ままごと「スイングバイ」

◎ロマンティストとしての柴幸男
藤原央登

「スイングバイ」公演チラシ『わが星』『スイングバイ』と、柴幸男が紡ぎ出した2つの劇世界に触れた私が抱いたのは、この人は壮大なロマンティストなのではないかということである。
27歳という若さで岸田國士戯曲賞を受賞したことにより、過大な評価を背負って今後の演劇活動を続けねばならないだろうということは容易に想像がつく。表象された劇世界を一見すれば分かるように、ラップ音楽の取り入れと、そこから派生するループやサンプリングを発語や場転にも利用し、リズムを湧出させる演劇手法は発明だといえる。今回の受賞は、こういった方式が演劇の基本構造を転換させ、新たな段階へと舞台芸術を進めるのではないか、という願望が込められたものでもあろう。もちろん、単なる目新しさで終わる可能性もある。その目新しさに、一時的に目が眩んだだけだったという様に。

そういったことを差し置いても、私が柴幸男の劇世界にある一定の共感を覚えるのは、手法の奇抜さでは片付けられないものがあると思うからである。その点で、他の若手演劇人の創る舞台との確かな差を抱くのだ。あえて名前を揚言することは避けるが、現在の小劇場の舞台で新しいとされるものの中には、作り手が世界へ諦念する姿勢が多分にあらわれているのではないかと私は考える。それは、飽和しきった資本主義世界が齎す、「何をやってもOK」という雰囲気への途惑いではないだろうか。資本主義の飽和とは同時に、行き詰まりをも示している。どのような生き方が最適なのかというモデルを、社会の側が明確に提示すことができず迷走すれば、我々もまたそれに見合って、位置取りが不確定なまま生きざるを得ない。

結果、何でもありの状態にここぞとばかりに乗じ、資本の最後の旨みに与ろうとする者や、不可視な未来を運命という名の見えざる神の手に委ね、思考停止に陥る者が横行することになる。どちらも保守的な心情がさせるという点では同じである。死に体の世界を前に、最後の狂乱状態を楽しもうとする態度が前者なら、すっかり引っ込んで身を任せるのが後者だからである。どちらにせよ、自らの態度をどう取り、どう描くかを受動的に晒すだけでしかない。それがある面では、極小の自己周辺しか描くことのない現代口語演劇を発展、延長させたものだ、といって持ち上げられることになる。こういった態度は、世界と私とが中間項を挟むことなくダイレクトに繋がるという意味で、演劇におけるセカイ系だと言えるだろう。

「スイングバイ」

「スイングバイ」
【写真は「スイングバイ」公演から。撮影=青木司 提供=ZuQnZ 禁無断転載】

惑星ととある小さな一家の生成と消滅を、決して出会うことのない惑星の少年と一家の少女の関係になぞらえて同系列に描く『わが星』。『スイングバイ』では、地上2000階以上・地下300万階という会社ビルを人類の誕生の歩みの比喩として捉えられており、そこで働く会社員やその家族のエピソードを、時空間を越えて描き出す。表層的に見れば2つの物語は、そのロマン性と相まって、確かにセカイ系の典型のように思われる。だが、ここには少なくとも先に記した諦念はなく、生の根源的な肯定を希求する眼差しが存在する。その点が、同世代の演劇人とは決定的に違うところだと思うのである。ただ、セカイ系の与件には、自意識が多分に孕んだ激しい「一人語り」の要素があるが(前島賢 『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』ソフトバンク新書 2010)、韻を踏んだラップ言語がそれに該当するとは言える。柴幸男の世界がナイーブで健康的なものでしかないという批判はこういったところから来るのだろう。

しかし、進むべき道なきご時世にあって、そこで尚自身の生を肯定的に捉えようと、趣向を凝らして作品創造に挑む彼の意思をこそ評価するべきではないかと思うのだ。極小の存在を自己肯定するために引きこもり、前面に立って都合良く戦ってくれるヒロインに依拠する、というナイーブさは柴の世界にはない。どのように「自分自身」のスタンスをこの世界で取るべきか、そのために彼は巨視的な視点を盛り込んだに違いないのである。そう、決して彼は自らを慰撫するような位置に自分を置くことはしない。今生きる世界とは何なのか、彼自身の生の肯定のために、つまらないと思える小さな家族や社会の歯車にならざるを得ないサラリーマンへ眼を向ける。そのものさしは今の社会にはない。だからこそ、宇宙であったり、人類の歴史という不変の物語が持ち込まれる必要があるのだ。

この肯定のロマン性に触れた時、観客は感動してしまうのだろう。生の丸ごとの肯定を果たすため、宇宙の長大さと深遠さが並置される劇世界を共有して感動するのだ。人によっては、その親和的空間と「一人語り」的セカイ系雰囲気は、同族の人間による感情の慰撫にしか映らないかもしれない。だが、柴が描こうとするのは、生の丸ごとの肯定と先に書いたが、それは生の無自覚な肯定では決してない。肯定に至るために壮大な巨視的視点を援用する。つまり、その宇宙論的視座から人間をあらゆる有形無形なものと混交させ、その中からほんのわずかに残る人の固有性とは何かを問おうとしているのである。相対化の回路を通して、人間のちっぽけさや卑小さを逆証させた上で肯定の道を探るのだ。それは彼の誠実で真摯な眼差しが故のものであろうし、その真面目さに根を持つ意志は決して生ぬるいものではない。ここを把握しないと何も見えてこない。

だからその視座は、太田省吾の志向した実験とも近接すると私は考える。太田が裸形としての身体を目指したのも、宇宙的視点から人間を見返したからである。その時、雄大な自然を蹂躙する人間の蛮行に思い至り、そうではない身体のあり方、つまり沈黙してそれに同化せんとする意識の実験を太田は行ったのである。柴は打って変わって小気味良いラップ言語で空間を埋め尽くす。あるいは『スイングバイ』で描かれた、階下に迷い込んだ(過去に移動した)娘がかつて会社員だった母・佳子と話したり、その佳子が退職した夫・小梁さんと出会った頃の初々しいシーンなど、個的なエピソードが積み上げられてゆく。ここには母子、あるいは夫婦という関係性が要請する役割としてではなく、一対一の個人へと還元したところから始まる関係を再考する姿勢が認められるが、これは太田の裸形思想の変奏ではないだろうか。太田の代表作『水の駅』には沈黙し、ゆっくりと微細に行動する身体が登場する。その身体そのものや、人と人が対峙するだけで何事かが語られる様を、かつての観客は感得できた。だがそれは、『水の駅』が初演された1980年という時代だったから有効だったのである。その後、バブル経済突入から始まる、制御不能となった景気に良くも悪くも踊らされる時代相の中では、沈黙するものは即負け(死)を意味する。なぜなら、『ゼロ年代の想像力』(早川書房 2008)で宇野常寛が記したように、引きこもってユートピアを作ることすら叶わず、必然的に戦わなければならないバトルロワイアル社会が現状なのだから。柴の描くロマンは、始原的地点へと人間を立ち戻らせるための、現代における一つの戦略なのである。

「スイングバイ」
【写真は「スイングバイ」公演から。撮影=青木司 提供=ZuQnZ 禁無断転載】

『わが星』でも『スイングバイ』でも、冒頭の数分間に舞台内容、あるいは宇宙や人の生を圧縮して語ってしまう。その後展開される出来事は、冒頭の早回しのような部分を引き伸ばして繰り広げることに注がれる。そのことで、伸縮する時間の概念が皮膚感覚として知覚される仕掛けだ。『スイングバイ』では、エレベーターの上下によって雄大な時間の移動をやってのける。あるいはタイトルでもある、万有引力を利用することで、運動方向を変更する技術を場転に応用する。これらポップな手法も、そこに繋留されるべきものである。こういった、世界に確かな人間存在を得るための趣向を、太田省吾とは別の方法で柴は描こうとする点で、太田と同列に扱っても良い思想を持っているのではないかと私は思うのだ。柴幸男は太田省吾の系譜の内にある。むろん、底に流れる思想と、ラップ劇に代表される手法との幸福な蜜月関係はいつまでも続かないだろう。だが、資本主義の中で生き残るためにあくせく立ち回った結果、気付いてみれば消費され尽くしてスポイルされるという、幾多の者が陥った罠を避けようとする意思は持ち合わせていると私は感じた。それは、第54回岸田國士戯曲賞のスピーチでのことである。

私は、UST(Ustream)の生中継で授賞式を見た。その席上で柴は、自身の創作活動において井上ひさしの影響があったことを証言している。それはすなわち、歌舞伎の上演台本のように、「世界」をどのような「趣向」で切り取るか、その趣向=方法論を不断に求めることが劇作家の役割であるという、井上が度々岸田國士戯曲賞の選評で記した演劇観である。演劇史をどこまで射程に入れているかは分からないが、少なくとも現代の戯作者としての井上ひさしという巨壁は見据えて演劇活動を行っていることが分かる。そういった意味で、演劇史を放擲して野放図にやりたい放題やり、一時的に目立てば良いという思いとは違った地平を見ていることが感得できるのである。

趣向はあくまでも趣向でしかない。連投すればもちろんそれは次第に目劣りし、消費されてしまうという罠から逃れることはできない。だが、世界を切り取る趣向を絶えず思考し続けることを劇作家の役割と認識する者は、その時々に相応しい趣向をまた発明するはずだ。それくらいの労苦を背負う覚悟と思想を持ち合わせていることこそ、重要視されねばならない。

柴幸男の劇世界は、極小の生と巨視的視座から「私」性を捉え返し、両者の遠大な距離から導き出される関数からその生を肯定するロマン劇である。その手つきは自意識過剰な引きこもる「私を」ただ承認するというものでない。したがってナイーブな「セカイ系」とは異なった地平にある。先人が試みた実験と幹を同じくした精神で、明確な指針なき時代に生きる人間存在を裸形へと還元させ、ある強度を探ろうしている。私が現時点の柴幸男を支持する理由は以上である。ロマンに包まれた現代のファンタジー劇には確かに毒はない。しかし中途半端に挑発し、結局巨大な歴史に爪痕すら残すことのできない無様な連中より、その真摯な眼差しに溢れた姿勢は、よほど同世代として信頼するに足ると思うのだ。
(初出:マガジン・ワンダーランド第189号、2010年5月5日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
藤原央登 (ふじわら・ひさと)
1983年大阪府生まれ。近畿大学文芸学部卒業。劇評ブログ『現在形の批評』主宰
。他にAICT関西支部発行『act』・『Corpus―身体表現批評』等に劇評執筆。[第三次]『シアターアーツ』編集部。国際演劇評論家協会(AICT)会員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/

【上演記録】
ままごと『スイングバイ
こまばアゴラ劇場(2010年3月15日-28日)

作・演出 柴幸男
□CAST
飯田一期
いしお
板倉チヒロ(クロムモリブデン)
折原アキラ(青年団)
菊地明香(ナイロン100℃)
島田桃依(青年団)
菅原直樹(青年団)
鈴木燦
高山玲子
能島瑞穂(青年団)
野津あおい
森谷ふみ(ニッポンの河川)

□STAFF
舞台監督:佐藤恵
美術:青木拓也
照明:伊藤泰行
音響:星野大輔
衣裳:藤谷香子(快快)
ドラマトゥルク:野村政之
演出助手:白川のぞみ(てとあし)
宣伝美術:セキコウ
制作補佐:荒川真由子、杉山沙織、野田奈々恵、渡邊由佳梨
制作:ZuQnZ with 赤羽ひろみ
製作総指揮:宮永琢生
企画制作=ままごと・ZuQnZ/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催=(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
技術協力=鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力=林有布子(アゴラ企画)
芸術監督=平田オリザ
協力=青年団 急な坂スタジオ レトル (株)キューブ Queen-B クロムモリブデン ナイロン100℃ ニッポンの河川
前売・予約=2,500円、当日=2,800円、高校生以下前売・当日=1,500円(要学生証)

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