ロンドン演劇日和-シアターゴアー、芝居の都を行く(全7回)

 第4回 新しい世代の映像・身体・演劇 コンプリシテとロンドン演劇
 今井克佳(東洋学園大教授)

 ロンドンの冬は観劇シーズン、とは言うが、甘っちょろい東京の冬に慣れてしまったこの身には、夜の観劇の後、寒風の吹く、冷え込んだ街を歩くだけでつらい。正直夜は早く帰って暖かい家でDVDでも見ていた方がよほど楽しい気がする。夏はソワレの芝居が終わっても薄暮が残っていたのに、今はマチネが終われば真っ暗だ。こうなるとシアターゴーアーもちょっと修行めいてくる。

 冷え込みが強くなり始めた11月中旬にバービカンセンターでコンプリシテの「A Disappearing Number」を観た。2007年度のオリヴィエ賞Best New Play賞となったヒット作の再演である。コンプリシテと言えば日本では、世田谷パブリックシアターと共同製作の「エレファント・バニッシュ」や、記憶に新しい「春琴」(2009年1月にはバービカンでイギリス初演予定)があるが、共同製作でないものはかえって来日しないため、こちらで観たというとちょっと優越感に浸れる気がする。

 日本でもそうかもしれないが、こちらでもコンプリシテは、芸術性の高い「最先端の」演劇の代名詞のようだ。ちょっとした通が「何を見たらよいか」と聞かれて「とりあえずコンプリシテは見ておけば?」というような。劇場もNational Theatreなどで見かける文芸派の観客よりも、学生や、どこかアーティストめいた人たちが多いように感じる。

 この作品では、第一次世界大戦の時代のインドの若い天才数学者ラマヌージャンとケンブリッジの数学教授D・H・ハーディーの交流およびラマヌージャンの死までの物語が、現代のインド系アメリカ人ビジネスマンとイギリス人女性数学者の恋愛、結婚、そして別れの物語と交錯しながら語られる。無限級数やリーマンゼータ関数といった高等数学の理論が、人生、愛、生と死のメタファーとして敷衍されて行く。たとえば愛する者を亡くした悲しみを抱えた者に、無限級数をモチーフとしたこんな言葉は大きな慰めとして響くだろう。

 「数と数の間には隙間というものがない。時間と空間に隙間がないように、それらは継続しているのだ。もし時間が継続しているなら、僕たちは過去と未来につながっている。もし空間が継続しているなら、僕たちは今ここにいない者たちにもつながっている。」

 こうしたモチーフの深さ、発想のユニークさ、生と死、永遠性への視点は「ルーシーキャブロルの三つの人生」など以前の作品からつながるコンプリシテ、そしてサイモン・マクバーニーの特徴の一つだと思うが、まず観客の目を引くのは、舞台に繰り広げられるめくるめく映像と俳優の身体のコラボレーションだろう。こうした、舞台へのマルチメディアの大胆な導入は日本で上演されたものでは「エレファント・バニッシュ」あたりからだと思われる。

 殺風景な大学の講義ホールではじまったシーンは、黒板にインドのマドラスの街頭風景が投射されると椅子はタクシーの座席となりあっという間に空間が移動する。あるいはケンブリッジに降る雪のように降り注ぐ、数字や記号の美しさ。現代と二十世紀初頭の時空が様々に交差する舞台空間。タブラの生演奏、インドの踊り、そしてコンプリシテお得意の俯瞰構図などなど。特に今回の作品では、二つの異なる物語が、時空を入り乱れさせながら語られて行く手法がとられており、どこかサイモンの盟友である野田秀樹のいくつかの作品を彷彿とさせた。

 ただ、こうした映像表現は確かに非常に高い完成度を持っており、この作品の大きな魅力の一つではあるが、わずか半年ではあるがロンドンで演劇を見続けて来た者には、とても「最先端」とは思われず、むしろ陳腐な感すら持ってしまった。インドの街頭の実写映像を映してタクシーに乗っている空間にする。ケンブリッジ大学の校舎の実写映像を出して、コラールを流す。俳優が踊るインドのダンスも含めて、いかにステレオタイプで素人にもわかりやすい。逆を言えば観客の想像力を阻害しているとさえ言える。筆者は「エレファント・バニッシュ」におけるマルチメディアの多用は、現代東京という、電子の都を表現するために必須であったとは思うのだが、果たしてこの作品に使われる映像表現はどうであろうか。また映像表現が前面に出たがゆえに、身体表現自体はめだたなくなった感が強い。

 たとえば、同じ時期にNational Theatreで上演されていたDV8 PhysicalTheatre の「To Be Straight with You」はどうだろう。コンプリシテとスタッフが共通しているようだが、この作品は新しい映像と身体のコラボレーションの感性を見せてくれた。ストリートダンス、ブレイクダンス、あるいは「縄跳び」をしながら、語られて行く宗教上、政治上様々な環境にある同性愛者たちのインタビューに基づく体験。映像はたとえば、俳優を包み込むように地球儀の映像が現れ、世界のどの地域で同性愛が「犯罪」として扱われているか、指し示しながら腕を動かすと、地球儀も動き、地域が赤く光ったりする。あるいは舞台にマンガのコマ割りが映像として現れ、そこに俳優が入り、セリフを言うとマンガの吹き出しが現れる。ここにはサイモンの世代にない、新しい感覚の映像・身体のコラボレーションがあった。

 National TheatreのAssociateでもあるKatie Mitchellの作品は物議を醸している。2006年の「Waves」(2008年再演)、今年初演の「…Some Trace of Her 」は、いずれもヴァージニア・ウルフ(「波」)、ドストエフスキー(「白痴」)の小説をもとにしているが、その演出法は、映像作品を舞台上でライブで作成する、というものである。舞台上方に大きなスクリーンがあり、暗がりの舞台上にはテーブルや数台のビデオカメラ、マイク、小道具の満載された棚などがある。「俳優」はそこでは道具係であり、被写体であり、声優でもある。作品世界はスクリーンに映し出される完成された映像であり、観客はそれとともに、その映像を作り出している「現場」を舞台上に観ることになる。

 9月には、演劇の舞台にマルチメディア映像を持ち込んだ張本人とも言る、ロベルト・ルパージュの新作「Lipsynch」がバービカンで上演された。全編9時間の作品で、週日の夜3日がかりで観るか、土日を1日つぶして観るかの大作である。興味深いのは、映像を主軸にしていたルパージュが今回「声」をテーマとしていることだ。もちろん映像表現は多いのだが、彼の作品としては比較的抑えられ、むしろ、国際化による多言語状況と、現代テクノロジーによる、肉体と声、言葉の分裂という諸状況を様々なエピソードで表現しようとしていた。この上演は、演劇における「声」の現前ということがいかに根本的なことであるかと思い出させてくれた。(そういえば日本語では「観客」だが、英語では「Audience」なのだ。)

 最後に、コンプリシテの創設メンバーであるキャサリン・ハンター、マルチェロ・マーニがピーター・ブルックの演出のもと出演し、今夏Young Vicで再演された「Fragments」に言及しておきたい。もちろんブルックは映像など使わない。まっさらな舞台のもと、5つのベケットの短編は3人の俳優の身体のみによって演じられた。これほど濃密な空間があっただろうか。彼らの身体と表情はそのまま語られるセリフであり、舞台世界であった。まさにここに「芝居」の原点を観ることができた。

 コンプリシテはいまや、ロンドン演劇界における一つの「ブランド」なのだろう。ただ、老舗ブランドはいつまでも安泰とは言ない。素晴らしい作品だが、そこに多少の衰退が見えているという感覚を持った。もちろんそれに継ぐ新しい芽は少しずつ出ていると思う。

 現代テクノロジーを用いた映像の舞台作品への活用は以上のように様々なかたちで繰り広げられている。ただそこには日本でときどき出くわすような、テクノロジーが使えるからとりあえず使ってみた、と思えるような安易なものはほとんどなかったということも付け加えておきたい。
(初出:マガジン・ワンダーランド第117号、2008年12月10日発行 )

【関連情報】
・Complicite:http://www.complicite.org/flash/
・National Theatre:http://www.nationaltheatre.org.uk/
・Young Vic:http://www.youngvic.org/
・Barbican:http://www.barbican.org.uk/

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