連載「百花夜行」 賞を選ぶ、賞を読む(上中下)

連載・百花夜行第2回
賞を選ぶ、賞を読む(中)-評価と授賞の狭間で

 まずお詫びと訂正から始めよう。
 前回の掲載はマガジン・ワンダーランド第260号だった。昨年9月28日発行である。連載が初回でバッタリ途絶えるとはお恥ずかしい次第。それから4ヵ月もほったらかしだったのだからお詫びのしようもない。ただ、ストップを掛けた勘働きはそう狂っていなかった。なぜかは、この回の最後の方で明らかになるだろう。

 連載初回では第55回(2011年)岸田國士戯曲賞の授賞式の様子を伝えた。そのなかで、勘違いが出てしまった。「田上パル」主宰の田上豊を「青年団」所属だと思い込んでいたのだ。複数の読者からすぐに指摘され、劇団側と連絡を取って間違いを確認した。田上パルは桜美林大在学中の田上が2006年に旗揚げ。2008年から3年間、キラリ☆ふじみ(富士見市民文化会館)のレジデントカンパニーとして活動した。こまばアゴラ劇場やアトリエ春風舎での公演も重ね、出演者にもスタッフにも青年団員がよく登場するので、田上=青年団演出部所属だと思い込んでいた。お恥ずかしい。

 初回から勘違いを出してしまうと、ホントに士気が上がらない。迷惑が広がらないことを願うばかりだ。でも、と弁解混じりに思うのだが、田上本人が岸田賞を受賞したら、どこかのだれかは「青年団5連覇」に強引に組み込んでしまうかもしれないと思う、でしょう?

 お詫びと訂正ついでにお話しすると、記者時代に書いた記事で少なからぬ間違いを犯してしまった経験がある。大誤報ではない。20行足らずの短い記事で事実誤認を3箇所。その上お詫び訂正を2回やらかしてしまった。新聞の片隅に載るちいさな記事でも間違いは間違い。訂正箇所、事実経過、誤りの理由、今後の措置などをデスクと連名で上司に提出する羽目になった。始末書提出という社内儀式の執行である。

 某新聞社では、記事でお詫び訂正を出した記者は必ず辞表を書かされる、と聞いたことがある。編集会議に呼び出され、満座の中で叱責され、謝罪と反省の弁とともに辞表が破り捨てられてお開き-。こういう儀式が繰り返されるというのだ。

 こういう儀式が頻発するようになったのは、ミスの影響が活版印刷の時代とは比較にならないほど広がったことと無関係ではない。デジタル化とネットワーク化が広まり、ある時期から通信社の記事が新聞の整理、印刷工程にほぼストレートに流れ込むようになった。「完全原稿」が配信されるという建前が前面に押し出され、新聞社の整理部や校閲部が「合理化」される。用字用語、固有名詞や数字など事実関係をチェックする各社の最終ラインがか細くなれば、間違いの影響は広がらざるを得ない。

 ニュースの「川上」の職場では「訂正撲滅」のスローガンが叫ばれ、毎日の訂正数がセクションごとに編集会議で報告される。編集会議室のボードに、その数字が詳しく掲示される事態となった。いったん石が転がり始めると、勢いは止まらない。いや~な空気が社内に蔓延する。組織の病理全開である。

 あらぬ方向に逸れないうちに話を戻そう。じつはもう一つ、前回引用した選評で意味不明になってしまった箇所があった(訂正済み-編注)が、それはあとできちんと再引用するので、ひとまずご容赦を。

 岸田賞の重み

 昨年の岸田國士戯曲賞受賞者は松井周だったが、選考はかなり時間がかかった。つまり、揉めたのだ。選考委員の一人、宮沢章夫は「選評」でこう表現している。

 例年に比べて困難な選考だった。それを裏付けるように、受賞に向けられた、決定的な言葉、つまり誰もが納得する決め手がどの作品にも存在しなかった。皆がおしなべて推すという作品はなく、これほど推挙する作品が分散する選考もこの数年では稀だ。一人が推せばそれを否定する言葉が返され、ではそれを説得するに足る論理が支持する側にあるかといえば誰もが口ごもる。だからこうして選評を書くのにも言葉がうまく出ないもどかしさを感じる。(選評「いまこそ書かれるべき、戯曲としての上演台本 」)

 前回はそのプロセスを選考委員が授賞式で報告した話や、後に明らかにされた選評に沿いながらたどってみた。それらによると、岩松了、宮沢章夫、野田秀樹の3人が松井作品を推し、永井愛、坂手洋二、鴻上尚史の3人は難色を示したり反対したりした。しかし鴻上、永井は最終的に授賞に賛成した、と選評に書いている。その上で前回掲載の文章末尾に次のように記した。

 しかしここで取り上げるのは賞の意義でも、応募する側の話でもない。関心があるのは、賞を選ぶ側のありようだ。自分が評価する作品がほかの選考委員の賛意を集めて受賞するなら問題は表面化してこない。しかしその作品を評価しない場合はどうなのだろうか。選考会の空気が授賞に傾いたとき、いわゆる否定派消極派はどういう理由と根拠でその流れを受け止め、態度を決めるのだろうか。次回はそこをもう少し詳しく見てみよう。

 前回掲載から時間が経ちすぎたので、まず松井作品に否定的だった永井、坂手の選評を、重複を厭わず引用してみよう。前回は引用が乱れていたのでそれを訂正する意味もある(訂正済み)。永井は次のように述べている。

「『自慢の息子』(松井周)は、「わかる人だけわかってくれればいい」という信念に基づいて書かれたものだろう。その姿勢は立派だ。だが、それゆえに生じる緩みもある。引きこもってしまった者が、自分の部屋ではどこまでも自由でいられるように。
 自分を理解しないであろう他者に向かって、その共感を得ようと格闘してこそ、何を残し、何を捨て去らねばならないかが初めてわかり、私はこのような劇作家だと自分をさらす決意がつくのではないだろうか。多くはそこで足がすくみ、無惨な妥協の産物を見せてしまう。だが、たまには勝利を得る。それは保障された自由ではなく、闘い取った自由だ。松井さんの作品に気ままな緩みを感じてしまうのは、そこに闘い取った自由を見出しにくかったからだと思う。
 それでも最終投票で、『自慢の息子』の受賞に賛成した。受賞作を出さないことへのためらいがあった。これがよかったのか悪かったのか、考え続けることになるだろう。(「緊張あってこその自由」)

 永井はここで、戯曲の核心と考えている言葉を残している。「自分を理解しないであろう他者に向かって、その共感を得ようと格闘してこそ、何を残し、何を捨て去らねばならないかが初めてわかり、私はこのような劇作家だと自分をさらす決意がつくのではないだろうか」「松井さんの作品に気ままな緩みを感じてしまうのは、そこに闘い取った自由を見出しにくかったからだ」と自分の根拠を提示した上で松井作品を批判している。「他者に向かって、その共感を得ようと格闘していない作品」というのは痛烈ではないか。

 しかし彼女は最終的に授賞に賛成した。その理由を「受賞作を出さないことへのためらいがあった」とだけ述べている。選評という短い文章で理由のすべてを書けるわけではないことは分かるが、その「ためらい」はどこから生じ、どんな中身かはあとでもいいから知りたい。意を尽くしていない、十分に練り上げられた「賛成」でないことがあるからこそ「これがよかったのか悪かったのか、考え続けることになるだろう」と書いたのだろう。作品への批判的なまなざしと授賞への賛成の間に亀裂が走っている。意見と行動の乖離に明快な道筋はついていない。

 もう一人、松井作品を買わなかった坂手はどうか。もう一度、彼の見解をみてみよう。

 受賞作は、正という息子が「王国」を作ったというセンターアイデア、首に万歩計をつける母というイメージは、悪くない。だが、男の「バカの一つ覚えみたいにね」で、受け方が違うのではないかという気がしてくる。誰かが「ぼけている」「おかしなことをする」ということがただ紹介され、そういう人だから何をしてもいいというエクスキューズとなっており、出来事はすべて「ためにする」、恣意的要素ばかりとなる。関係性のパイプであると自称する男もたいへん便利に登場する。彼がナレーター的に並べる話で何かが繋がったことになるのだろうか。男がなぜ正の母を釣り結婚するのか、なぜ兄が隣の女の養子になるのかという経緯も、「ゲームなので何でもできますからそうしてみました」ということ以上には、よくわからない。おたくで人形フェチであるという紋切り型、キリストになぞらえるといった手垢のついたイメージを「わざとですよ」と言い訳しながら並べ、豆腐の中のセミを誰かが当てて「マモリビト」になるという仕掛けも、自分で謎を提示して自分で解くマッチポンプである。逆に妹の「現実を受け入れられない」「自分を騙す」と説明するナマな言葉には興ざめさせられる。ラストのナイフも思わせぶりなだけである。「~のように」「~ような」という比喩も多すぎる。ちょっと風変わりな趣向の素材を羅列してみた、という以上のことがあるだろうか。「機械仕掛けのように」という、フィナーレのために用意された、劇構造との関連を持たないト書きの指定もいただけない。結局、それぞれの審査員にとってそれが許容範囲かどうか、好みかどうかというところに議論が回収されていった気がする。(「許容範囲かどうか」)

 坂手が最終投票で松井作品を推したかどうかは書かれていない。少なくともここでは、授賞に賛成したと書いていないことだけを記憶にとどめておこう。

 もう一人の鴻上はどうだったのか。
 「『自慢の息子』に関しては、ラストがじつに曖昧で納得できない。どうも、物語の終わらせ方が思わせぶりのわりには、じつは仕掛けとして完成してないのではないのかと思わせられる」と述べつつ、「エピソードとして語られる息子と母のケースはリアルで面白い。これらの小さな物語のように、本来の物語もリアルに最後まで追求すれば、もうひとつ面白い作品になったと感じられる」と注文を付けている。結論はすでに述べた通り。賛成した理由を彼は次のように書いている。

 今回、受賞作としてはやや力不足かと感じたが、亡くなられた井上ひさしさんの「なるべく受賞作を。それが、作家を育てる力に」というモットーに背中を押された。松井さんの内省的な世界が、もうひとつリアルに世界と結びつけば、さらなる名作が生まれるのではないかと期待している。(「もうひとつ力不足だが―」)

 「さらなる名作」はさておき、「なるべく受賞作を。それが、作家を育てる力に」という井上ひさしのことばは鴻上だけでなく、多くの受賞者が身に沁みて感じているに違いない。岸田賞を受賞するかどうかは、劇作家の歩みにかなりの影響を及ぼすからだ。

 岸田國士戯曲賞は「演劇界に新たなる新風を吹き込む新人劇作家の奨励と育成を目的」にしている。形式は戯曲賞だが、狙いは新人劇作家の「奨励と育成」である。1955年に新劇戯曲賞として設置され、1961年には「新劇」岸田戯曲賞、新潮社の岸田演劇賞を引き継ぐ形で1979年に岸田國士戯曲賞と改称され今日に至っている。新人劇作家の登竜門とされることから、「演劇界の芥川賞」とも称される、と白水社のWebサイトにある。

 賞金は20万円。額としてはもっと大金を積む賞もあるのであれこれいうほどではないけれど、受賞すれば新聞やテレビで報道され、「劇作家」として認知される。本人がそれほど意識しなくても、周囲が変わるのだ。おめでとうの電話やメールは数知れず。テレビに引っ張り出されることもあるだろう。雑誌のインタビューや原稿執筆の依頼は確実に舞い込んでくる。原稿料もアップする。認知と周知の機会が格段に広がっていく。次回公演の観客も増えるだろう…。
 もっと大きいのは、主催の白水社から受賞戯曲が出版されることではないか。大げさに言うと、演劇史に名前が残るのだ。

 こういう状況が、50年余りの年月を積み重ねて産み出されてきた。宮沢は「六〇年代の、歴史的な戯曲の問い直しという運動を経験してもいまだになぜ、『戯曲』がそれほど意味を持つのか」と問い返した上で、「演劇のなかで『戯曲賞』がなぜこれほど権威を持つのか。単純な理由だ。それを『権威』だと思う人がいるから、それは『権威』になるだけのことだ」(選評「いまこそ書かれるべき、戯曲としての上演台本 」)という。しかし「権威」の生成を、集合心理の表層に求めるだけでは不十分だろう。こういう岸田賞の歴史や条件、状況などがあるからこそ「権威」だと思う人も増え、ますます「権威」になっていくに違いない。歴代の受賞者が活躍していること自体、岸田賞の「権威」を高めている。宮沢の受賞とその後の活躍ももちろん預かって力になっているに違いない。先のことばは、その歴史的プロセスをあっさり無視している。

 選考委員はいまのところ全員岸田賞受賞者である。受賞の重みを十分に知っている。逆に言うと、受賞しなかった場合の状況も併せて目に浮かべることができる人だからこそ、「なるべく受賞作を」と背中を押され、「受賞作を出さないことにためらい」が生じたりするのかもしれない。受賞前後の環境変化が大きければ大きいほど「受賞作を出さないこと」の危惧と懸念、プレッシャーをそれだけ感じることになる。

 しかしそうであっても、提出された戯曲が授賞に値すると態度変更(賛成)する事態を説明できるのだろうか。

 過去の岸田賞でも「該当作なし」は何度か起きている。永井が選考委員だった第51回(2007)も「該当作なし」だった。このときは作品の水準がいまいちで、選考委員会の大勢が「なし」に流れたから「ためらい」は生まれる余地がなかったのだろうか。いや、ことは数の多少ではなく、大勢に従う処世術の次元の話でもない。具体的な作品の評価をめぐって戯曲観や演劇経験にかかわり、一身の置きどころ、思想のありようにも及ぶからこそ「ためらう」のではないか。永井はだからこそ「これがよかったのか悪かったのか、考え続けることになるだろう」と締めくくった。知らんぷりでやり過ごすのではない。ここには永井の迷いと誠実がそのまま表明されている。

 頑固な異教徒の妥協点

 自分が評価できない作品が受賞しそうな場合(あるいは受賞した場合でもいいけれど)その選考委員はどういう態度をとるのだろうか。白水社サイトに公開されている第43回(1999年)以降13回分の選評を一通り読んでみたが、正面からその問いを満たしてくれる事例には残念ながらぶつからなかった。それは軽い驚きだった。いつだって、選考結果の多数派であるわけがないのに、少数の場合、あるいは自分の演劇観に衝突するような作品が受賞作になった場合、どのように考えたのか。その論理や理由を明快に提出した文章に出会えなかった。だが、その手掛かりがないわけではない。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチ『フローズン・ビーチ』が受賞した第43回(1999年)の選評で井上ひさしがトップバッターとしていきなりこう切り出している。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏に「おめでとう」と申し上げる資格を、わたしは完璧に欠いている。七人の選考委員のうち、氏の『フローズン・ビーチ』に×印をつけたのは、わたしだけだったからである。
 わたしが最後まで推しつづけたのは、『手の中の林檎』(内藤裕敬)で(中略)…。もちろん、支持者が一人では最後まで保たない。また、選考委員会を構成する一員としては、いつまでも粘っているわけにも行かない。そこでお仕舞いは、ほとんど棄権、というような態度で、ごくごく消極的に、『フローズン・ビーチ』の受賞に賛意を表明した。(「おめでとう」を云う資格 )

 これまた率直な意思表示である。「棄権」したわけではない。「ごくごく消極的」ながら「賛意を表明した」。その理由は「選考委員会を構成する一員としては、いつまでも粘っているわけにも行かない」からだというのである。

 あくまで反対を主張し続けたら委員会の行く先がどうなるか-。そういう事態への配慮と選考活動を継続する知恵から出たことばのように思える。

 当時の選考の様子について坂手が「選考会は激戦で、一筋縄ではゆかなかった。選考委員が持論を披露し、やがて幾ばくかの無念さとともに推薦作の弱点を呑んで一歩後退していくという展開だった。あるいはある瞬間、私たちは確実に、井上戯曲塾の生徒になっていた」(第50回選評「きっぱりとした決意で走りきる 」)というほど井上の存在感と影響力は強く大きかったのである。ぶちこわしてはいけない、岸田賞は演劇の世界にとって貴重な推進装置との認識が井上にはきわめて強かったのではないか。そういう考え方の持ち主、そう感じていたのは井上だけではないかもしれない。

 選考委員会は最初に投票し、話し合い、最後に投票で選ぶという進行らしい。しかしこれは表の世界の結果に過ぎない。水面下には、受賞作を評価しない人たちの断念が横たわっている。いやいやでも授賞を認めざるを得ない「あきらめの儀式」が時間を掛けて執り行われていることになる。議論によるぶつかり合いがあり、ねじ伏せがあるかもしれない。説得と反論が交錯するに違いない。最終的には多数決が、不本意な結果でも自分を納得させるだめ押しになる。

 もう一人のことばを引いておこう。同じ第43回の選評で佐藤信は次のように記している。

 一年一度の選考会での討論はとても楽しいが、気がつくと、いつでも選者おのおのの芝居にたいするてんでな信仰告白の場になっている。頑固な異教徒同志(原文のママ)がとりあえずの妥協点をさがすわけだから、まかり間違うと、異端の部分よりも、作者の演劇的良識というか、平均的な了解事項のほうに目がいってしまう。(「『ケラさん、おめでとう』を言いながら」 )

 「作者の演劇的良識」「平均的な了解事項」が何かは述べられていないけれど、この指摘は大事な問題の領域を指しているように思える。つまり芸術作品を、ここではさまざまな戯曲を、異なる考え方の持ち主の間で「とりあえずの妥協点をさがす」から、ほころびが生み出されると言っているに等しい。選考委員会という合議形式の形態と性格がどうしても俎上に上がらざるを得ないのである。

 この問題を考えるために、少し回り道をしてみたい。ほかの分野の賞選びはどうなっているかみておきたのだ。岸田賞が「新人劇作家の登竜門」「演劇界の芥川賞」と称されるからには、本家の「芥川賞」はどうなっているかをみてみるのが自然の成り行きというものだろう。

 芥川賞とショパン・コンクール

 芥川賞は1年に2回、上半期と下半期に選考委員会を開く。しかも戦前から続く伝統の文学賞だけにさまざまなエピソードに事欠かない。最近の芥川賞も石原慎太郎の選考委員辞任や受賞した田中慎弥の記者会見が話題になった。しかし受賞騒動を総まくりするわけにはいかないので、最も紛糾したといわれる第75回(昭和51年上半期)を取り上げよう。受賞作は、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」だった。

 芥川賞・直木賞の立ち上げから事務局を支え、両賞の選考委員も務めた永井龍男が『回想の芥川・直木賞』(文藝春秋)の中で第75回選考会のあらましを書き記している。それによると、当時の選考委員のうち、吉行淳之介、丹羽文雄、中村光夫、井上靖が村上作品を推し、安岡章太郎、瀧井孝作、永井龍男、大江健三郎は推さなかった。村上受賞が決まった後、永井は辞表を提出したが、慰留されて委員にとどまった。(第76回は該当作なし)

 しかし第77回(昭和52年上半期)の芥川賞で、三田誠広「僕って何」とともに、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」が選ばれた。このときも対立は激しく、「(池田作品に対する)反対意見は、二作受賞を許さない、という強烈さだった」(吉行淳之介)という。

 永井は選評で「『エーゲ海に捧ぐ』は、精密な素材の配置と文章で組立てられていたが、緻密な描写が拡がるにしたがって、端から文章が死んで行き、これは文学でないと思った。前衛的な作品と思っていたが、遠い日本妻の述懐が浄瑠璃風な陰惨な伴奏を繰り返し、空虚な痴態だけが延々と続く。再三の投票に依って、発表の通り二編が授賞作と決まり、『こころの匂い』と(永井の推した)『観音力疾走』が次点となった」と評した。その上でこう述べる。

 さて二編の受賞のうちの一篇を、まったく認めなかったということは、委員の一人として重要な問題である。前々回の「限りなく透明に近いブルー」に対しても、私は票を入れなかった。共に「前衛的」な作品である。当然委員としての資格について検討されなければなるまいと考えた。(永井龍男『回想の芥川・直木賞』)

 永井はこの後、選考委員を辞任した。「文学でない」作品が「芥川賞」を受賞したのだから委員にとどまる理由はない。永井にとって「エーゲ海に捧ぐ」の評価は、作家としての活動と思考の中心にあってゆるがせにできない一線だったのだろう。その意味で、きわめて明快な論理と意思決定だったのである。さらに、選評はこう続けている。

 拙文中、『再三の投票に依って、発表の通り二篇が受賞作と決まり』という項は、最初たしか二票だった「エーゲ海」が、再投票ごとに数を増し、遂に「僕って何」と同点までせり上げられた光景はいまも覚えている。遠藤周作氏ら支持委員の熱意が、そこまで持って行ったので、これほど投票を重ねたのは、第一回以来おそらくこのときだけだったと思っている。際だった印象としてなお記憶に残っている。(同上)

 『回想の芥川・直木賞』はこの一文で本文を閉じている。無念の余韻が行間から立ち上ってくるような筆致ではないか。

 それから30数年。『週刊文春』(2012年2月2日号)の記事で、当時の芥川賞選考会の様子が紹介されている。それによると議論は長引き、席上、意見を求められた永井は「俺に意見はない。戦死だ」と言い、重ねて意見を問われて「戦死した人間がしゃべれるか」と怒鳴り返した、という。選考が終了した後、料理が出されると、「本日はこれにて失礼する」と杯を下向けて置いて立ち去った。司会を務めた「文藝春秋」編集長(当時)の半藤一利は「見事な去り際だった」と語っている(「芥川賞77年 文春だけが知っている『全舞台ウラ』」)。

 このとき選考委員だった大江健三郎は「エーゲ海に捧ぐ」に反対した一員だった。三田と池田の作品の特徴や不足を指摘したのち、その後の対応を選評でこう述べている。

 しかし強力な支持者たちがあり、僕は反対者としておおいに討論した後、授賞に賛成した。このように激しい討論の対象になる作品は、対立は対立のままに、選んで江湖の批判にゆだねたい。文学において、あらゆる思い込みは相対的なものだから。(『芥川賞全集 第十一巻』文藝春秋)

 大江は当時42歳。作家として脂の乗った時期だった。候補作の評価を「思い込み」とみなし、選んだ後で「江湖の批判にゆだね」ればいいという姿勢に、作家としての自信と余裕を見る向きがいるかもしれない。辞任した永井のように、少なくとも作家として鼎の軽重を問われるような切実な重さを感じてはいなかったに違いない。

 しかし選考会の評価が相対的な「思い込み」なら、わざわざ授賞に賛成しなくても、最後まで反対を貫いて「江湖の批判にゆだねる」対応だってありうるだろう。かえってそういう一貫した姿勢の方が鮮明だし、分かりやすい。

 大江の選評を読む限り、わざわざ賛成した理由は書かれていない。一体何が賛成の引き金になったのだろうか。選評の字数が少ないし、きちんとした展開を求めるには無理があるかもしれない。しかし不明なことが多すぎて、当初から掲げてきた問いに答えるには大江の選評も十分とは言えない。

 演劇、文学ときたら、音楽の世界がどうなっているか気になってくる。音楽は声楽部門を除くと、とりあえずことばは問題にならない、世界規模で勝負できる分野である。
 例えば5年に一度開かれるショパン国際ピアノ・コンクールは戦前からの長い歴史と伝統を誇っている。日本人は内田光子や中村紘子、小山実稚恵、横山幸雄らが入賞しているからよく知られている。しかしここでも審査は絶えず揉めている。審査員は各国から参加、出場者も多いからなおのこと輪を掛けて大騒ぎになるのかもしれない。最も知られているのは第10回 (1980年) 大会だった。ある出場者の演奏評価をめぐって、審査員が抗議辞任してしまったのである。

 話題の主はイーヴォ・ポゴレリッチだった。いまはすっかりオジサンになってしまったが、当時は22歳。颯爽とした様子は次のように描かれている。「ボサボサの髪、上着もつけずに短いひもタイ、黒の革ズボンの出で立ちでステージの登場したイーヴォは、第一次予選から審査員の一部の顔をしかめさせ、同時にポーランドの若者たちのアイドルになった。演奏も風貌に劣らず風変わり、革新的だった」(佐藤泰一著『ドキュメント ショパンコンクール その変遷とミステリー』、春秋社)。

 第10回大会は出場者が多かったことで知られている。200人以上が出場を希望したが、最終的には36カ国149人が予選に出場した。第一次が6日間。朝から晩まで同じ曲を延々と演奏するので、審査員も聴衆もうんざりしたらしい。それが二次、三次、最終予選と続いていく。いうまでもなく、ショパンコンクールは予選から公開。ラジオやテレビが連日評論家らを動員して放送する一大国家行事だった。今も昔も変わらない風景だろう。

 ポゴレリッチは一次二次と順当に進み、第三次予選のソナタ第2番を見事に弾いて聴衆の心をつかんでいた。ところが、最終審査には残れなかった。落選したのだ。そのいきさつを前掲書はこう述べている。

 彼(イーヴォ)は第一次と第二次の予選を今回の出場者随一の技巧と個性とで難なく乗り切った。第三次のソナタも彼として思い通りに弾き切ったことだろう。一貫して陰鬱な曲調は多くの人々の背筋をゾッとさせ、全身を震撼させた。しかし、彼の態度や弾き方に大反対の審査委員たちの負の点も蓄積されていった。(前掲書)

 審査委員は当時25人。ピアニスト出身の各国のお偉方、音楽学校の教授陣、コンサートピアニストに大別されていた。第7回大会(1965年)優勝者で早くも国際舞台で活躍していたマルタ・アルゲリッチは審査委員に呼ばれていたが、イーヴォ落選の結果に激怒。「彼は天才なのだ」という言葉を残して大会途中なのに抗議辞任。サッサとワルシャワを後にしてしまった。

 ポーランドで長年コンクールの放送を担当してきたイェージー・ヴァルドルフも「(マルタは)審査員席に座ったことを恥じると述べ、同僚諸氏を侮蔑した!」と述べた上、さらに言葉を継いでこう手厳しく書いている。

 彼女は機械的なコンピューターのポイント式採点のため、ユーゴスラヴィア(当時)の候補者イーヴォ・ポゴレリチのような-彼女の言う-俊英がオーケストラとの共演からはずされる(最終審査はオーケストラとの共演-編注)結果が出るなら、魂のない機械の計算する選と選との間の審査員席でするディスカッションで集積されるべきだと叫んだ。(足達和子訳『ものがたり ショパン・コンクール』音楽之友社)

 要は、予選とはいえ点数集計だけでコンクール出場者を評価するな、評価基準や点数の意味、内訳をきちんと議論させろと言う、演奏家からすれば至極まっとうな反応だろう。審査する同僚への気兼ねはまったく見られない。むき出しの率直と言うべきかもしれない。

 同じ審査委員だった パウル・パドゥラ=スコダとニキタ・マガロフ もアルゲリッチを支持。コンサートピアニストとして著名なこの2人は抗議辞任にはいたらなかったが、審査結果に納得しがたいと公言した。

 ところが。この大会でもう一人抗議辞任した審査員がいたことはあまり知られていない。ハンガリー出身の英国のピアニスト、ルイス・ケントナーである。第二次大戦前からヨーロッパで活躍したピアニストで、バルトークとの縁で、彼のピアノ協奏曲第2番を初演したという経歴の持ち主だった。

 彼はアルゲリッチと正反対だった。ポゴレリッチが落選する前の第二次予選で、彼の演奏を評価して次の三次予選に通したのはおかしい、と声を上げたのだ。一人の出場者をめぐって、ある審査員は彼が三次予選に進んだのがけしからんと辞任し、もう一人は三次予選で彼を落としてしまったのは認めがたいと辞任する。コンクールの演奏評価は、審査する者の演奏観、音楽観によって、がらりと変わってしまう。従って結果だっていくらでも変わりうる。コンクールとはそういうものだと暴露したようなものだ。

 もっともケントナーの場合、審査委員会側も負けていない。記者会見を開いて、英国から参加した4人が全員、二次予選で落選したせいで英国から来たケントナーは面目を失ったので辞任した、その理由をポゴレリッチになすりつけているのではないかと反論したのである。場外乱闘まではいかなくても、派手にやり合っていたのだった。

 ここまでくれば、回り道を延々と続けてきたわけを理解してもらえるだろう。
 選考会で授賞に値しないと主張したからと言って、最後に賛成する委員ばかりではない、選考結果に納得しないと公言する例もあるという単純な事実を知ってもらいたかったのだ。

 もし岸田賞の選考過程で辞任した選考委員がいない、つまりは激しい対立が委員会の内部で完結するということは、ことを荒だてたくないという優しい気質が「頑固な異教徒」にもあったということか。同じ信仰の「同志」としての一体感、仲間意識が作用したのだろうか。これほど世界が分裂、変形してとらえがたくなっている状況が、日本の劇作家から強固強烈な確信を軟化させてしまったのだろうか。いやいや、そんなふうに問題を設定してはおおざっぱすぎるだろう。そうではなくて、もう一度最初の問いに戻るのだ。作品を分析し、瑕疵を挙げ、厳しい評価を下す。しかし授賞に値すると最終的に賛成する。この二つの間に何があり、何がないのか、と。

 他者と付き合うというと、物腰は柔らかに感じるけれど、他者とは意見も価値観も違う。その違いが際立つ場面が必ず訪れる。そのとき、どのような姿勢を取るのか。構えるのか。そういうことではないか。

 選考委員の交代

 ここまで書いてきたところで、今年の岸田賞の最終候補作が発表された。同時に、選考委員が交代したことも明らかになった。ここはちょっと、ドッキリだった。

 新任は岡田利規、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、松尾スズキ、松田正隆の4人。退任したのは坂手洋二、永井愛、鴻上尚史の3人である。辞めた3人は前回、程度の差こそあれ、受賞作に反対したメンバーだった。9月の初回掲載からしばらく放りっぱなしにしていたら、何やらミステリアスな進行になってしまったのかもしれない。

 選考委員任期は3年だから、交代した3人はそろって、2006年の第50回から2期6年務めた。とは言っても同時期に委員になった宮沢章夫は今期も委員に残った。野田秀樹は第38回(1994年)から、岩松了は第46回(2002年)から選考に加わっている。こうして委員の任期を書き連ねたからと言って、別に3人が辞めた理由をここで詮索するわけではない。任期が来たことは間違いないから、そのタイミングで辞めたというだけで十分である。

 ここで必要なのは、なぜ辞めたのかという個人的な動機ではなく、選考委員会という集合体の選考システムである。芸術作品を「選ぶ」という行為を再考してみること、選考委員の「人選」を問うこと、選考方法と選考形態に視線を注ぐこと、評価と授賞の亀裂を忘れないこと…。煎じ詰めれば、それでも優れた作品を世に送り出す機能の必要と実現方法を考えることではないだろうか。(>> 続く
(初出:マガジン・ワンダーランド第280号、2012年2月22日発行)

【補注】
・音楽コンクールは歴史も古く、数多くの揉め事に翻弄されてきたので、審査員も事務局もタフネス揃いらしい。中村紘子『チャイコフスキー・コンクール―ピアニストが聴く現代 』(中公文庫)は自らの審査経験を基にした大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。
・音楽と演劇のかかわりを考えると、最近読んだ岡田 暁生の一連の著作、特に『音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉』 (中公新書) が興味深かった。

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