アムリタ「廻天遊魚」

◎構造の結晶と不死者の悲劇を
 梅田径

「廻天遊魚」公演チラシ
「廻天遊魚」公演チラシ

アムリタを見よ!
 アムリタの前々作、第二回公演『n+1、線分AB上を移動する点pとその夢について』を見て、感心したような不安になったような不思議な感慨に捉えられたことを覚えている。
 アムリタは、演出家の荻原永璃、ドラマトゥルクの吉田恭大、俳優の河合恵理子、藤原未歩の四人による劇団である。メンバーは二十代前半、不死の霊薬を意味する劇団名だ。

 アムリタが旗揚げされる前に、荻原の演出、吉田の脚本による尾崎翠原作『第七官界彷徨』を見たことがあった。以来、多分二年ぶりぐらいに見た彼らの演劇は端的にいって「すごくよく」なっていた。その構造はほとんど柴幸男『あゆみ』の類想ではあったけれど(とはいえ、作演の荻原は『あゆみ』を見たことがなかったそうだ)、終盤に至って俳優がそれぞれにアドリブで演技を始めた時、舞台上で蠢く彼らの「夢」のまっすぐさが、若々しく純粋で、そしてちょっとユーモラスでケレン味もある。すごく羨ましくなった。舞台の上を「うらやましいなぁ」と思ったのは初めてだった。

 やや衒学的なところもあるが内省的な荻原の作風と相まって、今はまだいろいろ問題もあるけれど、もしかしたら今後は注目すべき劇団になるかもしれないという期待が膨らんだ。劇後のテンションで「次も見に行くよ」とスタッフに声をかけたのは覚えている。
 五月にアムリタ×水道航路の合同企画を挟んで、八月後半、第三回公演『廻天遊魚』がはじまる。

『廻天遊魚』のメカニクス
 劇場は新宿眼科画廊地下。ウナギの穴のような細長い空間で、ここでは舞台を挟んでの対面座席にしていた。舞台空間はそれほど大きくはないが、その範囲を示すかのようにテープで引かれた菱型のラインが目立つ。その中央に一脚、菱型の頂点を避けて四隅にも、四脚の丸椅子が配されている。

 客入れの時にはすでに、八百比丘尼役、藤原未歩がいる。所在無さげというよりも、迷子の子供のような心細さを抱えているような、孤独な体育座り。聞き取れないほどの小声で何かつぶやいているようでもある。

「廻天遊魚」公演から
【写真は「廻天遊魚」公演から。撮影= 林亮太 提供=アムリタ 禁無断転載】

 役名はそれぞれ俳優の名前で指示される。
 土井今日子は本の読み過ぎで盲目になってしまった少女で、だから兄(越寛生)から聞く大学の講義や本の人物を想像上の友達として話をしていた。昨日まではハイデガー。今日からは……八百比丘尼だ。兄が大学の授業で聞いた話から土井が想像した彼女は、永遠の命を生きる孤独な女性である。
 土井に惚れている男—大嶋航太がいた。大嶋は声が出せないし手話もできない。滑稽なほどのオーバーアクションで意思を伝えるだけだ。大嶋には永渕沙弥という幼なじみの女の子がいる。越とは同じ学校の同級生で、声を出せない大嶋に惚れている。
 大嶋は自分の恋慕を伝えるために、ラブレターを書いて土井のいる窓へと投げ入れた。しかし彼女は目が見えず、文字が読めない土井はそれを兄に読んでほしいと懇願する。兄は—ここで妹に対する愛が歪んでいるものであることが示される—それをダイレクトメールだと言って破り捨ててしまう。
 そして、ひょんなことから大嶋に惚れる女子高生の小山と、その父、大嶋と永渕の大学の教授である酒井が物語に絡んでくる。酒井は小山をいなくなった妻の代わりにほとんど軟禁状態においてしまう。

「廻天遊魚」公演から
【写真は「廻天遊魚」公演から。撮影= 林亮太 提供=アムリタ 禁無断転載】

 これらは、ある意味ではベタなラブストーリーとも見える。けれども、共依存の男女三組の配置が、それぞれの葛藤の対称性を映し出しており見事。ストーリーを提示する物語の構造がくっきりとしている分、展開が意味不明になったり、わけがわからなくなったりはしない。
 物語構造のレベルで『廻天遊魚』をみると、共依存の男女三組が、それぞれに別の一対の誰かと恋愛関係に入ることで、男が耐え切れなくなってしまい共依存の相手を殺害するか、沈黙させることで関係性を保とうとする物語とまとめることもできるだろう。そんな風に、荻原の紡ぎ出そうとする物語には結晶体のような、優れた構造がみてとれる。

 出てくる人物たちがことごとく純粋すぎる点も、今回はマイナスには働かなかった。
 土井は本の読みすぎで目が見えないのだが、かつて見えていた世界が見えなくなったことに対する屈託はまったくなく、兄に対する信頼は狂気といってもいいほど純粋で不自然な印象はあった。ただ、土井のもつ雰囲気そのものが純粋な愛らしさをもっていたことも認めたい。
 むしろ彼女の純粋無垢な愛らしさが第二幕で、八百比丘尼には手が届かなった「毒」として提示されていたように見え、それがどことなく幼稚にも思える人物造形に、仄暗い奥行きを与えることになっていた。
 しかし、「ちゃんと作られた物語」だけではなく、それをもうひとつ進めたところが見どころである。
 永遠に生きる女性、八百比丘尼の物語だ。

永遠の孤独と、ひとりきりの生命
 第一幕では、八百比丘尼は舞台に出ずっぱりではあるものの、その存在感は薄い。ほんの少し土井と話す程度である。しかし、第一幕が終わると俳優たちは糸が切れた人形のように動かなくなってしまう。
 静寂が支配する舞台の上でただ一人、八百比丘尼だけが残されていると、静まり返った舞台上、その静寂が破られる。
 不意に配役を離れた「小山」が八百比丘尼に話しかけるのだ。その瞬間のあまりの唐突さにすくなからず驚いた。それが第二幕の始まりの合図だ。

 突如として俳優たちは配役を離れ抽象的な存在となってしまう。彼らは無表情で、床に敷かれたテープのラインを走って行く。それは、永遠の命を授かった八百比丘尼の前で、次々と現れ消えていった普通の人達と、そのいつか死ぬべき定めの時間の流れでもあるのだろう。
 菱型のラインの中央で立ちすくむ八百比丘尼の前を早歩きで去っていくだけの彼らはその動作も機械的だ。「普通の人」たちの、短い生命の時間の流れのなかで、そこでただ一人八百比丘尼だけが自分の言葉を聞いて欲しくて、「待って、待って」と叫び続ける。

 第一幕での主題であった「共依存によって成立する儚いアイデンティティ」を彼女だけがもっていない。不死者の彼女だけは「だれかと一対で成立するようなアイデンティティ」を持つことができない存在としてクローズアップされるのだ。つまり、ここでは構造のある物語を演じる俳優たちの輪から排除された八百比丘尼の「私」についてのアイデンティティが主題となる。この仕組みをボルヘスや柳田國男の引用をブリコラージュしながら伝えていくシーンは、第一幕での台詞と相まって強く印象に残る。

 これは「ベタ」な芝居である第一幕と、ミニマムな演出と物語との融和を試みる第二幕との対比として輝いたと思うし、また藤原未歩がもつ独特な不安定で壊れそうな雰囲気は「たった一人残された八百比丘尼」という難しい役に現実感を添えていた。

 執拗に繰り返される「待って」にザラリとした違和感があったのは事実で、子供が駄々をこねるような叫び方はたしかに悲痛ではあったけれど、それは誰かに聞いてもらいたい悲鳴というより、自分に言い聞かせている独り言のようにも聞こえる。八百比丘尼はこの構造から一人だけ排除されている。

 ただ、この演出には違和感も残った。
 八百比丘尼は不死者である。目の前で繰り返されるような無数の人の流れを受け入れることはなかったのだろうか。
 子供もいたはずである彼女は、「誰も待ってくれない」ことを本当は受け入れていたのではないかとも思う。八百比丘尼自体が、もともとは土井の想像の産物であったからそれも不自然ではないかもしれない—土井の内面を対象化したものとも考えられるがここではその解釈を今は取らない。
 自身の永遠の孤独に対して、人の種としてのつながりに八百比丘尼はあまりにも淡白すぎるし、ここで本当に問題にするべき、あるいは観客に想像させるべきことは、恋愛ではなくて、妊娠であり出産であり死の別れではなかったのだろうか。

 そう思うのは、土井との会話のなかで実は自分の子供や孫について八百比丘尼は(たしか一応)言及しているからでもある。八百比丘尼自身の「不死者としてのあり方」に目配りはあったのだけれど、第二幕における八百比丘尼の苦悩の軸が、彼女がすでに何度も通り過ぎたはずの過去に囚われすぎていたように見えたことが、僕には不自然さと見えたのだ。

恋愛と人生と永遠
 少女漫画をみているような純粋さのあるストーリーは荻原の紡ぐ物語の特徴で、それは時に強い魅力がある。それは認める。けれども、そのような純粋さを純粋なまま舞台にあげることで、半ば必然的に劇中で「恋愛」の占めるウエイトが非常に重たくなってしまう傾向があることは否めない。
 永遠と恋愛は相性がいい。人が結婚した時には永遠の愛を誓うのだし、(普通は)そうあってほしいと思う。永遠とは人にとって体験できない特別な時間、生活して時計を眺めている今とは異なる別の流れ方をする時間を示すのだから。
 恋愛は演劇のみならずドラマにふさわしいテーマだろう。しかし恋愛はドラマの万能薬ではない。甘く苦く、物語と人の生に奥行きと深みを与えるものだ。だが、それは大抵何かの解決にはならないのだし、物語上の人物たちにとってもそうなら、観客にとってもそれは変わらない。

 だからこそ、第一幕で、恋愛劇の様相を強く打ち出しすぎたことで、八百比丘尼の孤独の課題をうまく消化することができなかったように見えた。それがある種の惜しさというよりも、何か視野の狭さのように見えてしまった。その意味では「廻天遊魚」は物語構造に囚われ過ぎてしまった作品であった。
 言い方を変えれば、「構造を見て欲しいのか、物語を見て欲しいのか」を焦点化しきれなかったように見えたということだ。見て欲しかったのは、両方なのだと贅沢にいうこともできるが、メタな視点に立つことは、ベタなお話がもつメッセージを相対化してしまう。

 そして時に、物語とメタ構造とが異なるメッセージを発してしまうこともある。八百比丘尼の孤独、アイデンティティ、交換可能性といった重たい課題は、錯綜しつつも恋愛劇として成立する第一幕の「普通の人々」には理解しえないテーマだろう。
 ごく個人的には—これは真逆の意見を持つ人も多いと思うが—物語劇としての様相をもっと強く押し出してくれたほうが、彼女たちの素直さや魅力が伝わったのではないかと思う。アムリタの演劇には、小賢しい物語構造(褒め言葉です)の工夫に負けぬ純粋で素直な魅力があって、そちらのほうが僕には正直面白かったのだ。

 俳優では、土井と女子校生役の小山瑛子の二人が印象に残る。どことなく垢抜けないで純粋な印象をあたえる二人はアムリタの作劇によく似合う無邪気さと愛らしさを存分に発揮していた。男性では、大柄な大嶋の、優れた体格を活かした大胆な動作に魅力があり、声を出せない男という難しい役を十全にこなした。繊細に体を動かしてほしいシーケンスもあったけれど、その荒々しさもまた魅力だろう。
 八百比丘尼役の藤原は公演後半に骨折のトラブルがあったと聞く。それでも、演出を変えて全公演をのりきったその努力と、不死の人というむずかしい役をみごとに演じた女優魂に拍手を送りたい。彼女のもつ独特の、壊れそうな雰囲気とたくましさが同居した魅力的な演技はいつ見ても飽きることがない。
 たしかに、彼らにはまだまだ拙い—というか幼い—部分があった。それは技量の不足というよりも、それもまた彼女たちの世界の見方の一つなのだろう。

「廻天遊魚」公演から
【写真は「廻天遊魚」公演から。撮影= 林亮太 提供=アムリタ 禁無断転載】

 音楽や照明、美術も過不足なくよかった。詰め込んだ工夫がうまく機能するように作りこまれた演劇で、その工夫がたまさか小賢しくもうつった。それがどうにも—流行りの言葉でいえば—「もにょる」ところもあったけれど、眼科画廊の地下から階段を上がりながら「見てよかったな」としみじみ思える一作に仕上がっていたのは、やっぱりアムリタのもつ若々しさとその若さにためらいなく向き合ったおかげなのかもしれない。
 人の複雑さ、恋愛の苦さや泥の味を噛みしめるような、もう少し大人になったアムリタも見たいけれど、いまの自分たちの魅力にももっと気づいてもらえたらなと思う八月の終わりであった。

【筆者略歴】
梅田径(うめだ・けい)
 1984年生。早稲田大学大学院日本語日本文学コースの博士後期課程に在籍中。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/umeda-kei/
【上演記録】
アムリタ第三回公演「アムリタ 3 廻天遊魚
新宿眼科画廊スペース地下(2013年8月23日−28日)

作・演出:荻原永璃
キャスト:藤原未歩、大嶋航太、越寛生、小山瑛子(劇団くるめるシアター)、
酒井尚志、土井今日子(劇団くるめるシアター)、永渕沙弥

■スタッフ
舞台監督:齋藤友菜
音響:カゲヤマ気象台(sons wo:)
音響操作:いとうあやな
照明:佐藤歩
美術:小仲井もえこ
宣伝美術:星野夏来
映像撮影:大津研
写真撮影:林亮太
制作:山岸大樹
ドラマトゥルク:吉田恭大
製作:アムリタ
■チケット料金
一般:1800円、学生:1500円、高校生以下:500円、公開ゲネ:1000円、リピ
ーター割引:1000円(要半券)※当日券はいずれも+200円


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