忘れられない1冊、伝えたい1冊 第15回

◎「劇的言語」(対話:鈴木忠志・中村雄二郎 白水社 1977年)
  カトリヒデトシ

「劇的言語」表紙
「劇的言語」白水社版表紙

 元より偉大でもないのは自明だが、演劇に関してはロスジェネになりたくない。

 ガキのころから季節季節には母に歌舞伎座に連れていかれ、わけもわからずおうむ岩のように「つきもおぼろにしらうおの」とかいっていた。父には毎月寄席につれていかれ「なおしといてくんな」とか「抱いてるおれはいってえ、誰なんだ」とかいう、やな小学生だった。
そんななんで古典に関しては昭和後半の「名人」という人を随分生で見てきた。ありがたいことだったなぁ。今でも六世歌右衛門や先代の辰之助は夢にみるし、圓生や志ん生のくすぐりや「カラスかあと鳴いて夜が明けて」とかの口調がついてでる。ふと「昔はよかった」といってしまうこともある。

 けれど中学生から30年以上、小劇場ばかり見ている芝居に関しては一度も昔はよかったといったことはない。というよりもむしろいわないことを自分に課している。
だっていつも「今の」芝居が一番面白いからだ。
寺山修司だって、東京グランギニョルだって、その時一番かっこよかったし、同じ時代にいられる幸せを感じた。最高に痺れた。
 演劇はいつも私にとって民衆を導く自由の女神であった。だから私は一歩前を行く彼(女)らに遅れないように転びつつも必死でついていく絵中のシルクハットのおやじのようであった。

 そんな風になったのは、スタート地点で早稲田小劇場やつかこうへい事務所に出会い、今回紹介する本、鈴木忠志・中村雄二郎対話の「劇的言語」にであったからであろう。
「語りは騙り」であるとか、「舞台で起こるのは変身ではなく顕身である」とか、「前言語状態にしか劇的体験はない」とかいう一節は、私の演劇観、もっといえば私の存在の根幹をなす核となる部分にふれさせてくれた一冊だった。

 作家主義よりも役者主義。うまい下手より迫力や燃焼度を重んじるライブへの信頼とこだわり。そういった考え方へことばで裏打ちしてくれる、この本に多大な影響を受けたのである。
 天井桟敷の「レミング」(「奴婢訓」)やら「戦争で死ねなかったお父さんのために」やら「マーキュロ」やら「人魚伝説」やらを見た。確かに見て、雷に打たれた。死ぬかと思ったことすらある。


 けれど、やがて見た人間として責任というものを感じたりするようになった。
「見た」ことを誇ったり、優越を感じることは愚の骨頂だ。「見た」だけではまだなにもはじまっちゃいない。けれども、「見た」ことは「見てしまった」ことである。見てしまったことは取り返しのつかない経験をしたということだ。その時、もう後には戻れない人生の分岐を曲がってしまった。とてつもなく恐ろしい体験をしたのだといえる。

 そこで受けた「傷」によって、私は私になったし、私以外の人間になれなかった。
 その「傷」は時間とともに癒えるものではなく、むしろ繰り返し、繰り返しその体験を実感しつづけるものだった。
体験を語っていかなければならないんだと思う。後生に引き継いでいくバトンを渡されてしまったのだと思う。
 その体験を消さないためにも言い続けなければならないことがある。
 いつだって今最も面白い演劇には私が得たエッセンスの重要なものが脈々と受け継がれているのを感じる。それは、正しいんだと言い続けなければならない。それが見続けてきたものの努めだ。示準化石みたいなもんだ。

 気づくともう人生も終盤である。まだまだ次の世代にバトンを渡せていない。
 もちろん演劇が最強であると信じる者の一人である。かつて天才がいたと懐かしんでいる場合ではない。舵を取り風上に向かう者は絶えず存在し、絶えず孤独な戦いを繰り返している。長く見てきたひとりとして、新しい開拓者へ寄り添い続けて行きたいと思っている。
日はまた昇らないわけじゃない。

香取英敏さん
カトリヒデトシさん

【著者略歴】
 カトリヒデトシ(香取英敏)
 1960年、神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、公立高校に勤務し、現在は家業を継ぎ独立。2011年より「カトリ企画」を主宰し、プロデュース公演を行う。2013年3月に第5回公演を準備中。

ワンダーランド寄稿一覧: http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katori-hidetoshi/

「忘れられない1冊、伝えたい1冊 第15回」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜

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