杏の胸に温まれていたものもまた彼方の恋であったと思うのですが、中盤に彼女はふとしたはずみでゆくりなくも思い出の人・タダハルと邂逅しただならぬ関係へと誘い込むのでありました。ウーン、このあたりけっこう複雑。
ラスト間際、大きく開いたコインロッカーのむこうに広がったおどろな海からファキイルが黒い影となって躍り出るや、銀杏の喉笛をかみ切って疾風のように飛び去るのですが、血を流しながらも銀杏は「ファキイル」と叫ぶのでありました。
喉笛を喰らわれてはたして叫べるかという問題は残るのものの、角田泰明なる作家の「黒豹スペース・コンバット」においてヒーロー黒木豹介がアマゾンの密林で巨大なアナコンダと格闘のすえ首を切り落とすや切られた首が遙かに飛んで「ギャーオウ」と喚いたっつー件を読んじゃってる私はこのくらいのことで動じる文学ウブではない。蛇が声を出すっちゅうのがすごい。黒木豹介はこのほかにも宇宙空間でベレッタ拳銃を撃ちはなしてミサイルを撃墜するなどという神の御業もやってのけるので「黒豹スペース・コンバット」は必読。
閑話休題。
唐十郎の戯曲が60年代から現在まで、たわむことなく書き続けられ、しかも私たちを魅了してやまないのは、その作品の中に永遠のストラッグル、とこしえの格闘が息づいているからでしょう。いやもちろん、アチャラカを思わせる賑やかなナンセンスな喜劇色の配合や、人の心をときめきの渦に溺れさせずにいないテント劇場の野蛮さや、またそのテントの背後が惜しみなく跳ね上げられて現実の風景を借景してしまう終幕のスペクタクルなおもてなし、荒くれたと同時にしなやかな本水の姿態、そうしたものが観客に否応なく中毒めいた渇望を与えてしまうのは前提としてです。彼の主人公は往々にしてヒロインから誘惑を受けます。あの世の恋、幻の命、夢の果て、こことは違う裏返った場所、水の幕を一気に破ってこちらへやってこいと手招きされるんですね。ところがこれまた往々にして、その反対からもオイデオイデされ、三度の飯が一番よ、の世界に重りをつけようとする輩もいる。でもってこの葛藤が、巷のしがないよしなしごとのレベルから、けた外れな上昇力であっという間にそれこそ神話レベルの鞘当てに駆け上がり見守る私たちの生きる現実に迫ってくるんでございましょ。
状況劇場から唐組に転移して、これから先もテント通いはとまらないと思うのよ、きっと。
(初出:マガジン・ワンダーランド第162号[まぐまぐ!, melma!]、2009年10月21日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
岡野宏文(おかの・ひろふみ)
1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「せりふの時代」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に「百年の誤読」「百年の誤読 海外文学編 」(豊崎由美と共著)「ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)」(扇田昭彦らと共著)「高校生のための上演作品ガイド」など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/
【上演記録】
唐組「盲導犬」
吉祥寺・井の頭恩賜公園内・三鷹の森ジブリ美術館横 木もれ日原っぱ 10月3日(土)4日(日)、10日(土)11日(日)、17日(土)18日(日)
雑司ヶ谷・鬼子母神 10月23日(金) 24日(土)25日(日)
作・演出 唐十郎
役者陣
唐十郎 鳥山昌克 久保井研 辻孝彦 稲荷卓央 藤井由紀 赤松由美 高木宏 岡田悟一 気田睦 大美穂 土屋真衣 大嶋丈仁 井上政志 成田慎平 上野山達宣 大石亜衣
スタッフ
絵=清水勝
作曲=田山雅充・大貫誉
舞台美術=劇団唐組
制作=劇団唐組制作部
デザイン=及部克人
データ作成=海野温子
協力=(株)文化印刷
入場料 前売券3,500円 当日券3,600円
(「唐ファン」webサイト)