連載「百花夜行」 賞を選ぶ、賞を読む(上中下)

 「百花夜行」という連載始めたのは昨年秋だった。毎月掲載の予定が9月にスタートした後しばらく中断してしまった。申し訳なくて2月は2回、引き続き岸田國士戯曲賞にまつわる話をまとめた。ノイズの多いスタイルにしたいと思ったら案の定、話がずるずる長くなる。岸田賞選考を取り上げたといっても選考の実態にはトンと疎いから、賞選びに内在する問題を考えようと思った。マガジンワンダーランド掲載時のタイトルを「賞を選ぶ、賞を読む-評価と授賞の狭間で」に差し替え、3回目を追加補充してサイトに掲載することになった。
 連載タイトルはもちろん「百花繚乱」と「百鬼夜行」の掛け合わせ。鬼でもないし、繚乱というほどきらびやかでもない。要は、騒々しいほど賑やかで怪しいイメージが滲み出ればもっけの幸いというに過ぎない。ご寛容を。(北嶋)

連載「百花夜行」第1回
賞を選ぶ、賞を読む(上)-評価と授賞の狭間で

 編集現場に折々戻ることになって半年。2年ぶりの「復帰」というほど大げさではないけれど、すべてが手に付かないというか、どこかしっくり来ないまま時間だけが過ぎている気がする。そんなもやもやした部分を出来るだけ取り上げて書いてみたい。「よしなしごと」を書きつけわけだから「あやしうこそものぐるほしけれ」なのはご容赦を。毎月1-2回連載予定です。

 姿が見えない!

 最初に「賞」にまつわる話を書いてみたい。今年(2011年-編注)の岸田賞の選考会と授賞式はかなり前のことだが、ずっともやもやしている事柄なのでとりあえずここから取り付いてみようと思う。

 小劇場界隈で話題になる戯曲賞は各地にあるけれど、まず目が向くのは日本劇作家協会新人賞だろうか。現役の劇作家が選考委員を務め、選考会は公開されているので、選考過程で交わされる言葉は会場に出かけたら誰でも聞ける。選考方法も投票結果も開けっぴろげ。秘密などない(と思う)。

 伝統があると言ったら、白水社主催で、劇作家の登竜門と言われる岸田國士戯曲賞だろう。しかしこちらは伝統があるせいか分からないけれど、選考過程は非公開。言葉は悪いが、少数の選考委員が密室にこもり、話し合って決めるわけだ。しかし受賞したら新聞に記事が出る。賞金をもらえる。戯曲が単行本になる。劇作家にとってマスメディアに登場し、戯曲集が出版されるのは名誉この上ないだろう。「どうしたら岸田賞をとれるんですか」と直球で尋ねられたこともあるから、若い劇作家には関心が高いだろう。

 2011年に受賞したのは、松井周「自慢の息子」だった。松井ほどの才能があれば、もっと早く受賞してもおかしくないと思っていたのだが、この公演のレビューはすでにワンダーランドに載っているので、舞台の様子を知りたい方はそちらを読んでいただきたい。
初日レビュー2010 第1回 サンプル「自慢の息子」

 4月18日に開かれた授賞式の会場にいて、驚いたことがいくつかある。
 岸田賞の選考委員は6人いるけれど、当日出席したのは3人だけだった。選考会で松井作品を強力に推した岩松了、それに宮沢章夫、野田秀樹。あとの3人、永井愛、坂手洋二、鴻上尚史の姿は見えなかった。来賓席にいなかっただけでなく、そう広くもない会場を歩き回ったけれど会わなかった。単純に、選考委員が半分しか出席しない授賞式・祝賀式がよくあることなのかどうか、選考経過に関係があるのかどうか、ぼくはよく知らない。日程が調整できなかったのだろうか。それにしても素朴に驚いた。

 挨拶に立った岩松がその場で話した選考経過によると、今年は例年になく票が割れたという。最終候補9作のうち、第1回投票で松井作品のほか、ノゾエ征爾「春々」、前川知大「プランクトンの踊り場」、赤堀雅秋「砂町の王」、中津留章仁「convention hazard 奇行遊戯」に票が分散した。それぞれの作品について議論した後で第2回投票が行われた。その結果、赤堀、前川、中津留の3作品が外れ、松井、ノゾエの2作に絞られた。さらにどちらを推すか二者択一の投票をした結果、松井5票、ノゾエ1票になった。さらに松井作品を授賞作にするかどうか話し合った末に授賞が決まったという。後に挨拶に立った宮沢も「例年なら第1回投票で有力作がダントツで票を集めるのだが、今年の選考は困難だった」と証言するから、相当揉めたのだろう。

 もう一つ驚いたことがある。受賞の挨拶で松井は大学時代の卒論に触れ、実は岸田國士を取り上げたと語ったことだった。『古い玩具』を読んでそれまでの岸田に対する見方が変わったという。持参した卒論の冒頭部分を読み上げ、その発見を次のように述べていた。

 妥協と倦怠で成り立つ散文的日常を、まじめな顔した登場人物が逆立ちしたように暮らす世界が(『古い玩具』など岸田作品の中に)あった。いつまでたっても色あせない不思議な新しさがあった。日本人とは思えない、無国籍の感覚を持つ作家だなあと思った。

 この「逆立ちしたように暮らす」という感覚が松井作品のベースになっているというのだ。確かに松井作品では、物語によってある役割を張り付けられた人物が、劇中でウロウロ、オロオロするケースが多い。「主体的に生きることへの疑問がぼくの作品の出発点」と言ってはばからない松井の原点なのかもしれない。

 下世話な話題になるが、松井の育った青年団の主宰者、平田オリザの挨拶も驚きであり、かつ刺激的だった。
 まず「今回、松井の単独受賞だったのがよかった」と切り出した。「ぼくが『東京ノート』で岸田賞をいただいたとき、鴻上尚史さんと同時受賞だった。新聞に『鴻上尚史氏ら2人受賞』と見出しが立って、ぼくは『ら』にされてしまった」と会場の笑いを誘った。さらに「昨年は同じ青年団演出部の柴幸男『わが星』が受賞した。今年は松井が受賞したので連覇したことになります。ぼくは団員たちに『青年団で5連覇するんだ』と檄を飛ばしています」と言い放った。

 その前、会場の立ち話で「5連覇」の野望を聞かされていたけれど、軽い冗談かと思っていたら、壇上でホントにしゃべったのだ。ぼくは虚を突かれて驚いてしまった。そのせいか、会場が騒然となったのかシーンと静まったのか記憶にない。

 確かに青年団演出部には岩井秀人(ハイバイ)、吉田小夏(青☆組)、田上豊(田上パル)、谷賢一(DULL-COLORED POP)、田川啓介(水素74%)、舘そらみ(ガレキの太鼓)ら若手劇作家の才能が目白押しだから、岸田賞候補作が次々に出てきても不思議ではない。平田オリザはいやはや、たいした組織者、指導者、扇動者である。

 厳しい評価も

 話を「賞」の選考に戻そう。松井作品が最終的に受賞と決まったけれど、反対の論陣を張った選考委員もいた。

 例えば永井愛は公表された「選評」の中で、「自慢の息子」は「『わかる人だけわかってくれればいい』という信念に基づいて書かれたものだろう。その姿勢は立派だ。だが、それゆえに生じる緩みもある。引きこもってしまった者が、自分の部屋ではどこまでも自由でいられるように」と手厳しい。

 さらに「自分を理解しないであろう他者に向かって、その共感を得ようと格闘してこそ、何を残し、何を捨て去らねばならないかが初めてわかり、私はこのような劇作家だと自分をさらす決意がつくのではないだろうか。多くはそこで足がすくみ、無惨な妥協の産物を見せてしまう。だが、たまには勝利を得る。それは保障された自由ではなく、闘い取った自由だ。松井さんの作品に気ままな緩みを感じてしまうのは、そこに闘い取った自由を見出しにくかったからだと思う」(「緊張あってこその自由 」)とダメを押している。「他者に向かって、その共感を得ようと格闘」していない、というのだから致命的である。

 中津留作品を推した坂手洋二はどうだったのか。「自慢の息子」はほとんど埒外だったように見える。少々長いが、関連部分を引用してみよう。

 受賞作は、正という息子が「王国」を作ったというセンターアイデア、首に万歩計をつける母というイメージは、悪くない。(中略)誰かが「ぼけている」「おかしなことをする」ということがただ紹介され、そういう人だから何をしてもいいというエクスキューズとなっており、出来事はすべて「ためにする」、恣意的要素ばかりとなる。関係性のパイプであると自称する男もたいへん便利に登場する。彼がナレーター的に並べる話で何かが繋がったことになるのだろうか。男がなぜ正の母を釣り結婚するのか、なぜ兄が隣の女の養子になるのかという経緯も、「ゲームなので何でもできますからそうしてみました」ということ以上には、よくわからない。おたくで人形フェチであるという紋切り型、キリストになぞらえるといった手垢のついたイメージを「わざとですよ」と言い訳しながら並べ、豆腐の中のセミを誰かが当てて「マモリビト」になるという仕掛けも、自分で謎を提示して自分で解くマッチポンプである。逆に妹の「現実を受け入れられない」「自分を騙す」と説明するナマな言葉には興ざめさせられる。ラストのナイフも思わせぶりなだけである。「~のように」「~ような」という比喩も多すぎる。ちょっと風変わりな趣向の素材を羅列してみた、という以上のことがあるだろうか。「機械仕掛けのように」という、フィナーレのために用意された、劇構造との関連を持たないト書きの指定もいただけない。(「許容範囲かどうか」)

 センターアイデアは悪くないけれど、あとは最初から最後までほとんど見るべき個所がないという意見だろう。

 もう一人、当日姿を見なかった鴻上尚史はどうだったか。

 ラストがじつに曖昧で納得できない。どうも、物語の終わらせ方が思わせぶりのわりには、実は仕掛けとして完成してないのではないのかと思わせられる。ただ、エピソードとして語られる息子と母のケースはリアルで面白い。これらの小さな物語のように、本来の物語もリアルに最後まで追求すれば、もうひとつ面白い作品になった。(「もうひとつ力不足だが―」)

 授賞式のかなり後、別の場所で選考委員の一人から内部分析らしい話を聞いたことがある。それによると、永井、坂手の二人が推す作品はほぼ同じ。一方、宮沢、野田の二人が推す作品もほぼ共通する。「岩松さんは?」と聞くと「独自の戦いかな」と選挙戦用語を持ち出した。そして鴻上は「中間派」だという。こういう色分けが当たっているか、選考会に居合わせていないからわからない。しかしたとえ「虚構」でも、当事者の口から出てくると「現実」らしく思えてしまうところなど、なんとなく演劇的ではある。

 演劇賞、戯曲賞は、くれるならもらえばいい。周知・宣伝の機会になり、賞金がもらえたらありがたいだろう。劇団やカンパニーの人たちには折に触れそう言っている。きわめて単純な話だと思う。

 しかしここで取り上げるのは賞の意義でも、応募する側の話でもない。関心があるのは、賞を選ぶ側のありようだ。自分が評価する作品がほかの選考委員の賛意を集めて受賞するなら問題は出てこない。しかしその作品を評価しない場合はどうなのだろうか。選考会の空気が受賞に傾いたとき、いわゆる否定派消極派はどういう理由と根拠で受賞という流れを受け止め、態度を決めるのだろうか。次回はそこをもう少し詳しく見てみよう。(>> 続く
(初出:マガジン・ワンダーランド第260号、2011年9月28日発行)

【補注】
・サンプル「自慢の息子」(初日レビュー2010 第1回)
>> http://www.wonderlands.jp/archives/15692/
・第55回岸田國士戯曲賞選評(2011年)は白水社Webサイトから読むことができる。
>> http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/review55.php
・第55回岸田國士戯曲賞授賞式の模様は、Ustream 動画 で見られる。
>> http://www.ustream.tv/recorded/14115044

・岸田賞の歴代受賞作、受賞者者一覧は次のページ。選評は第43回(1999)から掲載。
>> http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/list.php

【筆者略歴】
 北嶋孝(きたじま・たかし)
 1944年秋田市生まれ。早稲田大学文学部卒。共同通信社文化部、経営企画室などを経てフリーに。編集・制作集団ノースアイランド舎代表。80年代後半から演劇、音楽コラムを雑誌に寄稿。TV番組のニュースコメンテーター、演劇番組ナビゲーターも。2004年創刊時からワンダーランド編集長を務め、2009年10月から編集発行人、代表。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ka/kitajima-takashi/

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