KUNIO06「エンジェルス・イン・アメリカ-第1部 至福千年紀が近づく」

◎小劇場に「世界」立ち上がらせた杉原演出
カトリヒデトシ

「エンジェルス・イン・アメリカ-第1部 至福千年紀が近づく」公演チラシ3時間50分、第3幕、ラスト。
寝台上で瀕死のプライアー(田中佑弥)が天上からの「何か」の訪れにおびえる。ベッドも部屋も軋み始める。
教会を批判し、性の解放をうたうオルフのカルミナ・ブラーナ第24曲「アヴェ」、第25曲「おお、運命の女神よ」という荘重な音楽が大音量でながれる。

プライアー うわ!
お願い、ああ、お願い! 何かが入ってくる、怖いよ、こんな
のいやだよ、何かが近づいてくる、ぼく……うわあ!
照明が、冷たいブルーから、光に満ち満ちた黄金に変わり、緑そして、今度は美しいロイヤルブルーに変わる。
プライアー すごい……
とってもスティーブン・スピルバーグ。

すると、両面舞台の上下の壁が屋台崩しで両側から倒れ込んでくる。大きな開口部のおかげでプライアーのベッドだけが、残る。
すると、サイドにある階段の上の出入り口から、森田真和演じる天使が、ビデオカメラを方に担ぎ現れる。下着一枚に貧相な胸板をさらし、翼を背負っての天使がカメラマンスタイルである。

カメラは反対サイドで呆然とベッドの上に取り残された、プライアーをとらえる。その映像は舞台上に吊されたモニターに映る。
ズームアップされるプライアーの絶望と驚愕と歓喜に満ちた表情がアップになる。
観客の視線は舞台上とモニターとを行き交う。おもむろにカメラをおろした天使は幕切れのことばを宣言する。

天使 ご挨拶を、予言者よ。
偉大なる業が始まる。
使者は到着した

演出杉原邦生、彼の才能は、空間の把握力とそこで世界を開陳する圧倒的なパワーにある。そのことが見事に小劇場空間で披見できたのが今回のラストシーンの醍醐味であった。

「エンジェルス・イン・アメリカ-第1部 至福千年紀が近づく」は、京都在住の杉原邦生、09年4本目の作品である。
杉原は、08年からはこまばアゴラ劇場のフェスティバルである〈サミット〉ディレクターを務める。「木ノ下歌舞伎」での演出やプロデュース公演も行い、11月には伊丹アイホールでのteuto「ソーグー」が控える。たいへんな売れっ子である。
演出の際には自ら美術も担当する多才さである。
東京圏ではアゴラでの08年8月「木ノ下歌舞伎」舞踊公演のうちの「三番叟」、本年4~5月の「キレなかった14才・りたーんず」の「14歳の国」が話題を呼んだ。
本作品は、「京都芸術センター舞台芸術賞2009」(http://www.tp-kac.com/KAC_TP_j_award.html#result)の参加作品で、佳作を受賞した。

さて、この「エンジェルス・イン・アメリカ」は、トニー・クシュナーの戯曲で、2部構成、通しで上演すると、7時間を越える作品である。今回はその第1部の上演である。
初演は89年。92年には二部「ペレストロイカ」と通しで上演された。戯曲は93年に、アメリカで最高の戯曲賞を受けた。アメリカ国民がアメリカのことを描いた作品に与えられるピュリツァー賞と、さらにはブロードウェイでの上演が条件のトニー賞の両作である。また03年には、352分にも及ぶテレビ版が製作され、アル・パチーノやメリル・ストリープらが主演し、こちらもエミー賞、ゴールデングローブ賞を受けた(これらの記述はWikipediaを参照した)。

日本では95年銀座セゾン劇場で、04、07年に演劇集団「TPT」(シアタープロジェクト東京)によって上演された。演出は共に、ロバート・アラン・アッカーマン(今年はパルコ劇場での「ストーン夫人のローマの春」がある)。TPTは04年「ナイン THE MUSICAL」と本作で紀伊國屋演劇賞団体賞を、読売演劇大賞では優秀作品賞、優秀演出家賞を受けた。
長々とデータをまとめた。オリジナル戯曲は、「ロンドンのナショナルシアターが”20世紀の最も偉大な戯曲10本”のひとつにも選んだ」(チラシ)という作品である。

その「巨大さ」から推し量れるように、小劇場で取り組むような戯曲ではない。
筆者は過去の日本版上演をいずれも見ていないが、戯曲のすばらしさは過去の実績のとおり、圧倒的なものがある。
しかし、日本ではなかなか内容的に理解するのが難しい作品ではある。

1985年が舞台になっている。
1月に共和党ロナルド・レーガンが「レーガノミックス」 の成功から再選をはたし、2期目をスタートした年。その年を舞台に、現代アメリカを概観する時に直視する問題群が次々と提示されていく。
それはユダヤ教とユダヤ民族についてであり。モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)で代表されているが、プロテスタントの問題としてのキリスト教新宗教についてである。
そして81年にアメリカ国内で正式に認定されたエイズ(後天性免疫不全症候群)について描かれる。公民権運動の延長上に70年代からのレズビアン・ゲイ解放運動が起こった。同性愛者は文字通り「賑やかな」存在になりつつあったが、80年代から、反動が起こってくる。その契機となったのは、やはり「エイズ」であったことは否めない。
また政治面では、「赤狩り」で名を馳せ、共和党大統領下での「黒幕」として暗躍したロイ・マーカス・コーンを通して政界・法曹界の裏側が描かれる。
実に多様な「強いアメリカ」が抱える問題が次々と描かれていく。

メインになるのは2組のカップルである、裁判所で働くジョーゼフ(ジョー)・ピット、ハーパー・ピットのモルモン教徒のピット夫妻。同棲して4年半になるプライアー・ウォルターとルイス・アイアンソンの同性愛者カップル。
ジョーを引き立てようとする黒幕ロイ・コーンは彼を司法省に送り込み、自らが過去の不行跡により査問にかけられるのを防ごうとしている。
プライアーとロイはそれぞれ長年の同性愛により重いエイズを発症している。96年の「発病させない」という治療法確立以前のHIVのため、劇中にも「ペスト」と比されるように、まだ一般的には「死病」という認識の時代の話である。
ピット夫妻は、ハーパーがDV家庭出身であることと、隠しとおしてきたジョーの同性愛傾向により、夫婦関係がうまくいっていない。ハーパーは重い精神的病を起こし、夫の「出世」を喜べない状況にある。更に二人ともモルモン教徒として、厳格な規律に背反しているという認識から、ハーパーは薬物中毒に陥り、ジョーも心因的な胃病をおこしてもいる。
ルイスはユダヤ系のインテリで、自分の同性愛的傾向から共和党的な「正しさ」に対して敵意すら抱いているが、パートナーのエイズ発症の恐怖から、瀕死のプライアーを見捨て、自暴自棄になっていく。
ロイは自らの「強者」としての権力への固執から、自らが同性愛者であることも、エイズであることも認めぬ強弁を貫く。
そこにユダヤ教のラビが現世代ユダヤ人への嘆きを吐露し、宗教観に基づくジョーの母の厳格さがジョーの家庭的不幸を示唆し、名門ウォルター家の先祖がもたらす歴史観に基づき人の生のはかなさを述べ、と要素が複雑に絡み合っていく。
そしてラストには、冒頭に紹介したように「至福千年紀」を告げる天使が現れる。

混迷の坩堝となった世界、混沌と一切の希望が失われた結末はまさに絶望の極みで集結される。(ただ、その後のあらすじをみると、天使が告知したように、第2部ではある一つの和解や赦し、「平穏」といったものにたどりつくようであるが)

それを杉原演出は実にスタイリッシュにまとめ上げた。
会場に入ると両面舞台の舞台上は、ぼろぼろに色褪せた星条旗で覆われている。杉原お得意のモニターには風にはためく星条旗が映っている。
同じ旗が小さい画面の中では雄々しくはためいているが、巨大な方は汚れて地面にうち捨てられている。この対比による暗喩が世紀末アメリカの一つの象徴になりえている。

開演とともに役者とスタッフにより、舞台上の星条旗がはがされる。そこに現れるのは畳まれた装置。それが仏壇開きのように両サイドに立ち上がると、そこにピンクの部屋が現れ、その壁にはドア2つとその間に大きめの両開きの戸がある。役者たちは数多い場面転換のたびにスタッフとともに机椅子、ベッド、ベンチなどの装置を手際よく戸から運びこみ、持ち出す。実に小劇場である。
また、第一幕のラストシーンに吊られていた星条旗の綱が切り落とされたり、ハーパーの妄想・幻覚の中に登場し、彼女を逃避する場所に誘い、導く旅行業者のミスター・ライズ(嘘)が舞台中央に切られた「スッポン」のような穴から出入りしたりする、演出上の工夫もある。
図体の大きい装置を組み立てたり、すばやく舞台転換を施したり、吊りものを落としたり、最後に屋台崩ししたり、小劇場のハンデを感じさせずに、大振りに舞台を動かしていく。その手練は鮮やかである。
これらの演出によって、重厚かつ長大な戯曲世界がテンポ良くすすんでいく。この極めてアメリカ的な「大」舞台が、見事に小劇場に落とし込まれているのだ。

今回の会場はもと明倫小学校講堂であった、京都芸術センター・フリースペースであるが、小劇場空間、装置の制約から「はしょ(省略)」ったり、「ごまかし(韜晦)」したりせず、戯曲が要求する世界の広がり、その伸びやかさを闊達に構築している。
杉原の空間構築は、三次元的に解析し、幅、奥行き、高さという要素に還元して、効率を考え、演劇的効果を導きだすという分析的な思考方法をしない。
彼はその空間に積み込める空気量を把握しているのだと思う。
空間を容積・容量として把握し、それを立体として捕らえた上で、「劇場空間」を「建築」していく明確な意志を持っている。だから舞台美術も自らイメージできるし、魅力的な演出も可能になる。あのようなラストのスペクタクルが実現できるのはそういう杉原の能力によるのだ。

また、戯曲世界の立ち上げのためセリフを分析的にとらえることにこだわり、説明が十分かどうかに注意をはらえば、舞台は冗長になることが避けられない。杉原は、セリフの可能性を信じ、それ自身に十分な「力」を込めていく。それにより舞台が冗漫な空間にならず、クリアに見通せるものになっていく。
腕力まかせでなくそんなことが可能なのは、彼が一人一人の役者が役をどう理解しているかとか、それをどういう表現で立ちあがらせているかということに、細かくこだわっていないところにあるように思う。
物語を理解する際には、人間や社会がどう変化していくかという過程にこだわりがちである。そのため、「解決・和解」や「成長」といった変化量を測定するという微分的な解析に陥りやすくなる。
一人一人の心の軌跡も重要であるが、物語には、ストーリーの結果として現れる、ダイナミズムというものがある。そのダイナミズムによってのみ、個の人生を越えて、集団の「意識」や「関係性」が変質していく、変化する世界の「総体」を提示できると思う。
だから彼は、個々の役者の表現力の問題に還元してしまうような、その瞬間
の感情表現へのこだわりや、ストーリーを支える知識の説明には、力も、時間
も割かない。
彼が集中するのは、一つ一つの場面を「力の集積」としてとらえることである。「個」とその運動のベクトルが、幾つもぶつかりあることによって生じる「場の力」である。
セリフのことばだけでも、セリフを十二分に働かせられれば、その瞬間の役の感情の爆発や、過去の総体としての役の人生も表せるはずである。杉原はセリフの中にある、一人一人のベクトルを把握するのが巧みで、更に場に生じる場の力を次々と途切れなく複合的、連続的に掛け合わせ、たたみ込んでいくことをする。
それにより、舞台上に世界のダイナミズムが大きく立ちあがってくるのだ。 その時には、アメリカ史が、とか、宗教が、とか、そういう知識は一切不要になる。そこに立ち現れたまさに「演劇的世界」としかいいようのないものが、観客を圧倒する。観客は、「世界」が力強く現れる現場に居合わせることができるのだ。
これこそが演劇のもたらす大いなる幸福なのだと思う。
(初出:マガジン・ワンダーランド第163号[まぐまぐ!, melma!]、2009年10月28日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
カトリヒデトシ(香取英敏)
1960年、神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、公立高校勤務の後、家業を継ぐため独立。現在は、企画制作(株)エムマッティーナを設立し、代表取締役。ウェブログ「地下鉄道に乗って-エムマッティーナ雑録」を主宰。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katori-hidetoshi/

【上演記録】
KUNIO06『エンジェルス・イン・アメリカ-第1部 至福千年紀が近づく』
http://www.kunio.vis.ne.jp/KUNIO06.html
京都芸術センター フリースペース(2009年9月19日-20日)
*上演時間は休憩を含め約3時間30分

作=トニー・クシュナー
翻訳=吉田美枝
演出・美術=杉原邦生

出演=田中遊 澤村喜一郎(ニットキャップシアター) 坂原わかこ 田中佑弥 松田卓三(尼崎ロマンポルノ) 池浦さだ夢(男肉 du Soleil) 藤代敬弘 森田真和(尼崎ロマンポルノ)

舞台監督=清水忠史
照明=魚森理恵
音響=齋藤学
映像=竹崎博人
衣裳=清川敦子
衣裳助手=友野美奈子
小道具=アナコンダちゃん
美術部=泉沙央里 坂田奈美子
演出助手=三ツ井秋
制作=土屋和歌子

協力=尼崎ロマンポルノ 男肉 du Soleil 京都造形芸術大学 シバイエン
ジン ニットキャップシアター
京都芸術センター制作支援事業
○共催=京都芸術センター
◎主催=KUNIO

全席自由・日時指定 一般前売=2,700円 学生&ユース(25歳以下)前売=2,200円 *当日券は300円増

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