◎宮城体制の完成へ向けて、或いはお別れの始まり
柾木博行
今年もまた6月の週末は静岡に通った。静岡県舞台芸術センター(以下SPACと表記)が開催する「ふじのくに⇄せかい演劇祭」を観るためである。今年は演劇祭本編で9作品、そして番外編として開催された「ふじのくに野外芸術フェスタ」は4企画6作品が上演された。前身の「静岡春の演劇祭」からリニューアルした一昨年から比べると徐々にだがプログラムの方向性が変わってきているように思う。過去2年はのれんの架け替えを周知してきたのに対して今回は内容そのものを変えたと言えるだろう。
では、今年何が変わったのか? 主要なポイントは下記の3点だろう。
・オーディションメンバー参加によるクロード・レジの新作『室内』。
・野外劇場・有度での宮城の新作上演
・ふじのくに野外芸術フェスタとの連携
残念ながら、いくつかの作品は見逃しているが、それでも観た作品とプログラムの構成から、この演劇祭とSPACの現在と今後について考えることは可能だろう。今回は私が観た中からいくつかの作品について触れつつ、演劇祭全体の評価をしたい。
ベルリン・フォルクスビューネ『脱線! スパニッシュ・フライ』
ヨーロッパの現代演劇について多少かじったことのある人ならば、フォルクスビューネの名前は聞いたことはあるだろうし、2005年に世田谷パブリックシアターで上演された同劇場の『終着駅アメリカ』(原作=テネシー・ウイリアムズ『欲望という名の電車』、脚色・演出=フランク・カストルフ)をご覧になった方も多いだろう。『欲望という名の電車』をエッジの効いたアートっぽい意匠で現代化した作品だった。
だから今回も、タイトルや宣伝内容ではコメディと銘打っているものの、実際の舞台はカストルフの作品に近いどこか難解な雰囲気をもっているのではと想像していたのだが、実際に作品を観るとパンクな雰囲気はあるもののコメディ。しかも完璧なスラップスティック・コメディであった。
台本はフランツ・アルノルト、エルンスト・バッハが第一次世界大戦前に発表した喜劇で、社会風刺と諧謔、人物の取り違え、といったシェイクスピアの時代からある古典的な笑いの要素が詰め込まれている。だからヒロインの母親がカチコチの道徳観念の持ち主で「母性保護同盟」の会長を務めているなど、ピンポイントで歴史的な古さがのぞき見える部分もある。
だが、そんなことは観劇中のほんの一瞬に過ぎない。何しろ登場人物たちのビジュアルから演技、さらに装置にいたるまで、徹底的にぶっ飛んで、パンクなテイストに貫かれているのだ。
「ぶっ飛んで」というのには2つの意味がある。登場人物たち、とりわけ女性がとんでもないデコ盛りの髪型をしていて、主人公の若い娘パウラなどは(お堅い母親との対比の意味も含め)シースルーの衣裳を着けるなど、キャラクターの造形がぶっ飛んでいる点。そしてもう一つは比喩ではなく、実際に舞台中央奥にトランポリンが仕込まれていて、登場人物がまさに「ぶっ飛んで」みせるのだ。
舞台を観ながら、これはどこかで見たことがあるという既視感を感じていたのだが、しばらくするうちに気がついた。これはザ・ドリフターズの往年のバラエティ番組「8時だョ! 全員集合」だ! そう考えると、舞台全面を覆い尽くして、客席側にべろりとはみ出ている1枚の巨大なペルシャ絨毯(もちろん作り物)の美術にしても、ドリフのコントで使われるセットと似ているようにも思える。
とはいえ、こちらの出演者は演技と身体能力に関して格段に達者な連中が揃っている。それだけに途中で台本にはないアドリブを飛ばして、日本語字幕のオペレーターすら混乱に陥れるという、パニックを巻き起こしてくれた。そう、原題の”Die (s)panische Fliege”の”s”がカッコでくくられて、「パニックを巻き起こす蠅」とも読めるタイトルそのものの舞台だったのだ。
(6月8日観劇)
IIPM『Hate Radio』
今回の演劇祭で、個人的に一番注目していた作品がIIPM(International Institute of Political Murder)の『Hate Radio』だった。その評判は昨年ベルリン演劇祭で上演された様子を報告した市川明氏の記事などで知っていたが、ルワンダ虐殺を扱った作品が果たして日本人にどの程度伝わるのか、多少の疑念も抱きつつの観劇であった。
『Hate Radio』は先にも書いたように1994年に起きたアフリカ中部に位置するルワンダで起きた虐殺事件とメディアの関係を描いた作品だ。
大統領の暗殺事件をきっかけにフツ族系の政権と過激派は、ルワンダ国内のツチ族を大量に虐殺。紛争が終結するまでの約100日間の犠牲者は50万人から100万人ともいわれる。虐殺には民兵のほか、一般のフツ族市民も隣人のツチ族市民を殺害するよう命令され、これを拒む者もまた裏切り者として殺された。
こうした中で、ミルコリンズ自由放送(RTLM)というラジオ局はツチ族とフツ族穏健派に対するヘイトスピーチを繰り返し、虐殺を煽動していた。『Hate Radio』は、そのラジオ局でどんな放送が行われたのかを再現してみせるドキュメンタリー演劇である。
上演された静岡芸術劇場の客席入口では観客がラジオを渡され、上演中はすべてこのラジオを通じて音声が流れることを知らされる。
そして客席に入ると舞台の上にはプロジェクターで4人の人物─黒人男性2人と黒人と白人の女性1人ずつ─が投影されている。身じろぎもせずただまっすぐ客席の方を向いて立っている姿は、博物館などに設置されたマルチメディアキオスクが、再生ボタンを押されるのを待っているかのようで、歴史的な事実を見るという雰囲気を高めていた。
劇は3部構成で展開する。最初と最後はこの映像で登場するワンダ虐殺の生き残り4人による証言。そしてその間にミルコリンズ自由放送のラジオの放送ブースでの1日の様子が再現される。
最初の証言シーンは、虐殺事件が起きたときにどこにいて、どんなことに巻き込まれ、どうして生き延びることが出来たのかを4人が淡々とした口調で語る。目の前で母親が斬り殺された者、死体の山に埋もれて死んだふりをして殺されずにすんだ者。想像するだけでも恐ろしい出来事が語られる。
そして、4人の証言が終わると、彼らが映し出されていたスクリーンがゆっくりと上に移動して、隠されていたセットが現れ、そこは一転して1994年のルワンダのミルコリンズ自由放送の放送ブースになる。
放送局のセットは、DJたちの放送ブースとガラスで仕切られたミキサー室からなる。フツ族の男女のDJと、旧宗主国のベルギー人の男性DJ、ミキサー室にいる音響スタッフ。そしてひと言も語らずずっと部屋の隅に立っている政府系の軍人。彼らはごくごく普通にラジオ番組を進行していく。国内と海外のニュースやリスナー参加型のルワンダの歴史についてのクイズ、そして民族音楽から人気のポップスといった音楽もオンエアする。
ただひとつ、我々がイメージするラジオ番組と異なるのは、この放送局のDJたちは番組のいたるところでツチ族を排斥し、ゴキブリと呼び、電話をかけてきた11歳の少年に隠れているツチ族を仕留めるよう励ますということだ。
こうして文章にすると熱狂的なアジテーションが流されるように思われるが、実際の舞台から受ける印象はちょっと異なっていた。
ひとつには客席からは透明なアクリル板で仕切られていることもあって、音声は生では聞こえずラジオのイヤホンを通して聞く必要があり、さらにそこから聞こえる台詞がフランス語かルワンダ語のため、放送ブースのセット上部に設置された日本語字幕を介して理解するという、台詞を理解する上での手続きの煩雑さがある。これは、日本上演のためというのではなく、IIPMの本拠地であるドイツ語圏でも同様にドイツ語字幕を出していたそうなので、演出としてそういう手法を選んだと考えられる。
演出のミロ・ラウは、こういった同時に複数の作業を観客にやらせることで、観客が劇の世界に必要以上に同化することを周到に回避させたのではないか。
また、このラジオ放送が、ひと昔、ふた昔前の、ごくごくオーソドックスな構成で作られていることも影響している。
番組のコーナーの区切りでジングルやサウンドエフェクトがかけられるなどの演出はなく(そもそもこのラジオ局にはディレクターがいない)、DJたちがおしゃべりをして、ニュースを読み、音楽をかけて、リスナーからの電話を受け付けて会話する、という古典的なスタイルで、ゆったりと進行していくのだ。
また、ここにいるDJたちは、ときに陽気にアップテンポで、ときにシリアスにリスナーに語りかけるものの、飛び抜けたカリスマ性をもっていたわけではないということもあるだろう。それなのに、いや、それだからこそ『Hate Radio』は、メディアの恐ろしさを描いているように思えた。
あのような、ゆるい感じの古風な構成のラジオ番組に、ちょっとしゃべりが上手なだけのDJが出演して語りかけるだけなのに、それを毎日聴いている者は古くから付き合いのあった隣人を殺すことができてしまう。もっと演出的な効果を駆使できる現代の日本のラジオなら、さらにすごい影響力をもったプロパガンダ放送ができるのではないだろうか─。
最後の証言シーンでは生き残った4人が今の生活についてと虐殺事件を振り返って語る。ここで観客は再度この虐殺事件について博物館の資料を見るような形で、過去の出来事として認識させられる。そのうえで、過去のルワンダで起きた事件と、自分が現在いる状況とを比較することになる。まったく見知らぬ国で過去にあった事件についての再現劇を観たというだけで済むか、今自分を取り巻く社会に同じようなものがあると気づいてしまうか。
その意味では『Hate Radio』は、上演される国が抱える社会的問題の深刻さを図るレベルメーターのような作品といえるのかもしれない。
(6月30日観劇)
SPAC『室内』
今年の演劇祭で一番注目を集めたのは、フランスのクロード・レジがSPACの役者たちを使って演出する新作『室内』だった。なにしろ、東静岡駅からバスで15分もかかる静岡舞台芸術公園にある小劇場・楕円堂での公演にもかかわらず、即日完売だったという。
クロード・レジは3年前のこの演劇祭(当時はShizuoka春の芸術祭)で『彼方へ 海の讃歌』を上演して以来、日本でもその名が知られるようになったフランスの演出家。1923年生まれで、52年から演劇活動を始めた大ベテランだ。若い頃にも今回取り上げたメーテルリンクの作品を演出したことがあるという。
特定の劇場に所属せず、長期間の稽古を通じて非常に緊張感にみちた舞台を作るため、近年は劇場側がレジのクリエーションで大人数が出演する企画を敬遠するようになり、もっぱら一人芝居を発表することが多いという。SPACで2010年に上演された『彼方へ 海の讃歌』も、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの長編詩を、ジャン=カンタン・シャトランという男優がひとり立ち尽くしたまま延々と語るというシンプルな構成だった。
この公演で来日した際にSPACの役者達を見たレジが、「このカンパニーなら自分のやりたいことを実現できるかもしれない」と言ったことがきっかけとなって、今回の新作『室内』の上演につながったという。
『室内』は、『青い鳥』などで知られるメーテルリンクが1894年に発表した戯曲で、神秘主義に傾倒していた初期の代表作の一つだ。今回はSPAC文芸部の横山義志が新たに翻訳した日本語台本を使っている。
物語は、ある少女の死を発見した2人の男─彼女と顔見知りの老人とよそ者の男─が、少女の死を伝えようとその家族の家へ訪ねるところから始まる。窓越しに少女の姉妹や、両親、幼い弟のいる団らんの様子を見た2人は、しばらくは不幸を知らせることができずにいるが、やがて少女の遺体を運んだ葬列が家のそばまで来ると、意を決した老人が家のドアを叩き、家族へ少女の死を伝える。
おおまかなあらすじとしてはこれだけである。台本としてはわずか20ページあまり、普通に上演すれば30分もかからないだろう短編だ。ところが、SPACの舞台ではクロード・レジの演出によって、1時間40分ほどの上演時間がかかる形になっていた。
なぜそれほど上演時間がかかるようになったか? ひとつには転形劇場もかくや、というくらい、役者たちが超スローテンポで動いていたことが挙げられる。また、その動きに呼応するかのように、せりふもゆっくりと文節毎に区切るような形で発語されていた。
これはもちろんレジの演出によって役者がこのような演技をしたのだが、一方、こういった演技を役者たちが自然とするような空間の磁場があった、ということも大きな要素としてあげられる。何しろ音楽や効果音などは全くなく、照明も目が慣れてきてようやく、役者の顔がかすかに判別できる程度の暗さ。まるで宇宙の果てか、冥府にでも連れ去られたかのような感覚に襲われる。
この空間で動き、語るとすれば、時空を歪曲させるような極度にゆっくりした動作とたどたどしい発語の方がむしろ自然と言えよう。日常とは切り離され、死を眼前に提示させられるような作品なのだから。
だが、その一方でこの作品の上演中に激しく生を感じさせるものがあったことも忘れられない。それは観客が自ら発する生理代謝だ。自分や周りの息遣いや脈動、唾を飲み込む動作まで、あらゆる生理現象の音が、客席には渦巻いていた。まるで砂が敷き詰められた舞台と観客席の床を仕切っているロープを境として、舞台側が死者の世界、客席側が生者の世界だとでもいうように。
ただ、このことが必ずしもいい形でばかり効果を生んだわけではないことも付け加えておきたい。普段の観劇ではチラシや当日パンフレット等がこすれる音が気になることはあっても、自分の息づかいや、周りの人の呼吸する音など気づくことはほとんどない。
こういったことも含めて、他では味わえない観劇体験をしたとも言えるが、舞台上での出来事を追いかけようとしても、観客席側の方にも意識が広がってしまうため、集中力が拡散しがちだったというのは否定できない。
『室内』に関してもうひとつ、書き記したいのはオーディションで選ばれた出演者の顔ぶれである。たきいみき、布施安寿香、吉植荘一郎、大高浩一といったSPAC所属の役者や、泉陽二のような最近SPAC作品に出演している役者に加えて、松田弘子、下総源太朗が出演していたことだ。
松田は青年団所属、下総は現在フリーだが、もとは転位・21(現在の新転位・21)を経て燐光群で中心的な役割を果たしていた。ふたりとも自分自身でオーディションに応募して選ばれたということだが、海外の演出家を招いて作る作品とはいえ、かつては鈴木忠志が率いていたSPACがこうした形で演技スタイルがまったく異なる役者を受け入れるようになってきたことは注目したい。
正直なところ、観劇するまではレジの要求するレベルまで日本の役者がついていけるのか、またフランス語の持つ韻律などが使えない日本語のテキストでレジの作品世界が立ち上がるのか、心配しなかったといえば嘘になる。
だが、オーディションメンバーも加えたSPACの役者たちはフランスと静岡で合計3ヶ月に渡る稽古を通じて、特異な演出家と共に、尋常ならざる異世界を作り上げることに成功した。そのことは、レジ自身がこのプロダクションをヨーロッパに持って行きたいと語ったことにも現れているだろう。
いつか、レジの地元であるフランスでの公演を経て、さらに完成度を高めた作品を、再びあの楕円堂で見たいと思う。
(6月22日観劇)
SPAC『黄金の馬車』
「ふじのくに⇄せかい演劇祭」で観客が毎年一番の楽しみにしているものといえば、芸術総監督の宮城聰が演出する野外劇場・有度での公演だろう。
宮城は2007年4月にSPAC芸術総監督に就任、翌々年には野外劇場でSPACの役者を使って唐十郎作『二人の女』を演出した。だがこれは演出的に宮城の本領を発揮したものかと問われると、あくまで実験的な意味合いが強かった公演だったようだ。
宮城の本格的な野外劇場での演出は、2010年に美加理が初めてSPACに参加した『王女メデイア』からと言っていいだろう(厳密にはク・ナウカとして2000年の演劇祭で同作を野外劇場にて上演している)。それ以降は、毎年ク・ナウカ時代の作品を再演するようになり、それはそれで宮城ファンを狂喜させたのではあるが、一方ではク・ナウカ時代の名作を再演していくだけでは早晩やり尽くしてしまうことは目に見えていた。
おそらく2013年に『トリスタンとイゾルデ』を再演して、翌年には新作を上演するだろうと、私は勝手に想像していたのだが、予想に反して新作はひと足早くやってきた。それが今年上演された『黄金の馬車』である。
今回の『黄金の馬車』は劇の構成が複雑なだけでなく、成り立ちも入り組んでいる。
まず『カルメン』の原作者として知られるプロスペル・メリメが、ペルーの伝説的女優ミカエラ・ビリェガス(1748-1819)をモデルに書いた戯曲『サン・サクルマンの四輪馬車』というのがあり、それを下敷きに1950年ころにルキノ・ヴィスコンティが映画化をする企画がもちあがった。
しかし、ヴィスコンティはプロデューサーと対立したため、師匠筋にあたるジャン・ルノワールが代わって52年に監督したのが映画「黄金の馬車」だ。
舞台は18世紀の南米ペルー。スペイン総督の官邸には燦然と輝く黄金の馬車が到着、それと一緒にイタリアから南米へ巡業にきたコメディア・デラルテの一座も登場する。黄金の馬車を眺めて喜び騒ぐ貴族たちと、公演の準備に追われる一座の芸人たちだが、やがて一座の花形女優カミーラをめぐり、総督、闘牛士、男優が芝居も現実も越えた恋の騒動を始める─。
この映画を今回宮城が舞台化したのだが、宮城は更に設定を室町時代の日本に置き換えて、スペイン総督を土佐で国司をする殿様に、コメディア・デラルテの一座を時代遅れで都落ちした田楽一座にした。この一座が演じる劇中劇も、国生み、天の岩戸、八岐大蛇といった「古事記」の神話になっている。
一方では一座の花形女優のヒロインを映画版のカミーラという名前をそのまま残しており、他の登場人物も肩書きは設定に合わせて日本に置き換えているが役の名前としてはラモン、フェリペ、マルチネと、元の映画そのままにしている。
上演会場となった野外劇場・有度に観客が入場すると、何といつも座る客席エリアの先の舞台側に仮設の客席が設置されている。これは黒田育世が昨年の演劇祭に参加した際にこの劇場で上演した『おたる鳥をよぶ準備』で、2部構成の後半に客席と舞台を入れ替えるという奇抜な演出をしたことに刺激されたものだろう。
そして、仮設の客席の横には、すっぽんこそないが、仮設の花道があり、その隣りに白木でできたメイン舞台がある。この白木で作られた舞台こそ、馬車=田楽の舞台=幕を降ろすと田楽一座の楽屋、と変化していき、この作品の劇構造─パトロンである為政者、舞台上の女優、舞台を降りた役者が交差する物語─を表している存在である。
観客は席に着いてから、開演するまでの間にチラシや当日パンフレットなどに目を通すことで、この舞台が18世紀南米を舞台にした映画を翻案した作品であることをある程度、情報として知る。
やがて芝居が始まるが、劇が進行していくにつれて日本の意匠に置き換えられた物語世界に入り込みそうになるものの、登場人物が西欧の名前のままになっていることに気づくことで、先にインプットされたこの舞台の構造を意識するように仕向けられている。
この劇構造を意識させることによって主演の美加理についても、単なる出演者に止まらない存在感が感じられたように思う。
従来この野外劇場で上演された作品群ではお姫様を演じてきた美加理だが、この『黄金の馬車』では特別なアウラをもつヒロインではあるが、あくまで河原者の役者を演じたことは印象的であった。
しかもその演技は、劇中劇ではク・ナウカ時代からの演技スタイルである、台詞を語るスピーカーと動きを担当するムーバーという二人で一役を演じる形式だが、劇中劇以外の場面では自身の声で世話物的に演じていた。それはまるで、カミーラという役を演じていたのではなく、美加理自身が自らのことを語っていたかのような錯覚すら覚えたほどだ。劇中で美加理はこう語る。
なぜ芝居はうまくいって、人生は壊れるのか。
どちらが本物なの? どこまでが芝居、どこまでが現実?」
そう、この芝居の重層的な劇構造は、単に作品内に止まらないのではないか? 都から地方へとやってきて芝居をやってみたものの、懇意にしていた為政者が代替わりして金策に苦労するようになり、当地の民衆に受ける芝居をすることで満足しようとも思ったが、やはり自らが本来やりたい芸を求めてくれる新しい観客がいる場所を探して旅に出る、という物語。
これはひょっとしたら、東京から静岡のSPACへとやって来た美加理その人であり、宮城聰自身ではないか?
そう考えるとこの劇の結末─カミーラは殿様から与えられた黄金の馬車を神社に寄進することで、自分を求めて決闘をした者たちに特赦を授かり、一座はまた巡業の旅へと向かう─を観客はどう受けとめればいいのだろう?
かつてSPACに就任する前の宮城が自身の活動についてよく語っていた言葉に「ク・ナウカの役者は現代の托鉢僧です」というものがあった。施しを受ける礼に芸を披露するが、決してひとつ場所に定住することはない。宮城は、今回の『黄金の馬車』を通じて、改めて自身にも役者たちにも、そして観客にもこの信条を伝えたかったのかもしれない。
ク・ナウカ時代の名作の再演から、SPACとしての新作野外劇を成功させた宮城だが、その視線はさらにその先を見越しているのかもしれない。また先を見越した新作という点でいえば、カミーラが最後に演技をする場面で音楽に三味線が用いられ、田楽一座が新しい表現を手にいれたことを示唆するなど、棚川寛子による音楽も進化していた点は記憶に留めたい。
(6月8日、22日観劇)
以上、今年の「ふじのくに⇄せかい演劇祭」で観た舞台のうちで、特に印象に残った作品4本を取り上げたが、このほかにも、ごく簡単にだが触れておきたい公演が二つある。ひとつは、ヴロツワフ・ポーランド劇場『母よ、父なる国に生きる母よ』であり、もうひとつは演劇祭の関連企画として実施された、ふじのくに野外芸術フェスタ『新世代ショートスペクタクル!』である。
『母よ、父なる国に生きる母よ』は、ポーランドのクラクフ・スターリー劇場の芸術総監督ヤン・クラタが、ヴロツワフ・ポーランド劇場にいた2011年に発表した作品。「母」であり「娘」である6人の役者(うち一人はなぜか男優)たちが、母と娘の対立をモチーフにした歌や踊り、芝居などで綴る、男性原理に支配された女性の隷属を扱った90分間の舞台だ。
作品自体は、どこか古めかしい東欧の演劇というテイストの内容で(それを作ったヤン・クラタがまだ40歳そこそこだということの方が驚きだ)、どうしても自分との共通回路を見いだせずに終わってしまったが、この作品をセレクトしたのがSPAC文芸部の大岡淳だという点は記しておきたい。
演劇祭で招聘する作品については、当然ながら芸術総監督の宮城が最終決定するわけだが、海外からの招聘作品については主に文芸部の横山義志がアヴィニョンやベルリンなどの演劇祭に出かけていって候補作を選んでいる。
この『母よ、父なる国に生きる母よ』については、ワルシャワで昨年3月に開催されたWARSAW THEATER MEETINGSという演劇祭にポーランド政府から招待を受けたSPACが、参加作品から選んで今年静岡へ招聘したのだが、このワルシャワでの演劇祭には横山の都合がつかず、大岡が参加してきたという。もちろん、横山の都合が合えば大岡の出番はなかったに違いないが、複数の文芸部員が手分けして招聘作品選びができるようになったことで、選択肢の幅を広げていくことが可能になった点は大きなメリットであろう。
もう一つの「ふじのくに野外芸術フェスタ」は、この演劇祭を開催している6月22日にカンボジアで開催されたユネスコの世界遺産委員会で、富士山が世界遺産に登録されるかどうかが決定するため、舞台芸術を通じて富士の魅力を世界に発信する企画として開催された。
清水港を会場としたフランスのアーティストによる水上スペクタクル『夢の道化師』や、富士宮にある富士山本宮浅間大社の広場で上演されたベトナム水上人形劇、宮城演出・SPAC出演による『古事記‼ エピソード1』と、バラエティ豊かなラインナップが並んだ企画だが、SPACの本拠地の静岡芸術劇場がある文化施設グランシップで唯一、開催された企画が『新世代ショートスペクタクル!』だ。
これは富士山をモチーフにした30分ほどの短編野外劇を上演するというもので、今回参加したのは、地元静岡市にアトリエを構える劇団渡辺の他、千葉県から花傳シアターカンパニー、鎌ヶ谷アルトギルド/一徳会の3団体。
グランドシップ前に広がるサッカーコート2面ほどの広さの芝生エリアはこれまでにも様々なイベントが行われてきたが、演劇の公演は実は今回が初めてだった。関係者は声が通るか、芝居が届くか、公園を利用しようとする一般市民とのトラブルは起きないかなど、心配もあったようだが、6月29、30の両日とも無事に公演が出来た。
3劇団とも財団法人演劇人会議が主催する利賀の演劇人コンクール(旧・利賀演出家コンクール)の常連組ということで、それぞれに個性派ぞろいだったが、一番ストレートに富士山を題材として扱った花傳シアターカンパニーが、繊細で優美なイメージを追求するあまり野外劇としての迫力に欠けていたのは残念だった。
一方、鎌ヶ谷アルトギルド/一徳会は、不思議な魅力をもつ作品『M78-光の国から-』を上演したが、富士山については無理矢理くっつけただけ、という感じだったのはちょっと反則技。
その点では地元の劇団渡辺は、客いじりなどを組み込んで観客が飽きないようにしつつ、三保の松原の羽衣伝説を楽しいショーとして成立させていた。
今回、初回ということもあり『新世代ショートスペクタクル!』は観客の数もそれほど多くはなかったが、SPACのお膝元で無料の野外劇を上演したことは、観客創造という点でも、また参加劇団の成長という点でも重要なことであろう。中長期的に継続して欲しい企画だ。
今年の「ふじのくに⇄せかい演劇祭」では、送迎バスの運行時間についてウェブサイトで間違いがあって出発時間が遅れたり、クロード・レジの舞台を映像化した作品「神の霧」が機材トラブルで字幕がずれるなどのトラブルもあったが、『黄金の馬車』をはじめとした上演作品そのものについてはその多くが高い評価を受けていた。新企画の「ふじのくに野外芸術フェスタ」も含めて、成功裡に終了したといってよいだろう。
宮城聰がSPAC芸術総監督になってはや7年目。この間、2010年までの3年間はSPACの役者たちに宮城流の演技方法を身につけさせ、2011年からはク・ナウカ時代の代表作を完成度を高めた形で再演しながら、同時に『グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜』や『真夏の夜の夢』などでは、新しい演出手法に挑み始めてきた。宮城が今後、この新しい演出スタイルをどう完成させていくのか、さらにどんな新作を見せてくれるのか、期待されるところだ─。
と、今後も成功が約束されているかのように書いたが、実はこれからが一番大変な時期である。『室内』のようにオーディションで選ばれれば、これまで全く関係なかった役者でもSPACへ出演できる形に敷居を下げたことで、演出家にとっての選択肢は広がった。だがその影響で鈴木忠志時代からあったSPACの劇団としてのカラーは若干薄まりつつある。
そして芸術総監督としての一番の大仕事として、次代の監督を誰に譲るのかを決め、スムーズに移行しなければならない。さらに富士山の世界遺産登録を受けて、行政から当然のように要請されるであろう「ふじのくに」のプロモーションにどう応えるのか。文字通り山のように課題が待ち構えている。
宮城とSPACの役者、スタッフがこれらの課題を着実に乗り越えていくことが出来るのかどうか、結果が出る日はそれ程遠くないだろう。
【筆者略歴】
柾木博行(まさき・ひろゆき)
演劇批評誌シアターアーツ編集長。1964年青森市生まれ。演劇情報誌シアターガイドの創刊から3年間編集部に在籍。その後、1995年から演劇情報サイト・ステージウェブを主宰。共著に「ステージカオス」「20世紀の戯曲III」「80年代・小劇場演劇の展開」。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/masaki-hiroyuki/
【上演記録】
「ふじのくに⇄せかい演劇祭2013」
2013年6月1日-30日(静岡芸術劇場、野外劇場「有度」、屋内ホール「楕円堂」、稽古場棟「BOXシアター」、グランシップ広場ほか)
「脱線!スパニッシュ・フライ」Die (s)panische Fliege
静岡芸術劇場(6月8日-9日)
■キャスト
ヴェルナー・エンク、ベティー・フロイデンベルク、ヴォルフラム・コッホ、クリストフ・レトコフスキー、インカ・レーヴェンドルフ、バスティアン・ライバー、ゾフィー・ロイス、マンディ・ルドスキ、ハンス・シェンカー、シュテファン・シュタウディンガー、クリスティーネ・ウルシュプルーフ、ハラルド・ヴァルムブルン
■スタッフ
演出・美術:ヘルベルト・フリッチュ
原作:フランツ・アルノルト、エルンスト・バッハ
衣裳製作:フィクトリア・ベーア
音楽:インゴ・ギュンター
ドラマトゥルク:ザブリナ・ツヴァッハ
ステージ・マネージャー:エルスケ・ハーマン
舞台:ハンスヴェルナー・グラムシュ、フランク・クレッチマー
照明:ヨハネス・ツォッツ、ヨルン・ガーデ、サッシャ・グローマン、
音響:トビアス・グリンゲル、ゲオルク・ヴェーデル
メイクアップ:イロナ・ジィーフェルト、ブリッタ・レーム、アンチェ・シュルツ
衣裳:マリオン・シラー、シュテッフェン・ラウシュ
小道具:コルネーリア・ベーメンブルク
演出助手:エヴィ・シューベルト
プロダクション・マネージャー:サイモン・ベーリンガー
芸術局長:ロルフ・クリーク
■SPACスタッフ
舞台監督:村松厚志
照明:樋口正幸、小早川洋也
音響:加藤久直
舞台:市川一弥、永野雅仁、坂田ゆかり
衣裳(ワードローブ):畑ジェニファー友紀
ヘアメイク: 梶田キョウコ、高橋慶光
通訳:庭山由佳
アーティスト・トーク通訳:秋野有紀(獨協大学専任講師)
通訳補助:杉本雅美、ライントゲス花
翻訳:伸井太一
字幕操作:後藤絢子
制作:佐伯風土、山川祥代
製作:ベルリン・フォルクスビューネ
特別協力:ドイツ連邦共和国大使館、東京ドイツ文化センター
■チケット
一般大人:4,000円/大学生・専門学校生2,000円/高校生以下1,000円
「Hate Radio」
静岡芸術劇場(6月29日-30日)
■キャスト
アファザリ・デワエレ、セバスティアン・フーコー、エステル・マリオン、ナンシー・ンクシ、ディオジェーヌ・ンタリンドワ(アトム)
■スタッフ
脚本・演出:ミロ・ラウ
ドラマトゥルギー、コンセプチュアル・マネジメント:イェンス・ディートリッヒ
舞台美術・衣裳デザイン:アントン・ルーカス
映像:マルセル・ベーハティガー
音響デザイン:イェンス・バウディッシュ
プロダクション・マネージメント:ミレナ・キプフミュラー
広報:イヴェン・アウグスティン
科学協力:エヴァ=マリア・バーチー
音響デザイン協力:ペーター・ゲーラー
コーポレート・デザイン:ニナ・ウォルターズ
学術アドバイス:マリー=ソレイユ・フルール、アスンプタ・ムギナレーザ、シモーネ・シュリントヴァイン
字幕翻訳・操作:芳野まい
製作:インターナショナル・インスティテュート・オブ・ポリティカル・マーダー(IIPM)
共同製作:
Migros-Kulturprozent Schweiz, Kunsthaus Bregenz, Hebbel am Ufer (HAU) Berlin, Schlachthaus Theater Bern, Beursschouwburg Brüssel, migros museum für gegenwartskunst Zürich, Kaserne Basel, Südpol Luzern, Verbrecher Verlag Berlin, Kigali Genocide Memorial Centre and Ishyo Arts Centre Kigali
協力:
Hauptstadtkulturfonds (HKF), Migros-Kulturprozent Schweiz, Pro Helvetia – Schweizer Kulturstiftung, Kulturelles.bl (Basel), Bildungs- und Kulturde-partement des Kantons Luzern, Amt für Kultur St. Gallen, Ernst Göhner Stiftung, Stanley Thomas Johnson Stiftung, Alfred Toepfer Stiftung F. V. S., GGG Basel, Goethe-Institut Brüssel, Goethe-Institut Johannesburg, Brussels Airlines, Spacial Solutions, Commission Nationale de Lutte contre le Génocide (CNLG), Deutscher Entwicklungsdienst (DED), Contact FM Kigali, IBUKA Rwanda (Dachorganisation der Opferverbände des Genozids in Ruanda), Hochschule der Künste Bern (HKB),Friede Springer Stiftung
助成:プロ・ヘルヴェティア、スイス文化財団Pro Helvetia – Swiss Arts Council
後援: スイス大使館、ルワンダ大使館
■チケット
一般大人:4,000円/大学生・専門学校生2,000円/高校生以下1,000円
「室内」
舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」(6月15日-16日、22日-23日)
■キャスト
泉陽二、伊比井香織、大高浩一、貴島豪、下総源太朗、鈴木陽代、たきいみき、布施安寿香、松田弘子、弓井茉那、吉植荘一郎、関根響、朝羽恵(アンダースタディ)
■スタッフ
演出:クロード・レジ
作:モーリス・メーテルリンク
訳:横山義志
舞台監督:内野彰子
演出助手:アレクサンドル・バリー
装置デザイン:サラディン・カティール
装置製作:深沢襟
照明デザイン:レミ・ゴドフロワ
照明スタッフ:樋口正幸、神谷怜奈
舞台:佐藤聖
衣裳(ワードローブ):大岡舞
通訳:通訳:浅井宏美、原真理子、山田ひろ美
制作:ベルトラン・クリル、米山淳一、コーリー・ターピン
製作:SPAC-静岡県舞台芸術センター、アトリエ・コンタンポラン
協賛: ANA
助成: アンスティチュ・フランセ
後援:在日フランス大使館、アンスティチュ・フランセ日本
■チケット
一般大人:4,000円/大学生・専門学校生2,000円/高校生以下1,000円
「黄金の馬車」
舞台芸術公園 野外劇場「有度」(6月1日、8日 、15日 、22日)
■キャスト
阿部一徳、石井萠水、大内米治、加藤幸夫、木内琴子、小角まや、鈴木真理子、大道無門優也、武石守正、舘野百代、永井健二、中野真希、本多麻紀、牧山祐大、美加理、三島景太、森山冬子、山本実幸、吉見亮、米津知実、若菜大輔、若宮羊市、渡辺敬彦
■スタッフ
演出:宮城聰
原案:プロスペル・メリメ、ジャン・ルノワール
台本:久保田梓美
音楽:棚川寛子
空間デザイン:木津潤平
照明デザイン:大迫浩二
衣裳デザイン:駒井友美子
音響プラン:水村良
美術:深沢襟
ヘアメイク:梶田キョウコ、古城雅美、高橋慶光
舞台監督:三津久
照明操作:松村彩香
音響・演奏:山﨑智美
演出助手:中野真希
演出部:山田貴大
美術制作:佐藤洋輔 服部千穂
衣裳制作:丹呉真樹子、岡村英子、清千草
字幕翻訳・操作:コーリー・ターピン
制作:大石多佳子、尾形麻悠子
製作:SPAC-静岡県舞台芸術センター
■チケット
一般大人:4,000円/大学生・専門学校生2,000円/高校生以下1,000円
「母よ、父なる国に生きる母よ」
静岡芸術劇場(6月22-23日)
■キャスト
パウリーナ・チャプコ、ドミニカ・フィグルスカ、アンナ・イルチュク、キンガ・プレイス、ハリナ・ラシャクヴナ、ヴォイチェフ・ジェミァンスキ
■スタッフ
演出・翻案・編曲:ヤン・クラタ
原作:ボジェナ・ケフ
美術・照明:ユスティナ・ワゴフスカ
衣裳:ユスティナ・ワゴフスカ、マテウシュ・ステンプニャク
振付:マチコ・プルーサク
サウンドスケープ:マグダレーナ・シニァデツカ
演出助手:イヴォナ・ルルチィンスカ
通訳:平岩理恵
製作:ヴロツワフ・ポーランド劇場
助成:ポーランド広報文化センター、ドルヌィ・シロンスク県庁
■チケット
一般大人4,000円/大学生・専門学校生2,000円/高校生以下1,000円